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    0664本成寺(Honjoji Temple)

    • 2015.09.22 Tuesday
    • 07:49
     本成寺(ほんじょうじ)は勝念寺(0663参照)の向かい、丹波橋通新町西入北側、伏見区石屋町にある法華宗の寺院で、山号は妙滎山(みょうえいざん)。大本山本能寺の末寺である。天正十年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興、日逕(にちきょう)聖人によって、慶長二年(1597)に創建されたのが当寺である。  
     当初、現在の伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永十三年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移したものである。  
     本堂には、創建当初の本尊があり、また、地蔵堂には、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されている。この地蔵菩薩像は、もと伏見区三栖の薬師寺支配の大亀谷地蔵院にあったが、承応元年(1652)に隆閑寺学室に、更に明治三年(1870)当寺境内に移されたもので、古来「痰(たん)切り地蔵」として地域の信仰を集め、かつては縁日に夜店が出て賑ったとのことである。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は山門で、右手前に「南無妙法蓮華経 本成寺」の石標が立ち、門には「妙滎山」の扁額と「法華宗 本成寺」の寺札が掛かっている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3、4)は本堂で、唐破風となっている。

     
    (写真5)

     (写真5)は本堂左手(西側)の庫裏である。

     
    (写真6)

     (写真6)は本堂手前の右(東)側にある地蔵堂で、痰切り地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像が安置されている。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7、8)は地蔵堂右手前にある「妙滎水」の駒札と京都微生物研究所が平成二十六年(2014)に発行した「水質検査結果書」で、飲料水として問題ないことが証明されている。実際の妙滎水は駒札の後方、石灯籠の左手前に蛇口があって「妙栄水 ご自由にお汲み下さい」と書いた立て札が立っている。

     
    (写真9)

     (写真9)は地蔵堂の右(南)側にある池とその奥の本成寺歴代住職の墓で、日逕上人はじめ多くの上人の墓石が見られる。

     
    (写真10)

     (写真10)は境内に展示されている古瓦である。(2014.11.8.訪問)

     

    0663勝念寺(Shonenji Temple)

    • 2015.09.21 Monday
    • 11:48
     勝念寺(しょうねんじ)は丹波橋通新町西入南側、伏見区石屋町にあり、正式には安養山 往生院 勝念寺と号する浄土宗知恩院末の寺院である。織田信長が深く帰依した聖譽貞安上人によって、天正十五年(1587)に開創された。
     勝念寺の公式HPには、「天正十年(1582)、本能寺の変で信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃した。正親町天皇の勅命により、信長、信忠父子の菩提を弔うため、聖譽貞安上人に信忠自刃の地である御池御所を賜り、上人は信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創した。同時に、豊臣秀吉の城下町であるここ伏見丹波橋に布教の拠点とするべく一寺を開創したのが勝念寺である。
     安永七年(1779)、火災により本堂・庫裏と共に本尊・過去帳並びに貴重な文物も多く焼失してしまった。しかし山門・地蔵堂は離れていたために、幸い難を逃れ、織田信長より賜った釜敷地蔵尊、閻魔法王像自作霊像、他仏像や書物も今日に残り、焼失前の歴代住職の名も紙片に残されてた。因みに地蔵堂は土蔵造り二階建てとなっており、織田信長より賜った貴重な仏像などを保管する宝物庫となっていた。地蔵堂は、文禄四年(1595)創立と記されている。また、本堂・庫裏は安永九年(1781)に再建されたが、老朽化のため昭和五十三年(1978)に檀信徒の寄付により現本堂が再建されている。
     勝念寺は別名『かましきさん』、『かえる寺』、『萩の寺』、『えんまさんの寺』とも呼ばれている。」とある。

     (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は山門で、「浄土宗 勝念寺」の寺札が掛かり、左手前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」と「織田信長公賜 閻魔法王自作霊像 身代り釜敷地蔵尊」の標石が立っている。山門は閉じられているが、左隣の通用門から境内に入れる。(写真2)はその通用門である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門から本堂への参道と前庭、(写真4)は本堂で、参道脇にはいろいろな姿をした石の蛙が並び、本堂には「安養山」の扁額が掛かっている。また、境内には十数種、約百株の萩が植えられ、9月の萩の見頃には自由に萩を観賞できるよう「萩振る舞い」と称して寺内を開放している。

     
    (写真5)

