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    0672南禅寺最勝院(Saishoin Temple)

    • 2015.12.17 Thursday
    • 16:36
     最勝院(さいしょういん)は、南禅寺の塔頭の一つで、レンガ造りの水路閣から琵琶湖疎水沿いの奥(東)に建つ臨済宗南禅寺派の寺院である。駒ケ瀧最勝院と呼ばれる。
     この辺り、境内背後の東山山峡は、鎌倉時代には「神仙佳境」と称され、最勝院駒道智大僧正の霊地として知られていたという。山門前参道の石段脇にある由緒書きには、次のように記されている。
     「駒道智大僧正は、今から七百数十年前、摂政関白九条道家の子に生れ、幼なくして比叡山に登り仏道修行の道に入り、天台密教の深奥を極めた人である。後三井寺の長更(管長)となり、更に当時天台密教の寺であった禅林寺の住持に移った。晩年世をいとい、この駒ヶ滝最勝院の地に穏棲するも、文永三年(1266)三月三日ついに秘密の法力により白馬にまたがり生身を天空にかくされたと伝えられている。それ以来滝を駒ヶ滝(これより奥約200m)僧正を駒大僧正といい、又院号をとって僧正をまつる寺を最勝院と呼ぶことになった。
     鎌倉時代末の文永年間、亀山天皇がこの下に離宮を建てられると、僧正を土地の鎮守として篤くまつられ、更に離宮を革めて禅寺を創建して南禅寺の基を開かれると、僧正は護法神としてまつられた。爾来七百年、南禅寺一山の崇敬はもとより、広く京都の人々の信仰の一中心となり、古来勝運の神として参詣者が跡を絶たない。
     当寺は即ち駒大僧正をまつった本堂であり、駒ヶ滝はその奥の院である。明治の末年迄はこの下の南禅寺寺務所の地にあり、「最勝院般若殿」と呼ばれていたが、大正六年(1917)夢想国師の塔所、上生院の故地である現在の地に移転したのである。 以上                           駒ヶ瀧本堂最勝院」

     
    (写真1)

     (写真1)は南禅院前の石段を降りた水路閣脇にある最勝院への道標で、「駒ヶ瀧不動尊最勝院」と石に刻まれ、東方向に矢印がついている。ここから水路閣に沿って東に登って行くと、水路が北にカーブするところに最勝院の入口がある。

     
    (写真2)

     (写真2)は最勝院の入口で左手に「駒ヶ瀧最勝院」と刻まれた石標と由緒書きが立っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門、(写真4)は山門を入ったところから見た境内で、正面奥に本堂があり、本堂手前右手に「縁結びの松」がある。

     
    (写真5)

     (写真5)は「縁結びの松」で、樹齢300年という百日紅の木に、樹齢100年という松の木が生えて一体化した珍しい木である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6)は本堂横の手水舎、(写真7)はその前から見た本堂で、手水舎と本堂の間には何体かの地蔵尊が祀られている。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8、9)は本堂で、「駒大僧正」の扁額が掛かっている。

     
    (写真10)

     (写真10)は本堂への参道左(北)側にある庫裏と玄関である。

     
    (写真11)

     (写真11)は手水舎の南側にある門で、入ったところに「奥の院、駒ヶ滝 二町」と指で指し示す石標が立っている。この門の前の道を200mほど登って行くと奥の院、駒ヶ滝がある。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真12)は奥の院への道、(写真13)は奥の院前の石段で、登り口に「左奥の院」「右瀧道」と刻まれた道標がある。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14)は石段を登り切った上にある奥の院の拝殿、(写真15)は拝殿後方の岩の上にある奥の院の祠で、駒道智大僧正が祀られている。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真16)は奥の院の右(南)側にある橋、(写真17)は橋から更に東の方を見たもので、後方に見える滝が駒ヶ滝(写真18)である。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真19)は滝の近くにある「秋葉一尺坊」の石像、(写真20)は浅い洞窟である。

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     洞窟の中には入口近くに将軍地蔵菩薩(写真21)、奥の方に大日如来と厳島弁財天(写真22)が祀られている。

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真23)は奥の院拝殿近くにある駒ヶ滝地蔵大菩薩、(写真24)は力彦大明神(左)と八釼大明神釼、飛車大明神、八ツ崎大明神(右)である。(2015.7.3.、9.11.訪問)
     
     

