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- 2019.05.01 Wednesday
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大中院(だいちゅういん)は花見小路通を南に突き当たったところ、建仁寺北門の手前東側の角にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭寺院である。南北朝時代の康永年間(1342-1344)、建仁寺二十七世・東海竺源(とうかいじくげん)の塔所になった。
室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃し、天文二十一年(1552)に焼失した。
江戸時代の承応年間(1652-1655)、臨済宗の僧・雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、現在の本堂、庫裏などが建てられた。
文化年中(1804-1818)、臨済宗の僧・景和竺応、全室慈保(ぜんしつじほ)らが堂宇を再建し、霊洞院より移築した。
書院の西にある茶室「燕舞軒(えんぶけん)」は、宝暦年間(1751-1763)に建てられたとみられており、三畳中板台目幅洞床。庵号は陶淵明(365-427)の詩句「燕舞春日長」より採られた*。通常は非公開で、内部の拝観は出来ない。
(写真1)
(写真1)は花見小路通から見た大中院で、右手に山門、左手に見えているのが庫裏である。
(写真2)
(写真3)
(写真2、3)は西向きの山門で、「大中院」の寺札が掛かっている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は山門正面の参道と前庭、(写真5)は山門を入った左(北)側にある庫裏である。(2016.7.29訪問)
*京都寺社案内(http://www.kyotofukoh.jp/report1548.html)
久昌院(きゅうしょういん)は建仁寺境内、三門の西側にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。江戸時代の慶長十三年(1608)、徳川家康の重臣奥平信昌(おくだいらのぶまさ)とその四男松平忠明(まつだいらただあきら)の寄進により、三江紹益(さんこうじょうえき)を開基として創建された。奥平家の菩提寺であり、信昌の戒名から久昌院と名付けられた。墓地には信昌夫妻の霊屋の他鎌倉時代−南北朝時代の臨済宗の僧・雪村友梅(せっそんゆうばい、1290〜1347)や同時代の武将・赤松則村(あかまつのりむら、1277〜1350)〔法名:円心〕の墓もある。通常は非公開で拝観謝絶となっており、内部を見ることは出来ない。
(写真1)
(写真1)は東向きの山門で、「久昌院」の寺札が掛かっている。
(写真2)
(写真3)
(写真2、3)はそれぞれ山門から方丈のある左手と庫裏のある正面を撮ったものである。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は唐門のある方丈玄関、(写真5)は庫裏とその玄関である。
(写真6)
(写真7)
(写真6)は山門を入った右手にある豊川稲荷神社、(写真7)は同左手にある鐘楼である。(2015.3.13、2016.7.29.訪問)
霊源院(れいげんいん)は建仁寺境内の南東にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。室町時代の応永年間(1394〜1428)初期、両足院(0008参照)開基・龍山徳見(りゅうさんとくけん)和尚を勧請開山として、その弟子である一庵一麟(いちあんいちりん)によって創建された。鎌倉時代末期から室町時代にかけ、京都五山と鎌倉五山の禅僧たちによって栄えた漢文学・五山文学の最高峰とされた寺院の一つで、「建仁寺の学問面」の中核となっていた。
天文年間(1532-1555)に焼失したが、安土・桃山時代〜江戸時代の慶長年間(1596-1615)、柳沢堅物により再建されている。明治五年(1872)、旧地を窮民産業所(祇園町南)敷地に譲り、現在地(塔頭・妙喜庵跡)に移った。
