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  • 2017.02.03 Friday

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    0698恵美須神社(Ebisu Shrine)

    • 2016.06.25 Saturday
    • 21:21

     恵美須神社(えびすじんじゃ)は東山区大和大路通四条下ル小松町、建仁寺の西にある神社で、祭神として、事代主神(ことしろぬしのかみ)〔えびす神〕、少彦名神(すくなひこなのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る。「えべっさん」の愛称で親しまれ、商売繁盛・交通安全(海路安全)の神として信仰されている。西宮神社、大阪今宮神社とともに日本三大えびすの一つであり、都七福神めぐりの一つでもある。

     社伝によれば、平安時代末期の建久二年(1191)、栄西禅師が宋よりの帰途、舟が暴風雨に遭い遭難しそうになったが、海上に恵美須神が現れ、その加護により難を免れたといわれる。鎌倉時代初期の建仁二年(1202)、栄西禅師が建仁寺創建に当たり、境内に恵美須神を祀り、建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりである。応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建され、今もなお当地の産土神(うぶすながみ)として人々の崇敬を受けている。

     境内の岩本社には、平安時代の歌人在原業平(ありわらのなりひら)を祀っている。また、財布塚・名刺塚は、古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものである。

     毎年1月10日を中心として前後五日間行われる「十日えびす」の大祭には、全国各地から商売繁昌・家運隆昌・交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。

     

     (写真1)

     

     (写真2)


     (写真1、2)は大和大路通に面した恵美須神社一ノ鳥居で、鳥居右(北)側には「恵美須神社」の石標が立っている。また、一ノ鳥居を潜ると直ぐに冠木門があり、本殿までの参道には二ノ鳥居が見える。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は二ノ鳥居で、中央にはえびすの顔が掲げられている。

     

     (写真4)

     

     (写真4)は冠木門を入った左(南)側にある手水舎で、龍の口から水が注がれている。

     

     (写真5)

     

     (写真5)は二ノ鳥居の左(南)側にある社務所である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6)は冠木門を入った右(北)側を撮ったもので、奥に赤い賽銭箱が見えるのは左側が松下幸之助の寄進した財布塚、右側が京都の実業家吉村孫三郎の揮毫による名刺塚である(写真7)。また(写真6)の左手(西側)に二つの恵美須像が並んでいる(写真8)。 

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真9、10)は恵美須像の西側奥に南向きに建つ天満宮、(写真11)は天満宮の左横に祀られた白太夫社である。

     

     (写真12)

     

     (写真12)は本殿の北側奥、境内の北西コーナー部を北向きに撮ったもので、正面に岩本稲荷社がある。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13)はその左コーナー部にある北野天満宮遙拝所、(写真14)は遙拝所南隣に東向きに建つ末社の猿田彦神社(右)と八幡神社(左)である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真15、16)は参道正面奥の拝殿外観とその内部(奥は本殿)、(写真17)は拝殿を南横側から撮ったものである。

     

     (写真18)

     

     (写真18)は本殿を南側から撮ったもので、中央部に注連縄をした参拝所がある。

     

     (写真19)

     

     (写真19)はその参拝所で、本殿正面の拝殿で参拝後、この注連縄下の板を軽く叩いて再度お願い事をすると叶うといわれている。

     

     (写真20)

     

     (写真20)は本殿南側を通って西側の通りに出る西門で、門の屋根左手上部後方に本殿の屋根が見える。(2014.3.15.、2015.11.6.訪問)

     

    0697木島櫻谷旧邸(konoshima Okoku Old Residence)

    • 2016.04.13 Wednesday
    • 11:03
     木島櫻谷旧邸(このしまおうこくきゅうてい)は木島文庫(このしまぶんこ)とも呼ばれ、北区等持院東町、洛星中学・高校の西側にある。木島櫻谷は明治十年(1877)京都市三条室町にあった商家の次男として生まれた。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師・吉田元陳の弟子で、父木島周吉(二代)は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったという。
     明治二十五年(1892)、当時京都画壇の大家であった今尾景年に弟子入りする。景年は「櫻谷」の号を与え、父を早く亡くした櫻谷の父親的存在だった。また同じ頃、儒医・本草学者・写生画家だった山本章夫(号・渓愚)に儒学・本草学・経文漢学を学んだ。入門翌年に早くも第三回青年絵画共進会に「芙蓉小禽図」を出品し褒詞を受け、同第四回展にも「春野郊歩図」で三等褒状となるなど、景年塾を代表する画家として成長していく。四条・円山派の流れをくんだ写生を基本とし、初期は動物画を得意とした。明治三十二年(1899)全国絵画共進会に出品した「瓜生兄弟」は宮内庁買い上げとなり、櫻谷の出世作となった。画題も花鳥画、山水画、歴史人物画へと広がっていく。明治四十年(1907)文展の第1回から第6回まで、二等賞4回・三等賞2回と連続受賞し、早熟の天才という印象を与えた。大正元年(1912)京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)教授を委嘱され、大正二年には早くも文展の審査員に挙げられる。竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。
     昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねる。昭和八年(1933)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送った。しかし、徐々に精神を病み、昭和十三年枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げた。享年62。墓所は等持院(非公開)。
     財団法人櫻谷文庫は、木島桜谷の遺作・習作やスケッチ帖、櫻谷の収集した絵画・書・漢学・典籍・儒学などの書籍1万点以上を収蔵、それらの整理研究ならびに美術・芸術・文化振興のために桜谷が逝去した2年後の昭和十五年(1940)に設立された。櫻谷文庫は、大正初期に建築された和館・洋館・画室の3棟から成り、いずれも国の登録有形文化財に登録されている。これらは桜谷が三条室町から当地に転居した際に建立されたもので、和館は住居に、和洋折衷の洋館は収蔵庫・展示及び商談室として、また80畳の畳敷き大アトリエの画室は制作室・画塾として使用されていた。桜谷は竹を好んだため、建築材として各所に使われている。この画室は外観から二階建てに見えるが、実際には平屋で、中心部には柱が一本もない。1951年から1976年までは京都府立図書館上京分館として使用され、現在は絵画教室などのため貸し出されている。
     桜谷が当地に転居したのが契機となり、土田麦僊、金島桂華、山口華楊、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田荻邨、福田平八郎、徳岡神泉などの日本画家が移り住み、「衣笠絵描き村」と呼ばれた。他にも、洋画家の黒田重太郎、映画監督の牧野省三も近くに住んでいた。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は木島櫻谷旧邸の正門で、「桜谷文庫」の表札が掛かっている。(写真2)の門の奥正面に見えるのが正玄関である。

