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    0706地蔵院(椿寺)(Jizoin Temple/Tsubaki-dera Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 22:46

     地蔵院(じぞういん)は通称椿寺(つばきでら)と呼ばれ、北区一条通西大路東入大将軍川端町にある浄土宗知恩院の末寺である。山号は昆陽山(こんようざん)、本尊は五劫思惟阿弥陀如来である。

     奈良時代中期の神亀(じんき)三年(726)、聖武天皇の勅願により、行基(ぎょうき)が、摂津国の昆陽池(こやのいけ)のほとりに建立した地蔵院が始まりで、平安時代に衣笠山の南山麓に移され七堂伽藍が整備された。
     南北朝時代末期の元中八年/明徳二年(1391)、内野の合戦の戦災で、すべて焼失したが、 室町時代初期に足利義満が、金閣寺建立の余財で仮堂を建て、地蔵菩薩を祀り再建した。
     桃山時代の天正十七年(1589)、豊臣秀吉の命によって現在地に移され、江戸時代初期の寛文十一年(1671)に善曳和尚により、八宗兼学から浄土宗に改められ、知恩院の末寺となった。

     地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。

     書院の前庭には、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢百二十年の二世が本堂前に花を咲かせている。薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが一枚ずつ散るのを特徴とする。境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師に当たる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所である。

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真1、2)は一条通に面した山門、(写真3)は山門左手前の道路脇に三本並んで立つ石標で、道路側から順に「洛陽三十番地蔵院」、「夜半亭巴人墓所」、「義商天野屋利兵衛之墓 豊公愛樹五色八重散椿 此寺にあり」と刻まれている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真4)は山門を入ったところから撮った境内で、正面奥にあるのが地蔵堂、右手前の生け垣の中、本堂前庭にあるのが有名な「五色八重散椿」である(写真5、6)。加藤清正が、文禄の役の朝鮮出兵の際に蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰り、豊臣秀吉に献上し、北野大茶会の際に、秀吉が地蔵院に寄進したものといわれている。但し、初代の樹は昭和五十八年(1983)の春に樹齢約400年にて枯死し、現在あるのは、樹齢約120年の二世である。一木で、白色、ピンク、紅色、絞りなどに咲き分け、普通の椿は花ごと落下するが、この椿は、色とりどりの花びらが一片一片散る。3月下旬から4月中旬が見頃という。

     

     (写真7)

     

     (写真7)は五色八重散椿の西側後方にある本堂で「地蔵院」の扁額が掛かっている。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は本堂の右(北)側、山門を入って直ぐ右(西)側にある庫裏である。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は正面奥の地蔵堂で、行基の作といわれる元の本尊「地蔵菩薩」が祀られている。「鍬形(くわがた)地蔵」、「木納屋(このや)地蔵」とも称され、洛陽四十八地蔵願所の第十二番札所になっている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は地蔵堂手前右(西)側にある手水舎、(写真11)はその左手にある観音堂である。

     

     (写真12)

     

     (写真13)

     

     また、(写真12)は観音堂の前に安置されている賓頭盧尊者、(写真13)は十一面観音菩薩立像のお前立ちである。背後の厨子に祀られている十一面観音菩薩立像は、一木造丈五尺三寸、平安時代前期慈覚大師円仁の作といわれており、脇侍に、雨宝童子と春日龍神が安置されている。但し、開帳されるのは1月元旦から3日、春秋両彼岸中、地蔵盆の82324日だけである。洛陽三十三所観音巡礼第三十番札所である。

     

     (写真14)

     

     (写真14)は境内にある三つの社で右から順に鎮守社、椿大神、辨財天である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真1516)はやはり境内にある小さな地蔵堂で、(写真15)には世継地蔵尊の提灯が掛かっている。

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1718)は天野屋利兵衛の墓である。忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)は、赤穂浪士の討入りを陰で支え、晩年、地蔵院に隠棲し、剃髪して浪士らの冥福を祈ったといわれている。討入りのあった1214日には、天野屋利兵衛の木像が公開される。

     

     (写真19)

     

