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    0700建仁寺(Kenninji Temple)

    • 2016.07.30 Saturday
    • 21:34

     建仁寺(けんにんじ)は大和大路通四条下ル小松町にある臨済宗建仁寺派の大本山寺院で、山号は東山(とうざん)。日本最古の禅寺で、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂塔(やさかのとう)」のある法観寺は建仁寺の末寺になる。「建仁寺の学問面(がくもんづら)」と称され、詩文芸術に秀でた禅僧を輩出し、「五山文学」と称される文芸を作り出した。

     鎌倉時代の建仁二年(1202)、鎌倉幕府二代将軍 源頼家(開基)の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として創建され、土御門天皇の勅願寺となって、年号から寺号を賜った。

    元久二年(1205)、中国 宋の百丈山(ひゃくじょうざん)(江西省)に似せて諸堂が建立された。開山は、日本の禅宗の開祖とされる栄西禅師。当時の京都では、天台宗、真言宗の既存宗派の勢力が強大だったことで、天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学としたが、第十世の聖一国師 円爾弁円(えんにべんねん)、第十一世の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を経て純粋な禅寺として確立した。

    栄西禅師は寺伝では「ようさい」であるが、一般的には「えいさい」と慣用される。永治元年(1141)、備中(岡山)吉備津宮の社家の生まれ、14歳で比叡山に登り、天台密教を修めたのち、二度の入宋(現中国)求法を果たし日本へ最初の禅を伝えた。中国から将来した茶種による茶の栽培やお茶の効用を説いた。『喫茶養生記』を著すなど現在にまで至る日本のお茶文化の礎を開いた「茶祖」として親しまれている。開山降誕会には禅院茶礼の古式にのっとり、「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」が行われる。建保三年(1215)示寂、75歳。
     栄西禅師が宋からの帰路に暴風雨に襲われたときに、えびす神が現われ、船に祀ると、たちまち暴風雨が静まったといわれ、栄西禅師が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守として山内にえびす神を祀り恵美須神社(0698参照)を創建した。
     建仁寺は、元中三年/至徳三年(1386)、京都五山の第三位となったが、天文二十一年(1552) に細川晴元一党が火を五条に放ったため類焼し、伽藍のほとんどを焼失した。その後、天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉により寺領が寄進され、後の大名 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、自分の住持していた安芸安国寺から文明十九年(1487)建造の方丈を移築し、復興された。

    明治五年(1872)には、西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として80日間の京都博覧会が開催されている。展示品は約2,500点、入場者は3万人を越え、外国人も約1,000人が入場した。

    建仁寺の伽藍は、最盛期には、塔頭約60ほどあったが、応仁の乱による焼失の他、たびたびの火災で、創建当時の建物は残っていない。現在の建物の多くは、江戸時代以降に復興されたもの。約22,000坪 塔頭14ヶ寺。

    寺宝として、俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屏風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲龍図」など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。

     

     (写真1)*

     

     (写真2)**

     

     (写真1、2)は建仁寺公式HPに掲載されている境内図と拝観案内図である。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は勅使門(重要文化財)で、建仁寺の南側正面、八坂通に面した銅板葺切妻の四脚門である。平教盛(あるいは平重盛)の館門を応仁の乱後に移築したものといわれているが定かではない。鎌倉時代後期の唐様建築の遺構で、簡素で大らかな建築である。柱や扉に矢の痕跡があり、「矢根門(やのねもん)」「矢立門(やたちもん)」と称される。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は花見小路通の南端にある北門、(写真5)は大和大路通に面した西門で、いずれの門も右手前に「臨済宗大本山 建仁寺」の大きな石標が立っている。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6)は勅使門正面の放生池に架かる石橋と三門、(写真7、8)は三門(空門、無相門、無作門の三解脱門)で、「望闕楼」(ぼうけつろう)(「御所を望む楼閣」という意味)と名付けられている。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は三門に掛かる「望闕楼」の扁額で、第四世竹田黙雷(宗淵)筆。軒丸瓦には「建仁」の字が読み取れる。大正十二年(1923)に安寧寺(静岡県浜松市)から移築したもので、江戸時代末期の建築である。楼上には、釈迦如来、迦葉尊者・阿難尊者、十六羅漢が安置されている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は法堂(はっとう)である。五間四間一重裳階付の禅宗様仏殿建築で、明和二年(1765)に徳川幕府の帰依を受けて建立されている。正面須弥檀には、本尊 釈迦如来坐像と、脇待 迦葉尊者・阿難尊者が祀られている(写真11)。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねた建物で「拈華堂(ねんげどう)」と称される。