     (写真5)は本堂左手前にある「子安延命地蔵菩薩」である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6)は本堂右(西)側にある玄関とその右(西)隣の庫裏、(写真7)は庫裏で、こちらにも沢山の石の蛙が並んでいる。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8、9)は山門近くの参道右(西)側にある地蔵堂で、手前には「釜敷地蔵尊」と「身代蛙 厄除釜」の石標がある。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真10)は地蔵堂正面の厄除釜、(写真11)は閻魔法王自作霊像、身代釜敷地蔵尊、金銅多羅観音菩薩等寺内にある仏像の写真、(写真12)は各種御朱印のサンプルである。(
    2014.11.8.訪問)
     
    http://kamasikisan.wix.com/syonenji

     

    0662金札宮(Kinsatsugu Shrine)

    • 2015.09.17 Thursday
    • 10:57
     金札宮(きんさつぐう)は、伏見区役所の北、大黒寺(0661参照)の筋向かい、伏見区鷹匠町にある神社で、祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)<白菊大明神>、天照大御神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)の三柱。伏見区では最も古い神社の一つで、旧久米村の産土神として崇敬されていた。
    創建の詳細は明らかでないが、金札宮の公式HPには「奈良時代の天平勝宝二年(750)長さ二丈におよぶ流れ星が降るという異変があり、孝謙天皇が深く憂慮されていた。この頃、伏見久米の里に翁が居て、白菊を植えて楽しんでいる所業が、いかにも奇妙なので、里人が翁に名前を問うたところ、「吾は、太玉命で天下の豊秋を喜び、年久しく秋ごとに白菊を賞でて来たり、もし干天で、稲が枯れる時には白菊の露を潅(そそ)がむ。」と、手に持った白菊を打ち振るうと、たちまちにして、清水が湧き出てきて尽きる事がない。翁が言うには、「人々一度この白菊に霑(うるお)えば、たちどころに福運が来て、家運は長く隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう。」里人はこの奇端に驚き天皇に奏上したところ天皇は事のほか喜ばれ『金札白菊大明神』の宸翰を里人に与えられたので、里人は力を合わせて社殿を造営したと記録されている。
     伏見(高天原より臥して見たる日本の事)に宮居建設中、突然金の札が降り、札には、永く伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてあった。何事かと人々が集まって来るうちに、虚空から声がして、『我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし』と、聞こえたという話になっている。
     またあるいは、清和天皇の御代、貞観年間(859〜876)に橘良基が阿波国より天太玉命を勧請したものとも伝えられている。」とある。
     なお、金札宮は、観阿弥作の謡曲「金札」の題材にもなっている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は鳥居、(写真2)は神門で、鳥居の右手には「金札宮」の大きな石標が立っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は拝殿、(写真4)はその内部である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は本殿拝所、(写真6)はその彫刻を拡大して撮ったものである。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は本殿正面、(写真8)は左側面から撮った本殿で、嘉永元年(1848)に完成したものである。

     
    (写真9)

     (写真9)は拝殿前方右側にある社務所である。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10)は拝殿左(北)側のお堂、(写真11)は本殿右(南)側の「ささやき恵比須」像である。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     境内にはいくつかの末社が祀られている。(写真12)は「ささやき恵比須」の右(南)隣にある公岡稲荷大明神、(写真13)はその右手前にある四社で、左から順に「橋吉稲荷社」、「白瀧 白姫大明神 常磐稲荷社」、「恵比須社」、「金刀比羅社」である。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真14、15)は境内でひときわ目立つ存在のご神木クロガネモチ(京都市指定天然記念物)で、樹齢1200年ともいわれる。モチノキ科モチノキ属の常緑高木で、樹高10.6m、胸高周囲2.19m、雌木で秋から冬に赤い実をつける。(写真16)はその赤い実である。
     年間行事の一つである恵比須宝恵駕籠巡行(1月9日〜10日)は、平成二十二年(2010)に55年ぶりに復活したもので、かつては中書島の花街の芸妓を寶惠駕籠に乗せて界隈を巡行していたという。(2014.11.8.訪問)
     
    http://www.kinsatsugu.jp/2_saijin/
     

    0661大黒寺(Daikokuji Temple)

