スポンサーサイト

  • 2019.05.01 Wednesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -
    • -

    0630八瀬天満宮社(Yase Tenmangu Shrine)

    • 2015.07.31 Friday
    • 15:46
     八瀬天満宮社(やせてんまんぐうしゃ)は比叡山に連なる八瀬の御所谷山麓、左京区八瀬秋元町にある神社で、祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(845〜903)を祀る。
     道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍梨(ほうしょうぼうあじゃり)尊意(そんい)(866〜940)の勧請により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。  
     道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢背(やせ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(672)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。  
     天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝永(ほうえい)七年(1710)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬守(たじまのかみ)喬知(たかとも)を祀り、以来毎年「赦免地踊り(しゃめんちおどり)」が奉納されている。  
     また裏山中腹には、足利尊氏(あしかがたかうじ)に追われ比叡山へ逃れた後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される。

     
    (写真1)

     (写真1)は八瀬天満宮の朱塗りの鳥居で、「天満宮」の扁額が掛かっており、右手前に「八瀬天満宮社」の石標が立っている。

     
    (写真2)

     (写真2)は鳥居脇にある皇后陛下御歌(2004)の石碑(右側)で、「大君の 御幸祝ふを 八瀬童子踊りくれたり 月若き夜に」と刻まれている。

     
    (写真3)

     (写真3)は参道脇にある「弁慶の背くらべ石」で原寸は六尺三寸二分(約192cm)と刻まれている。弁慶が、比叡山から持って降りてきたものといわれている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)は参道の石段が始まるところ、(写真5)はそこから左(北)側の境内を撮ったもので、落ち葉が美しい。

     
    (写真6)

     (写真6)は参道脇の地蔵堂である。

     
    (写真7)

     (写真7)は最初の石段を登り切ったところから撮った本殿で、本殿前には石の鳥居がある。

     
    (写真8)

     (写真9)

     (写真8)は手水所、(写真9)は鳥居脇の苔むした石の牛で、後方に合体した杉の巨木が見える。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10、11)は本殿で、「天満宮」の扁額が掛かっている。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14) 

     境内には、多くの摂社が祀られているが、(写真12)は本殿の右隣にある八幡大神、(写真13、14)は更にその右手後方にある有名な秋元神社である。
     秋元神社については次のような逸話がある。南北朝時代の延元元年/建武三年(1336)、後醍醐天皇が、足利尊氏の軍勢を避けて、2万ほど馬軍を従えて八瀬坂を通り比叡山に登ったといわれる。そのとき、八瀬村あげて尽力し天皇を守護した功績により、八瀬の村人は、代々年貢などの地租所役免除の倫旨(りんじ)を与えられる。ところが、江戸時代中期の宝永四年(1707)、八瀬村と延暦寺との山門結界争い(さんもんけっかいあらそい)が起こり、延暦寺が特権に反対し、江戸幕府に特権の廃止措置を願い出たところ、認められてしまう。しかし、老中 秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)の働きかけにより、村人の権利を守る裁定を下されたことの恩に感謝して、秋元但馬守の御霊を慰めるために秋元神社を建立し、踊りを奉納したというのである。この踊りが八瀬赦免地踊(やせしゃめんちおどり)で、毎年10月体育の日前日の午後8時頃から踊り手の少年が頭上に切子灯籠をかぶって踊る珍しい踊りである。なお、「赦免地」とは、地租所役免除の特権を与えられていた八瀬の地のことをいう。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     
    (写真18)
     
     (写真15)は本殿左手後方にある三社で、右から順に(写真16)若宮大明神、(写真17)六所大権現、(写真18)白井大明神である。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真19)は山王神社、(写真20)は幸ノ神、(写真21)は十禅師大権現である。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真22、23)は白髭大明神、岩上神社、貴船大明神が合祀された社である。

     
    (写真24)

     (写真24)は八瀬天満宮社より向かって左の三社の左側の上にある菅公腰掛石(かんこうこしかけいし)で、「山跡名志」によると、菅原道真が、師である法性房 尊意阿闍梨を訪ねて、八瀬坂から比叡山延暦寺に登る途中、八瀬天満宮で休息したといわれる石である。(2014.11.28.訪問)

     

    0629瑠璃光院(Rurikoin Temple)

