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    0647源空寺(Genkuji Temple)

    • 2015.08.31 Monday
    • 14:38
     源空寺(げんくうじ)は大手筋通の京阪伏見桃山駅から西へ3筋目の通りを右(北)に10mほど入った伏見区瀬戸物町にある浄土宗の寺院で、正式には宝海山(ほうかいざん)法然院源空寺と称する。圓光大師(法然)の霊場25ヶ所の第15番札所になっている。  
     寺伝によれば、建久六年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ天台宗の寺として炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、後に改宗し、慶長年間(1596〜1615)、徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光によって当地に移された。
     二層から成る珍しい山門は伏見城から移築された遺構といわれており、その階下両脇には、即一六躰地蔵尊、愛染明王像、また豊臣秀吉に天下統一の大福を授けたといわれる朝日大黒天像が祀られている。この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものが、一時京町大黒町に預けられた後、当寺に移された経緯から、当地はかって新大黒町とも呼ばれていた。本堂には、円光大師座像が安置されている。

     
    (写真1)

     (写真1)は源空寺の入口で、左(北)側に「南無阿弥陀仏」、右(南)側に「圓光大師二十五霊場」の石標が立っている。

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真2〜4)は二層の山門で、「寶海山」の扁額と「源空寺」の寺札が掛かっている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は山門階下右側に祀られた即一六躰地蔵尊と愛染明王像、(写真6)は同左側の朝日大黒天像である。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真7)は手水舎、(写真8、9)は境内で、本堂の右側には稲荷大明神を祀る小さな祠と十三重塔がある。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10)は本堂正面、(写真11)はその扁額の拡大写真である。

     
    (写真12)

     (写真12)は境内奥にある地蔵堂で、六体の地蔵尊が祀られている。(2014.11.8.訪問)

     

    0646おせき餅(“Osekimochi” rice cake)

    • 2015.08.30 Sunday
    • 08:13
     おせきもち本店は、国道1号線の名神高速京都南インターチェンジ100m南、城南宮西鳥居の国道をはさんで向かい側にある。ここで売られている「おせき餅」は鳥羽街道の名物菓子である。餅の上につぶ餡をのせたもので、白い餅と草餅の二種類がある。
     おせき餅を買ったら付いている「おせき餅の栞」には次のような由来が書かれている。
     「江戸時代、この地に『せき女』と申す娘が居て、その大道をのぼって来た旅人に茶屋を設け、餅を編笠の裏にならべて、道行く人に食べさせていました。大変、心の美しい、『せき女』は真心をこめて餅を造り、旅人を慰め、いたわったため大変評判になりました。それで『おせき餅』と名をとどめ、その後も永くそこに名物餅が商われつづけてきました。
     しかし慶応四年(1868)正月、日本の新生は明治維新の砲声とともにこの地にも轟き、その鳥羽、伏見の戦で、この辺り一帯は戦場のちまたと変わりはて、民家が次々とやきはらわれました。昭和七年(1932)、この京阪国道の敷設とともに、この店もここに移り、昔に変わらぬ名物餅として、通りがかりのお客様や又城南宮参拝の方々等のおみやげとしても厚き御引立にあづかっております。」

     
    (写真1)

     (写真1)は国道1号線に面したおせきもち本店である。

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     (写真2)は「おせき餅」4個入りの包装、(写真3)はその中身である。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4、5)はそれを皿に盛ったもので、餅は白い餅(左)と草餅(右)の二種類あることがわかる。
    子供の頃から食べてきたおせき餅は昔と形も味も変わらず、この辺りに来た時は今も必ず買い求める好物である。(2014.11.3.、2015.8.28訪問)

     

    0645城南宮(Jonan-gu Srine)