本堂では建仁寺塔頭妙喜庵の開山住職であった中巌圓月(ちゅうがんえんげつ)坐像(重要文化財)と、その胎内秘仏である毘沙門天立像などを拝観することができるが、内部は撮影禁止である。
また、本堂内には二つの茶室がある。茶室「也足軒(やそくけん)」は、大正元年(1912)に建てられた。四畳半、二畳台目で、本堂内に躙口が南面してある珍しい構造である。
本堂南にもう一つの茶室「妙喜庵(みょうきあん)」がある。一畳台目の小さい茶室で、壁の一面に花頭窓が開けられている。
方丈の南と西に枯山水式庭園「甘露庭(かんろてい)」がある。苔地に、石、飛石、蹲踞が配され、花梨、松、甘茶などの植栽がある。
(写真1)
(写真1)は山門で、毘沙門天の幟と共に、右手には特別公開の看板が立てられている。
(写真2)
(写真2)はその看板で、写真の毘沙門天像は左手に水晶の玉を掲げており、その中には最澄が持ち帰ったといわれる仏舎利が収められている。
(写真3)
(写真3)は山門を入った正面の玄関で、「妙喜世界」と書かれた扁額が掛かっている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は玄関前庭で、石の上に布袋像が置かれている。(写真5)は玄関に向かって左(北)側の庫裡である。
(写真6)
(写真7)
(写真8)
(写真6〜8)は方丈庭園「甘露庭」である。
(写真9)
(写真10)
(写真9、10)は庭園に置かれた人形で、その表情が見ている者の心を和ませる。(2015.3.13.訪問)
大統院(だいとういん)は、建仁寺の塔頭一つで、建仁寺の南東の隅にたち、別格地とされる。古澗慈稽(こかんじけい)や日政(にっせい)など、名僧を輩出したことで知られる。
南北朝時代、夢窓疎石の弟子で、建仁寺夢想派の建仁寺四十三代住持 青山慈永仏観禅師(せいざんじえいぶっかんぜんじ)によって創建されたといわれる。
天文五年(1536)、延暦寺の衆徒が、法華宗の洛中21ヶ寺本山を襲った天文法華の乱により焼失。江戸時代初期、古澗慈稽禅師のとき、禅師に帰依した長谷川守尚(大統院殿虎峯宗降居士)の発願により再建が始まった。
寛永十四年(1637)、住持 九厳中達禅師に帰依した長谷川守尚の子 長谷川正尚により再建が完成した。その頃、儒者 林羅山(1583〜1657)が寓居していたといわれている。
大正十三年(1924)、表門と唐門を残して焼失したが、昭和五年(1930)、本堂のみが再建された。昭和三十年(1955)に復興が始まり、平成二十一年(2009)に本堂前庭が完成したことで復興が完成した。
(写真1)
(写真1)は建仁寺(0700参照)境内南端の道を東に入って行く大統院の参道で、突き当たりに山門がある。
(写真2)
(写真2)は山門で、通常は非公開であるが、訪問した時は、左手前方に「平成二十七年度秋期特別公開」の看板が立てられ、公開されていた。
(写真3)
(写真4)
(写真5)
(写真3〜5)は山門を入ってから本堂までの参道で、正面奥に見えるのが本堂、左手は庫裡である。
(写真6)
(写真7)
(写真6、7)は参道左(北)側の庫裡である。
(写真8)
(写真8)は唐門で本堂への玄関口となっており、特別公開の受付がある。
(写真9)
(写真9)は本堂で、内部には円山応挙筆の「幽霊画」、円山派鈴木松年筆の「骸骨之図」、独特のユーモラスな画風で知られる白隠慧鶴筆の「蛤蜊観音図」、江戸時代末期の陶芸家 奥田頴川(おくだえいせん)作の「赤絵十二支四神鏡文皿(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)」等の寺宝が展示公開されていたが、写真撮影は禁止であった。
(写真10)
(写真11)
(写真12)
(写真10〜12)は本堂南側にある市松模様の庭を西、中央、東と順に撮ったもので、ツツジの築山を背景に、格子状に白砂と苔が置かれている。平成二十一年(2009)北山安夫の作庭によるもので、建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されている。
(写真13)
(写真14)
(写真13、14)は北西の角から撮った「耕雲庭」である。
(写真15)
(写真16)
(写真15)は北庭、(写真16)は西庭である。(2015.11.6.訪問)