    • 2015.07.30 Thursday
    • 15:45
     瑠璃光院(るりこういん)は、比叡山の麓、八瀬の高野側(大原川、八瀬川)沿いにある浄土真宗東本願寺派の寺院で、正式名は無量寿山光明寺。実業家・政治家の田中源太郎の別荘から、料亭になり、寺院に改められた。春は新緑(青もみじ)、秋は「もみじの滝」といわれる紅葉の名所になっている。
     京都市の駒札によると、ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように、壬申(じんしん)の乱(672)で背に矢傷を負った大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)が「八瀬の竈(かま)風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。
     この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条実美(さんじょうさねとみ)はこれを「喜鶴亭(きかくてい)」と名づけ,直筆の命名額が当院に残されている。「喜鶴亭」は茶室名として現在も受け継がれている。
     その後、昭和初期にかけて、一万二千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ二百四十坪に及ぶ数寄屋造りに大改築された。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二(なかむらそとじ)、築庭は、佐野藤右衛門(さのとうえもん)一派の作と伝えられている。
     その後現在まで、日本情緒あふれる名建築・名庭として著名人をはじめ多くの人々に親しまれ、近年では囲碁本因坊や将棋名人戦の舞台にもなったことが知られている。  
     山門を入ると、数十種類のもみじや苔、数百本の馬酔木(あせび)、比叡山の伏流水が、主庭「山露路(やまろじ)の庭」、「瑠璃の庭」、「臥龍(がりょう)の庭」を四季折々の趣で彩っている。

     
    (写真1)

     (写真1)は山門で、右側には「無量寿山光明寺 瑠璃光院」、左側には「茶庵 喜鶴亭」の木札が掛かっている。

     
    (写真2)

     (写真2)は拝観受付で渡された「瑠璃光院拝観順路図」である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門を入ったところから撮った参道の石段、(写真4)はその上にある中門で、ここからは中に入れない。

     
    (写真5)

     (写真5)は中門から玄関までの山露地の庭の一部で、十三重の石塔が見える。山露地の庭は、石段の参道と池・石組・樹木による山門から玄関までの庭のことである。

     
    (写真6)

     (写真6)は山露地の庭の南端部分で、橋を渡った右側に玄関がある。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     玄関を入り、まず書院の二階に上がる。(写真7〜10)は二階書院より眺めた瑠璃の庭で、(写真7)から(写真9)へとカメラを東から西へ移動させている。(写真10)は西側である。庭は苔と白砂・石組・遣水・植栽によって構成されている。苔の一種が光の加減で輝き、「瑠璃色に輝く浄土の世界が現れる」として名付けられたという。「瑠璃」とは、仏教語で「浄土世界」を意味する。奥に置かれた大きな岩から比叡山の伏流水が、細く緩やかな曲線を描く遣水により、手前左手に流れてくる。その流れに沿うように、細く白い小径が付けられている。

     
    (写真11)

     (写真11)は北側を撮ったもので、こちら側は八瀬が遠望出来る。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     次に、書院の一階に下りて、同じ瑠璃の庭を眺める。(写真12〜15)はやはり東から西に移動しながら庭を撮っている。

     
    (写真16)

     (写真16)は北側で、紅葉はどの方向を見ても美しい。

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真17)は書院内部、(写真18、19)は本堂で、阿弥陀如来像が祀られている。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     (写真20〜22)は喜鶴亭から見た臥龍(がりょう)の庭で、やはりカメラを東から西へ移動させている。自然の地勢と石組・水の流れ・建物により、昇雲の龍身が表されているといわれる。廊下に紅葉が映り、床紅葉が美しい。

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真23)は喜鶴亭からその玄関方向を撮ったもの、(写真24)は中門を入って直ぐ右側にある喜鶴亭玄関を内側から撮ったもので、前庭は山露地の庭の一部である。(2014.11.28.訪問)

     

    0628御蔭神社(Mikage-jinja Shrine)

    • 2015.07.29 Wednesday
    • 15:44
     御蔭神社(みかげじんじゃ)は叡山電鉄本線の終点、八瀬比叡山口西南の森の中にある下鴨神社の境外摂社である。参道鳥居横に立てられた由緒書きには次のように記載されている。
     「この社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生山(みあれやま、みしょうやま)と呼ばれており、東山三十六峰第二の山である。
     さらにまた、太陽のただ射す所、即ち、御蔭山とも呼ばれ、それに因んで社名ともなった。
     御祭神は、御本宮賀茂御祖神社の御祭神の玉依媛命(たまよりひめのみこと)、賀茂建角身命(わけいかずちのみこと)、二柱の荒魂を奉祀されている。
     現在の社殿は、元禄六年(1693)、御本宮式年遷宮の際に造替された。
     それまでは、現在の本殿北東の麓に鎮座されてきたが、地震等の災害に依って殿舎が埋没したため現在の地に御動座になった。
     天武天皇六年(677)、山背國司が造営したと伝えられる 賀茂神宮は、当神社であろうとの説があるとおり、この地は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には 数々の遺跡が存在する。
     毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、五月十二日には、御蔭祭(御生神事)が 当神社で行われる。当日は、神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、 弓、槍などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。 数多くの供奉者は葵桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に遷御になる。途中、総社における路次祭、御本宮契の神事等が行われる。
     朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されるなど鴨社創祀の祭とされてきた。また、神馬の御神前で行われる三台塩(三代詠)を中心とする神事 芸能は、わが国最古の祭儀式を伝えるものとされ、行粧もまた最古の神事列と伝えられており、葵祭と並ぶ優雅な行粧として名高く、室町時代に入ると数々の史料に登場する。
     現今、道中は交通繁雑のため、やむなく自動車列とはなったが、当神社、並びに御本宮糺の森での神事は、古儀に依って厳粛に行われている。 賀茂御祖神社」