     

     (写真12)

     

     (写真12)は平成十四年(2002)に創建800年を記念して、小泉淳作により天井一杯に描かれた畳108枚分の雲龍図「大双龍図」である。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13、14)は法堂の北東部にある二つの鐘楼である。(写真13)は「陀羅尼の鐘」と呼ばれる東の鐘、(写真14)は西の鐘で、いずれも17世紀中頃に建立されている。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真15)は二つの鐘楼の北側にある庫裡への道脇に立てられた風神雷神図と雲龍図の看板、(写真16)は庫裡(本坊)、(写真17、18)はその左(西)側に隣接する玄関である。 

      本坊、方丈、法堂等内部を拝観するにはこの庫裡から入る。建仁寺では内部の写真撮影がすべてOKの大らかさがうれしい。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真19)は庫裡正面にある「大哉心乎(大いなるかな心や)」(「人のこころは本来自由で大らかである」の意)と栄西禅師『興禅護国論』の序にある言葉が書かれた衝立、(写真20)は入って直ぐの部屋に展示されている俵屋宗達の風神雷神図屏風(国宝)の高精細複製作品、(写真21)は金澤翔子書の「風神雷神」屏風である。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真22、23)は方丈(重要文化財)、(写真24)は方丈中央に掛けられた扁額である。
     方丈は桁行27.6m 梁間20.8mの単層入母屋造、銅板葺、玄関付属の大規模な典型的な禅宗方丈建築で、室中(しっちゅう)(中央の部屋)の前面は、中央双折桟唐戸(ふたつおりさんからど)、両脇間の桟唐戸付真室(室中の奥)は、浅く前後に区切られ、前方を仏壇、後方を二室に区分される。

     

     (写真25)

     

     (写真25)は室中内部で、中央右手に大きな栄西禅師の頂相が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真26)は東福門院によって寄進された本尊の十一面観音菩薩像である。

     

     (写真27)

     

     (写真28)

     

     (写真29)

     

     方丈には、室中の他、礼の間、檀那の間、衣鉢の間、仏間、書院の間と六つの部屋があり、それぞれに襖絵が描かれている。(写真27、28、29)はその一部で、それぞれ海北友松筆「雲龍図」、海北友松筆「琴棋書画図」(重要文化財)、海北友松筆「花鳥図」である。

     

     (写真30)

     

     (写真31)

     

     (写真30、31)は方丈前庭「大雄苑(だいおうえん)」をそれぞれ東端と西端から撮ったものである。白砂と緑苔に巨岩を配した枯山水庭園で、前方の法堂を借景としている。小川治兵衛の作で、中国の百丈山(ひゃくじょうざん)から名付けられたといわれる。

     

     (写真32)

     

     (写真33)

     

     (写真32)は(写真31)に見える花頭窓の後方、玄関脇(西側)にある唐門を外側から撮ったもの、(写真33)はこの花頭窓から見た大雄苑である。

     

     (写真34)

     

     (写真35)

     

     (写真36)

     

     また、(写真34、35)は方丈から法堂への通路、(写真36)は方丈正面の勅使門である。

     

     (写真37)

     

     (写真38)

     

     (写真37、38)は方丈西庭で、前庭西南隅に相当する後方の木の茂みの中に見える七重の石塔は、織田有楽斎(おだゆうらくさい)が、兄 織田信長の追善のために建てた供養塔である。