    • 2015.08.29 Saturday
    • 22:49
     城南宮(じょうなんぐう)は国道1号線の東側、新城南宮道と城南宮道の間にある神社で、平安京遷都にあたり、王城の南の守護神として創建された。祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千戈神(やちほこのかみ)[大国主神]、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后(じんぐうこうごう)]で、天照皇大神、品陀別命、別雷神、大山咋神、天児屋根命、宇気毛智神が合祀されている。平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)が行われた。
     また離宮は方違え(かたたがえ)の宿所や熊野詣での精進所となり、方除(ほうよけ)の信仰が高まった。承久三年(1221)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたことは名高い。
     江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称されて大いに賑わう。皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の際に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応四年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が響き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。 
     明治十年(1877)、式内社「真幡寸(まはたきの)神社」に比定され、「真幡寸神社」と改称したが、昭和四十三年(1968)、社名を「城南宮」に戻し、「真幡寸神社」を境内摂社として新たに社殿を建立して奉祀している。
     日・月・星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。
     神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は国道1号線に面して立つ西鳥居、(写真2)は「城南離宮」と書かれたその扁額である。手前右手に「城南宮」の石標が立っている。

     
    (写真3)

     (写真3)は参道東端の東鳥居で、左手前に大きな「参道改築碑」が立っている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)は本殿正面の朱塗りの鳥居、(写真5)はその上部の拡大写真で、島木中央には日・月・星を象った三光の御神紋、左右の柱の上には菊の御紋が見える。

     
    (写真6)

     (写真6)はこの鳥居の右手前にある手水舎で、ここの水は「菊水若水(きくすいわかみず)」と呼ばれる伏見の名水である。江戸時代中期の随筆によると、城南宮の菊水(若水)(延命水)の井戸の水を飲むとあらゆる病が治るといわれ、毎日、参拝者が絶えず、霊元法皇の歯痛も治ったといわれる。お百度を踏んで水を持ち帰って病人に授ける信仰があったといわれる。また、東大寺のお水取りの水は、若狭・遠敷川から、菊水若水の井戸を通り、二月堂の若狭井に達するといわれている。

     
    (写真7)

     (写真7)は鳥居左手前にある境内案内図で、後鳥羽院御製の歌「つたへくる 秋の山べの しめのうちに 祈るかいある 天の下かな」も書かれている。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真8)は鳥居を潜った右(東)側にある祓所、(写真9)はその奥(北)にある神輿社、(写真10)は更にその奥(北)にある神楽殿である。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真11)は鳥居を潜って直ぐ左(西)側にある神苑入口、(写真12)はその奥(北)にあるむすび殿と授与所である。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真13)は鳥居正面の拝殿、(写真14)はその奥正面の前殿、(写真15)は前殿右(東)側の翼廊である。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     (写真16)は前殿(祈祷殿)内部で、祈祷をお願いすれば本殿前で神楽が舞われ、神官が祝詞をあげ、お祓いしてくれる。(写真17)は本殿である。

     
    (写真18)

     (写真18)は本殿と前殿を本殿後方の西側から撮ったもので、本殿は火災で焼失後、昭和五十三年(1978)に再建されている。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     本殿の左右には末社が並んでおり、(写真19)は左(西)側で、手前から順に稲荷社、厳島社・住吉社・兵主社、粟島社の三社殿、(写真20)は右(東)側で、手前から順に春日社、大國主社、庚申社、天満宮社・妙見社・金刀比羅社の四社殿である。
     城南宮には、社殿を取り囲むように広がる神苑「楽水苑」がある。伏見の地下水が引き入れられた遣水(小川)や池が広がる庭園で、白河上皇は、城南離宮を造営する際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたといわれている。苑内のあちこちに「源氏物語」に登場するほとんどの植物(約100種類)が栽培されている。
     「春の山」・「平安の庭」・「室町の庭」・「桃山の庭」・「城南離宮」と名付けられた庭の趣きの異なる5つの庭からなり、「春の山」と対を成す「秋の山(史蹟公園)」が国道を隔てた西にある(0643参照)。

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真21)は神苑入口から「春の山」への道、(写真22、23)は「春の山」の一部で、椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリなどの春の草木が賑わす。毎年6月末に行われる「夏越祓(なごしのはらい)」の神事では、茅の輪をくぐった後、この「春の山」に進み、人形(ひとがた)を禊の小川(みそぎのおがわ)(写真23)に流し、半年間の穢を遣水(小川)に流して心身を清める「人形流し(ひとがたながし)」が行われる。車がくぐれるジャンボ茅の輪もある。