     
    (写真3)

     (写真3)は正門近くに立てかけられた「木島櫻谷旧邸特別公開」のポスターで、左隣には「真如寺特別公開」、右隣には今出川通の一筋北を走る「今小路通り」のポスターが、それぞれ掲示されている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     桜谷文庫には大きく分類して和館、洋館、画室の3つの建造物があり、いずれも国指定登録有形文化財である。(写真4)は南側から撮った和館の全景、(写真5)は和館南側の庭である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6、7)はこの庭にある昔の石の道標で、西には因幡藥師、六角堂、壬生地蔵、西本願寺、嵯峨、愛宕、北には三条大橋、北野天神、東には祇園社、清水寺、大仏三十三間堂、知恩院、西大谷、東大谷、南には五条大橋等がそれぞれの地までの距離も含め、かな交じりで書かれているのが読み取れることから、昔は四条大橋近辺にあったものではないかと推察される。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真8)はいずれも大正二年(1913)に建てられた瓦葺木造二階建の和室(建築面積195m2)とその西側にある木骨煉瓦造二階(一部平屋)建の洋館(建築面積107m2)、(写真9)は南側の道路である今小路通から見た洋館、(写真10)は北側の敷地内から見た洋館と和館である。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     まず、和館の玄関から中に入ると右手西側に(写真11)の和室があり、西側の壁面に(写真12)に示す櫻谷筆の富士山の絵が掛かっている。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13)はその西側の部屋になる書院造りの座敷、(写真14)は床の間と違い棚のある座敷西側で、床の間には大きな仏壇が置かれ、違い棚の前には櫻谷の肖像写真や青年期、壮年期の略歴がパネルにして置かれている。

     
    (写真15)

     (写真15)は木島櫻谷の肖像写真である。

     
    (写真16)

     (写真16)は座敷の北側で、欄間は東山三十六峰を表したものである。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真17)は廊下を挟んで座敷の北側にある部屋、(写真18)は部屋の中に展示されているカルタ、絵本、おはじき等の遊具と座卓で、座卓の上には「虎屋」の通い箱があり、虎屋がこの箱に和菓子を入れて櫻谷宅に届けていたことが分かる。(写真19)はこの部屋の東側にある押し入れの中で、画道具類が格納されている。

     
    (写真20)

     (写真20)は(写真17)の部屋の東隣にある部屋で、SINGERミシンの他そろばん、丸物の商品券、草履、お手玉等雑多なものが展示されてる。

     
    (写真21)

     (写真21)は和館二階の西南角の部屋(1階座敷の上)で、ここには人形などのコレクション品がいろいろ展示されている。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真22、23)は同じ部屋にある雛人形の展示、(写真24)は(写真23)の後方に掛けられた櫻谷の牛の絵の掛け軸である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25、26)は二階西北の部屋の展示品で、(写真25)は葵紋付左義長羽子板と琴、(写真26)は櫻谷の手描き婚礼衣装で、養子誠三の子で同居していたもも子(大正十四年生まれ)のために用意したと伝えられる。

     
    (写真27)

     (写真27)は二階東北の部屋である。

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     (写真28)は一旦和館の玄関から出て北隣に建つ台所の入口、(写真29)はその玄関である。

     
    (写真30)

     
    (写真31)

     (写真30)は台所の土間で、流しやおくどさんがそのまま残っている。(写真31)は茶の間で、卓袱台の上に米櫃や茶器セット等が置かれている。

     
    (写真32)

     次に台所から出て洋館に移動する。(写真32)は和館南庭を通り、西側に建つ洋館の玄関から入って直ぐ左手にある螺旋階段を二階から撮ったものである。

     
    (写真33)

     
    (写真34)

     (写真33)は洋館二階の部屋の入口周辺で、この部屋にも多くの展示物がある。(写真34)は(写真33)のコーナー部に見られる雛飾りである。

     
    (写真35)