    • 2015.09.16 Wednesday
    • 07:29

     大黒寺(だいこくじ)は、京都市立伏見中学校と伏見区役所の中間、伏見区鷹匠町にある真言宗単立の寺院で、山号は円通山。空海(弘法大師)の開基と伝えられる。もとは長福寺といい、豊臣秀吉が深くこの寺を信奉したのを初め、武家の信仰も厚かったとされる。

     江戸時代はじめ、この近くに薩摩藩(現在の鹿児島県)邸が置かれ、薩摩藩主・島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が当寺に祀られていたことから、元和元年(1615)に薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として、寺名も大黒寺と改められた。通称「薩摩寺」とも呼ばれていた。

     本尊・秘仏大黒天は、金張りの厨子に安置された小さな像で、六十年に一度、甲子(きのえね)の年に開帳される。

     幕末に西郷隆盛や大久保利通などが国事を論じたという一室があるほか、明治維新の志士の遺墨等を所蔵する。

     境内には、西郷隆盛が建てたという、有馬新七ら寺田屋事件で犠牲となった九烈士の墓碑をはじめ、伏見義民の文殊九助(もんじゅうきゅうすけ)、木曽川治水工事の犠牲となった薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)の墓、また、「金運清水」と命名された井戸がある。

     
    (写真1)

     
    (写真2)
     

     (写真1)は山門、(写真2)はその屋根瓦の一部で、島津の紋と大黒天の像が見える。

     
    (写真3)
     

     (写真3)は山門の右(北)側にある通用門で、「真言宗 大黒寺」の石標が立ち、門扉には島津の紋が入っている。また、門柱には「板橋保育園」の表札が掛かっている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)
     

     (写真4)は境内南側で、宝形造の建物が本堂である。また、(写真5)は境内北側で、庫裡・寺務所があり、本堂との間を西に抜けると「板橋保育園」がある。

     
    (写真6)

     
    (写真7)
     

     (写真6)は本堂で、「圓通」の扁額が掛かり、右手前におさすりの大黒天が安置されている。また、(写真7)は本堂北側の庫裡・寺務所である。

     
    (写真8)

     
    (写真9)
     

     (写真8)は山門内側の北脇にある不動明王像、(写真9)は境内南東隅付近を撮ったもので、大きな石碑は「薩摩義士碑」、その左手にあるのは「金運清水」とその説明板である。

     
    (写真10)
     

     (写真10)は「金運清水」とその説明板の拡大写真である。説明板には、「『金運清水』は平成十三年(2001)に新しく掘られた井戸で、大黒天に供えられる霊験あらたかな水とされ、金運良好、資産増加、厨房守護、子孫繁栄などにご利益があるといわれている。」とある。

     
    (写真11)

     
    (写真12)
     

     (写真11)は境内にある「伏見義挙殉難士之墓地」、(写真12)は地蔵堂で、正面に島津の家紋が見える。(2014.11.8.訪問)

     

    0660西養寺(Saiyoji Temple)

    • 2015.09.15 Tuesday
    • 08:23

     西養寺(さいようじ)は、竹田街道が南北方向から東西方向にクランク状に曲がる位置近くの伏見区肥後町にある真宗本願寺派の寺院で、山号は呉竹山。寛永九年(1632)に本山より木仏と寺号を賜ったことに始まる。

     現在の本堂は、元禄六年(1693)には上棟していたが、内造作は宝永七年(1710)まで遅れたことが、棟札から判明する。また大工は伏見の藤原理兵衛有重、造作時はその倅藤原喜兵衛方言であった。

     建物は、桁行六間、梁行三間で正面と両側面の三方に一重の裳階(もこし)をまわす。内部は、正面一間通りを吹き放しの広縁、その奥三間は裳階を屋内に取り込んで間口いっぱいに外陣をつくり、さらに背面寄りの二間は床を一段高くして、中央三間を内陣、両脇は余間として背面に仏壇を備える。内陣は、後方に来迎柱を建てて禅宗様須弥壇を置き、背面には後門を開くが、これは後の改造によるもので、当初は仏壇三つが一列に並ぶ形式に復原される。ただし、こうした内陣仏壇まわりの形式の変更は、真宗の一般寺院においてよくみられるものである。

     この本堂は、真宗の一般寺院としては市内最古に属し、またその構成も真宗本堂の典型を示すものとして、平成三年(1991)京都市指定有形文化財に登録されている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)
     

     (写真1、2)は山門で、右手に駒札が立ち、左手前には地蔵尊が祀られている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真3)は山門を入った左(西)側にある庫裡を外から撮ったもの、(写真4)の左手はその庫裡の玄関である。