     
    (写真1)

     (写真1)は森の中の参道で、人影は皆無。左手に見える「御蔭神社」の道標がなければ、この奥に神社があるのか不安になるようなところである。

     
    (写真2)

     (写真2)は御蔭神社の鳥居で、手前右手に「歴史的風土特別保存地区」の石標と神社の由緒書きが立っている。

     
    (写真3)

     (写真3)はその由緒書きである。

     
    (写真4)

     (写真4)は鳥居から更に参道を奥に進むと見えてくる二段になった石垣である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は石垣のはずれから撮った左手の境内、(写真6)は拝殿左前方から撮った拝殿と本殿の全景である。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は入母屋妻入りの拝殿、(写真8)は二つ並んだ本殿西側の西殿で、一間社流造、賀茂建角身命を祀る。

     
    (写真9)

     (写真9)は西殿と同じ造りの東殿で、玉依媛命を祀る。

     
    (写真10)

     (写真10)は御蔭祭の時に使用される手水所である。(2014.11.28.訪問)
     

    0627崇道神社(Sudo-jinja Shrine)

    • 2015.07.29 Wednesday
    • 12:42
     崇道神社(すどうじんじゃ)は、左京区上高野(かみたかの)の高野川沿いに走る大原街道(国道367号線)北側、蓮華寺の少し東を北に入ったところある神社で、濡れ衣により廃太子されたまま死亡した早良親王(さわらしんのう)の祟りを鎮めるために創建され、高野村の産土神とされている。祭神は奈良時代〜平安初期の皇族、早良親王。
     早良親王は、光仁天皇・高野新笠(たかののにいがさ)の子で、桓武天皇の実弟である。延暦四年(785)に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張して絶食死した。
     その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の祟と噂され、その怨霊を鎮めるために延暦十九年(800)には崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島稜へ改葬した。
    ほかに、藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである。
     付近一帯は、遣隋使を排出した小野一族の里でもあり、小野妹子(おののいもこ)の子の小野毛人(おののえみし)のお墓や小野神社もある。
     元和年間(1615〜1624)、吉田神道に属すようになり、大正四年(1915)、近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社が合祀された。

     
    (写真1)

     (写真1)は大原街道沿いに立つ崇道神社一の鳥居で、「崇導神社」の扁額が掛かり、右手前に「崇導神社」の石標が立っている。

     
    (写真2)

     (写真2)はその手前に駒札と共に建てられた「小野毛人墓」の説明書きで、慶長十八年(1613)、崇道神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳銅製の墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなったことが、墓誌(国宝)の写真とともに記されている。

     
    (写真3)

     (写真3)は鳥居左手前に立つ「太政官兼刑部大卿小野毛人朝臣之塋」の石標である。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真4)は一の鳥居をくぐったところから撮った参道、(写真5)は二の鳥居、(写真6)は三の鳥居で、鳥居にはいずれも「崇導神社」の扁額が掛かっている。

     
    (写真7)

     (写真7)は三の鳥居をくぐった所から撮った参道で、石段上の右側に見える建物は社務所である。

     
    (写真8)

     (写真8)は社務所前から撮った参道で、左手に手水舎、正面の石段を登った上に拝殿が見える。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真9)は社務所、(写真10)は湧き水の流れ出ている手水舎、(写真11)は石段上の拝殿前から参道を振り返って撮ったものである。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真12〜14)はそれぞれ正面から撮った拝殿、幣殿、本殿である。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真15)は東横から撮った本殿周辺、(写真16)は斜め前から撮った一間社流造の本殿である。

     
    (写真17)

     (写真17)は本殿右(東)手前に祀られた玉依姫命を祭神とする式内社の出雲高野神社(右側)と天照大御神、豊受大御神を祀る末社(左側)である。

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真18)は社務所の西側に祀られた式内社伊多太(いたた)神社の境内で、「伊多太神社」の扁額が掛かる石の鳥居をくぐった右側に見える鳥居の奥に南面して建つのが(写真19)の覆屋と本殿(手水舎の左手後方)である。祭神は伊多太大神で、上高野の最古の神社とされている。 伊多太は「湯立て」を意味し、出雲系の農耕守護神、湧き水の神とされる。応仁の乱で焼失後、明治十六年(1883)に再興され、明治四十一年(1908)に崇道神社に合祀された。上高野大明神町には旧跡が保存されている。
     なお、(写真18)の石の鳥居後方に写っているのは末社群で、右より教之大神、足之大神、三輪大神、三穂津大神、日吉大神、鎌倉大神である。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は(写真7)の石段の手前を右(東)に少し入ったところにある小野毛人墓への登り口で「小野毛人朝臣之塋」と→で示した石標が立っており、その直ぐ右手に「行者の瀧」(写真21)がある。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真22)はここから山道を登っていった山腹にある小野毛人の墓、(写真23)はその墓碑である。

     
    (写真24)

     
    (写真25)