     
    (写真36)

     この雛飾りの両側の壁に掛けられているのはいずれも櫻谷の作品で、右側の(写真35)は「葉鶏頭に猫」、左側の(写真36)は「菜園に猫」の絵である。

     
    (写真37)

     (写真37)は北側窓の傍に並んだ椅子の上に飾られた立雛(右の二つ)と次郎左衛門雛(左端)である。

     
    (写真38)

     (写真38)は西側戸袋の上に飾られた雛飾りとその後方の壁に掛けられた伊藤若冲の「山水画」(右側)並びに与謝蕪村の「団扇」(左側)の絵である。

     
    (写真39)

     (写真39)は現物は残っていないが「まぼろしの優品」とされる数々の櫻谷作品の写真である。

     
    (写真40)

     (写真40)は洋館2階北側の窓から見た敷地北側で、敷地の一部を洛星中学・高校がテニスコートとして使用しており、その向こう側左手の立木の奥に見える建物が画室(アトリエ)である。

     
    (写真41)

     (写真41)は同じ部分の昔の写真で、画室の前は大きな池のある庭園であったことが分かる。

     
    (写真42)

     
    (写真43)

     (写真42)は現在の画室の玄関、(写真43)は画室の西側部分の外観である。画室は大正二年(1913)に建てられた瓦葺木造平屋建で、天井の高い80畳の大アトリエである。

     
    (写真44)

     
    (写真45)

     (写真44)は画室内部の東側で、床の間や電話室が見られ、ピアノも置かれている。(写真45)は同西側である。(2016.3.11.訪問)
     
    *Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B3%B6%E6%A1%9C%E8%B0%B7)より引用

     

    0696真如寺(Shinnyoji Temple)

    • 2016.04.06 Wednesday
    • 09:28

     真如寺(しんにょじ)は北区等持院北町、等持院の東方、六請神社の東隣にある臨済宗相国寺派の寺院で、山号は萬年山。鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)とともに大本山相国寺三山外塔頭の一つで、古くは五山十刹の十刹にも数えられていた。勧請開山・無学祖元(仏光国師)の弟子であった無外如大尼(むがいにょだいに)が、師の没年の弘安九年(1286)に、遺髪や爪を祀るためにこの地に「正脈庵(しょうみゃくあん)」を開いたのが始まりである。無学祖元の法を継ぐ夢窓疎石(夢窓国師)が、足利初代将軍尊氏の執権・高師直(こうのもろなお)の外護を受けて大伽藍を整え、以後室町幕府の手厚い保護を受けた。

     明暦二年(1656)に後水尾上皇によって再興された法堂(仏殿)「大雄殿」には、中二階風の須弥壇があり、仙洞御所から寄進された宝冠釈迦如来像を安置している。また客殿には、原在中筆の襖絵「西湖図」「四季花卉図」が残る。

     大正七年(1918)に新たな鎮守として「半僧坊大権現」を相国寺山内より境内に移し、現在に至る。

     
    (写真1)
     

     (写真1)は鉄の扉がついた南門で、門柱にはそれぞれ「萬年山」と「真如寺」と刻まれた寺札が埋め込まれ、門を入った左手には「奥山半僧坊大権現」の石標が立っている。

     
    (写真2)
     

     (写真2)は門柱の左(西)側に掲げられた「50回記念京の冬の旅 特別公開」の看板である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真3)は南門から山門までの参道、(写真4)は山門で、山門の前には堀があり杜若が植えられている。

     
    (写真5)
     

     (写真5)は山門を入ってからの参道で、正面奥に見えるのが法堂である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)
     

     (写真6、7)は法堂、(写真8)は法堂前庭にある七重塔で、法堂には「大雄殿」の扁額が掛かっている。法堂内部は撮影禁止である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)
     

     (写真9〜11)は法堂手前の参道左(西)側に建つ圓通殿で、半僧坊大権現が祀られている。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)
     

     (写真1214)は境内西側にある2つの鎮守社で、「正一位稲荷大明神」の幟が立っている。

     
    (写真15)

     
    (写真16)
     

     (写真15)は境内東側にある客殿とその玄関、(写真16)は客殿南の庭園側から入る中門である。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)
     

     (写真17)は中門から見た客殿と南庭園、(写真1819)は客殿南庭園で、牛塔や待合等も見られる。なお、客殿内部も撮影禁止となっている。

     
    (写真20)
     

     (写真20)は拝観券にある客殿襖絵の「西湖図」(原在中筆)である。(2016.2.26.訪問)
     

    0695妙心寺天球院(Tenkyuin Temple)