     
    (写真5)
     

     (写真5)は山門正面の本堂である。(2014.11.8.訪問)
     

    0659西方寺(Saihoji Temple)

    • 2015.09.14 Monday
    • 08:41

     西方寺(さいほうじ)は、竹田街道より東へ一筋目の大手筋上ル西側、伏見区風呂屋町にある真宗大谷派の寺院で、山号は光明山。

     新撰京都名所図会には「当寺はもともと久米寺(天台宗)と号し、旧久米村の金札宮境内にあったが、元享二年(1322)金松弥三郎(北条維貞従族)が覚如上人に帰依して出家剃髪し、久米寺を再興して存覚上人(覚如子)に寄進したことから真宗となり、名も光明山西方寺と改められたといわれ、これに因んで一に金松御坊という。文禄年中伏見築城にあたって久米町に移り、慶長初年現在の地に移った。寺宝に後伏見・光厳・後崇光・後陽成各天皇の宸翰と伝える古文書を有する。

     なお、本堂仏壇下が『王塚』にあたると伝えられている。『陵墓一隅抄』によれば、後崇光太上天皇を埋葬したところといわれ、西方寺移築の際、塚を埋めたと伝えるも明らかでない。」とある。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)
     

     (写真1、2)は山門で、右手前に「覚如上人 蓮如上人 教如上人 御𦾔跡」と刻まれた石標が立っている(写真3)。この石標の左側面には「金松御堂 西方寺」と刻まれている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)
     

     (写真4、5)は山門の左(南)側にある通用門で「西方寺」の寺札が掛かっている。

     
    (写真6)

     
    (写真7)
     

     (写真6、7)は山門正面にある本堂で、「光明山」の扁額が掛かっている。

     
    (写真8)
     

     (写真8)は山門の右手(北側)にある鐘楼である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)
     

     (写真9)は通用門正面に見える玄関、(写真10)はその左(南)側にある庫裡である。(2014.11.8.訪問)

     

    *竹村俊則『新撰京都名所図絵』白川書院(1966P.90

     

    0658会津藩駐屯地跡(Remains of Aizu-han clan camp)

    • 2015.09.13 Sunday
    • 09:22
     会津藩駐屯地跡(あいずはんちゅうとんちあと)は、京阪伏見桃山駅から三筋西の通りの大手筋下ル西側、魚屋通の北側、伏見区大阪町にある。この地は伏見御堂があった場所で、現在は東本願寺伏見別院と呼ばれ、境内には伏見幼稚園が設けられている。
     山門前にある石碑の碑文によると、「伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第十二代法主・教如が創建した。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正四年(1915)に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されている。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功した。幕末の慶応四年(1868)一月二日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣とした。翌三日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まった。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられている。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられたが、明治十八年(1883)に南向きに縮小して建て替えられた。平成二年(1990)に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されている。」

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は魚屋通が鍵型に曲がっている所にある山門で、右(東)側手前に「教如上人御𦾔所 伏見御坊」の石標が立ち、山門には「伏見幼稚園」の表札が掛かっている。
    また、左(西)側手前には「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石碑が立っている。

     
    (写真3)

     (写真3)はその石碑で左が主碑、右が副碑である。

     
    (写真4)

     (写真4)は副碑の拡大で、上記内容の碑文が書かれ、最後に「伏見観光協会・ (社)伏見納税協会 青年部会  平成21年12月 建立」とある。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は山門を入った所から撮った境内、(写真6)は逆に境内から山門の方向を撮ったもので、山門を入った西側に幼稚園の建物が見える。

     
    (写真7)

     (写真7)は境内の奥(北側)にある本堂(右)と庫裡(左)で、平成二十六年(2014)三月に完成し、四月に落慶法要と教如上人四百回忌法要が行われた。

     
    (写真8)

     (写真8)は山門を入った右(東)側にある鐘楼である。(2014.11.8.訪問)                

     

    0657大光寺(Daikoji Temple)

    • 2015.09.10 Thursday
    • 18:05

     大光寺(だいこうじ)は大手筋商店街の竹田街道東入北側、伏見区風呂屋町にある浄土宗の寺院で、山号は藤澤山(ふじさわざん)。

     鎌倉時代中期の文応元年(1260)、寛海上人が、堀内村(現在の桃山町本多上野)に創建。
    寛永元年(1624)、伏見奉行 青山伯耆守の屋敷跡を拝領して、現在の地に移転したといわれる。

     
    (写真1)
     

     (写真1)は大手筋商店街の店の間にある山門で、右(東)側手前に「浄土宗大光寺」の石標、左(西)側に「徳川家光傳役 青山伯耆守屋敷跡」と刻まれた石標が立っている。

     
    (写真2)

     
    (写真3)
     

     (写真2、3)は境内で、山門を入った正面に本堂、右(東)側に薬師堂、本堂前の左(西)側に庚申堂と日限地蔵尊堂がある。

     
    (写真4)
     

     (写真4)は本堂で、「大光寺」の扁額が掛かっている。本尊は阿弥陀仏像で、桃山時代の作である。

     
    (写真5)
     

     (写真5)は薬師堂で、明治時代末期、皇族 華頂宮家の旧御殿を移築されたもの。桃山様式の豪華な建物である。本尊は桃山時代の作である藥師如来像で、奈良三笠の薬師寺より移されたといわれている。「手接の薬師」と称され、耳の病や安産祈願のご利益があるとされている。

     
    (写真6)
     

     (写真6)は庚申堂(左)と日限地蔵尊堂(右)である。なお、墓地には伏見奉行所の文武に優れた与力 横田蔵之允(よこたくらのすけ)のお墓がある。(2014.11.8.訪問)
     

    0656三栖神社(Misu- jinja Shrine)

    • 2015.09.09 Wednesday
    • 22:31
     三栖神社(みすじんじゃ)は油小路通より一筋西の通りを京都外環状線より少し北に入った所、伏見区横大路下三栖城ノ前町にある神社で、祭神は第四十代 天武天皇、伊弉諾尊(いなざぎのみこと)、第十五代 応神天皇である。
    創建や変遷の詳細は不明であるが、飛鳥時代の672年、大海人皇子(おおあまのこうし)(後の天武天皇)は、大友皇子との間で皇位をめぐって起こった壬申の乱の際に、大津行幸の途中三栖の地を通過。この時村人は炬火(たいまつ)をともし、夜道を照らして歓迎したといわれている。
     その後、三栖神社が建立され、当地の東方にある境外社 金井戸神社(伏見区三栖向町)が三栖神社御旅所になっている。
     毎年10月中旬の10月16日に近い日曜日に、上記大海人皇子(天武天皇)にまつわる伝承に基づき、炬火祭(たいまつまつり)(三栖祭、松明祭)が行われている。当日は、葦で作られた巨大な炬火(長さ約5m、直径1.2m、重さ約1t)が、午後8時に京阪中書島駅付近で点火され、竹田街道を京橋まで巡行する。京都市登録無形民俗文化財に指定されている。この祭りは戦後一時途絶えていたが、平成元年(1989)に地元の熱い思いによって再興された。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は「三栖神社」の扁額が掛かる鳥居、(写真2)は鳥居をくぐった所から撮った境内である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は手水舎、(写真4)は拝殿である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は本殿正面、(写真6)は本殿を右横手前側から撮ったものである。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7、8)は境内に祀られた末社で、赤い鳥居のある方は角倉稲荷神社である。(2014.11.8.訪問)

     

    0655伏見長州藩邸跡(Remains of Choshu-han clan mansion)

    • 2015.09.08 Tuesday
    • 08:57
     伏見長州藩邸跡(ふしみちょうしゅうはんていあと)は竹田街道の京橋から少し下った西側、伏見区表町の京都市伏見土木事務所前にある。その石碑の碑文には次のように書かれている。
     「長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。
     江戸時代中期の元禄十二年(1699)の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人びとが暮らしていました。屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、藩邸がその奥にあるような形態をしていました。 
     幕末の元治元年(1864)七月十九日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。
    伏見観光協会・ (社)伏見納税協会 青年部会  平成21年12月 建立」

     
    (写真1)

     (写真1)は竹田街道に面した京都市伏見土木事務所の塀とその前にある伏見長州藩邸跡の石碑である。

     
    (写真2)

     (写真2)は石碑を正面から撮ったもので、石碑は主碑(左)と副碑(右)から成っている。

     
    (写真3)

     (写真3)は副碑を近くから撮ったもので、碑文は上に記した通りである。(2014.11.8.訪問)

     

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