     茶室を拝観するためには方丈西庭の北端からスリッパを履いて庭に出る。

     

     (写真39)

     

     (写真39)は茶室に向かう道の左(西)側にある田村月樵遺愛の大硯である。田村月樵は我が国洋画界の先覚者といわれるほどの油絵画家であったが、晩年油絵から遠ざかり、仏画のみに没頭した。この碑は、月樵が生前愛用した長さ三尺の大硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばって前進していく様子を彼自身が刻みつけたというものである。

     

     (写真40)

     

     (写真41)

     

     (写真40)は茶室「清凉軒」への露地入口、(写真41)は「清涼軒」で、抹茶席がある。

     

     (写真42)

     

     (写真43)

     

     (写真42、43)は茶室「東陽坊」をそれぞれ西側と北側から撮ったものである。この茶室は千利休の高弟の一人 真如堂長盛(ちょうせい)好みの草庵茶室で、豊臣秀吉の北野大茶会にて、紙屋川の土手に建てられた副席といわれている。

     

     (写真44)

     

     (写真45)

     

     (写真46)

     

     (写真44〜46)はその内部で、二帖台目の茶席、一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる。二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれている。

     

     (写真47)

     

     (写真48)


     (写真47)は茶室南側に置かれた豊臣秀吉遺愛の鳥帽子石、(写真48)は茶室近くの建仁寺垣で、4つ割り竹の表を外に密に縦に並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹を渡し、蕨縄(わらびなわ)で結んだ竹垣である。

     

     (写真49)

     

     (写真49)は「東陽坊」近くにある「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)首塚」である。 安国寺恵瓊は、安芸安国寺の持住となり、毛利家の外交僧として活躍。豊臣秀吉に伊予23,000石の大名に取り立てられ、建仁寺の方丈移築、東福寺の庫裡の再建などを行った。 慶長五年(1600)、関が原の戦いで西軍の最高首脳として暗躍したことで、六条河原で斬首にされ、建仁寺の僧が首を持ち帰り、方丈裏に葬られた。

     

     (写真50)

     

     (写真51)

     

     (写真52)

     

     茶室拝観後は再び方丈西側に戻り、方丈北庭に沿って大書院の方へ歩く。(写真50、51)は方丈北庭、(写真52)はその中にある「霊照堂(れいしょうどう)」(納骨堂)である。

     

     (写真53)

     

     (写真54)

     

     方丈北庭の東端にある廊下を北に向かうと、小書院と大書院があり、その間に中庭の「潮音庭」がある。(写真53、54)は四つの部屋からなる小書院で、床の間には菩提達磨尊者の軸が掛けられている。

     

     (写真55)

     

     (写真56)

     

     (写真57)

     

     大書院には「風神雷神図屏風」(複製)(写真55、56)や開山堂楼門「宝陀閣」の楼上に安置されている陶製十六羅漢像(写真57)が展示されている。

     

     (写真58)

     

     (写真59)

     

     (写真58、59)は大書院と小書院の間にある中庭「潮音庭」で、小堀泰厳老大師の作庭、北山安夫の監修によるものである。一文字型の手水鉢が置かれ、中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配された枯淡な四方正面の庭で、石組は、大きな渦潮の流れを表す。

     

     (写真60)

     

     (写真60)は小書院の南側にある「○△□乃庭」で、単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)、水(○)、火(△)で象徴したものともいわれる。奥の白砂部分が△、中央の植木と苔地、砂紋が○、手前の井筒が□を表す。
     以上で内部拝観を終え、庫裡正面の道を法堂を右(西)に見ながら北から南に向かう。

     

     (写真61)

     

     (写真61)は法堂南東部にある「桑の碑」で、栄西の『喫茶養生記』下巻には、桑の効用について書かれている。五種の病(飲水病、中風、不食、瘡病、脚気)には、諸仏菩薩の樹であるという桑の妙薬が効くとされている。

