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    0705建仁寺正伝永源院(Shoden Eigen-in Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 10:23

     正伝永源院(しょうでんえいげんいん)は、大本山建仁寺の北部にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭の一つで、建仁寺第三十九世無涯仁浩(むがいにんこう)が創建した。もと永源庵と称したが、明治六年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、のち「永源」の名を受け継ぎ現在の院名正伝永源院に改めた。

     釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、表門の左手に織田有楽斎や近親者の墓がある。寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。

     有楽斎は、織田信長の弟で本名を長益(ながます)といい、茶人として有楽斎という号を使っていた。信長の死後は剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。晩年は祇園花見小路四条下ルに正伝院を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが、元和七年(1621)に七十五歳で亡くなった。

     有名な国宝茶室如庵(じょあん)は、有楽斎がそこで丹精込めて完成させた。現在は所有が変わり愛知県犬山市に移転しているが、平成八年(1996)には、ゆかりの寺である当院に如庵が復元された。

     有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和三十七年(1962)秋、有楽斎夫人、息女そして孫の織田長好(ながよし)の三基と共にここに移された。現在も各地に有楽流の茶道が受け継がれている。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は正伝永源院の築地塀で、特別拝観の看板が立てかけられている。看板の写真は客殿室中の間にある狩野山楽筆の蓮鷺図(れんろず)襖絵である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)は山門で、右手手前に設けられた小屋は特別拝観の案内所である。

     

     (写真4)

     

     (写真4)は山門手前右手にある駒札横のコーナー部にある「有楽流祖 如庵織田有楽斎墓所」の石標である。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真5)は山門正面奥の庫裏と玄関、(写真6)は鎮守社、(写真7)は鐘楼である。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は山門を入って左(南)側にある中門で、ここをくぐると墓が沢山並んでいる。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真9、10)中門を入って直ぐ右(西)側にある織田有楽斎と一族のお墓である。昭和三十七年(1962)秋、(写真9)の織田有楽斎(右側)と正室 雲仙院(左側)、(写真10)の織田頼長(次男)の長男 織田長好(右側)と織田頼長 娘・一条昭良正室(左側)のお墓が、旧正伝院の地から現在の地に移された。織田有楽斎のお墓には「正伝院殿如庵有楽大居士」とある。江戸時代初期の制作で、花崗岩製、切石、基礎は単弁反花、露盤宝珠がのっている。

     

     (写真11)

     

     (写真11)は参道をはさんで織田有楽斎の墓の向かい側にある細川家歴代のお墓で、これも旧正伝院の地から移されてきている。左手前の石に「細川石」と刻まれているのが見える。

     

     (写真12)

     

     (写真12)はその右(南)側に隣接する福島正則とその家臣のお墓である。賤ヶ岳の七本槍の一人である福島正則は、永源庵に住んでいたことがあるといわれており、その父親 福島正信のお墓もある。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     (写真13)は方丈に通じる唐門、(写真14)は方丈で、中央には「正伝院」、「永源庵」二つの扁額が並べて掛けられている(写真15)。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1617)は方丈の杉戸絵、(写真18)は福島正則が寄進したといわれる朝鮮鐘である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真192021)は方丈南庭園をそれぞれ東側、中央、西側から撮ったものである。池泉式庭園で池には石橋が架けられ、築山には五重石塔が建てられている。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真2223)は方丈南庭園の西端に造られた茶室「如庵」の写しである。織田有楽斎が旧正伝院に建立し、現在は有楽苑(愛知県)に移築された茶室「如庵」(国宝)が「写し」として復元・建立されたもので、「鱗板(うろこいた)」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴がある。「如庵」の扁額は、旧肥後熊本藩藩主 細川家第十七代当主 細川護貞の揮毫による。

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真2425)は方丈西庭園で蹲踞がある。(2014.3.15.訪問)

     

    0704建仁寺大中院(Daichuin Temple)

    • 2016.08.31 Wednesday
    • 13:44

     大中院(だいちゅういん)は花見小路通を南に突き当たったところ、建仁寺北門の手前東側の角にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭寺院である。南北朝時代の康永年間(1342-1344)、建仁寺二十七世・東海竺源(とうかいじくげん)の塔所になった。
     室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃し、天文二十一年(1552)に焼失した。
     江戸時代の承応年間(1652-1655)、臨済宗の僧・雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、現在の本堂、庫裏などが建てられた。
     文化年中(1804-1818)、臨済宗の僧・景和竺応、全室慈保(ぜんしつじほ)らが堂宇を再建し、霊洞院より移築した。

    書院の西にある茶室「燕舞軒(えんぶけん)」は、宝暦年間(1751-1763)に建てられたとみられており、三畳中板台目幅洞床。庵号は陶淵明(365-427)の詩句「燕舞春日長」より採られた。通常は非公開で、内部の拝観は出来ない。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は花見小路通から見た大中院で、右手に山門、左手に見えているのが庫裏である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)は西向きの山門で、「大中院」の寺札が掛かっている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は山門正面の参道と前庭、(写真5)は山門を入った左(北)側にある庫裏である。(2016.7.29訪問)

     

    *京都寺社案内(http://www.kyotofukoh.jp/report1548.html

     

    0703建仁寺久昌院(Kyushoin Temple)