    • 2016.03.29 Tuesday
    • 16:59
     天球院(てんきゅういん)は臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺の塔頭で、北門を入って直ぐ西側にある。駒札によると当院は、岡山藩主池田光政兄弟が、大伯母天久院(てんきゅういん)のために、寛永八年(1631)から同十二年(1635)にかけて建立した寺院で、開山は江山景巴(こうざんけいは)和尚である。
     方丈(本堂)は、桁行七間、梁行六間の単層入母屋造の桟瓦葺で、唐破風柿葺(こけらぶき)の玄関と共に江戸時代の禅宗方丈建築の典型として貴重なものである。
     方丈内部は、狩野山楽・山雪筆による「武虎図」、「梅に遊禽図」、「籬草花図」、「牡丹・槇図」、「牡丹唐獅子図」等の金碧画を始め、「竹叭々鳥図」、「山水人物図」等の水墨画で飾られ、杉戸には二十七面にも及び彩色画が描かれており、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている。
     また、その他に寺宝として、藤原宣房(のぶふさ)筆の「法華経陀羅尼品」を所蔵している。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     (写真1)は山門で、左手に「天球院本堂(1631〜1634建立)内部障壁画狩野山楽山雪筆」と書かれた文化財の立札が立っている。(写真2、3)は「50回記念京の冬の旅」のポスターでいずれにも「梅に遊禽図」が写っている。

     
    (写真4)

     (写真4)は山門から唐門までのアプローチで、参道両側に鬼瓦の展示や井戸等がある。

     
    (写真5)

     (写真5)は参道奥正面の唐門左手前にある「明」と刻まれた石で、裏には「暗」と刻まれている。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真6、7)は唐門、(写真8)は唐門を入った正面の花頭窓で、窓中央の開口部からは方丈前庭の一部が見える。

     
    (写真9)

     (写真9)は唐門手前右(北)側の庫裡玄関で、左手に蝋梅の花が咲いていた。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真10)は方丈、(写真11、12)はそれぞれ東側と西側から撮った方丈前庭である。

     
    (写真13)

     建物内部は撮影禁止であるが、(写真13)は拝観券に印刷された「梅に遊禽図」の一部、雉の図である。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14、15)は方丈西庭で「天球」と刻まれた石の手水鉢がある。なお、方丈東西の廊下には伏見城の戦いで自刃した鳥居元忠や家臣の血痕が残る血天井がある〔血天井は養源院(0578)、宝泉院(0230)、正伝寺(0452)、源光庵(0445)にも残っている〕。(2016.2.26.訪問)

     

    0694妙心寺霊雲院(Reiunin Temple)

    • 2016.02.29 Monday
    • 23:42
     霊雲院(れいうんいん)は臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺の塔頭で、四派(霊雲、龍泉、東海、聖澤の各派)本庵の一つ。狩野元信の障壁画があることから、別名「狩野元信寺」とも呼ばれる。
     室町時代後期の大永六年(1526)、細川家の重臣であった薬師寺一族の菩提を弔うために、 帰依した薬師寺備後守国長の室 霊雲院 清範尼(せいはんに)の援助を得て、妙心寺の第二十五世住持・円満本光国師 大休宗休(だいきゅうそうきゅう)が、その師 特芳禅傑(とくほうぜんけつ)を勧請開山として、自らは二世となり創建した。
     天文十二年(1543)、大休宗休禅師は、栂尾阿伽井房(とがのおあかいぼう)を移設して、方丈(ほうじょう)とし、隣に書院を建立した。大休宗休禅師は、龍安寺の特芳和尚の弟子で、特芳和尚が死去した直後に、龍安寺塔頭西源院に移った。
     後奈良天皇が、大休宗休禅師に深く帰依されて、しばしば行幸されたといわれている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     (写真1、2)は山門、(写真3)は山門前に立てられた「50回記念京の冬の旅」の看板で、案内によると霊雲院は39年ぶりの特別公開という。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真4)は山門を入って左手にある玄関、(写真5)は玄関の右(北)側に隣接する庫裡、(写真6)は庫裡の右手前に南向きに建つ建物である。

     
    (写真7)

     (写真7)は玄関右手前に立つ観音像である。

     
    (写真8)

     (写真8)は山門の南側にある拝観入口(写真手前右側)で、築地塀には五本の線、その瓦には菊の御紋が見られ、皇室にゆかりのある寺格の高い寺院であることが分かる。築地塀の奥に見える鐘楼には有名な国宝黄鐘調の鐘(0046参照。但し、現在の梵鐘は1974年に取り替えられたもの)が吊されていた。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9、10)は唐門で、内部を拝観するにはここから入る。ここから内部は建物も庭園もすべて撮影禁止であるが、入って直ぐが方丈であり、天文十二年(1543)、栂尾の阿伽井房(あかいぼう)(十無尽院)を移築したものといわれている。但し、現在の方丈は江戸時代(1693)に再建されている。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真11)は拝観券の写真に出ている方丈庭園で、樹齢三百年といわれる五葉の松が西側に植えられている。(写真12)は唐門の前庭である。
     なお、写真にはないが、方丈の北西にある書院(重要文化財)は、天文元年(1532)頃の建立とされ、一重切妻造柿葺、三畳、五畳半棚附、四畳半床附の間がある。第105代・後奈良天皇は度々行幸し、御座所として使われたため、「御幸(ごこう)の間」と呼ばれた。銀閣寺東求堂内の同仁斎とともに、東山時代の小さい書院の代表的な遺構で、狩野元信の障壁画がある。
     書院南の庭園(国の史跡、名勝)は、縮小蓬莱枯山水庭園で、狭い敷地に、枯滝と蓬来山水の構成を兼ねた石組があり、室町時代、相国寺慈雲庵の子建西堂(法号、是庵)の作庭といわれている。
     また、山門左手前に「西田幾多郎先生墓」の石標が立っていたが、山内には『善の研究』で有名な哲学者西田幾多郎の墓がある。(2016.2.26訪問)