     

     (写真62)

     

     (写真63)

     

     (写真62、63)は桑の碑の南側にある栄西禅師「茶碑」である。茶祖 栄西禅師は、お茶の種子を持ち帰り、茶の栽培や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用を説いた『喫茶養生記』を著して日本のお茶文化の礎を開いた。

     

     (写真64)

     

     (写真64)は「茶碑」の東側にある「平成の茶苑」で、平成三年(1991)、茶祖 栄西禅師が中国 宋よりお茶の種子を持ち帰ってから800年を記念して、植樹栽培された覆い下茶園である。毎年5月10日頃に初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を、6月5日の開山忌に供えている。

     

     (写真65)

     

     (写真65)は茶碑の南側にある洗鉢池で大きな鯉が泳いでいる。

     

     (写真66)

     

     (写真67)

     

     (写真66、67)は洗鉢池の南東にある開山堂の「楼門(宝陀門、宝陀閣)」で、明治時代の1884年(1885年とも)に鳴滝・妙光寺の門を移築したものである。江戸時代中期に建立された楼閣造の3間1戸二重門で、両側に山廊がある。

     

     (写真68)

     

     (写真69)

     

     (写真68、69)は楼門の北側にある通用門(旧塔頭の山門)とそこから入った右手にある玄関で、以前は護国院(古くは興禅護国院)という名前の塔頭であった。内部には「客殿」、「経蔵」、「開山堂」がある。「開山堂」は、明治時代の1884年に建立されており、入母屋造、本瓦葺の礼堂(7間5間)、相の間、祠堂からなる。堂内には四半敷きのせん瓦が敷かれている。相の間に栄西の入定塔(墓所)があり、奥の祠堂に江戸時代慶派・左京法橋康乗作といわれる祖師像(1664)、脇壇に江戸時代(1752)作の開基・源頼家木像の束帯坐像、祖師塔銘を刻む碑が安置されている。「客殿」は、妙心寺玉龍院客殿を移築したもので、江戸時代中期に建立されている。客殿本尊は赤旃檀釈迦如来像。庭園には、栄西が宗から持ち帰ったという菩提樹の木がある。前庭に明全塔が立ち、道元が宋より持ち帰った師・明全の遺骨が納められている。

     

     (写真70)

     

     開山堂は通常非公開であるが、(写真70)は50回記念「京の冬の旅」で公開された時の看板である。公開時でも内部は撮影禁止となっている。

     

     (写真71)

     

     (写真72)

     

     (写真73)

     

     (写真71〜73)は開山堂楼門の南側前方にある楽神廟(らくじんびょう)である。栄西の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社に参詣した後、夢に明星を見て栄西を懐妊したという因縁により建仁寺境内に祀られたという。また楽大明神の本地仏は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)で、智慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があるといわれ、受験合格の菩薩として近年信仰を集めている。丑年生まれ、寅年生まれの守り本尊でもあり、毎年11月13日に大祭がある。

     

     (写真74)

     

     (写真74)は楽神廟の南側にある道元禅師修行の遺跡である。曹洞宗の高祖 道元禅師(1200-1253)は、建保元年(1213)比叡山で出家し、栄西禅師の高弟・明全に師事した。貞応二年(1223)、明全とともに宋に渡り、慶元府の景徳寺、天童如浄に就く。安貞元年(1227)頃帰国、再び建仁寺に入り、報恩の至誠を捧げ、寛喜三年(1231)山城深草に移住した。

     

     (写真75)

     

     (写真75)は道元禅師修行の遺跡の南側に建つ浴室である。浴室は七堂伽藍の一つで、 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)により建立されている。内部は、待合、浴室、土間(火炊場)に三分されており、湯気で身体を温める蒸し風呂であるが、禅寺では、入浴も修行の一つとして厳しい作法が細かく定められている。

     

     (写真76)

     

     (写真77)

     