    • 2016.08.31 Wednesday
    • 13:39

     久昌院(きゅうしょういん)は建仁寺境内、三門の西側にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。江戸時代の慶長十三年(1608)、徳川家康の重臣奥平信昌(おくだいらのぶまさ)とその四男松平忠明(まつだいらただあきら)の寄進により、三江紹益(さんこうじょうえき)を開基として創建された。奥平家の菩提寺であり、信昌の戒名から久昌院と名付けられた。墓地には信昌夫妻の霊屋の他鎌倉時代−南北朝時代の臨済宗の僧・雪村友梅(せっそんゆうばい、12901347)や同時代の武将・赤松則村(あかまつのりむら、12771350)〔法名:円心〕の墓もある。通常は非公開で拝観謝絶となっており、内部を見ることは出来ない。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は東向きの山門で、「久昌院」の寺札が掛かっている。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)はそれぞれ山門から方丈のある左手と庫裏のある正面を撮ったものである。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は唐門のある方丈玄関、(写真5)は庫裏とその玄関である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真6)は山門を入った右手にある豊川稲荷神社、(写真7)は同左手にある鐘楼である。(2015.3.132016.7.29.訪問)

     

    0702建仁寺霊源院(Reigenin Temple)

    • 2016.08.29 Monday
    • 09:51

     霊源院(れいげんいん)は建仁寺境内の南東にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。室町時代の応永年間(1394〜1428)初期、両足院(0008参照)開基・龍山徳見(りゅうさんとくけん)和尚を勧請開山として、その弟子である一庵一麟(いちあんいちりん)によって創建された。鎌倉時代末期から室町時代にかけ、京都五山と鎌倉五山の禅僧たちによって栄えた漢文学・五山文学の最高峰とされた寺院の一つで、「建仁寺の学問面」の中核となっていた。

     天文年間(1532-1555)に焼失したが、安土・桃山時代〜江戸時代の慶長年間(1596-1615)、柳沢堅物により再建されている。明治五年(1872)、旧地を窮民産業所(祇園町南)敷地に譲り、現在地(塔頭・妙喜庵跡)に移った。
     本堂では建仁寺塔頭妙喜庵の開山住職であった中巌圓月(ちゅうがんえんげつ)坐像(重要文化財)と、その胎内秘仏である毘沙門天立像などを拝観することができるが、内部は撮影禁止である。  

     また、本堂内には二つの茶室がある。茶室「也足軒(やそくけん)」は、大正元年(1912)に建てられた。四畳半、二畳台目で、本堂内に躙口が南面してある珍しい構造である。
     本堂南にもう一つの茶室「妙喜庵(みょうきあん)」がある。一畳台目の小さい茶室で、壁の一面に花頭窓が開けられている。
     方丈の南と西に枯山水式庭園「甘露庭(かんろてい)」がある。苔地に、石、飛石、蹲踞が配され、花梨、松、甘茶などの植栽がある。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は山門で、毘沙門天の幟と共に、右手には特別公開の看板が立てられている。

     

     (写真2)

     

     (写真2)はその看板で、写真の毘沙門天像は左手に水晶の玉を掲げており、その中には最澄が持ち帰ったといわれる仏舎利が収められている。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は山門を入った正面の玄関で、「妙喜世界」と書かれた扁額が掛かっている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は玄関前庭で、石の上に布袋像が置かれている。(写真5)は玄関に向かって左(北)側の庫裡である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6〜8)は方丈庭園「甘露庭」である。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真9、10)は庭園に置かれた人形で、その表情が見ている者の心を和ませる。(2015.3.13.訪問)

     

    0701建仁寺大統院(Daitoin Temple)

    • 2016.08.01 Monday
    • 21:29

     大統院(だいとういん)は、建仁寺の塔頭一つで、建仁寺の南東の隅にたち、別格地とされる。古澗慈稽(こかんじけい)や日政(にっせい)など、名僧を輩出したことで知られる。

     南北朝時代、夢窓疎石の弟子で、建仁寺夢想派の建仁寺四十三代住持 青山慈永仏観禅師(せいざんじえいぶっかんぜんじ)によって創建されたといわれる。

     天文五年(1536)、延暦寺の衆徒が、法華宗の洛中21ヶ寺本山を襲った天文法華の乱により焼失。江戸時代初期、古澗慈稽禅師のとき、禅師に帰依した長谷川守尚(大統院殿虎峯宗降居士)の発願により再建が始まった。

     寛永十四年(1637)、住持 九厳中達禅師に帰依した長谷川守尚の子 長谷川正尚により再建が完成した。その頃、儒者 林羅山(1583〜1657)が寓居していたといわれている。

     大正十三年(1924)、表門と唐門を残して焼失したが、昭和五年(1930)、本堂のみが再建された。昭和三十年(1955)に復興が始まり、平成二十一年(2009)に本堂前庭が完成したことで復興が完成した。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は建仁寺(0700参照)境内南端の道を東に入って行く大統院の参道で、突き当たりに山門がある。

     

     (写真2)

     

     (写真2)は山門で、通常は非公開であるが、訪問した時は、左手前方に「平成二十七年度秋期特別公開」の看板が立てられ、公開されていた。

     

     (写真3)

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真3〜5)は山門を入ってから本堂までの参道で、正面奥に見えるのが本堂、左手は庫裡である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真6、7)は参道左(北)側の庫裡である。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は唐門で本堂への玄関口となっており、特別公開の受付がある。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は本堂で、内部には円山応挙筆の「幽霊画」、円山派鈴木松年筆の「骸骨之図」、独特のユーモラスな画風で知られる白隠慧鶴筆の「蛤蜊観音図」、江戸時代末期の陶芸家 奥田頴川(おくだえいせん)作の「赤絵十二支四神鏡文皿(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)」等の寺宝が展示公開されていたが、写真撮影は禁止であった。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真10〜12)は本堂南側にある市松模様の庭を西、中央、東と順に撮ったもので、ツツジの築山を背景に、格子状に白砂と苔が置かれている。平成二十一年(2009)北山安夫の作庭によるもので、建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されている。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13、14)は北西の角から撮った「耕雲庭」である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真15)は北庭、(写真16)は西庭である。(2015.11.6.訪問)

     

    0700建仁寺(Kenninji Temple)