    0693(京都御苑)厳島神社(Itsukushima-jinja Shrine)

    • 2016.01.31 Sunday
    • 22:41
     厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、京都御苑間ノ町口を入った右(東)側、拾翠亭(0692参照)の九条池中島にあり、通称「池の弁財天(弁天さん)」として親しまれている。御苑の中にある三つの神社(他の二つは白雲神社と宗像神社)の一つで、祭神は宗像三女神(むなかたさんにょしん)〔市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)〕。祗園女御(平清盛の母)が合祀されている。
      詳細は、天明の大火で焼失し不詳であるが、平清盛が、信仰する安芸の厳島大神を、摂津国菟原群兵庫築島(現在の神戸市兵庫区)に勧請したのが由来とされている。
     大永元年(1521)、室町幕府十二代将軍 足利義晴が、京都に移した。
     明和年間(1764〜1772)、九条家邸内の九条池(勾玉池、拾翠池)の島の中に遷座され、九条家の鎮守社となった。
     「京都三珍鳥居」(他の二つは北野天満宮伴氏社の石鳥居と蚕の社の三柱鳥居)の一つである「唐破風鳥居」(重要美術品)があることでも知られている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は九条池から見た厳島神社の全景、(写真2)は島から見た擬宝珠欄干付きの高倉橋で、長さ43m、幅3.3mある。

     
    (写真3)

     (写真3)は厳島神社の入口で、左手に「京都御苑池の辨財天 厳島神社」の立て札、右手に由来を書いた駒札が立っている。

     
    (写真4)

     (写真4)は入口を入って直ぐにある橋で、これを渡って島にある神社に参拝する。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6)は「唐破風(からはふ)鳥居」で、一番上の笠木とその下に付く島木が共に唐破風になっている珍しい鳥居である。右横に「平清盛建立 唐破風鳥居 重要美術品」の表示がある。鳥居正面奥にあるのが本殿である。

     
    (写真7)

     (写真7)は本殿正面で、「辨財天」の扁額が掛かっている。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8)は本殿西側側面で、辨財天の絵馬(写真9)とその下に由緒書が掛けられている。

     
    (写真10)

     (写真10)は本殿東側にある社務所である。(2015.10.22.訪問)
     
     

    0692九条邸跡(拾翠亭)(Remains of the Kujo Residence/Shusuitei)

    • 2016.01.30 Saturday
    • 20:56
     九条邸跡(くじょうていあと)は、京都御苑の南西部にある五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)の一つ九条家の邸宅跡で、現在は、九条池を含んだ庭園部分のみが整備されて残っている。母屋などの主要な建物は、明治初期の東京移住命令に伴い東京の九条邸に移築され、さらに近年、九条家より東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名されている。
     九条家は、藤原北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とし(長男 近衛基実は近衛家の祖)、九条にあった九条殿に住んでいたことが家名の由来となっている。
    駒札によると「九条家からは、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白に就いている。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人である。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し、徳川幕府は了解する考えであったが、朝廷側の孝明(こうめい)天皇は反対であった。折しも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九条尚忠(ひさただ)の邸もその舞台の一つとなった。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭(しゅうすいてい)と、九条家の鎮守だった厳島神社(いつくしまじんじゃ)が中島に残るばかりである。」
     拾翠亭は九条家の現存する唯一の建物で、およそ200年前の江戸時代後期に建てられたものと伝えられている。建物は全体が数寄屋風書院造りで、当時は主に茶会のための離れとして使用され、今も十畳と三畳のふたつの茶室が残されている。亭の前面には東山を借景に取り入れた勾玉形(まがたまがた)の池が広がり、茶室からの景観を一層引き立たせている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は北側から見た九条池に架かる高倉橋で、手前左手に「九条邸跡」の木標が立っている。この橋は京都御所建礼門の真正面(南)に位置し、かって建礼門から丸太町通へ一直線で出る御幸道の計画があり、そのために架けられた橋らしいが、計画は中止になった。(写真2)は橋の北端から北方向を撮ったもので、中央奥に見えるのが建礼門である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は拾翠亭入口の門で、手前に「旧九条家遺構 拾翠亭」と表示されている。(写真4)は拾翠亭右(南)側の築地塀と東西の細い小径で、右手植え込みの右(南)側外部は丸太町通である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は九条橋の上から見た拾翠亭の全景、(写真6)は門を入って左手(北側)にあるその玄関である。
    拾翠亭は、約40坪(130)の広さがある。西面して「玄関」、その東の「控えの間」(七畳半)、北に「広間」(十畳)、北端に「小間」(三畳中板)がある。広間の東と北に池に面して広縁が設けてある。二階には二間半四方の「座敷」があり、南西隅に踏込床を構える。外周りは北、東、南の三方に縁高欄(えんこうらん)がめぐらされている。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)が控えの間(奥側)と広間(手前側)で、広間手前右端に床が切られている。(写真8)は水屋である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9、10)は広間の北側に位置する小間で、手前座(写真9左)に一枚、客座(写真9右、写真10)に二枚の畳を敷き、その間に幅一尺五寸余りの板を入れて炉を切っていることから、三畳中板の席という。

     
    (写真11)