     
    (写真24)

     (写真24)は本殿東側にあるご神木の「大杉さん」である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     
    (写真27)

     
    (写真28)

     (写真25〜28)は「平安の庭」で、社殿の前に広がる池に、段落ちの滝と遣水(小川)が注ぎ、池の周囲には、秋の七草のオミナエシや萩、リンドウが咲く。池には、舟が浮かべられ、中ノ島には、各地から名石が集められて景色が整えられている。
     毎年4月29日と11月3日にはこの「平安の庭」で曲水の宴(写真29〜35)が行われ、王朝風俗が再現される。歌人が小川のそばに座り、上流から流れてくる盃が自分の前を流れ過ぎる前に和歌を作り、盃を取り上げて酒を飲む宴で、現在、城南宮で用いている羽觴(うしょう)[おしどりの姿をした盃の台のこと]は、御所の杉戸絵を参考に復元したものである。

     
    (写真29)

     (写真29)は色とりどりの狩衣(かりぎぬ)や小袿(こうちぎ)といった平安貴族の装束に身を包んだ7名の歌人で、最初に神官より手前に置かれた三方の上に載せた当日の歌題が各歌人に示される。

     
    (写真30)

     
    (写真31)

     
    (写真32)

     (写真30、31)は遣り水の各所に着座した歌人達と舞台で、箏曲の演奏や白拍子の舞も行われる(写真32)。

     
    (写真33)

     (写真33)は詠まれた歌を童子達が集めに回っているところで、集められた歌は朗詠者に届けられる。

     
    (写真34)

     (写真34)は歌を短冊に書く歌人と集められた歌を披露する朗詠者である。

     
    (写真35)

     (写真35)は最後にもう一度勢揃いした後、退場する歌人達である。

     
    (写真36)

     
    (写真37)

     
    (写真38)

     (写真36〜38)は「平安の庭」から一旦参道に出、参道南側に設けられた別の入口から入った右手(西側)に広がる「室町の庭」で、池泉廻遊式の静寂な庭園である。茶室 楽水軒が建ち、池中央の蓬莱島の奥の三尊石、楽水軒の前の礼拝石と、風格のある石組みが配されている。入口に雌滝、奥に雄滝があり、舟付き場に藤の花、ツツジが咲く花の名所である。

     
    (写真39)

     
    (写真40)

     
    (写真41)

     (写真39〜41)は「室町の庭」の南側に広がる「桃山の庭」で、大きな刈り込みの前に緑の芝生が広がる桃山時代の枯山水庭園である。刈り込みが紀州の山並み、広々とした芝生が太平洋、点在する岩が小島を表しているともいわれている。紅枝垂れ桜が咲き、茶室 水石亭が奥の高台に建つ。

     
    (写真42)

     (写真42)は「桃山の庭」西端から境内南端を東に引き返す松並木の道で、この突き当たりを左(北)に曲がったところ、すなわち「桃山の庭」の東側に「城南離宮の庭」がある。

     
    (写真43)

     
    (写真44)

     
    (写真45)

     (写真43〜45)は離宮時代の枯山水庭園「城南離宮の庭」で、玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚が覆う部分が陸地を、岩組みが諸殿を表している。
    「室町の庭」から「桃山の庭」、「城南離宮の庭」を経て入って来た入口から出ると、「平安の庭」との間にある東鳥居から西鳥居まで続く参道に沿っていくつかの建物や境内神社等がある。

     
    (写真46)

     
    (写真47)

     (写真46)は東鳥居から入って直ぐの左(南)側にある「城南宮社務所」と「貴賓館」、(写真47)は貴賓館の玄関である。

     
    (写真48)

     (写真48)はその筋向かい、参道の北側にある「真幡木(まはたき)神社」(式内社)で、 祭神は眞幡寸大神(まはたきのおおかみ)・品陀和氣尊(ほむだわけのみこと)。平安京遷都以前のこの地の有力者 秦氏の氏神といわれている。

     
    (写真49)

     (写真49)は真幡木神社と城南宮本殿正面の鳥居との中間北側、平安の庭に食い込むような形で祀られている「芹川神社」で、「唐渡天満宮」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。