    0671妙満寺(Myomanji Temple)

    • 2015.12.16 Wednesday
    • 10:38
     妙満寺(みょうまんじ)は、幡枝御所(はたえだごしょ)(円通寺)の東北、岩倉幡枝にある日蓮宗京都十六本山の一つの寺院で、顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)の総本山でもあり、山号は妙塔山(みょうとうざん)。
    南北朝時代、天台宗比叡山の学頭だった玄妙上人が67歳のとき、故郷の会津で日蓮聖人の教えに触れ、日蓮宗に改宗し、日什大正師(にちじゅうだいしょうし)となった。康応元年(1389)、この日什大正師が、六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場とした。
     応永二年(1395)に焼失し、綾小路東洞院北東に移転したが、その後も応仁の乱など、何度か兵火で焼失し、その都度、洛中で移転して興隆していった。
     天文元年(1532)、後奈良天皇の勅願寺となったが、天文五年(1536)、天文法華の乱で比叡山の僧徒による焼き討ちにあい、泉州堺に逃れることになる。
     天文十一年(1542)、帰洛を許され、四条綾小路の間(下京区妙満寺町)に再建するも、天正十一年(1583)には豊臣秀吉の都市改造政策により、寺町二条に移転した。当時は、14の塔頭があったといわれている。
     昭和四十三年(1968)、「昭和の大遷堂」により寺町二条の喧騒と環境悪化を避けるため、現在の岩倉の地に移転した。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は山門、(写真2)は門前の参道で、山門前の道路に面して「総本山妙満寺」の石標が立ち、参道脇には12月6日(日)に行われる「妙満寺大根だき」の赤い幟が立ち並んでいる。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門、(写真4)は山門から見た境内で、山門の右側には「顕本法華宗」、左側には「妙塔學林」の木札が掛かっている。山門正面奥に本堂、右手に玄関と庫裏(寺務所)、本坊、左手に仏舎利大塔が見える。

     
    (写真5)

     (写真5)は山門を入って直ぐの右手にある境内案内図で、その下には有名な「雪の庭、安珍清姫の鐘」の表示もある。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真6)は北門、(写真7)は北門を入って左手の大書院と頌寿園、(写真8)は北門正面の「信行道場」である。北門周辺には桜園があり、枝垂桜や藤右衛門桜が植えられている。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9)は山門を入った右手にある手水舎、(写真10)は同左手にある鐘楼である。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真11)は本堂全景、(写真12)は近くから撮った本堂中央正面で、「妙塔山」の扁額が掛かっている。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13)は本堂手前右(北)側にある玄関、(写真14)はその西隣の庫裏(寺務所)、本坊で、入口の上に「方丈」の扁額が掛かっている。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真15)は玄関前にある「中川の井」、(写真16)はその横にある「五條大橋橋脚石」である。「中川の井」は、旧地の寺町二条の妙満寺境内にあった井筒で、、能阿弥の定めた「京都七名水」の一つに数えられていたが、妙満寺の移転に伴い石標も現在の地に移された。また、「五条大橋橋脚石」は、天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉の命により架けられた五條大橋の橋脚の一部で、摂津の国(現在の神戸市)から運ばれたものである。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真17)は本堂手前左(南)側にある仏舎利大塔、(写真18)はその建立由来である。この仏舎利大塔は、昭和四十八年(1973)に、仏教最高の聖跡とされるインド・ブッダガヤ大塔をかたどり、「釈迦牟尼仏の精神に帰れ」という妙満寺の教えの象徴として、全国檀信徒の写経浄財によって建立されたものである。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真19)はその一階正面、(写真20)はその内部で、釈迦牟尼仏坐像が安置されている。また、最上階には、古来より妙満寺に伝わる仏舎利をまつり、豊田佐吉以来の豊田家の遺骨をはじめとする全国多くの篤信家の遺骨も安置されている。

     
    (写真21)