     (写真11)は二階座敷の床で、床柱は皮付丸太。落掛は湾曲した雑木を使い、床脇には天袋を吊ってその下に書院風の中敷居窓を開けている。

     
    (写真12)

     (写真12)は二階座敷の明かり取り窓で、丁字七宝と呼ばれる模様の格子が美しい。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13)は広間の広縁から見た庭園で、九条池に架かる高倉橋が見える。(写真14)は露地庭の蹲踞とツワブキである。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真15、16)は二階座敷から見た庭園で、手前に縁高欄、その向こうには、やはり九条池と高倉橋が見える。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     庭園は池泉回遊式なので、池の周りを歩くことが出来る。(写真17)は庭園南側から見た拾翠亭、(写真18)は拾翠亭の東側から北東方向の景色、(写真19)は池畔から見た高倉橋である。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は玄関の前から左(北)の方に歩き、拾翠亭の北側から東方向を撮った写真で、左に出っ張ったところが小間である。また、(写真21)は北側から撮った拾翠亭である。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真22、23)は庭園内の拾翠亭北部に設けられた四阿(あずまや)で、円窓が特徴的な休憩所である。(2015.10.22.訪問)

     

    0691閑院宮邸跡(Remains of the Kanin-no-miya Residence)

    • 2016.01.21 Thursday
    • 14:17
     閑院宮(かんいんのみや)邸跡は、京都御苑南西隅の一画、丸太町通の間ノ町口から入って直ぐ左(西)側にある。築地塀に囲まれていて、敷地面積は約9500m2ある。
     閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、宝栄七年(1710)に、東山天皇の第八皇子であった直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えた。創建当初の建物は天明の大火(1788)で焼失し、その後再建されているが、現在の建物との関係など詳細はわかっていない
     その後、天保十三年(1842)第五代愛仁親王が早世し、東山天皇の系譜が途絶え、明治五年(1872)伏見宮邦家親王の皇子易宮載仁親王が第六代として閑院宮家を継承された。明治十年(1877)には東京に移住され、昭和六十三年(1988)第七代純仁氏が逝去し、閑院宮は絶家となった。
     京都御苑には、明治二年(1869)の東京遷都までは、宮廷を始めとした公家の建物が建ち並んで公家町を形成していたが、東京遷都により公家屋敷の多くは空き家になり、中には料理店に貸し出されるまでとなったものもあるという。公家町としての特殊性が失われ荒廃していった様子を深く哀しまれた明治天皇は、明治十年(1877)御所保存・旧観維持を命じられ、京都御苑整備の原点ともいえる「大内保存事業」が始まった。これによって、殆どの建物は取り壊し整備されたが、現在、唯一御苑に残されている閑院宮邸跡のこの建物は創建以来の場所にあって、歴史的背景を知る上で大変貴重な遺構である**
     閑院宮邸は、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用されたが、御苑の整備が一段落した明治十六年(1883)、宮内省京都支庁が設置され、屋敷も建て替えられたといわれている。
     第二次世界大戦後の昭和二十四年(1949)、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていた。平成十八年(2006)に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放している

     
    (写真1)

     (写真1)は京都御苑案内図で、左下(南西)コーナー部にあるのが閑院宮邸跡である。

     
    (写真2)

     
    (写真3)**

     (写真2)は「閑院宮邸跡」案内図で、右が北方向となっており、中央下部に東門がある。(写真3)は上空から見た閑院宮邸跡の全景である。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)は東門、(写真5)は玄関で、左手にスロープがついて、バリアフリーになっている。

     
    (写真6)

     (写真6)は玄関の右(北)側にある建物で、現在「国民公園協会京都御苑」が使用している。

     
    (写真7)

     (写真7)は玄関手前の右(北)側にある独立した建物で、「環境省自然環境局京都御苑管理事務所」の表札が掛かっている。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8)は東側から見た「収納展示室」の外観、(写真9)はその南側廊下である。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10)は同じ収納展示室の西側に突き出た部分の外観、(写真11)はその屋根である。鬼瓦他いろいろな部分に菊の御紋が見られる。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真12)は玄関から収納展示室への廊下(東側)から見た中庭、(写真13)は同じ中庭を対面のレクチャーホール側(西側)から見たものである。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真14〜16)は収納展示室内のいろいろな展示の一部で、(写真14)は「閑院宮邸の移り変わり」、(写真15)は「閑院宮邸跡庭園の復原整備」、(写真16)は「宮内省所長官舎跡」の各パネルである。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     以下は建物の南側と西側に広がる庭園や官舎跡を撮ったもので、(写真17)は敷地南東部にある池、(写真18)は池と収納展示室の間の道を西方向に撮ったもので、(写真19)のように蔦の絡まる太い樹木も散見される。

     
    (写真20)

     (写真20)はレクチャーホールの西側にある土蔵で、この後方(西側)に宮内省所長官舎跡がある。

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     (写真21)は官舎跡の区画を再現したもの、(写真22)は(写真16)のパネル内にも写真が載っていた当時の庭石で、貴船石が使用されている。

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真23、24)は官舎私室棟主室から眺めた庭園で、主室西南隅には円筒形の縁先手水鉢が据えられ、遣水の注ぐ池のほとりには雪見型燈籠が置かれている。(2015.10.22.訪問)
     