     (写真76)は浴室の南側の道を東に向かって撮ったもので、二本の石柱の右側に「本派専門道場」と書かれた木札が掛かっており、この道を真っ直ぐ東に行くと左(北)側に建仁僧堂(霊洞院)がある(写真77)。(2014.3.15.、2016.7.22.、29.訪問)  

     

    * http://www.kenninji.jp/grounds/index.html より引用

    **http://www.kenninji.jp/grounds/map.html  より引用

     

    0699建仁寺禅居庵(摩利支尊天堂)(Zenkyoan Temple、Marishisonten-do)

    • 2016.07.05 Tuesday
    • 21:08

     禅居庵(ぜんきょあん)は摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)とも呼ばれる臨済宗建仁寺派の建仁寺塔頭で、建仁寺境内南西隅にある。建仁寺境内(東)からも八坂通(南)からも大和大路通(西)からも入れる。

    当庵の開山は清拙正澄(せいせつしょうちょう)(1274〜1339)禅師である。禅師は中国福建省福州に生まれ、月潭紹円禅師に就いて出家後、浄慈寺、霊隠寺、育王寺を辺参、愚極智慧禅師の法を嗣いだ。嘉歴元年(1326)、禅師の名声を聞いた海東の檀信が師を日本に招請し、これに応じて翌年来朝。上京後北条高時に迎えられ、鎌倉建長寺、浄智寺、円覚寺に住山。元弘三年(1333)、後醍醐天皇の招請により第二十三代住持として京都建仁寺に迎えられ、のち南禅寺にも住し、再び帰山後当庵に退居した。暦応二年(1339)正月、66歳で当庵にて遷化。
     禅師は常に摩利支尊天を祀り、入滅の地となった当庵摩利支天堂には、この摩利支尊天像が秘仏として680年近く祀られている。この堂宇は元弘年間(1331〜1333)に小笠原貞宗が創建したが、天文の兵火で焼失し、天文十六年(1547)に織田信長の父である織田信秀が建立したと伝えられている。創建時代の禅宗様仏殿の遺構が残されており、中世様式の貴重な建造物として、平成七年(1995)、京都府の文化財指定を受けている。

     摩利支尊天は猪を眷属(けんぞく)として従え、猪車に乗り、また七頭の猪に坐している。そのため、境内には猪の像が数多く見られる。

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真1、2)は建仁寺境内に面した東向きに建つ山門で、「禅居庵」の寺札が掛かっている。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は山門を入った正面で、禅居庵内部は非公開になっており、自由に入れる摩利支尊天堂へは、山門正面の参道中央から左手(南側)に曲がって行く。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4、5)はそれぞれ摩利支尊天堂へ行く参道右手(西側)にある庫裡と玄関である。

     

     (写真6)

     

     (写真6)は摩利支尊天堂の手水舎で、猪の口から水が出ている。

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真7)は摩利支尊天堂の右(東側)半分を撮ったものであるが、摩利支尊天堂の正面入口は八坂通に面した南門(写真8)である。南門前には「建仁寺禅居庵 開運摩利支尊天」の石標が立ち、門には「摩利支尊天」の赤い提灯が吊り下げられている。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真9)は南門を入ったところから撮った参道、(写真10)は参道正面奥にある摩利支尊天堂、(写真11)は「摩利支尊天」の扁額である。

     

     (写真12)

     

     (写真13)

     

     (写真12)は摩利支尊天堂近くにあるいのししの像、(写真13)は摩利支尊天堂を西側から撮ったもので、ここにも狛猪の片方が写っている。

     

     (写真14)

     

     (写真14)は大和大路通に面した西門で、冠木門になっており、門の前には狛猪と石燈籠が立ち、右手前方には通りに面して「建仁寺禅居庵 開運摩利支尊天」の石標が立っている。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真15)はこの門から入って直ぐ左手にある小松地蔵尊堂、(写真16)は摩利支尊天堂の西側にある三光威徳天堂、地蔵堂、荒熊大権現等を祀るお堂である。(2014.3.15.訪問)

     

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