     (写真24)は行者の瀧から更に東に少し入った左(北)側にある式内社の小野神社、(写真25)はその本殿で、祭神は小野妹子・小野毛人である。

     
    (写真26)

     
    (写真27)

     (写真26)はその更に東側にある役行者の祠、(写真27)は観音堂で、如意輪観世音大菩薩尊が祀られている。

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     
    (写真30)

     境内には他にも小さな祠や石碑がある。(写真28)は春日大神・赤山大神・十二社大神を祀る末社、(写真29)は北野天満大神・弁財天大神・宇佐八幡大神・市杵嶋姫大神を祀る末社、(写真30)は「五味藤九郎之碑」である。五味藤九郎は、延宝五年(1677)に高野川の清流を高野村川南台地へ通じるため、上高野山麓の臣岩を貫通させて水路を開設したことで知られている。(2014.11.28.訪問)

     

    0626蓮華寺(Rengeji Temple)

    • 2015.07.21 Tuesday
    • 21:49
     蓮華寺(れんげじ)は、京都の北部を流れる高野川の上流で、「若狭街道」、「鯖街道」とも称される交易の主要な道路であった大原街道(国道367号線)沿いに建つ天台宗の寺院で、山号は帰命山(きみょうざん)。洛北蓮華寺、池の寺とも呼ばれている。
    寛文年間(1661〜1673)に加賀の前田家家臣 今枝重直(いまえだしげなお)が出家して、この地に一宇を構えて居住し、石川丈山や狩野探幽らと交流を保ちながら晩年をここで過ごした。重直の徳を慕った孫の近義(ちかよし)は、重直の菩提を弔うため、七条塩小路にあった寺をこの地に移し、延暦寺実蔵坊(じつぞうぼう)の末寺としたといわれている。
     本堂には、本尊の釈迦如来を安置し、美しい苔で覆われる境内には、六角形の笠を持つ珍しい形の蓮華寺型燈籠や、石川丈山の篆額(てんがく)と木下順庵の撰文による重直の碑がある。
    池に鶴石と亀島を配した庭園は、石川丈山の作といわれ、江戸時代の名園の一つで、紅葉の名所でもある。
    なお寺宝の紙本著色山王霊験記二巻は室町時代の作と推定され、重要文化財に指定されている。

     
    (写真1)
     
     (写真1)は山門で、創建当時のものといわれている。

     
    (写真2)

     
    (写真3)
     
     (写真2、3)は山門をくぐって石畳の参道の正面突き当たりに見える庫裡で、拝観はここから中に入る。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4、5)は山門を入った左(西)側にある石仏群で、京都市電河原町線の敷設工事のときに発掘されたものがここに安置されている。中央に地蔵菩薩像、周囲に大日如来像が並んでおり、全部で約300体あるといわれている。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6)は山門を入った右(東)側にある鐘楼堂、(写真7)はその北側にある井戸屋形で、鐘楼堂は檜皮葺・宝形の屋根と格子状の側面をもつ黄檗宗萬福寺様式の建物である。黄檗二世木庵禅師の銘がある銅鐘がかかっている。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8)は庫裡と棟続きになっている書院、(写真9)はその内部で、書院東側に池泉回遊式の庭園がある。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10、11)は書院から見た庭園で、池の右手前には、舳先を立てた入舟の形をしている舟石(ふないし)と称される石が置かれている。入舟は、浄土をこちら側にあるとする考え方で、珍しい庭園といわれている。池の左前方には亀島と鶴石があり、亀島には、石橋がかけられている。亀島は、大ぶりな岩石で組まれ、唐人帽丸形と称される石燈籠が置かれている。その側面に、寄り添うように立てられた立石によって鶴の姿が表されている鶴石がある。亀島の左後方に、蓬莱山の姿が岩組みによって築かれている。そこに木下順庵の撰文、石川丈山の篆額を表す刻銘がある今枝重直の一代記が刻まれた石碑が立っているが写真では見えない。蓬莱山の右側奥手には、亀島にあるのと同型で半分ほどの大きさの丸型燈籠が置かれている。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真12)は書院から本堂への道、(写真13)は池の南側にある本堂、(写真14)は書院から撮った本堂前庭である。書院からの写真撮影は認められているが、庭園内は散策は認められているものの、本堂その他を含め撮影は一切禁止されている。
     本堂は再興に黄檗宗の隠元禅師や木庵禅師が関わったとされ、黄檗宗の様式そのものの建物で、石川丈山の筆による寺額が掲げられている。堂内中央の須弥壇には、螺鈿厨子に収められた本尊 釈迦如来像が安置されている。かつて、天井には、狩野探幽が描いたとされる龍の図があったが、明治時代に失われ、その後昭和五十三年(1978)、仏師 西村公朝によって復元された。

     
    (写真15)

     (写真15)は土蔵で、明治五年(1872)に学制がしかれるまで、男女共学の寺子屋として使われていたといわれている。(2014.11.28.訪問)

     

    0625三宅八幡宮(Miyake Hachimangu Shrine)