    引用文献:
    *環境省京都御苑案内図(閑院宮邸跡)(https://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/2_guide/map2_kaningu.html
    **上田聡「蘇る 京都御苑『閑院宮邸跡』(https://www.kkr.mlit.go.jp/kyoei/works/skill/H18_gijutukenkyu.pdf

     

    0690有栖川宮旧邸(有栖館)(Old Arisugawa no miya residence/Arisu-kan)

    • 2016.01.19 Tuesday
    • 23:30

     有栖川宮旧邸(ありすがわのみやきゅうてい)は、京都御苑の下立売御門の西にある旧有栖川宮邸の遺構で、現在は平安女学院大学の教育施設「有栖館(ありすかん)」となっている。
     有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川宗家や水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家や長州毛利家、広島浅野家、久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。また代々、次男以下の子弟を門跡寺院に法親王・入道親王として入寺させていた。
     寛永二年(1625)、後陽成天皇の第七皇子・好仁親王(よしひとしんのう)が創設。当初の宮号は高松宮(高松殿)で、親王の祖母・新上東門院の御所高松殿に由来する。好仁親王は徳川秀忠の養女・亀姫(実父は秀忠の甥で娘婿にも当たる越前藩主松平忠直)を妃としたが、嗣子がなかったため甥にあたる後水尾天皇の皇子・良仁親王(ながひとしんのう)が養嗣子として第二代となり、花町宮(はなまちのみや)(花町殿)を名乗った。やがて良仁親王が後西天皇(ごさいてんのう)として践祚(せんそ)することになるが、これは先代後光明天皇の養子・識仁親王(さとひとしんのう)(後の霊元天皇)が幼少であったための中継ぎであり、後西天皇は自分の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう)に高松宮を継がせて、宮号を有栖川宮(有栖川殿)に改めた。改号の理由および「有栖川宮」の宮号の由来は明らかではない。
     その後、幸仁親王の子・正仁親王(ただひとしんのう)が嗣子なく薨じたため、霊元天皇(れいげんてんのう)の第十七皇子・職仁親王(よりひとしんのう)が入って第五代を継承し、以後、六代・織仁親王(おりひとしんのう)、七代・韶人親王(つなひとしんのう)、八代・幟仁親王(たかひとしんのう)、九代・熾仁親王(たるひとしんのう)、十代・威仁親王(たけひとしんのう)と、いずれも霊元天皇の血統が続くが、大正二年(1913)に威仁親王が薨去したため、旧皇室典範の規定に基づき断絶が確定した。
     その後は熾仁親王妃董子と威仁親王妃慰子の両未亡人が宮家を守っていたが、大正十二年(1923)に董子と慰子が相次いで薨去し、翌年の慰子の一年祭をもって有栖川宮は正式に断絶となった。
     有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって光宮宣仁親王(のぶひとしんおう)により引き継がれ、宣仁親王には有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられている。ただし、旧皇室典範によって皇族の養子縁組は禁じられていたため、宣仁親王が有栖川宮の当主を継承したわけではない。後に宣仁親王は、父系で六代・織仁親王の血を、母系で十代・威仁親王の血統をそれぞれ持つ徳川喜久子(徳川慶喜の内孫)を妃とした。
     有栖川宮邸宅は、現在の京都御所の北東、猿ヶ辻付近にあったが、後に、京都御所の建礼門前に移された。明治六年(1873)より一時期、京都裁判所の仮庁舎として使用されており、明治二十四年(1891)に現在地に移築された。平成十九年(2007)まで、京都地方裁判所所長官舎として使われてきたが、その後、民有地になり、平成二十年(2008)、学校法人・平安女学院の所有となった。現在は「伝統文化の教育や文化活動の拠点」として活用されている。幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官僚官舎の様子を伝えている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は烏丸通に面した表門(青天門)で、銅板と真鍮板で葺かれた平唐門である。左右の塀と共に、大正時代の門建築の作例として貴重なものであり、京都地方裁判所長 石田寿と親交のあった歌人 吉井勇が、李白の詩から字をとって「青天門」と命名したといわれている。明治四十五年(1912)、三井家総長 三井高保が、邸宅の表門として新築したものを昭和二十七年(1952)、京都地方裁判所長官舎表門として、現在の地に移築している。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は下立売通に面した長屋門である。白い漆喰塗りで、長屋門形式としては最上級のものであり、向かって右手に居住できる部屋、左手に納屋等に利用されていたといわれる部屋がある。(写真4)は邸内から見た長屋門である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6**)は青天門を入ったところの前庭で、馬や馬車が長屋門から入り、ロータリーの中央島を廻り、長屋門西横の馬小屋に入るようになっている。中央島は、客土を行い、埋まっていた縁石を上げて黒松が植栽され、玄関が見えないようになっている。青天門の南側の楓島、北側の桜島に、左右対称となるようにサツキとツツジが植栽されている。青天門の両側の桜と楓の丘には、小川治兵衛により「立ち話ではなんですさかい」と命名され、座れるように景石が置かれている。また、烏丸通側の塀の近くにある二本の枝垂桜は、一本の木のように広がった枝振りを見せている。昭和二十七年(1952)、日本画家 堂本印象の発案により、醍醐寺三宝院内にあった実生の桜(みしょうのさくら)を移植したもので、 豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催した当時の桜の孫にあたるといわれている。
     「有栖館」は書院造で、敷地面積は約2150m2、建物面積は約392m2、木造瓦葺、平屋建て。中庭を囲んで、玄関棟・客間棟・住居棟の三棟で構成されている。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は前庭中央島の後方(西側)にある玄関、(写真8)はその正面で、「平安女學院」の扁額が掛かっている。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真9)は客間東側部分、(写真10)は同西側部分で、東側部分には能舞台としても使用できる十五畳の板張りの間があり、壁面に沿っていろいろな展示がなされている。また、西側部分には、床の間と付書院を備えた二畳の「上段の間」(写真11)のある十二畳半の座敷がある。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真12〜14)は展示の一部で、(写真14)は有栖館主屋、青天門、長屋門それぞれの「登録有形文化財登録証」、(写真13)は「有栖川宮威仁親王ゆかりの展示物」、「有栖川宮家の説明」等の掲示、(写真14)は「旧御所周辺図面」である。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     (写真15〜17)は客間から撮った南庭のそれぞれ左(東)、中央、右(西)部分で、平成二十一年(2009)、十一代目 小川治兵衛が、「平成の植治の庭」として作庭したものである。 建物が高床の縁側で、横幅が広く奥行きが狭い平面庭であることにより、奥の土塀や外の建物が視界に入らないように工夫されている。庭全体の地面の高さを、客土して約30cm程上げて、石や飛び石はそのまま配置しなおされ、植栽されていた木々の補植が行われた。