     (写真19)は夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓である。夜半亭巴人は江戸時代初期の俳人で、与謝野蕪村(よさのぶそん)の師 早野巴人(はやのはじん)のことである。

     

     (写真20)

     

     (写真20)は切支丹の墓で、長い間手水鉢として使われていたものが墓と分かり、当寺に納められたといわれている。(2016.2.26.7.22訪問)

     

    0705建仁寺正伝永源院(Shoden Eigen-in Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 10:23

     正伝永源院(しょうでんえいげんいん)は、大本山建仁寺の北部にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭の一つで、建仁寺第三十九世無涯仁浩(むがいにんこう)が創建した。もと永源庵と称したが、明治六年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、のち「永源」の名を受け継ぎ現在の院名正伝永源院に改めた。

     釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、表門の左手に織田有楽斎や近親者の墓がある。寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。

     有楽斎は、織田信長の弟で本名を長益(ながます)といい、茶人として有楽斎という号を使っていた。信長の死後は剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。晩年は祇園花見小路四条下ルに正伝院を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが、元和七年(1621)に七十五歳で亡くなった。

     有名な国宝茶室如庵(じょあん)は、有楽斎がそこで丹精込めて完成させた。現在は所有が変わり愛知県犬山市に移転しているが、平成八年(1996)には、ゆかりの寺である当院に如庵が復元された。

     有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和三十七年(1962)秋、有楽斎夫人、息女そして孫の織田長好(ながよし)の三基と共にここに移された。現在も各地に有楽流の茶道が受け継がれている。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は正伝永源院の築地塀で、特別拝観の看板が立てかけられている。看板の写真は客殿室中の間にある狩野山楽筆の蓮鷺図(れんろず)襖絵である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)は山門で、右手手前に設けられた小屋は特別拝観の案内所である。

     

     (写真4)

     

     (写真4)は山門手前右手にある駒札横のコーナー部にある「有楽流祖 如庵織田有楽斎墓所」の石標である。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真5)は山門正面奥の庫裏と玄関、(写真6)は鎮守社、(写真7)は鐘楼である。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は山門を入って左(南)側にある中門で、ここをくぐると墓が沢山並んでいる。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真9、10)中門を入って直ぐ右(西)側にある織田有楽斎と一族のお墓である。昭和三十七年(1962)秋、(写真9)の織田有楽斎(右側)と正室 雲仙院(左側)、(写真10)の織田頼長(次男)の長男 織田長好(右側)と織田頼長 娘・一条昭良正室(左側)のお墓が、旧正伝院の地から現在の地に移された。織田有楽斎のお墓には「正伝院殿如庵有楽大居士」とある。江戸時代初期の制作で、花崗岩製、切石、基礎は単弁反花、露盤宝珠がのっている。

     

     (写真11)

     

     (写真11)は参道をはさんで織田有楽斎の墓の向かい側にある細川家歴代のお墓で、これも旧正伝院の地から移されてきている。左手前の石に「細川石」と刻まれているのが見える。

     

     (写真12)

     

     (写真12)はその右(南)側に隣接する福島正則とその家臣のお墓である。賤ヶ岳の七本槍の一人である福島正則は、永源庵に住んでいたことがあるといわれており、その父親 福島正信のお墓もある。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     (写真13)は方丈に通じる唐門、(写真14)は方丈で、中央には「正伝院」、「永源庵」二つの扁額が並べて掛けられている(写真15)。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1617)は方丈の杉戸絵、(写真18)は福島正則が寄進したといわれる朝鮮鐘である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真192021)は方丈南庭園をそれぞれ東側、中央、西側から撮ったものである。池泉式庭園で池には石橋が架けられ、築山には五重石塔が建てられている。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真2223)は方丈南庭園の西端に造られた茶室「如庵」の写しである。織田有楽斎が旧正伝院に建立し、現在は有楽苑(愛知県)に移築された茶室「如庵」(国宝)が「写し」として復元・建立されたもので、「鱗板(うろこいた)」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴がある。「如庵」の扁額は、旧肥後熊本藩藩主 細川家第十七代当主 細川護貞の揮毫による。

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真2425)は方丈西庭園で蹲踞がある。(2014.3.15.訪問)

     

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