    • 2015.07.20 Monday
    • 18:16
     三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は叡山電鉄鞍馬線の八幡前から少し北に行った左京区上高野三宅町にある神社で、子供の守り神である。
     この辺りは古くは小野郷と呼ばれ、豪族小野氏の居住する地域であった。
     社伝によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として筑紫を過ぎる時、病に罹ったので宇佐八幡に祈願をこめたところ、直ちに平癒したので、帰朝後、宇佐八幡を勧請したのがこの社の起源であるといわれる。祭神は応仁天皇である。俗に「虫八幡」といい、子供の疳の虫除けの神として幕末期より崇敬を集めており、特に9月15日に行われる例祭には子供連れの参詣者で大いに賑わう。
     東方には、慶長年間、石棺及び墓誌(国宝)が発掘された小野毛人の墓がある。墓誌には天武天皇五年(677)の年号が銘刻されているので名高い。

     
    (写真1)

     (写真1)は叡山電鉄本線三宅八幡駅の北、高野川に架かる橋を渡って直ぐ左に曲がったところにある赤い鳥居で、「三宅八幡宮」の扁額が掛かり、ここから北に参道が延びている。

     
    (写真2)
     (写真2)は三宅八幡宮の公式ホームページ(http://www.miyake-hachiman.com/)に掲載されている境内マップである。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は境内南端にある一の鳥居でこの鳥居をくぐると左(西)側に駐車場があり、その奥に二の鳥居(写真4)がある。

     
    (写真5)

     (写真5)はその更に奥にある三の鳥居で、「三宅八幡神社」の扁額がかかり、手前に狛犬ではなく狛鳩が祀られ、駒札も立っている。宇佐八幡宮より石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、白鳩が道案内をしたとされ、以来、鳩は神の使いとして大切にされてきた。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6、7)は左右の狛鳩である。

     
    (写真8)

     (写真8)は三の鳥居手前の右(東)側にある池と噴水で、紅葉が美しい。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真11)

     (写真9)は三の鳥居をくぐった参道の奥左(西)側にある手水舎、(写真10)は明治二年(1869)に再建された正面の拝殿、(写真11)は拝殿の西側にある神楽殿である。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真12)は拝殿手前東側にある絵馬展示資料館、(写真13)はその奥、拝殿の東側にある社務所である。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14)は社務所の北隣にある玄関、(写真15)は玄関前にある手水所で、「この水は遠く比叡の鵜ケ谷より導いている谷水です」と説明書きがある。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真16)は本殿拝所、(写真17、18)は明治二十年(1887)に再建された本殿である。本殿の奉納幕には鳩が描かれ、幕の下には願掛けのよだれかけが沢山掛かっている。

     
    (写真19)

     (写真19)は境内にある井桁で、明治二十三年(1890)、九代目・市川団十郎が寄進したもの。前面に奉納の二文字と家紋の三升紋、裏面には奉納者九代目市川団十郎の名が、地元産の白川石に薬研彫で深く彫られている。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は西側の出入口にある鳥居、(写真21)はこちらからの参道で、正面に社務所、右手に絵馬堂が見える。(2014.11.28.訪問)

     

    0624狸谷山不動院(Tanukidanisan Fudoin Temple )

    • 2015.07.19 Sunday
    • 18:46
     狸谷山不動院(たぬきだにさんふどういん)は、剣豪 宮本武蔵が吉岡一門と決闘した一乗寺下り松から、詩仙堂、八大神社を通り過ぎ、山道を登ったところにある真言宗修験道の単立寺院で、正式名称は大本山一乗寺狸谷不動院、通称狸谷のお不動さん(たぬきだにのおふどうさん)と呼ばれている。宮本武蔵が心の剣を磨いたといわれる宮本武蔵修行乃瀧等がある。
    平安時代初期、平安京の北東にあり、鬼門の守護神として、桓武天皇勅願の不動尊が祀られたのが由来といわれる。以来、咤怒鬼不動明王(たぬきふどうみょうおう)として、悪鬼退散の信仰を受けた。
     建長年間(1249〜1256)、現在の本堂内にある石窟に不動尊を遷して祀られた。
     慶長九年(1604)、剣豪 宮本武蔵が、滝に打たれて修行を続け、己の恐怖・煩悩に打ち勝つ不動心を感得したといわれる。
     享保三年(1718)より木食(もくじき)上人 村上明厚正禅(後の養阿)が、内陣の高さ・奥行き2尺ほどの洞窟で17年間参籠し、菩提心の開発に努め、狸谷修験者の先駆となった。その後、修行場となったが、明治元年(1868)、廃仏毀釈により荒廃した。
     明治時代後期、地元の有志たちにより、山を伐り道を拡げて再興されていく。
     昭和十九年(1944)、大僧正 亮栄和尚が入山し、「修験道大本山一乗寺狸谷山不動院」として寺法を制定し、狸谷山開山第一世貫主として再興した。
     昭和二十二年(1947
    )、寺域が拡張され、現在の懸崖造の本殿などが造営された。