     
    (写真50)

     
    (写真51)

     (写真50、51)は芹川神社の左(西)隣にある絵馬堂である。

     
    (写真52)

     (写真52)は絵馬堂の西側にある手水舎の参道をはさんで南側にある「三照宮」で、祭神は天照大御神である。

     
    (写真53)

     
    (写真54)

     (写真53、54)は三照宮の西隣にある「斎館」で、その西側に車の修祓所が設けられている。(2014.11.3.、2015.8.28.訪問)

     

    0644鳥羽伏見の戦い勃発の地(Starting Point of the Battle of Toba-Fushimi)

    • 2015.08.11 Tuesday
    • 22:54
     明治維新を決定づける戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」は鴨川に架かる小枝橋から城南宮にかけて起きた戦が発端となった。
     慶応三年(1867)十二月九日の王政復古の大号令で幕府は廃され、前将軍徳川慶喜は十二日に京都の二条城から大坂に退いた。しかし、新政府側の薩摩藩の行為に憤激し、慶応四年(1968)正月二日、旧幕府兵および会津・桑名両藩の兵からなる大軍が大坂から京に向かった。
    これに対し朝廷では、薩摩、長州、土佐等諸藩の兵を鳥羽と伏見に繰出し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に、伏見では御香宮神社附近に陣を構えた。
     三日、都を目指し鳥羽街道を北上する旧幕軍は、城南宮から南南西五百メートルの地点に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙した。夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き、この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開された。幕府軍は約二万、新政府軍は約五千の兵力であったが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻んだ。また新撰組も近藤勇や沖田総司をけがと病気で欠いていたものの、土方歳三や永倉新八以下の隊士たちが旧幕軍として伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっている。
     四日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣との報が伝わり、官軍となった新政府軍の士気は大いに高まった。
     五日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕軍は淀、八幡へ退却。
     六日、新撰組らの奮闘も虚しく、旧幕軍はついに大坂城に向け退陣した。
     この一戦を皮切りに、約二年に渡る戊辰戦争が始まったのである。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     (写真1)は城南宮道千本の交差点近く、小枝橋から100mほどのところにある「鳥羽伏見戦跡」の石碑、(写真2)は「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の駒札、(写真3)は小枝橋についての説明板である。

     
    (写真4)

     (写真4)は城南宮にある「鳥羽伏見の戦い跡」の駒札で、(写真2)とほぼ同じ内容のことが書かれている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は鳥羽離宮跡公園内にある「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発地 小枝橋」を説明した石碑、(写真6)はその後方にある「鳥羽・伏見方面戦闘図」の石碑である。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7、8)は平成十三年(2001)に供用開始された羽束師墨染線の小枝橋で、橋梁長さ133m、4車線歩道付きの幅員22.8mである。(2014.11.3.訪問)

     

    0643鳥羽離宮跡(Remains of Toba Rikyu Imperial Villa)

    • 2015.08.10 Monday
    • 08:58
     鳥羽離宮(とばりきゅう)は、平安時代後期に、白河上皇・鳥羽上皇が造営した壮大な離宮で、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇により院政が行われ政治の舞台となった院御所と、御堂、苑池からなる。
     東西約1.5km、南北約1kmの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでおり、当時の日記には「都遷り(みやこうつり)がごとし」といわれるほどのものだった。
     白河上皇が南殿を創建したのが始まりで、鳥羽上皇の時代にはほぼ完成し、南北朝時代まで使われていた。院御所の近臣や貴族、使用人まで周辺に宅地が与えられ、仏所や御倉町(みくらまち)なども造られ、政治・経済・宗教・文化の中心地となった。
     下鳥羽南は、鴨川と桂川が合流し淀川へ通じていたところで、運ばれてくる物資の多くが、鳥羽の港で陸揚げされ、陸路は山陽道へ通じる水陸交通の要所であった。水郷が広がる風光明媚な場所で、貴族の狩猟や遊興の地でもあった。 
     鳥羽離宮の建物は、南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などからなり、それぞれの御所には、寝殿に殿舎や御堂が付属していた。
     鳥羽離宮には、現在とは異なり、鴨川が東から南に流れ、西に桂川が流れ、水閣(すいかく)が築かれていた。各御所は、広大な池に接して造られており、船で行き来されていた。各御所の概要は以下の通りである。

