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    0709白龍園(Hakuryuen Garden)

    • 2017.02.03 Friday
    • 20:46

     白龍園(はくりゅうえん)は叡山電車二ノ瀬駅の改札を出て階段を下り、真っ直ぐ歩いて突き当たりの鞍馬街道を右手の出町柳方向に5分ほど歩いた左京区鞍馬二ノ瀬町にある知る人ぞ知る日本庭園である。春と秋の一定期間(2016年は3月26日〜5月31日と10月29日〜12月4日)しか公開されず、公開期間中も一日100人限定で、しかも観覧券は当日叡山電車出町柳駅で一人1枚しか購入出来ない。それだけに、観光バスで押し寄せる団体客はなく、混雑もなしにゆっくりと庭園のよさを堪能出来る。観覧時間は春は10時から14時(受付は13時30分まで)で何日か休園日があり、秋は10時から13時30分(受付は13時まで)で、春、秋共に雨天の場合は休園となる。

     白龍園のパンフレットによると、この庭園の造られた場所は安養寺山ともつつじ山とも呼ばれる山の麓で、この山は昔から霊域とされ、不老長寿の白髪白髭の翁と白蛇が祭神として尊崇されていたが、いつしか熊笹と竹藪に覆われた荒れ地となっていた。昭和三十七年(1962)にこの地一帯を手に入れた故青野正一氏(青野株式会社の創業者)は、この地に伝わる歴史伝説と信仰を知り、この地に宿る史実と無数の魂を思い、祭壇の復元、整地と開発を決心したという。そして、その生涯をかけ山を蘇らせ、現在の白龍園の原型を完成させた。その想いは引き継がれて進化を遂げ、今日の白龍園となっている。

     昭和三十八年(1963)に開山されたこの庭園は、最初に山の祭神である「白髭大神(不老長寿)」と「八大龍王(商売繁盛)」を祀る祠と大鳥居が建てられ、霊域を守る神社を形成したことから、祭神の二文字をとって「白龍園」と名付けられた。

     白龍園一帯は、史実に明記されている安養寺跡で、様々な伝説が残されている。悲劇の皇族惟喬親王(これたかしんのう)が隠棲された場所で、源義経の隠れ家があったとか、小野小町のあいびきの屋敷があったとかの伝説も伝わっている。安養寺跡の大地を整理していた際に、土中から石垣や石段跡と共に、古代の土器類や槍の穂先、刀剣の鉄片等が50点近く発見された。調査したところ、約1千年前の平安中期に岩倉地方で造られた須恵器や武器であったことが判明している。

     園内には山奥の僧正ケ谷を水源とする川が流れ、それぞれ異なる見晴らしが楽しめる場所に五つの東屋が建てられている。山の整地から石の段組み、東屋や橋の建設まで、初代社長をはじめ社員家族と地元の手伝い衆が力を合わせて施行していった。重機の入ることが出来ない道なき道を切り開き、石を担いで運び上げ、ひとつひとつ人の手により造り上げられただけに、独特の風情がある。

     

     (写真1)*

     

     (写真1)はパンフレットに掲載された園内の案内図と拝観順路である。

     

     (写真2)

     

     (写真2)は鞍馬街道に面した庭園入口で、「特別公開」の大きな立て看板が右手に立てられており、門を入った左手のテントに受付がある。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は受付を入って直ぐのところにある赤い毛氈を敷いた床几で、赤い傘も立てられている。

     

     (写真4)

     

     (写真4)はその直ぐ奥にある苔むした石段で、左手に「白龍園」と刻まれた大きな自然石があり、石段の中ほど右手に石の大灯籠が立っている。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真5、6)はこの石段を登り切った所から上に見える「彩雲亭」である。「彩雲亭」は白龍園を初代正一氏と共に造り上げた二代目功氏が建築した最も新しい東屋で、功氏が第二次世界大戦の学徒動員時の動乱の時を共に生き延びた同窓の仲間と白龍園に集まった記念に造られたことから、戦時中に軍需工場で自ら造った小型戦闘機の名前「彩雲」に由来して名付けられた。

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真9)

     

     (写真7、8)は「彩雲亭」の南側に建つ「鶯亭」で、その南側は広場になっており、東側には池が造られている。(写真9)は広場にある床几で、ここでも休憩が出来る。

     

     (写真10)

     

     (写真10)は「鶯亭」の手前東側にある百発百中の石碑である。この石碑は明治大正期の海軍軍人、東郷元帥が舞鶴の軍港へ向かう途中、二ノ瀬村で猪狩りを行い、泊まった農家への礼として軸にして送られた「百発百中」の書を写したもので、砲弾をイメージした石は、三年がかりで探されたものといわれている。

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真11)は「鶯亭」のある広場の南端を西側に降りた、寺谷川の流れに近い台地の西端にある「清風亭」である。(写真12)はその南側の山の中腹に祀られている「三原大神」への道の入口にある石碑である。後方には叡山電車の走っているのが見える。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     白龍園は苔の美しいことでも知られるが、特に「清風亭」の周辺はいろいろな苔が目を引く。(写真13〜15)はその苔を撮ったものである。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真16、17)は「鶯亭」の前の広場南端にある茶室風の「龍吟亭」、(写真18)はその内部で、庭園内で最も眺めのよい場所とされている。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     この「龍吟亭」の左(東)側に赤い鳥居があり(写真19)、ここから東が白龍神社への参道となっている。

    (写真20)は参道の一番奥にある太鼓橋、(写真21)はその手前左(北)側にある鳥居である。鳥居には「白髭大神、八大龍王」と書かれた扁額が掛かり、その奥に注連縄をした二本の木が見える。この二本の木の根元に「白髭大神」と「八大龍王」の二つの小さな祠が祀られているが、ここだけは撮影禁止となっている。

     

     (写真22)

     

     この鳥居の手前に北に向かって登って行く階段があり、そこを登って山腹に沿って歩いて西方向に戻って行くと、「福寿亭」が建っている。(写真22)は階段を登ったあたりに自生しているスギゴケに似たシダの一種、ヒカゲノカズラである。

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真23、24)は「福寿亭」で、内部には「石徳五訓」の額(写真25)が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真27)

     

     (写真26)は「福寿亭」から眺めた西方の山々、(写真27)は「福寿亭」から「龍吟亭」へ降りてくる石段で、左手に「安養寺跡」の石碑が立っているのが見える。

     

     (写真28)

     

     (写真28)は鞍馬街道をはさんで白龍園入口の門の向かい側にある休憩処「河鹿荘」で、中に入ってでも前庭の床几に座ってでも、抹茶やぜんざい等で疲れを癒すことが出来る。(2016.11.30訪問)

     

    *白龍園パンフレットより引用

     

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