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真18〜20)は同じ庭を直接撮ったもので、順に東、中央、西部分である。

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真21、22)は中庭をそれぞれ西側および北側から撮ったものである。平安女学院が源氏物語千年紀としてフジバカマ(藤袴)を十株を育てるために花壇庭が造られ、最後の武将 有栖川熾仁親王をイメージして、桃の節句に因んだ垂桃(シダレモモ)が中央に植樹されている。雲の上の人の花壇というところから、雲型壇とされたといわれている。(写真23)は北側居住棟の部屋の中から撮った中庭である。

     
    (写真24)

     居住棟には平安女学院の服装の変遷等が展示されており、(写真24)はその一部で、左から順に1920〜初代セーラー服、1930〜セーラー服 夏服、1977〜ブレザースタイルである。(2012.8.27、2015.11.2.訪問)
     
    *ウイキベディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE)より引用
    **「京都通百科事典」より引用
     
     

    0689冷泉家(Reizeike Residence)

    • 2016.01.18 Monday
    • 22:54
     冷泉家(れいぜいけ)は、上京区今出川通烏丸東入玄武町、同志社大学南西角近くに取り残された形で保存されている。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫の発行するパフレット「重要文化財冷泉家住宅について」によれば、「歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする『和歌の家』で、定家の孫・為相を初代とし、以来八百年の長きにわたり、和歌の宗家としてその伝統を今日に伝えた。和歌に関する多くの典籍や古文書を守り伝え、昭和五十六年(1981)、財団法人冷泉家時雨亭文庫を設立し、現在に至っている。
     冷泉家住宅は現存する最古の公家住宅として昭和五十七年(1982)、重要文化財に指定された。平成六年(1994)から始まった解体修理工事は足かけ七年をかけて、平成十二年(2000)末に竣工した。寝殿造りの殿舎の起(むく)り屋根は、もともとの柿(こけら)葺きに戻され、瀟洒な姿を甦らせている。
     冷泉家が豊臣秀吉によって形成された公家町の一画である現在地に屋敷を構えたのは、江戸時代初めの慶長年間(1600年頃)である。以来四百年この地を動いていない。
     天明八年(1788)、御所を含む都の過半を焼き尽くしたいわゆる天明の大火の時、御文庫などの土蔵以外の建物はすべて焼失したが、寛政二年(1790)、屋敷は直ぐに再建され今に至っている。
     明治時代になって。ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、それらの屋敷は取り壊されて公家町は消滅し、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備された。しかし、今出川通りを隔て、留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、旧地にほぼ完全な姿で保存される、近世公家住宅の唯一の遺構となっている。」
     普段は非公開であり、特別公開期間中も内部は一切撮影禁止である。特別公開では、表門から入って、立蔀・式台、塀重門、座敷、台所、御文庫、庭園等を外部から拝観出来るが、建物の内部には入れない。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は冷泉家表門と築地塀で、今出川通りに南面して建つ表門は、本瓦葺きの一間一戸の薬医門である。この表門で特に目を引くのは、屋根両隅の留蓋瓦として立つ、阿吽を対にした亀像瓦である。これは冷泉家が京都御所の北に位置していることから、いわゆる四神相応の制にいう、玄武神を表しているものである。
    なお、特別公開の看板に掲示されている写真は、表門を入って右手の玄関部分で、立蔀、大玄関式台、塀重門が写っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真3、4)は東側の留蓋瓦(阿の亀像瓦)、(写真5、6)は西側の留蓋瓦(吽の亀像瓦)である。

     
    (写真7)

     (写真7)は表門西側の築地塀端部付近の瓦で、丸瓦部分に「平成十二年修補」と刻まれている。(2015.11.2.訪問)

     

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