     
    (写真1)

     (写真1)は詩仙堂、八大神社の前の道を登ってきて最初に左手に見える交通安全自動車祈祷殿である。昭和四十一年(1966)に完成し、平成二十三年(2011)の大修理で彩色を施しなおされている。向かって右側の建物が受付、左側の建物が休息場となっており、中央が本殿である。

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真2、3)は本殿で、「狸谷山」の扁額が掛かり、内部には不動明王像が安置されている(写真4)。

     
    (写真5)

     (写真5)は交通安全自動車祈祷殿の入口に立てられた境内案内図である。

     
    (写真6)

     (写真6)はここから参道を更に少し登った左手にある世継ぎ地蔵尊である。

     
    (写真7)

     (写真7)は参道の石段が始まる地点で、手前左手に「真言宗修験道大本山狸谷山不動院」の大きな石標が立っている。

     
    (写真8)

     (写真8)はここから石段を20段程登った上にある石の鳥居で、「狸谷山不動明王」の扁額が掛かっている。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真9)は石の鳥居をくぐって直ぐ左手に連なる白龍(はくりゅう)弁財天の鳥居、(写真10)はそのお堂で、左手山側に本殿がある(写真11)。木食上人 村上明厚正禅がこの地で参籠したときに、一切衆生の苦難、恐怖を除き、財宝福利を与え給えるとして奉納したものといわれている。白龍弁財天は、インドのサラバチ河を神格化したもので、水神として祀られている。左手に弓、刀、斧、羂索を持ち、右手に矢、三鈷、宝輪を持つ。15の童子に守護され、龍神が付き添っている。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真12)はそこから少し上の参道左手にある七福神像、(写真13)は更に石段を登って行くと参道中央に立って出迎えてくれる弘法大師像「迎え大師」で、その前には、杉の巨木が立っている。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14、15)は参道の石段途中の所々に見られる標識(左手)で、全部で250段ある石段の何段まで登ったかがわかるようにしてある。(写真14)は99/250段、(写真15)は126/250段となっている。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     (写真16、17)は、126段目の平地(写真15)の左手にある光明殿で、弘法大師の木像を祀る大師堂である。堂内には納骨堂として「やすらぎ廟」が併設されている。堂の周囲には「四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場」がある。「木食上人参籠之地」の石碑が立ち、石造十三仏が置かれている。

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真18)は弘法大師木像、(写真19)は「四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場」の入口である発心門、(写真20)は同出口の成就門で、成就門を出たところに八十八番目の踏み石がある。

     
    (写真21)

     (写真21)は光明殿から更に続く80段の石段の最後の部分で、これを登りきったところ(206/250段目)が広場になっており、左手に懸崖造りの本殿舞台が見える。

     
    (写真22)

     (写真22)は206段目から登ってきた石段を見下ろしたもので、一番下の平地が光明殿の建っていたところである。

     
    (写真23)

     (写真23)は本殿舞台から撮った広場で、柴灯護摩道場が設けられており、ここで護摩焚が行われる。広場の右手に見えるのが手水舎と三社大明神、左手に見えるのが宮本武蔵修行乃瀧と恵比須、大黒天である。

     
    (写真24)

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真24)は手水舎、(写真25、26)は三社大明神である。享保年間(1716〜1736)、木食明厚上人により衣食住の神として勧請されたもので、玉姫大明神(衣)、清隆大明神(食)、白玉折木大明神(住・愛)が祀られている。

     
    (写真27)

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     (写真27)は宮本武蔵修行乃瀧の石標と、不動明王堂、(写真28)は不動明王堂の背後にある滝で、滝の下には石の不動明王像(写真29)が祀られている。慶長十年(1605)、宮本武蔵が、一乗寺下り松での吉岡清十郎一門との決闘のときに、この滝に打たれ、不動尊の右手に持つ降摩の利剣の極意を得て、敵対心ではなく、己の恐怖・煩悩に打ち勝ったことで勝利したといわれている。

     
    (写真30)

     
    (写真31)

     
    (写真32)

     
    (写真33)

     (写真30、31)は宮本武蔵修行乃瀧の近くにある「水乃口不動尊」、(写真32、33)は恵比須、大黒天である。

     
    (写真34)

     
    (写真35)

     本殿に行くには最後の石段を登らなければならないが、それには、本殿舞台下から上がる「男厄坂」(写真34)と恵比須、大黒天の横から上がる「女厄坂」(写真35)の二つの石段がある。

     
    (写真36)

     
    (写真37)

     
    (写真38)

     (写真36)は女厄坂を登り切ったところから本殿までの平坦な道の部分で、右端に見える赤いお堂が(写真37、38)に示す水子地蔵尊である。

     
    (写真39)

     
    (写真40)

     (写真39)は水子地蔵尊の近くにある役の行者・神変大菩薩で、「神変大菩薩」と刻まれた岩の下に石室があり、その中に役行者神変大菩薩像が安置されている(写真40)。

     
    (写真41)