     妙満寺の内部を拝観するには寺務所から入る。まず、左手(西側)にある本堂の内部を拝観する。(写真21)は寺務所から本堂への渡り廊下である。突き当たりを左に曲がると本堂に入れるが内部は撮影禁止となっている。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     次に一旦寺務所に戻り、東側の本坊(方丈)を拝観する。(写真22)は本坊の広縁南端から撮った方丈外観、(写真23)は手前(南側)の間から奥の間を見たところ、(写真24)は奥(北側)の間で、床の間と付書院がある。本坊の前方(東側)に広がるのが有名な「雪の庭」である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25)は本坊庭園南西隅に立つ「雪の庭」の石標、(写真26)はその由来を説明した駒札である。本坊庭園は「成就院 洛中雪月花三名園」の一つとされ、俳諧の祖 松永貞徳の作庭によるもので、比叡山を借景にした冠雪の眺望が最も美しく、「雪の庭」と称される。松永貞徳は、清水寺成就院に「月の庭」、北野成就院に「花の庭」(現存せず)を同時に作庭したといわれ、それぞれの坊「成就院」にあったことから、「成就院 雪月花三名園」と称される。成就院の住職 日如が、貞徳の門下だった縁によりこの「雪の庭」が造営された。昭和四十三年(1968)、妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそのままに移築し、本坊の庭として復興した。

     
    (写真27)

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     
    (写真30)

     (写真27、28)は本坊手前の間、(写真29、30)は奥の間からそれぞれ眺めた「雪の庭」である。

     
    (写真31)

     
    (写真32)

     
    (写真33)

     (写真31〜33)は広縁から撮った「雪の庭」で右(南)側、中央、左(北)側の順になっている。

     
    (写真34)

     
    (写真35)

     (写真34)は西南の隅近くから撮った「雪の庭」、(写真35)は本坊広縁の付書院前近くにある手水鉢である。

     
    (写真36)

     
    (写真37)

     
    (写真38)

     (写真36)は本坊から大書院、宝物展示室の方へ行く廊下、(写真37)はこの廊下の東側に見える大書院庭園を東端から撮ったもの、(写真38)は宝物展示室への入口である。この宝物展示室には有名な霊鐘「安珍(あんちん)・清姫(きよひめ)伝説の鐘」をはじめ、加藤清正や松永貞徳の肖像画等多くの寺宝が展示されているが、内部は撮影禁止となっている。
     
     「安珍・清姫伝説の鐘」にまつわる伝説は次のようなものである。
     平安時代中期の延長六年(928)、奥州白河(福井県白河市)の修験者 安珍(あんちん)が、熊野へ参詣する途中に、紀州 室郡真砂の庄司清次の屋敷に宿泊させてもらう。その時、庄司の娘 清姫(きよひめ)が、安珍に思いを寄せ、安珍は「熊野参詣の帰りに立ち寄る」と約束する。しかし、安珍が約束を守らず帰途についてしまったことを知った清姫は、激怒して安珍の後を追いかける。清姫は、怒りで日高川で蛇身となり、紀州 道成寺(どうじょうじ)の釣鐘の中に隠れている安珍を見つけ、炎を吐いて鐘を真赤に焼き、安珍を黒焦にして死なせ、自らも日高川に身を投じた。
     南北朝時代の正平十四年/延文四年(1359)、道成寺で、源万寿丸の寄進により、鐘が再鋳され、鐘供養が行われた。そこに一人の白拍子が現われ、舞いが終わると鐘が落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消した。その後、鐘の音が鈍くなり、悪病災厄などが相次いで起こり、清姫のたたりと恐れられたことから、鐘は山林の中に埋められた。
     安土桃山時代の天正十三年(1585)、豊臣秀吉の根来攻めの時、大将 仙石権兵衛が、この鐘を掘り起こし、合戦の時に合図に使う陣鐘として使い、そのまま京都に持ち帰った。 妙満寺 貫首日殷大僧正が、法華経による供養を行い、怨念を解かれた鐘は鳴音も美しくなり、霊鐘となったといわれている。

     
    (写真39)
     
     (写真39)は本堂への渡り廊下北側にある日什大師の霊廟で、「日什大正師御霊廟」の石標が立っている。

     
    (写真40)

     
    (写真41)

     (写真40)は本坊から信行道場までの西側に広がる墓地にある日蓮(右)と日什(左)の五輪塔、(写真41)は同墓地内にある劇作家 花登匡のお墓である。

     
    (写真42)

     
    (写真43)

     
    (写真44)

     
    (写真45)

     妙満寺には境内南東部に4つの塔頭がある。(写真42〜45)はそれらの塔頭を東から順に撮ったもので、それぞれ(写真42)は大慈院、(写真43)は法光院、(写真44)は正行院、(写真45)は成就院である。(2015.12.4.訪問)

     

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