     <南殿>
     長保三年(1001)、白河上皇により最初に創建された。付属御堂は証金剛院(しょうこんごういん)で、現在は、南殿跡が鳥羽離宮公園として整備されている。公園の北側には、離宮の築山跡の遺構と考えられる「秋の山」が残っている。
     <馬場殿>
     応徳三年(1086)、白河上皇により創建された。鳥羽離宮の鎮守社として城南宮(じょうなんぐう)が建立されている。
     <泉殿>
     天承元年(1131)、鳥羽上皇により創建された。付属御堂は成菩提院(じょうぼだいいん)。
     <北殿>
     保延二年(1136)、鳥羽上皇により新しく創建された院御所で、「南殿」に対して「北殿」と称された。治承の乱の時、後白河法皇が幽閉されたところである。勝光明院(しょうこうみょういん)が平等院阿弥陀堂を模して建立されている。
     <東殿>
     保延三年(1137)、鳥羽上皇により、極楽浄土を現世に築き上げるように創建された。付属寺院の安楽寿院(あんらくじゅいん)には、三重塔が3基、多宝塔が1基築かれ御陵とされた。
     <田中殿>
     久寿元年(1154)、鳥羽上皇により創建された。鳥羽上皇の皇女八条院の御所で、付属御堂は金剛心院(こんごうしんいん)。釈迦堂・九体阿弥陀堂・小御堂・寝殿・庭園・築地跡などが発掘されている。
     <中島>
     馬場殿の南の地域 

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は「鳥羽離宮跡とその庭園」の説明板、(写真2)はその中の「鳥羽離宮跡配置図」で、いずれも安楽寿院に掲示されていたものである。

     
    (写真3)

     (写真3)は千本通城南宮道下ル東側、伏見区中島御所ノ内町にある鳥羽離宮跡公園で、ここは南殿跡にあたり、公園内の北側にある「秋の山」は当時の庭園の築山にあたるとされている。

     
    (写真4)

     (写真4)は公園内にある「鳥羽離宮南殿跡」の説明書きである。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6)は公園内の景色で、(写真5)の池の背後にある小高い所が「秋の山」である。公園内には池の他に大きなグラウンドや遊園地もある。

     
    (写真7)

     (写真7、8)は「秋の山」の上に明治四十五年(1912)に建てられた大きな石碑で、「鳥羽洛南の名勝也・・・」で始まる12行の漢文により当地の歴史が説明されている。(2014.11.3.訪問)

     

    0642西行寺跡(Remains of Saigyoji Temple)

    • 2015.08.09 Sunday
    • 08:06
     西行寺跡(さいぎょうじあと)は白河天皇成菩提院陵の北約100m、伏見区油小路通新城南宮道上ル西入、竹田西畑中町地蔵堂前にあり、現在はその石標が残るのみである。
     この地は、西行(1118〜1190)[俗名佐藤義清(のりきよ)]が鳥羽上皇(1103〜1156)の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられている。江戸時代には庵室(西行寺)があり、境内には月見池や剃髪堂があったとされるが、明治十一年(1878)、東竹田(伏見区竹田内畑町)の観音寺に併合された。観音寺には西行法師像といわれる坐像が安置されている。

     
    (写真1)

     (写真1)は西行寺跡にある火消地蔵尊で、その左横に自然石の石標がある。

     
    (写真2)

     (写真2)はその石標で「西行寺」と刻まれている。この石標が西行寺の跡を示すものである。(2014.11.3.訪問)

     

    0641北向山不動院(Kitamukizan Fudoin Temple)