     
    (写真42)

     
    (写真43)

     
    (写真44)

     (写真41)は懸崖造の本殿全景、(写真42)は本殿の舞台、(写真43)は舞台上から撮った本殿正面である。本殿の柱には、癌予防・病気平癒の「願かけふだ」が多くかけられている。また、懸崖には、左右に巨大な弓と矢が掛けられている(写真44)。

     
    (写真45)

     
    (写真46)

     
    (写真47)

     (写真45〜47)は本殿内部の中央部分で、現在の本殿は昭和六十一年(1986)に建立されている。主に厄除け、難病退散に霊験があるとされる本尊不動明王が祀られている。

     
    (写真48)

     (写真48)は本殿内に吊り下げられた巨大念珠で、触れると活力がみなぎるといわれている。

     
    (写真49)

     
    (写真50)

     (写真49)は本殿左前方に掛けられた右から順に東方守護 降三世(ごうざんぜ)明王、西方守護 大威徳(だいいとく)明王、南方守護 軍荼利(ぐんだり)明王、北方守護 金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王の掛け軸、(写真50)は堂右前方に掛けられた左から順に中央守護 大日大聖(だいにちだいしょう)不動明王、修験道開祖役の行者(えんのぎょうじゃ)神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)、真言宗八祖(はっそ)の掛け軸である。

     
    (写真51)

     (写真51)は舞台から西方を撮ったもので、京都市街地、西山が眺望できる。

     
    (写真52)

     
    (写真53)

     
    (写真54)

     (写真52)は本殿西隣に建てられた行者坊、(写真53)は本殿東隣に建てられた信徒会館、(写真54)は信徒会館前の250段目を示す標識である。

     
    (写真55)

     (写真55)は信徒会館前の石段を東に登って行ったところにある鳥居で、「不動明王」の扁額が掛かり、更に奥へ石段が続いている。これを登って行くと、瓜生山の鎮守である幸龍大権現を祀る奥之院へ通じる。(2014.10.9.訪問)

     

    0623重森三玲庭園美術館(Mirei Shigemori Garden Museum)

    • 2015.07.15 Wednesday
    • 22:47
     重森三玲(しげもりみれい)庭園美術館は京都大学正門前、吉田神社境内に入る手前の道を少し下がり、左(東)に曲がった通りの北側にある。
     玄関脇の由来書きによると、この建物は、京都・吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の旧邸で、主屋が享保年間(1716頃)、書院(国の登録有形文化財)が寛政元年(1789)頃に建てられた。
     昭和十八年(1943)に、昭和を代表する作庭家、重森三玲が譲り受け、自作の玄関前庭、書院前庭や茶庭、坪庭、また二つの茶席・無字庵(国の登録有形文化財)と好刻庵を創った。
     重森三玲(1896〜1975)は、日本美術学校で日本画を学び、いけばなや茶道を研究、その後、庭園を独学し、日本文化の総合芸術家として大きな足跡を残した。
     代表作として、京都の東福寺方丈庭園、大徳寺瑞峯院や松尾大社の庭園など多数あり、力強い石組みとモダンな苔の地割で構成される枯山水庭園が特徴である。
     平成十八年(2006)に、重森家と永年親交があった塚本喜左衛門は、主屋を引き受け、同時に全面改修を行い、重森三明氏(三玲の孫、重森三玲庭園美術館館長)と協力して、三玲のデザイン意匠を忠実に復刻した。
     現在、主屋は招喜庵として芸術や伝統文化の分野で活用されている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は重森三玲庭園美術館の門(正面からの撮影は禁止されている)、(写真2)は主屋の玄関で、「招喜庵」の表札が掛かっている。手前にあるのは由来書きである。

     
    (写真3)

     (写真3)は主屋勝手口で、こちらには「塚本喜左衛門」の表札が掛かっている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)は主屋前庭、(写真5)は門を入った右手(東側)にある中門である。内部の見学は予約制で、定められた時間に集合し、この中門から中に入って案内してもらえる。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真6)は中門を入ったところから見た大書院、(写真7)は大書院の東側廊下、(写真8)は大書院内部である。床の間には三玲筆の「林泉」の掛け軸が掛かっている。

     
    (写真9)

     (写真9)は大書院から見た庭園で、中央に三尊石、その手前に礼拝石がある。庭園を額縁に入れたような感じである。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真10〜13)はいろいろな位置から眺めた大書院前庭で、見る位置によって趣が異なる。

     
    (写真14)

     (写真14)は大書院の東側庭園で、小さな祠が祀られている。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真15)は大書院の右(東)奥(北)にある茶室「好刻庵」、(写真16)は三玲による扁額「好刻庵」である。

     
    (写真17)

     (写真17)は大書院側から撮った「好刻庵」の前庭で、蹲踞と飛び石がある。

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真18、19)は好刻庵内部で、床の間の掛け軸は三玲筆の「根」、斬新なデザインの違い棚と波濤模様の襖絵が見られる。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は「好刻庵」水屋前の中庭、坪庭、(写真21)は大書院と主屋の間の廊下と坪庭である。(2014.9.27.訪問)