    • 2016.07.30 Saturday
    • 21:34

     建仁寺(けんにんじ)は大和大路通四条下ル小松町にある臨済宗建仁寺派の大本山寺院で、山号は東山(とうざん)。日本最古の禅寺で、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂塔(やさかのとう)」のある法観寺は建仁寺の末寺になる。「建仁寺の学問面(がくもんづら)」と称され、詩文芸術に秀でた禅僧を輩出し、「五山文学」と称される文芸を作り出した。

     鎌倉時代の建仁二年(1202)、鎌倉幕府二代将軍 源頼家(開基)の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として創建され、土御門天皇の勅願寺となって、年号から寺号を賜った。

    元久二年(1205)、中国 宋の百丈山(ひゃくじょうざん)(江西省)に似せて諸堂が建立された。開山は、日本の禅宗の開祖とされる栄西禅師。当時の京都では、天台宗、真言宗の既存宗派の勢力が強大だったことで、天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学としたが、第十世の聖一国師 円爾弁円(えんにべんねん)、第十一世の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を経て純粋な禅寺として確立した。

    栄西禅師は寺伝では「ようさい」であるが、一般的には「えいさい」と慣用される。永治元年(1141)、備中(岡山)吉備津宮の社家の生まれ、14歳で比叡山に登り、天台密教を修めたのち、二度の入宋(現中国)求法を果たし日本へ最初の禅を伝えた。中国から将来した茶種による茶の栽培やお茶の効用を説いた。『喫茶養生記』を著すなど現在にまで至る日本のお茶文化の礎を開いた「茶祖」として親しまれている。開山降誕会には禅院茶礼の古式にのっとり、「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」が行われる。建保三年(1215)示寂、75歳。
     栄西禅師が宋からの帰路に暴風雨に襲われたときに、えびす神が現われ、船に祀ると、たちまち暴風雨が静まったといわれ、栄西禅師が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守として山内にえびす神を祀り恵美須神社(0698参照)を創建した。
     建仁寺は、元中三年/至徳三年(1386)、京都五山の第三位となったが、天文二十一年(1552) に細川晴元一党が火を五条に放ったため類焼し、伽藍のほとんどを焼失した。その後、天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉により寺領が寄進され、後の大名 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、自分の住持していた安芸安国寺から文明十九年(1487)建造の方丈を移築し、復興された。

    明治五年(1872)には、西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として80日間の京都博覧会が開催されている。展示品は約2,500点、入場者は3万人を越え、外国人も約1,000人が入場した。

    建仁寺の伽藍は、最盛期には、塔頭約60ほどあったが、応仁の乱による焼失の他、たびたびの火災で、創建当時の建物は残っていない。現在の建物の多くは、江戸時代以降に復興されたもの。約22,000坪 塔頭14ヶ寺。

    寺宝として、俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屏風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲龍図」など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。

     

     (写真1)*

     

     (写真2)**

     

     (写真1、2)は建仁寺公式HPに掲載されている境内図と拝観案内図である。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は勅使門(重要文化財)で、建仁寺の南側正面、八坂通に面した銅板葺切妻の四脚門である。平教盛(あるいは平重盛)の館門を応仁の乱後に移築したものといわれているが定かではない。鎌倉時代後期の唐様建築の遺構で、簡素で大らかな建築である。柱や扉に矢の痕跡があり、「矢根門(やのねもん)」「矢立門(やたちもん)」と称される。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は花見小路通の南端にある北門、(写真5)は大和大路通に面した西門で、いずれの門も右手前に「臨済宗大本山 建仁寺」の大きな石標が立っている。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6)は勅使門正面の放生池に架かる石橋と三門、(写真7、8)は三門(空門、無相門、無作門の三解脱門)で、「望闕楼」(ぼうけつろう)(「御所を望む楼閣」という意味)と名付けられている。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は三門に掛かる「望闕楼」の扁額で、第四世竹田黙雷(宗淵)筆。軒丸瓦には「建仁」の字が読み取れる。大正十二年(1923)に安寧寺(静岡県浜松市)から移築したもので、江戸時代末期の建築である。楼上には、釈迦如来、迦葉尊者・阿難尊者、十六羅漢が安置されている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は法堂(はっとう)である。五間四間一重裳階付の禅宗様仏殿建築で、明和二年(1765)に徳川幕府の帰依を受けて建立されている。正面須弥檀には、本尊 釈迦如来坐像と、脇待 迦葉尊者・阿難尊者が祀られている(写真11)。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねた建物で「拈華堂(ねんげどう)」と称される。

     

     (写真12)

     

     (写真12)は平成十四年(2002)に創建800年を記念して、小泉淳作により天井一杯に描かれた畳108枚分の雲龍図「大双龍図」である。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13、14)は法堂の北東部にある二つの鐘楼である。(写真13)は「陀羅尼の鐘」と呼ばれる東の鐘、(写真14)は西の鐘で、いずれも17世紀中頃に建立されている。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真15)は二つの鐘楼の北側にある庫裡への道脇に立てられた風神雷神図と雲龍図の看板、(写真16)は庫裡(本坊)、(写真17、18)はその左(西)側に隣接する玄関である。 

      本坊、方丈、法堂等内部を拝観するにはこの庫裡から入る。建仁寺では内部の写真撮影がすべてOKの大らかさがうれしい。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真19)は庫裡正面にある「大哉心乎(大いなるかな心や)」(「人のこころは本来自由で大らかである」の意)と栄西禅師『興禅護国論』の序にある言葉が書かれた衝立、(写真20)は入って直ぐの部屋に展示されている俵屋宗達の風神雷神図屏風(国宝)の高精細複製作品、(写真21)は金澤翔子書の「風神雷神」屏風である。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真22、23)は方丈(重要文化財)、(写真24)は方丈中央に掛けられた扁額である。
     方丈は桁行27.6m 梁間20.8mの単層入母屋造、銅板葺、玄関付属の大規模な典型的な禅宗方丈建築で、室中(しっちゅう)(中央の部屋)の前面は、中央双折桟唐戸(ふたつおりさんからど)、両脇間の桟唐戸付真室(室中の奥)は、浅く前後に区切られ、前方を仏壇、後方を二室に区分される。

     

     (写真25)

     

     (写真25)は室中内部で、中央右手に大きな栄西禅師の頂相が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真26)は東福門院によって寄進された本尊の十一面観音菩薩像である。

     

     (写真27)

     

     (写真28)

     

     (写真29)

     

     方丈には、室中の他、礼の間、檀那の間、衣鉢の間、仏間、書院の間と六つの部屋があり、それぞれに襖絵が描かれている。(写真27、28、29)はその一部で、それぞれ海北友松筆「雲龍図」、海北友松筆「琴棋書画図」(重要文化財)、海北友松筆「花鳥図」である。

     

     (写真30)

     

     (写真31)

     

     (写真30、31)は方丈前庭「大雄苑(だいおうえん)」をそれぞれ東端と西端から撮ったものである。白砂と緑苔に巨岩を配した枯山水庭園で、前方の法堂を借景としている。小川治兵衛の作で、中国の百丈山(ひゃくじょうざん)から名付けられたといわれる。

     

     (写真32)

     

     (写真33)

     

     (写真32)は(写真31)に見える花頭窓の後方、玄関脇(西側)にある唐門を外側から撮ったもの、(写真33)はこの花頭窓から見た大雄苑である。

     

     (写真34)

     

     (写真35)

     

     (写真36)

     

     また、(写真34、35)は方丈から法堂への通路、(写真36)は方丈正面の勅使門である。

     

     (写真37)

     

     (写真38)

     

     (写真37、38)は方丈西庭で、前庭西南隅に相当する後方の木の茂みの中に見える七重の石塔は、織田有楽斎(おだゆうらくさい)が、兄 織田信長の追善のために建てた供養塔である。

     茶室を拝観するためには方丈西庭の北端からスリッパを履いて庭に出る。

     

     (写真39)

     

     (写真39)は茶室に向かう道の左(西)側にある田村月樵遺愛の大硯である。田村月樵は我が国洋画界の先覚者といわれるほどの油絵画家であったが、晩年油絵から遠ざかり、仏画のみに没頭した。この碑は、月樵が生前愛用した長さ三尺の大硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばって前進していく様子を彼自身が刻みつけたというものである。

     

     (写真40)

     

     (写真41)

     

     (写真40)は茶室「清凉軒」への露地入口、(写真41)は「清涼軒」で、抹茶席がある。

     

     (写真42)

     

     (写真43)

     

     (写真42、43)は茶室「東陽坊」をそれぞれ西側と北側から撮ったものである。この茶室は千利休の高弟の一人 真如堂長盛(ちょうせい)好みの草庵茶室で、豊臣秀吉の北野大茶会にて、紙屋川の土手に建てられた副席といわれている。

     

     (写真44)

     

     (写真45)

     

     (写真46)

     

     (写真44〜46)はその内部で、二帖台目の茶席、一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる。二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれている。

     

     (写真47)

     

     (写真48)


     (写真47)は茶室南側に置かれた豊臣秀吉遺愛の鳥帽子石、(写真48)は茶室近くの建仁寺垣で、4つ割り竹の表を外に密に縦に並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹を渡し、蕨縄(わらびなわ)で結んだ竹垣である。

     

     (写真49)

     

     (写真49)は「東陽坊」近くにある「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)首塚」である。 安国寺恵瓊は、安芸安国寺の持住となり、毛利家の外交僧として活躍。豊臣秀吉に伊予23,000石の大名に取り立てられ、建仁寺の方丈移築、東福寺の庫裡の再建などを行った。 慶長五年(1600)、関が原の戦いで西軍の最高首脳として暗躍したことで、六条河原で斬首にされ、建仁寺の僧が首を持ち帰り、方丈裏に葬られた。

     

     (写真50)

     

     (写真51)

     

     (写真52)

     

     茶室拝観後は再び方丈西側に戻り、方丈北庭に沿って大書院の方へ歩く。(写真50、51)は方丈北庭、(写真52)はその中にある「霊照堂(れいしょうどう)」(納骨堂)である。

     

     (写真53)

     

     (写真54)

     

     方丈北庭の東端にある廊下を北に向かうと、小書院と大書院があり、その間に中庭の「潮音庭」がある。(写真53、54)は四つの部屋からなる小書院で、床の間には菩提達磨尊者の軸が掛けられている。

     

     (写真55)

     

     (写真56)

     

     (写真57)

     

     大書院には「風神雷神図屏風」(複製)(写真55、56)や開山堂楼門「宝陀閣」の楼上に安置されている陶製十六羅漢像(写真57)が展示されている。

     

     (写真58)

     

     (写真59)

     

     (写真58、59)は大書院と小書院の間にある中庭「潮音庭」で、小堀泰厳老大師の作庭、北山安夫の監修によるものである。一文字型の手水鉢が置かれ、中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配された枯淡な四方正面の庭で、石組は、大きな渦潮の流れを表す。

     

     (写真60)

     

     (写真60)は小書院の南側にある「○△□乃庭」で、単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)、水(○)、火(△)で象徴したものともいわれる。奥の白砂部分が△、中央の植木と苔地、砂紋が○、手前の井筒が□を表す。
     以上で内部拝観を終え、庫裡正面の道を法堂を右(西)に見ながら北から南に向かう。

     

     (写真61)

     

     (写真61)は法堂南東部にある「桑の碑」で、栄西の『喫茶養生記』下巻には、桑の効用について書かれている。五種の病(飲水病、中風、不食、瘡病、脚気)には、諸仏菩薩の樹であるという桑の妙薬が効くとされている。

     

     (写真62)

     

     (写真63)

     

     (写真62、63)は桑の碑の南側にある栄西禅師「茶碑」である。茶祖 栄西禅師は、お茶の種子を持ち帰り、茶の栽培や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用を説いた『喫茶養生記』を著して日本のお茶文化の礎を開いた。

     

     (写真64)

     

     (写真64)は「茶碑」の東側にある「平成の茶苑」で、平成三年(1991)、茶祖 栄西禅師が中国 宋よりお茶の種子を持ち帰ってから800年を記念して、植樹栽培された覆い下茶園である。毎年5月10日頃に初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を、6月5日の開山忌に供えている。

     

     (写真65)

     

     (写真65)は茶碑の南側にある洗鉢池で大きな鯉が泳いでいる。

     

     (写真66)

     

     (写真67)

     

     (写真66、67)は洗鉢池の南東にある開山堂の「楼門(宝陀門、宝陀閣)」で、明治時代の1884年(1885年とも)に鳴滝・妙光寺の門を移築したものである。江戸時代中期に建立された楼閣造の3間1戸二重門で、両側に山廊がある。

     

     (写真68)

     

     (写真69)

     

     (写真68、69)は楼門の北側にある通用門(旧塔頭の山門)とそこから入った右手にある玄関で、以前は護国院(古くは興禅護国院)という名前の塔頭であった。内部には「客殿」、「経蔵」、「開山堂」がある。「開山堂」は、明治時代の1884年に建立されており、入母屋造、本瓦葺の礼堂(7間5間)、相の間、祠堂からなる。堂内には四半敷きのせん瓦が敷かれている。相の間に栄西の入定塔(墓所)があり、奥の祠堂に江戸時代慶派・左京法橋康乗作といわれる祖師像(1664)、脇壇に江戸時代(1752)作の開基・源頼家木像の束帯坐像、祖師塔銘を刻む碑が安置されている。「客殿」は、妙心寺玉龍院客殿を移築したもので、江戸時代中期に建立されている。客殿本尊は赤旃檀釈迦如来像。庭園には、栄西が宗から持ち帰ったという菩提樹の木がある。前庭に明全塔が立ち、道元が宋より持ち帰った師・明全の遺骨が納められている。

     

     (写真70)

     

     開山堂は通常非公開であるが、(写真70)は50回記念「京の冬の旅」で公開された時の看板である。公開時でも内部は撮影禁止となっている。

     

     (写真71)

     

     (写真72)

     

     (写真73)

     

     (写真71〜73)は開山堂楼門の南側前方にある楽神廟(らくじんびょう)である。栄西の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社に参詣した後、夢に明星を見て栄西を懐妊したという因縁により建仁寺境内に祀られたという。また楽大明神の本地仏は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)で、智慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があるといわれ、受験合格の菩薩として近年信仰を集めている。丑年生まれ、寅年生まれの守り本尊でもあり、毎年11月13日に大祭がある。

     

     (写真74)

     

     (写真74)は楽神廟の南側にある道元禅師修行の遺跡である。曹洞宗の高祖 道元禅師(1200-1253)は、建保元年(1213)比叡山で出家し、栄西禅師の高弟・明全に師事した。貞応二年(1223)、明全とともに宋に渡り、慶元府の景徳寺、天童如浄に就く。安貞元年(1227)頃帰国、再び建仁寺に入り、報恩の至誠を捧げ、寛喜三年(1231)山城深草に移住した。

     

     (写真75)

     

     (写真75)は道元禅師修行の遺跡の南側に建つ浴室である。浴室は七堂伽藍の一つで、 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)により建立されている。内部は、待合、浴室、土間(火炊場)に三分されており、湯気で身体を温める蒸し風呂であるが、禅寺では、入浴も修行の一つとして厳しい作法が細かく定められている。

     

     (写真76)

     

     (写真77)

     

     (写真76)は浴室の南側の道を東に向かって撮ったもので、二本の石柱の右側に「本派専門道場」と書かれた木札が掛かっており、この道を真っ直ぐ東に行くと左(北)側に建仁僧堂(霊洞院)がある(写真77)。(2014.3.15.、2016.7.22.、29.訪問)  

     

    * http://www.kenninji.jp/grounds/index.html より引用

    **http://www.kenninji.jp/grounds/map.html  より引用

     

    0699建仁寺禅居庵(摩利支尊天堂)(Zenkyoan Temple、Marishisonten-do)

    • 2016.07.05 Tuesday
    • 21:08

     禅居庵(ぜんきょあん)は摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)とも呼ばれる臨済宗建仁寺派の建仁寺塔頭で、建仁寺境内南西隅にある。建仁寺境内(東)からも八坂通(南)からも大和大路通(西)からも入れる。

    当庵の開山は清拙正澄(せいせつしょうちょう)(1274〜1339)禅師である。禅師は中国福建省福州に生まれ、月潭紹円禅師に就いて出家後、浄慈寺、霊隠寺、育王寺を辺参、愚極智慧禅師の法を嗣いだ。嘉歴元年(1326)、禅師の名声を聞いた海東の檀信が師を日本に招請し、これに応じて翌年来朝。上京後北条高時に迎えられ、鎌倉建長寺、浄智寺、円覚寺に住山。元弘三年(1333)、後醍醐天皇の招請により第二十三代住持として京都建仁寺に迎えられ、のち南禅寺にも住し、再び帰山後当庵に退居した。暦応二年(1339)正月、66歳で当庵にて遷化。
     禅師は常に摩利支尊天を祀り、入滅の地となった当庵摩利支天堂には、この摩利支尊天像が秘仏として680年近く祀られている。この堂宇は元弘年間(1331〜1333)に小笠原貞宗が創建したが、天文の兵火で焼失し、天文十六年(1547)に織田信長の父である織田信秀が建立したと伝えられている。創建時代の禅宗様仏殿の遺構が残されており、中世様式の貴重な建造物として、平成七年(1995)、京都府の文化財指定を受けている。

     摩利支尊天は猪を眷属(けんぞく)として従え、猪車に乗り、また七頭の猪に坐している。そのため、境内には猪の像が数多く見られる。

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真1、2)は建仁寺境内に面した東向きに建つ山門で、「禅居庵」の寺札が掛かっている。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は山門を入った正面で、禅居庵内部は非公開になっており、自由に入れる摩利支尊天堂へは、山門正面の参道中央から左手(南側)に曲がって行く。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4、5)はそれぞれ摩利支尊天堂へ行く参道右手(西側)にある庫裡と玄関である。

     

     (写真6)

     

     (写真6)は摩利支尊天堂の手水舎で、猪の口から水が出ている。

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真7)は摩利支尊天堂の右(東側)半分を撮ったものであるが、摩利支尊天堂の正面入口は八坂通に面した南門(写真8)である。南門前には「建仁寺禅居庵 開運摩利支尊天」の石標が立ち、門には「摩利支尊天」の赤い提灯が吊り下げられている。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真9)は南門を入ったところから撮った参道、(写真10)は参道正面奥にある摩利支尊天堂、(写真11)は「摩利支尊天」の扁額である。

     

     (写真12)

     

     (写真13)

     

     (写真12)は摩利支尊天堂近くにあるいのししの像、(写真13)は摩利支尊天堂を西側から撮ったもので、ここにも狛猪の片方が写っている。

     

     (写真14)

     

     (写真14)は大和大路通に面した西門で、冠木門になっており、門の前には狛猪と石燈籠が立ち、右手前方には通りに面して「建仁寺禅居庵 開運摩利支尊天」の石標が立っている。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真15)はこの門から入って直ぐ左手にある小松地蔵尊堂、(写真16)は摩利支尊天堂の西側にある三光威徳天堂、地蔵堂、荒熊大権現等を祀るお堂である。(2014.3.15.訪問)

     

    0698恵美須神社(Ebisu Shrine)

    • 2016.06.25 Saturday
    • 21:21

     恵美須神社(えびすじんじゃ)は東山区大和大路通四条下ル小松町、建仁寺の西にある神社で、祭神として、事代主神(ことしろぬしのかみ)〔えびす神〕、少彦名神(すくなひこなのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る。「えべっさん」の愛称で親しまれ、商売繁盛・交通安全(海路安全)の神として信仰されている。西宮神社、大阪今宮神社とともに日本三大えびすの一つであり、都七福神めぐりの一つでもある。

     社伝によれば、平安時代末期の建久二年(1191)、栄西禅師が宋よりの帰途、舟が暴風雨に遭い遭難しそうになったが、海上に恵美須神が現れ、その加護により難を免れたといわれる。鎌倉時代初期の建仁二年(1202)、栄西禅師が建仁寺創建に当たり、境内に恵美須神を祀り、建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりである。応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建され、今もなお当地の産土神(うぶすながみ)として人々の崇敬を受けている。

     境内の岩本社には、平安時代の歌人在原業平(ありわらのなりひら)を祀っている。また、財布塚・名刺塚は、古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものである。

     毎年1月10日を中心として前後五日間行われる「十日えびす」の大祭には、全国各地から商売繁昌・家運隆昌・交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。

     

     (写真1)

     

     (写真2)


     (写真1、2)は大和大路通に面した恵美須神社一ノ鳥居で、鳥居右(北)側には「恵美須神社」の石標が立っている。また、一ノ鳥居を潜ると直ぐに冠木門があり、本殿までの参道には二ノ鳥居が見える。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は二ノ鳥居で、中央にはえびすの顔が掲げられている。

     

     (写真4)

     

     (写真4)は冠木門を入った左(南)側にある手水舎で、龍の口から水が注がれている。

     

     (写真5)

     

     (写真5)は二ノ鳥居の左(南)側にある社務所である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6)は冠木門を入った右(北)側を撮ったもので、奥に赤い賽銭箱が見えるのは左側が松下幸之助の寄進した財布塚、右側が京都の実業家吉村孫三郎の揮毫による名刺塚である(写真7)。また(写真6)の左手(西側)に二つの恵美須像が並んでいる(写真8)。 

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真9、10)は恵美須像の西側奥に南向きに建つ天満宮、(写真11)は天満宮の左横に祀られた白太夫社である。

     

     (写真12)

     

     (写真12)は本殿の北側奥、境内の北西コーナー部を北向きに撮ったもので、正面に岩本稲荷社がある。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13)はその左コーナー部にある北野天満宮遙拝所、(写真14)は遙拝所南隣に東向きに建つ末社の猿田彦神社(右)と八幡神社(左)である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真15、16)は参道正面奥の拝殿外観とその内部(奥は本殿)、(写真17)は拝殿を南横側から撮ったものである。

     

     (写真18)

     

     (写真18)は本殿を南側から撮ったもので、中央部に注連縄をした参拝所がある。

     

     (写真19)

     

     (写真19)はその参拝所で、本殿正面の拝殿で参拝後、この注連縄下の板を軽く叩いて再度お願い事をすると叶うといわれている。

     

     (写真20)

     

     (写真20)は本殿南側を通って西側の通りに出る西門で、門の屋根左手上部後方に本殿の屋根が見える。(2014.3.15.、2015.11.6.訪問)

     

    0697木島櫻谷旧邸(konoshima Okoku Old Residence)

    • 2016.04.13 Wednesday
    • 11:03
     木島櫻谷旧邸(このしまおうこくきゅうてい)は木島文庫(このしまぶんこ)とも呼ばれ、北区等持院東町、洛星中学・高校の西側にある。木島櫻谷は明治十年(1877)京都市三条室町にあった商家の次男として生まれた。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師・吉田元陳の弟子で、父木島周吉(二代)は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったという。
     明治二十五年(1892)、当時京都画壇の大家であった今尾景年に弟子入りする。景年は「櫻谷」の号を与え、父を早く亡くした櫻谷の父親的存在だった。また同じ頃、儒医・本草学者・写生画家だった山本章夫(号・渓愚)に儒学・本草学・経文漢学を学んだ。入門翌年に早くも第三回青年絵画共進会に「芙蓉小禽図」を出品し褒詞を受け、同第四回展にも「春野郊歩図」で三等褒状となるなど、景年塾を代表する画家として成長していく。四条・円山派の流れをくんだ写生を基本とし、初期は動物画を得意とした。明治三十二年(1899)全国絵画共進会に出品した「瓜生兄弟」は宮内庁買い上げとなり、櫻谷の出世作となった。画題も花鳥画、山水画、歴史人物画へと広がっていく。明治四十年(1907)文展の第1回から第6回まで、二等賞4回・三等賞2回と連続受賞し、早熟の天才という印象を与えた。大正元年(1912)京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)教授を委嘱され、大正二年には早くも文展の審査員に挙げられる。竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。
     昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねる。昭和八年(1933)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送った。しかし、徐々に精神を病み、昭和十三年枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げた。享年62。墓所は等持院(非公開)。
     財団法人櫻谷文庫は、木島桜谷の遺作・習作やスケッチ帖、櫻谷の収集した絵画・書・漢学・典籍・儒学などの書籍1万点以上を収蔵、それらの整理研究ならびに美術・芸術・文化振興のために桜谷が逝去した2年後の昭和十五年(1940)に設立された。櫻谷文庫は、大正初期に建築された和館・洋館・画室の3棟から成り、いずれも国の登録有形文化財に登録されている。これらは桜谷が三条室町から当地に転居した際に建立されたもので、和館は住居に、和洋折衷の洋館は収蔵庫・展示及び商談室として、また80畳の畳敷き大アトリエの画室は制作室・画塾として使用されていた。桜谷は竹を好んだため、建築材として各所に使われている。この画室は外観から二階建てに見えるが、実際には平屋で、中心部には柱が一本もない。1951年から1976年までは京都府立図書館上京分館として使用され、現在は絵画教室などのため貸し出されている。
     桜谷が当地に転居したのが契機となり、土田麦僊、金島桂華、山口華楊、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田荻邨、福田平八郎、徳岡神泉などの日本画家が移り住み、「衣笠絵描き村」と呼ばれた。他にも、洋画家の黒田重太郎、映画監督の牧野省三も近くに住んでいた。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は木島櫻谷旧邸の正門で、「桜谷文庫」の表札が掛かっている。(写真2)の門の奥正面に見えるのが正玄関である。

     
    (写真3)

     (写真3)は正門近くに立てかけられた「木島櫻谷旧邸特別公開」のポスターで、左隣には「真如寺特別公開」、右隣には今出川通の一筋北を走る「今小路通り」のポスターが、それぞれ掲示されている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     桜谷文庫には大きく分類して和館、洋館、画室の3つの建造物があり、いずれも国指定登録有形文化財である。(写真4)は南側から撮った和館の全景、(写真5)は和館南側の庭である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6、7)はこの庭にある昔の石の道標で、西には因幡藥師、六角堂、壬生地蔵、西本願寺、嵯峨、愛宕、北には三条大橋、北野天神、東には祇園社、清水寺、大仏三十三間堂、知恩院、西大谷、東大谷、南には五条大橋等がそれぞれの地までの距離も含め、かな交じりで書かれているのが読み取れることから、昔は四条大橋近辺にあったものではないかと推察される。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真8)はいずれも大正二年(1913)に建てられた瓦葺木造二階建の和室(建築面積195m2)とその西側にある木骨煉瓦造二階(一部平屋)建の洋館(建築面積107m2)、(写真9)は南側の道路である今小路通から見た洋館、(写真10)は北側の敷地内から見た洋館と和館である。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     まず、和館の玄関から中に入ると右手西側に(写真11)の和室があり、西側の壁面に(写真12)に示す櫻谷筆の富士山の絵が掛かっている。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13)はその西側の部屋になる書院造りの座敷、(写真14)は床の間と違い棚のある座敷西側で、床の間には大きな仏壇が置かれ、違い棚の前には櫻谷の肖像写真や青年期、壮年期の略歴がパネルにして置かれている。

     
    (写真15)

     (写真15)は木島櫻谷の肖像写真である。

     
    (写真16)

     (写真16)は座敷の北側で、欄間は東山三十六峰を表したものである。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真17)は廊下を挟んで座敷の北側にある部屋、(写真18)は部屋の中に展示されているカルタ、絵本、おはじき等の遊具と座卓で、座卓の上には「虎屋」の通い箱があり、虎屋がこの箱に和菓子を入れて櫻谷宅に届けていたことが分かる。(写真19)はこの部屋の東側にある押し入れの中で、画道具類が格納されている。

     
    (写真20)

     (写真20)は(写真17)の部屋の東隣にある部屋で、SINGERミシンの他そろばん、丸物の商品券、草履、お手玉等雑多なものが展示されてる。

     
    (写真21)

     (写真21)は和館二階の西南角の部屋(1階座敷の上)で、ここには人形などのコレクション品がいろいろ展示されている。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真22、23)は同じ部屋にある雛人形の展示、(写真24)は(写真23)の後方に掛けられた櫻谷の牛の絵の掛け軸である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25、26)は二階西北の部屋の展示品で、(写真25)は葵紋付左義長羽子板と琴、(写真26)は櫻谷の手描き婚礼衣装で、養子誠三の子で同居していたもも子(大正十四年生まれ)のために用意したと伝えられる。

     
    (写真27)

     (写真27)は二階東北の部屋である。

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     (写真28)は一旦和館の玄関から出て北隣に建つ台所の入口、(写真29)はその玄関である。

     
    (写真30)

     
    (写真31)

     (写真30)は台所の土間で、流しやおくどさんがそのまま残っている。(写真31)は茶の間で、卓袱台の上に米櫃や茶器セット等が置かれている。

     
    (写真32)

     次に台所から出て洋館に移動する。(写真32)は和館南庭を通り、西側に建つ洋館の玄関から入って直ぐ左手にある螺旋階段を二階から撮ったものである。

     
    (写真33)

     
    (写真34)

     (写真33)は洋館二階の部屋の入口周辺で、この部屋にも多くの展示物がある。(写真34)は(写真33)のコーナー部に見られる雛飾りである。

     
    (写真35)

     
    (写真36)

     この雛飾りの両側の壁に掛けられているのはいずれも櫻谷の作品で、右側の(写真35)は「葉鶏頭に猫」、左側の(写真36)は「菜園に猫」の絵である。

     
    (写真37)

     (写真37)は北側窓の傍に並んだ椅子の上に飾られた立雛(右の二つ)と次郎左衛門雛(左端)である。

     
    (写真38)

     (写真38)は西側戸袋の上に飾られた雛飾りとその後方の壁に掛けられた伊藤若冲の「山水画」(右側)並びに与謝蕪村の「団扇」(左側)の絵である。

     
    (写真39)

     (写真39)は現物は残っていないが「まぼろしの優品」とされる数々の櫻谷作品の写真である。

     
    (写真40)

     (写真40)は洋館2階北側の窓から見た敷地北側で、敷地の一部を洛星中学・高校がテニスコートとして使用しており、その向こう側左手の立木の奥に見える建物が画室(アトリエ)である。

     
    (写真41)

     (写真41)は同じ部分の昔の写真で、画室の前は大きな池のある庭園であったことが分かる。

     
    (写真42)

     
    (写真43)

     (写真42)は現在の画室の玄関、(写真43)は画室の西側部分の外観である。画室は大正二年(1913)に建てられた瓦葺木造平屋建で、天井の高い80畳の大アトリエである。

     
    (写真44)

     
    (写真45)

     (写真44)は画室内部の東側で、床の間や電話室が見られ、ピアノも置かれている。(写真45)は同西側である。(2016.3.11.訪問)
     
    *Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B3%B6%E6%A1%9C%E8%B0%B7)より引用

     

    0696真如寺(Shinnyoji Temple)

    • 2016.04.06 Wednesday
    • 09:28

     真如寺(しんにょじ)は北区等持院北町、等持院の東方、六請神社の東隣にある臨済宗相国寺派の寺院で、山号は萬年山。鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)とともに大本山相国寺三山外塔頭の一つで、古くは五山十刹の十刹にも数えられていた。勧請開山・無学祖元(仏光国師)の弟子であった無外如大尼(むがいにょだいに)が、師の没年の弘安九年(1286)に、遺髪や爪を祀るためにこの地に「正脈庵(しょうみゃくあん)」を開いたのが始まりである。無学祖元の法を継ぐ夢窓疎石(夢窓国師)が、足利初代将軍尊氏の執権・高師直(こうのもろなお)の外護を受けて大伽藍を整え、以後室町幕府の手厚い保護を受けた。

     明暦二年(1656)に後水尾上皇によって再興された法堂(仏殿)「大雄殿」には、中二階風の須弥壇があり、仙洞御所から寄進された宝冠釈迦如来像を安置している。また客殿には、原在中筆の襖絵「西湖図」「四季花卉図」が残る。

     大正七年(1918)に新たな鎮守として「半僧坊大権現」を相国寺山内より境内に移し、現在に至る。

     
    (写真1)
     

     (写真1)は鉄の扉がついた南門で、門柱にはそれぞれ「萬年山」と「真如寺」と刻まれた寺札が埋め込まれ、門を入った左手には「奥山半僧坊大権現」の石標が立っている。

     
    (写真2)
     

     (写真2)は門柱の左(西)側に掲げられた「50回記念京の冬の旅 特別公開」の看板である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真3)は南門から山門までの参道、(写真4)は山門で、山門の前には堀があり杜若が植えられている。

     
    (写真5)
     

     (写真5)は山門を入ってからの参道で、正面奥に見えるのが法堂である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)
     

     (写真6、7)は法堂、(写真8)は法堂前庭にある七重塔で、法堂には「大雄殿」の扁額が掛かっている。法堂内部は撮影禁止である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)
     

     (写真9〜11)は法堂手前の参道左(西)側に建つ圓通殿で、半僧坊大権現が祀られている。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)
     

     (写真1214)は境内西側にある2つの鎮守社で、「正一位稲荷大明神」の幟が立っている。

     
    (写真15)

     
    (写真16)
     

     (写真15)は境内東側にある客殿とその玄関、(写真16)は客殿南の庭園側から入る中門である。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)
     

     (写真17)は中門から見た客殿と南庭園、(写真1819)は客殿南庭園で、牛塔や待合等も見られる。なお、客殿内部も撮影禁止となっている。

     
    (写真20)
     

     (写真20)は拝観券にある客殿襖絵の「西湖図」(原在中筆)である。(2016.2.26.訪問)
     

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