    • 2015.08.08 Saturday
    • 18:03
     北向山不動院(きたむきざんふどういん)は、新城南宮道油小路東入北側にある天台宗単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。鳥羽離宮跡にあり、近辺には、城南宮(0645参照)、白河天皇陵(0640参照)、鳥羽天皇陵(0638参照)、近衛天皇陵(0639参照)などがある
     平安時代末期の大治五年(1130)、興教大師(こうきょうだいし)覚鑁(かくばん)が、鳥羽上皇の病気平癒を祈願したときに不動明王が現れ、回復された鳥羽上皇の勅命により、勅願寺として鳥羽離宮内に創建され、興教大師により開山された。本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向きに安置した。そのため、上皇から「北向山不動院」の名を賜ったといわれる。久寿二年(1155)、藤原忠実が播磨国(現在の兵庫県)大国の庄を寺領として再興したため、中興の祖といわれている。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。
     現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。
     境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     (写真1、2)は新城南宮道に面した山門で、右手前に「鳥羽天皇勅願所 北向不動尊」の大きな石標、左手前に「近畿三十六不動尊 第二十二番霊場 北向山不動院」の新しい案内塔と駒札が立っている。山門の扁額には「北向山」と書かれているが、裏側には「一願不動尊」の扁額が掛かっている(写真3)。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)は西門、(写真5)は西門の方から撮った境内である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6)は山門の東側にある鐘楼、(写真7)は山門から北に延びる参道の右手にある四菩薩像で手前から順に普賢菩薩、文殊菩薩、虚空蔵菩薩、千手観音である。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真8)は本堂の右(西)側にある手水舎、(写真9)はその中にある洗心井戸とその説明書き、(写真10)は手水舎東隣にある開山堂で「興教大師」の提灯が下がっている。

     
    (写真11)

     (写真11)は本堂で、右手前には「鳥羽天皇勅願所」と刻まれた石標が立っている。

     
    (写真12)

     (写真12)は本堂を近くから撮ったもので、中央部に「不動明王」の扁額と「不動尊」の大提灯が見える。

     
    (写真13)

     (写真13)は本堂内陣で、本尊の秘仏 不動明王は、1月16日の採灯大護摩供の時のみ開扉される。

     
    (写真14)

     (写真14)は本堂北西にある大護摩厳修道場で、中には護摩を焚く場所が見える。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真15)は本堂前にある寺務所で、本堂へは渡り廊下が通じており、そこに北向山の諸仏、北向山の五大力尊、北向山の十二支守り本尊のすべてが一覧にして説明してある(写真16)。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真17)は寺務所の横にある中門、(写真18)は中門を入った正面にある庫裡と玄関である。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真19)は寺務所東側の護摩堂、(写真20)はその南東にある薬師堂とお瀧洗心井戸、(写真21)は不動滝である。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真22)は「山王大権現、陀枳尼天」の扁額が掛かる鳥居、(写真23)はその奥にある山王大権現(右)と陀枳尼天(稲荷明神)(左)の社、(写真24)はその北側にある大日如来堂である。

     
    (写真25)

     (写真25)は手前に「北向山不動院」と「勅願所」の石柱が建つ境内東側の門で、実際には柵がしてあり、左手に出入口がある。

     
    (写真26)

     
    (写真27)

     
    (写真28)

     (写真26〜28)は西門を入った北側に並んだ地蔵尊で、十方地蔵尊、延命地蔵尊、安産地蔵尊、六体地蔵尊、町内安全地蔵尊等いろいろな地蔵尊が祀られている。

     
    (写真29)

     
    (写真30)

     (写真29)はその更に北側にある大威徳夜叉明王、弁財天、阿弥陀如来の石像、(写真30)は金剛夜叉明王像である。(2014.11.3.訪問)

     

    0640白河天皇成菩提院陵(Tomb of Emperor Shirakawa)

    • 2015.08.07 Friday
    • 09:48
     白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのう じょうぼだいいんのみささぎ)は、油小路通新城南宮道上ル西側、伏見区竹田浄菩提院町にある第七十二代白河天皇の御陵である。  
     白河天皇は延久四年(1072)20歳で即位。延久五年(1073)、父親 後三条上皇が崩御されたため、引き続き親政を目指し、荘園整理などを行い摂関家の権勢を弱めることに努めた。応徳三年(1086)、8歳の息子 善仁親王を皇太子に立てて、即日譲位。これが第七十三代堀河天皇である。
    白河天皇は上皇となり、堀河天皇を後見するために「白河院」として自ら政務を執って院政を始めた。また、鳥羽に南殿を創建し、院御所(鳥羽離宮)の造営を始めた。
     嘉保三年(1096)、仏教に帰依し、皇女が病死したことで出家し、法名を「融観」とし、法皇となった。
     嘉承二年(1107)、堀河天皇が崩御され、白河上皇は、堀河天皇の皇子で自らの孫である第七十四代鳥羽天皇を擁立、保安四年(1123))には、鳥羽天皇の子の第七十五代崇徳天皇を擁立した。また、この地に自らの墓所として三重塔を建立した。
     白河上皇が大治四年(1129)年に77歳で亡くなると、火葬後、遺骨は一旦香隆寺(こうりゅうじ)(現在の北区 上品蓮台寺)に埋葬されたが、三重塔に付属して御堂成菩提院が完成すると、遺言に従って同塔内に改葬された。
     現在、三重塔は残っておらず、御陵は一辺33mの正方形であるが、発掘調査により元は一辺56mの正方形で、周囲には幅約8mの堀が巡らされていたことが判明している。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真1〜3)は白河天皇成菩提院陵、(写真4)はその制札である。(2014.11.3.訪問)

     

    0639近衛天皇安楽寿院南陵(Tomb of Emperor Konoe)

    • 2015.08.07 Friday
    • 09:30
     近衛天皇安楽寿院南陵(このえてんのう あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)は、安楽寿院(0637参照)の南、伏見区竹田浄菩提院町にある第七十六代近衛天皇の御陵である。   
    近衛天皇(鳥羽天皇の第九皇子)は、鳥羽上皇の院政もとで、康治元年(1142)2歳で即位。
    保元二年(1157)、鳥羽上皇の皇后 美福門院 得子のために新御塔が落慶された。
    久寿二年(1155)、近衛天皇は16歳で病気により崩御され、翌日、後白河天皇(鳥羽天皇の第四皇子)が28歳で即位。近衛天皇の遺体は船岡山西野で火葬にされ、遺骨は、知足院(現在の北区紫野 常徳寺)に安置された。
    永暦元年(1160)、美福門院が崩御され、遺言により、遺骨は新御塔ではなく高野山に納められた。長寛元年(1163)、美福門院の子である近衛天皇が新御塔に改葬されたが、慶長元年(1596)、山城・伏見の大地震で新御塔が倒壊。慶長十一年(1606)、豊臣秀頼によって再建されたのが現在の新御塔(多宝塔)である。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真1、2)は近衛天皇安楽寿院南陵、(写真3)はその屋根の一部を撮ったもの、(写真4)はその制札である。(2014.11.3.訪問)


     

    0638鳥羽天皇安楽寿院陵(Tomb of Emperor Toba)

    • 2015.08.07 Friday
    • 09:22

     鳥羽天皇安楽寿院陵(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)は、鳥羽離宮(鳥羽殿)の東殿に付設された安楽寿院(0637参照)の西、伏見区竹田浄菩提院町にある第七十四代鳥羽天皇の御陵である。

     鳥羽離宮は、平安時代末期に、白河上皇が創建した院御所で、白河上皇の後を引継いだ鳥羽上皇の時代にほぼ完成したといわれ、南北朝時代まで院御所とされていた。
     鳥羽天皇は、白河法皇の院政もとで、5歳で即位、20歳で長男の崇徳天皇に譲位、白河法皇が崩御の後、鳥羽上皇が、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代、28年間にわたり院政を行った。
     39歳のときに東大寺戒壇院にて受戒し法皇となり、53歳で、安楽寿院で崩御。自ら陵所と定め、建立していた本御塔(ほんみとう)に葬られた。出家前に北面武士として鳥羽法皇に仕えていた歌人 西行法師も、高野より下山してきて、葬送に参加されたといわれる。
     永仁四年(1296)、本御塔が、焼失。元治元年(1864)、現在の御陵(法華堂)が造営された。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真1〜2)は鳥羽天皇安楽寿院陵、(写真3)は菊の御紋の入った屋根の一部を撮ったもの、(写真4)はその制札である。(2014.11.3.訪問)
     

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