     

    0622金剛寺(Kongoji Temple)

    • 2015.07.14 Tuesday
    • 23:40
     金剛寺(こんごうじ)は三条通白川橋東入五軒町の北側にある浄土宗の寺院で、山号は一切経山(いっさいきょうざん)。
     奈良時代、天平(てんぴょう)年間に行基(ぎょうき)が東岩倉山(左京区)の一切経谷(いっさいきょうだに)に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上(かみ)の堂」とも称した。  
     伝えでは、行基は丈六(じょうろく)の阿弥陀如来像を彫ったとされる。丈六とは仏像の理想の大きさで一丈六尺(約4.8m)の略。座れば一丈程度(約3m)になる。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃したが、伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者たちが見つけだし、それを粟田の地に遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(こも)(わら)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから、今も蹴上には「小物座(こものざ)(蔣座)町」という地名が残る。
     以降、地元の住民たちによって御堂は守られ信仰されてきたが、 慶長七年(1602)に岌然(きゅうねん)上人が、青蓮院門跡の許可を得て、現在の地に堂を移し寺を再興した。 正徳(しょうとく)三年(1713)には 本尊が修復され、享保(きょうほう)十五年(1730)には本堂が建立され、 現在に至る。 また当寺は「洛陽(らくよう)四十八(しじゅうはち)願所巡り」の第二十七番の札所であり、慶長年間の頃から、朱印に「行基菩薩御作(おんさく) 出陣の弥陀安置」という印を捺している。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は山門で、右手前に駒札が立ち、門柱には「浄土宗金剛寺」の寺札が掛かっている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門を入ったところから奥(北側)を撮ったもので、正面奥に本堂、その右に玄関、玄関の手前右手に庫裡が見える。また左手前に「本尊阿弥陀如来行基剋」と正面に刻まれた石標が立っている。(写真4)はその石標で、右側面には「阿弥陀峯一切経谷阿弥陀堂」と刻まれている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真5、6)は本堂で、「一切経山 明治三十八年七月 三縁山大僧正貫務書」と書かれた山号の扁額が掛かっている(写真7)。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真8)は本堂右(東)側にある玄関、(写真9)はその手前にある庫裡である。

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真10)は参道の本堂手前左(西)側にある観音堂で、「南無観世音菩薩」の扁額が掛かっている(写真11)。

     
    (写真12)

     (写真12)は、観音堂の右(北)側にある供養佛である。(2015.6.27.訪問)

     

    0621相槌稲荷明神(Aizuchi Inari Myojin Shrine)

    • 2015.07.13 Monday
    • 20:48
     合槌稲荷明神(あいづちいなりみょうじん)は三条通粟田口の北側に立つ小さな神社である。
    粟田口には、鎌倉時代まで多くの刀匠(とうしょう)が住んでいたといわれており、この神社には、第66代一条天皇の勅命で名刀「小狐丸」を制作した三条小鍛冶宗近の相槌を打った狐(稲荷大明神)が祀られている。
    能楽「小鍛冶」によると、「ある夜、一条帝が夢で三条小鍛冶宗近に剣を打たせよとのお告げを受けたため、直ちに橘道成を使者に立て、勅命を宗近に伝えた。帝からの重大な仕事を受けるには、それに見合った合槌を打つ者が必要であったが、そのような弟子が居ないため、一旦は断ろうとした宗近であったが、近所の合槌稲荷神社(正一位合槌稲荷大明神)に一生一代の大仕事の大成を祈願したところ、満願に近い夜に、稲荷明神の狐が化身した男が現れ、合槌(共槌)を振り、見事に打ち上げた。」というストーリーになっている。 
     現在、三条通をはさんだ向かいに立つ粟田神社(0598参照)の境内には、三条小鍛冶宗近が住んでいた跡に建てられた鍛治神社がある。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1)は三条通に面した合槌稲荷明神の参道入口で、赤い鳥居が4本並び、先頭の鳥居には「正一位合槌稲荷大明神」の扁額が掛かっている。(写真2)はその扁額である。また、先頭鳥居の右手前には「合槌稲荷大明神参道」の石標が立ち、その後ろに駒札がある。

     
    (写真3)

     (写真3)は参道の突き当たりを左に曲がったところを撮ったもので、民家の間の狭い路地が鍵形になって奥に延びている。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4)はその先の右(北)側にある合槌稲荷神社の入口で、真新しい石の鳥居が二つ並んでいる。(写真5)は鳥居をくぐった右手にある手水所である。

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真6、7)は鳥居の左奥にある覆屋とその中にある本殿をそれぞれ正面と右側面から撮ったもので、「正一位合槌稲荷大明神」の赤い提灯が下がっている。

     
    (写真8)

     (写真8)は本殿前に東向きに祀られた二ノ富弁財天である。(2015.6.27.訪問)

     

    PR

    calendar

    S M T W T F S
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << July 2015 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM