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    0578養源院(Yogenin Temple)

    • 2015.02.24 Tuesday
    • 20:46
     養源院(ようげんいん)は三十三間堂の東向かい、東山区三十三間堂廻り町にある浄土真宗遣迎院派(げんごういんは)の寺院で、山号は南叡山。通称 桃山御殿(ももやまごてん)、宗達寺(そうたつでら)、血天井の寺(ちてんじょうのてら)とも呼ばれている。
     豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)が父の浅井長政の追善のため、文禄三年(1594)に政伯法印(せいはくほういん)(比叡山の僧で長政の従弟)を開山として建立した寺で、長政の法号「養源院」を寺号とした。
     建立後、間もなく火災に遭ったため、元和七年(1621)淀殿の妹で徳川秀忠夫人の崇源院(すうげんいん)が伏見城の遺構を移して本堂を再建し、以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
     本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の武士が自刃した時の廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に、血天井として知られている。
     本堂の杉戸及び襖の絵(ともに重要文化財)は俵屋宗達(たわらやそうたつ)の筆によるもので、杉戸には唐獅子、白象、麒麟(きりん)等の珍しい行動が描かれており、奇抜で新鮮みにあふれ、中学・高校の美術の教科書にも用いられている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は山門(南門)で、山門の右手前には「桃山御殿 血天井 宗達筆 杉戸絵 当院」と書かれた立て札が立っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3)は山門より北にある勅使門(北門)で、この門の真っ直ぐ東に(写真4)の中門がある。立派な門であるが、全く使用されていないと見え、荒れ果てた感じがする。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は山門を入って直ぐ左(北)側にある手水舎、(写真6)は右(南)側にある白衣辨財天の鳥居で、「白衣辨財天女」の扁額が掛かっている。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は白衣辨財天のお堂、(写真8)は本殿である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9)は白衣辨財天本殿の左奥にある石の鳥居、(写真10)はその石の扁額で「金鍔辨財天女 霸降辨財天 大吉辨財天」と彫られている。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     (写真11)は白衣辨財天より少し東の参道左(北)側にある毘沙門天の鳥居、(写真12)は毘沙門堂である。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13)は参道脇に立つ「大聖歓喜天」の石柱、(写真14)は参道の紅葉である。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真17)

     (写真15、16)は参道の突き当たりにある玄関、(写真17)はその左手前にある手水舎である。
    本堂は玄関の奥にあり、俵屋宗達の絵、血天井、江戸時代初期の大工・彫刻師 左甚五郎が造ったものといわれる鶯張廊下等見るべきものが多いが、内部はすべて撮影禁止となっている。

     
    (写真18)

     
    (写真19)

     (写真18、19)は本堂南奥の護摩堂である。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は鐘楼、(写真21)は「白鷹龍神・白玉明神・赤桃明神」の扁額がかかる鳥居で、その奥に見える巨木はヤマモモ(京都市指定保存樹)である。豊臣秀吉が、伏見桃山城内に手植えしたものを、後年、この地に植え替えたものとされ、樹齢約400年といわれている。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
     (写真22)は地蔵堂、(写真23)は大日如来堂である。(2014.11.14.訪問)

     

    0577後白河天皇法住寺陵(Houjuji Imperial Tomb of Emperor Goshirakawa)

    • 2015.02.23 Monday
    • 14:02
     後白河天皇法住寺陵(ごしらかわてんのうほうじゅうじのみささぎ)は東山区三十三間堂廻り、法住寺の東にある後白河天皇(1127〜1192)の御陵である。
     この地は、後白河上皇が、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の5代にわたって院政を行った、法住寺を中心とした院政御所「法住寺殿」があったところである。陵内の法華堂には法体姿(ほったいすがた)の後白河法皇像が安置されている。
    後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安時代末期の第七十七代天皇で、鳥羽天皇の第四皇子、近衛天皇の異母兄、崇徳上皇の同母弟にあたる。在位はわずか3年だが、その後、37年間の長期にわたり院政を行った。
     兄 崇徳上皇との戦い(保元の乱)、平治の乱、平家滅亡、鎌倉幕府成立などの動乱期に平清盛、木曽義仲、源頼朝らと対応し、王朝の権威の存続を図った。源頼朝は、後白河天皇のことを「日本一の大天狗(だいてんぐ)」と称している。幼いときから今様を愛好し、熱心に稽古を続けていたといわれ、今様を集めた「梁塵秘抄」を編纂したことでも知られる。

     
    (写真1)

     (写真1)は養源院(左手)(0578参照)と法住寺(右手)(0576参照)の築地塀に挟まれた細い道で、この奥に御陵がある。

     
    (写真2)

     (写真2)はこの道の突き当たりにある御陵の表示で、後白河天皇の他に7名の親王の名前も書かれている。

     
    (写真3)

     (写真3)は(写真2)の位置から右(南)側の境内を撮ったもので、左手前に「法住寺」と刻まれた石の手水鉢、突き当たりには屋根のついた手水鉢が見える。御陵は奥の石段を上がった左手(東側)にある。

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     (写真4、5)は後白河天皇法住寺陵で、門の右前に「後白河天皇法住寺陵」の石標が立っている。(2014.11.14.訪問)

     

    0576法住寺(Houjuji Temple)

    • 2015.02.22 Sunday
    • 23:45
     法住寺(ほうじゅうじ)は東山区三十三間堂廻り、三十三間堂の東隣にある天台宗の門跡寺院で、開基は太政大臣 藤原為光、本尊は身代不動明王である。平安時代中期に、後白河上皇の院政御所「法住寺殿」が営まれたときの中心となった寺院として知られる。
     「日本紀略」、「扶桑略記」によると、法住寺は、平安時代中期の永延二年(988)、太政大臣 藤原為光が、妻と花山天皇の女御となった娘 つね子の菩提を弔うために創建し、円融天皇が行幸され落慶法要が行われた。藤原為光は、ここで念仏三昧の生活を送ったといわれている。
     長元五年(1032)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼失。その後、永暦二年(1161)から 後白河上皇の院政期に、法住寺を中心に、後白河上皇の御所「法住寺殿」が営まれ、広大な敷地をもつ法住寺殿には、南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。南殿には、後白河上皇の住居と、大きな池、東小御堂、不動堂、千手堂が建ち並び、南殿の北側に三十三間堂や、新日吉神宮、新熊野神社が法住寺殿内に建立された。   
    安元二年(1176)、後白河上皇の女御 建春門院(平滋子)が亡くなり、建春門院の御陵として法華堂が建立された。
     寿永二年(1183)、木曾義仲により、法住寺殿の南殿に火がつけられて焼き討ちされ(法住寺合戦)、後白河上皇は、北門から新日吉神宮(0572参照)へ逃げ、六条西洞院の長講堂(0556参照)に移り住んだ。
     建久三年(1192)、後白河上皇が長講堂で崩御され、焼失した法住寺殿跡に、新たに法華堂が建立されて御陵と定められ、法住寺が後白河上皇の御陵を護る寺院として明治時代まで存続した。
     明治維新で、後白河天皇稜と妙法院門跡法親王の墓所が、寺院から分離されて宮内省の管轄とされ、「大興徳院」と改名されたが、昭和三十年(1955)に「法住寺」に復名した。
     寺内には、以下の像が安置されている(いずれも撮影禁止)。すなわち、
     平安時代、慈覚大師 円仁の作とされ、後白河上皇の信仰も篤く、木曾義仲の焼き討ちのときには、後白河上皇の身代わりとなったといわれている本尊の「身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)」、
     親鸞聖人自作され、明治時代初期、東山渋谷にあった佛光寺から移された「阿弥陀如来像」と「そば喰い木像」、
     後白河天皇法住寺陵にある後白河天皇像の前立ちである「後白河上皇像」、
     赤穂浪士 大石良雄が、身代不動明王を信仰し、討ち入りのさいに成就を祈願したとされる「四十七士木像」等である。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は山門で、「法住寺」の扁額が掛かり、右(南側)手前に「後白河院御聖跡 身代不動尊 法住寺」、左(北側)手前に「親鸞聖人御木像」と「後白河天皇陵参道」の石標が立っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3、4)は山門より少し南側にある法住寺の龍宮門だった旧御陵正門で、中央手前に「旧御陵正門」、左手前に「法住寺殿蹟」の石標が立っている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5)は山門正面の玄関、(写真6)は山門を入って直ぐ左手にある宇堂である。

     
    (写真7)

     (写真7)は宇堂の扁額で、中央は「豊川吒枳尼天、厳島辨財天」、左側は「白峰辨財天、竹男大龍神」、右側は「毘沙門天王、護法魔王尊」とそれぞれ書かれている。

     
    (写真8)

     (写真8)は宇堂内部である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9、10)は本堂で、ここに身代不動明王が安置されている。

     
    (写真11)

     (写真11)は本堂脇の手水舎を兼ねた地蔵舎で、数体の地蔵尊が祀られている。

     
    (写真12)

     (写真12)は福寿観音である。

     
    (写真13)

     (写真13)は本堂前から阿弥陀堂への中門で、ここから入った右手に阿弥陀堂がある。阿弥陀堂へは本堂からも行けるようになっている。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     (写真14)は阿弥陀堂から書院への渡り廊下、(写真15)は阿弥陀堂前の中庭、(写真16)は渡り廊下東側の庭園である。

     
    (写真17)

     (写真17)は旧御陵正門手前右(南)側の築地塀脇にある石碑で「あそびをせんとやうまれけん 後白河院 梁塵秘抄」と刻まれている。(2014.11.14.訪問)

     

    0575三十三間堂(蓮華王院)(Sanjusangendo/Rengeouin Temple)

    • 2015.02.21 Saturday
    • 20:25
     三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は正式名称を蓮華王院(れんげおういん)と言い、東山区七条通東大路西入三十三間堂廻町にある天台宗の寺院で、開基は後白河上皇。蓮華王とは千手観音を意味する。
     現在は妙法院(0570参照)の管理になるお堂で、長寛二年(1164)鳥部山麓(現 阿弥陀ヶ峰)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が創建した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれている。堂内には、鎌倉時代の建長六年(1254)、仏師湛慶82歳の時の名作 丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に、1001体もの木造十一面千手千眼観音(じゅういちめんせんじゅせんげんかんのん)立像(重要文化財)と共に、慶派による鎌倉時代の名作 風神・雷神像、二十八部衆像という三十体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重要文化財)で、毎年正月に行われる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は境内の南東端、塩小路通に面して立つ大きな八脚門の南大門(重要文化財)で、(写真1)は外側、(写真2)は内側から撮ったものである。切妻造、本瓦葺で、 慶長五年(1600)豊臣秀吉により建立されている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     (写真3、4)は本堂中央正面に当たる東大門(通常は閉鎖)で、(写真3)は外側、(写真4)は内側から撮ったものである。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6)は東大門の北にある北門(通常は閉鎖)で、(写真5)は外側、(写真6)は内側から撮ったものである。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は東大門から北門の間にある回廊、(写真8)は北門側から南に向かって撮った回廊外側の塀である。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9、10)は境内北西部にある西門(通常は外から入れない)で、(写真9)は外側、(写真10)は内側から撮ったものである。

     
    (写真11)

     (写真11)は境内北東隅にある出入口の門で、通常拝観者はここから入る。

     
    (写真12)

     (写真12)は境内北西隅にある出入口の門で、観光バス、タクシー等の車両が出入りする。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13、14)は普門閣で、拝観者はここで拝観券を求め中に入る。

     
    (写真15)

     (写真15)は普門閣の入口から入った右(西)側で、拝観者は靴を脱いでここから本堂に入る。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真16〜18)は本堂(国宝)外観で、(写真16)は北東、(写真17)は南東、(写真18)は南西からそれぞれ撮ったものである。現在の建物は、文永三年(1266)後嵯峨上皇により再建されたもので、鎌倉時代の和様(わよう)の代表的遺構である。本堂内部は撮影禁止となっている。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真19、20)は本堂中央正面で、「国寶 三十三間堂」の大きな木札が掛かっている。

     
    (写真21)

     (写真21)は本堂前庭を本堂北東近くから撮ったもので、遊歩道に入る手前に立つ大きな木の近くに二本の立て札が見える。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     (写真22、23)はその立て札で、(写真22)は遊歩道を含む境内配置図、(写真23)は後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑の説明書きである。

     
    (写真24)

     (写真24)はその横に立つ「此附近 法住寺殿址」の祈念碑である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25、26)は庭園の池泉で、背景の朱色の回廊や東大門とよくマッチしている。

     
    (写真27)

     (写真27)は回廊近くに建てられた法然塔(ほうねんとう)(名号石)で、元久元年(1204) 土御門天皇が、後白河法皇の十三回忌を行ったとき、法然上人が、音曲に優れた僧とともに「六時礼賛(ろくじらいさん)法要」を行った遺蹟である。六字の名号(みょうごう)が刻まれ、法然上人霊場の一つになっている。

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     (写真28)は東大門を入った右手(北側)にある手水舎で、ここには(写真29)のように永万元年(1165)、堂僧が夢のお告げにより発見した「夜泣泉(よなきせん)」と呼ばれる霊泉が注がれている。「古今著聞集(ここんちょもんしゅう)」には、「いつも冷たく美味しく、飲んでも腹痛にならない『極楽井』で、どんなに汲んでも枯れず、汲まないときでも余らない不思議な泉」と記されている。夜、泉が湧き出す音が、すすり泣きに似ていることから「夜泣泉」と称されるようになった。また、夜泣泉のかたらわに立つ地蔵尊は、「夜泣地蔵」と呼ばれ、お地蔵さんの前掛けを持ち帰り、子供の枕に敷けば夜泣きが治るといわれている。

     
    (写真30)

     (写真30)は本堂南端の東側にある鐘楼で、訪問した時には改装中で見られなかった。

     
    (写真31)

     
    (写真32)

     
    (写真33)

     (写真31〜33)は境内南端の南大門から西にのびる築地塀(重要文化財)で、豊臣秀吉によって造営され、「太閤塀(たいこうべい)」と称されている。「太閤塀 天正十四年(1586) 豊臣秀吉築造」と刻まれた石碑も立っている。

     
    (写真34)

     
    (写真35)

     (写真34)は同じ太閤塀を外側から撮ったものである。(写真35)に示すように丸瓦や平瓦には桐の紋が付いている。境内の西面にもあったといわれるが、現在は残っていない。

     
    (写真36)

     
    (写真37)

     
    (写真38)

     
    (写真39)

     (写真36〜39)は本堂南端の西側にある「久勢稲荷大明神」である。(写真36)は鳥居で「久勢大明神」の扁額が掛かっている。(写真37)は拝殿前の鳥居、(写真38)は拝殿、(写真39)は本殿である。

     
    (写真40)

     (写真40)は本殿裏庭で、毎年1月12日〜18日の間の日曜日には、本堂に沿った60mの射場で矢を放ち通す「通し矢」の全国大会〔大的大会(おおまとたいかい)〕が行われる。特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさがあり、観客も多い。また、この日には、浄水に柳の枝を浸してその水を信者の頭上に振りかける「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)大法要」(頭痛封じにご利益があるといわれる)も行われる。

     
    (写真41)

     なお、塩小路通の南大門より少し東に「此付近 坂本龍馬 北添信摩など土佐志士寓居跡、大仏(方広寺)旧境内南限」という石碑(写真41)が立っている。(2015.2.6.訪問)

    *京都通百科事典より引用

      
     

     

    0574松明殿稲荷神社(Taimatsuden Inari Shrine)

    • 2015.02.20 Friday
    • 09:46

     松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)は下京区七条大橋西詰稲荷町にある伏見稲荷大社の境外(けいがい)末社で、田中社ともいう。

     平安時代の天暦(てんりゃく)二年(948)に創始され、社名は、同十年(956、勅(みことのり)により燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明をともしてその神輿(みこし)を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。

     はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永八年1711現在の地に移ったとされる。

     大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とし、天智天皇像(木像)及び大友皇子像(木像)を安置する。また、境内西側には、五条坂の安祥院(あんしょういん)の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水遺跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)の銘のある手洗石及び井戸がある。

     
    (写真1)

     
    (写真2)
     

     (写真1、2)は七条通に面した鳥居で、「松明殿稲荷神社」の扁額が掛かり、左(東)横に「松明殿稲荷神社」の石標が立っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真3)は参道の赤い鳥居、(写真4)はその奥の拝殿で、共に「松明殿稲荷神社」の扁額が掛かっている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)
     

     (写真5)は拝殿から見た本殿、(写真6)は境内右手(西側)奥にある末社の天満宮である。

     
    (写真7)

     
    (写真8)
     

     (写真7、8)は境内に入って直ぐの右手(西側)にある地蔵堂と手水舎で、手水舎には木食正禅養阿上人が寄贈した「宝暦二年(1752)夏」と刻まれた井戸と手洗石がある。

     
    (写真9)
     

     (写真9)はこの井戸のことを記した「市民しんぶん 下京区版」の記事である。(2014.11.14.訪問)

     

    0573専称寺(Senshoji Temple)

    • 2015.02.19 Thursday
    • 20:22

     専称寺(せんしょうじ)は東山区塩小路通大和大路西入七軒町にある寺院で、もと天台宗の末寺であったが、現在は浄土宗西山禅林寺派(せいざんぜんりんじは)に属している。創設は慶長十六年(1611)で、本堂は元禄十二年(1699)の再建である。

     境内には、醍醐三宝院の開山である理源大師(りげんだいし)の自作念持仏「馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)」が祀られている。このことから馬頭山(ばとうさん)専称寺と号し、「馬頭さんのお寺」と呼ばれるようになった。

     古文書によると、その昔、霊地大峰山(おおみねさん)に大蛇が伏して人々を悩ましていた折、理源大師は、三面憤怒(ふんぬ)の相好で虎牙(こが)を現し宝冠に白馬の頭を戴いた馬頭観音の姿は、まさに悪魔も降伏させると確信し、自作の観音像を持参して山に入り、難なく大蛇を退治したという。

     また、寺に所蔵する江戸時代の名陶・欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)(17651837)の陶墓(とうばか)や青磁象香炉は、貴重な美術品として珍重されている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)
     

     (写真1、2)は山門で、左手手前に駒札が立っている。

     
    (写真3)
     

     (写真3)は山門右手の通用門を入ったところから撮った境内で、山門正面の参道奥に本堂、その左(西側)に隣接して玄関、玄関の西側に東向きの庫裡がある。

     
    (写真4)

     
    (写真5)
     

     (写真4、5)は本堂で、「専稱寺」の扁額が掛かっている。

     
    (写真6)

     
    (写真7)
     

     (写真6)は玄関、(写真7)は庫裡である。(2014.11.14.訪問)

     

    0572新日吉神宮(Imahie Jingu Shrine)

    • 2015.02.18 Wednesday
    • 23:48
     新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、東山阿弥陀ヶ峰の西麓、豊国廟への参道途中にある神社で、永暦(えいりゃく)元年(1160)、後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請したのが始まりである。祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神山王七社を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。
     当初は、智積院南側に創建されたが、元和(げんな)元年(1615)、豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、更に明治三十年(1897)にこの地に移った。
     社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保(てんぽう)六年(1835)の改造で、大きな流造(ながれづくり)である。
     古くから朝廷の崇敬が厚く、上皇の御幸(ごこう)は百八度に及んだといわれ、数多くの天皇の遺物、宸筆(しんぴつ)を蔵している。また、寛政十年(1798)に妙法院から境内の樹下社(このもとのやしろ)に寄進された、長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉の肖像が保存されている。
     なお、江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)をはじめ、多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは有名である。

     
    (写真1)

     (写真1)は、東大路通の参道入口、智積院の北西隅にある「後白河天皇 山王七社奉祀新日吉神宮」と刻まれた石標である。

     
    (写真2)

     
    (写真3)

     参道をしばらく歩くと右手に(写真2)の鳥居が見えてくる。この鳥居をくぐると、まず山口稲荷社の鳥居(写真3)が見える。

     
    (写真4)

     (写真4)はその山口稲荷社で、祭神として宇賀御魂神を祀っている。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     
    (写真7)

     (写真5)は山口稲荷社の右手に見える新日吉神社の鳥居、(写真6、7)はその後方にある朱塗りの楼門である。

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)

     (写真8)は手水舎、(写真9、10)は拝殿、(写真11)は拝殿の右(南)側にある社務所である。

     
    (写真12)

     (写真12)は本殿に上る南側の石段とその右手にある「新日吉神社」の石標である。石標の横には「旧・社標 昭和三十三年十月に後白河天皇の御神霊を法住寺陵よりお迎えし、本殿に合祀。昭和三十四年十月に現在の『新日吉神社』と社名を変更致しました。」と説明書きがある。

     
    (写真13)

     
    (写真14)

     (写真13、14)は本殿前の中央石段を上がったところの両脇にある神猿の阿吽像である。(写真13)は向かって右側の烏帽子をかぶった阿像、(写真14)は左側の御幣をかついだ吽像で、大神の使いとされ、信者の悪気を祓い、全ての災いが去るといわれている。

     
    (写真15)

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     (写真15)は正面から見た本殿拝所、(写真16)は拝所から見た本殿、(写真17)は南側側面から見た本殿である。

     
    (写真18)

     (写真18)は本殿向拝柱上方に安置されている神猿で、よく見ないと識別出来ない。

     
    (写真19)

     (写真19)は本殿の後方(東側)にあるご神木のスダジイで、樹齢500年〜800年ともいわれ、平成十六年(2004)、京都市指定保存樹にされている。

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真20)は本殿右(南)側の奥に並んで祀られている樹下社(このもとのやしろ)(豊国神社)〔左〕と愛宕神社、秋葉神社〔右〕で、(写真21)は近くから撮ったものである。

     
    (写真22)

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真22、23)は樹下社の拝所と本殿、(写真24)は北側側面から見た本殿である。樹下社の祭神は国泰院殿前関白大相国(豊臣秀吉)で、日吉上七社の一つに数えられ、天明五年(1785)の創建である。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25、26)は愛宕神社、秋葉神社の拝所と本殿である。

     
    (写真27)

     
    (写真28)

     
    (写真29)

     (写真27〜29)は本殿左(北)側にある飛梅天満宮で、洛陽二十五社天満宮の一つに数えられており、祭神は菅原道真と道真遺愛の飛梅之霊である。永暦元年(1160)、後白河天皇により創建されている。飛梅之霊は、道真が大宰府に流されるときに、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と別れを惜しんだ旧宅の梅が、一夜のうちに大宰府まで飛んでいく花を咲かせたという故事による。(写真27)は鳥居、(写真28)は拝所、(写真29)は本殿である。

     
    (写真30)

     (写真30)は新日吉神宮の神々を一覧表に整理したものである。(2014.9.23.訪問)

     

    0571豊国廟(Hokokubyo Mausoleum)

    • 2015.02.17 Tuesday
    • 23:54

     豊国廟(ほうこくびょう)は東山七条から智積院と妙法院の間の道(女坂)を東に登って行く阿弥陀ヶ峰の山上にある豊臣秀吉の廟所(墓所)である。

     天下統一を果たした秀吉は、慶長三年(1598)八月十八日、伏見城で六十三歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、阿弥陀ヶ峰に葬られた。翌年四月十八日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、社領一万石を誇る壮大壮麗な豊国社(とよくにのやしろ)が創建された。

     以後、毎年四月と八月の十八日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、慶長二十年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、以後は墓参する人もなくなった。

     現在の廟は明治三十一年(1898、豊太閤三百年祭に際し、豊国会により全国からの募金で整備されたもので、そのとき墳上に高さ約十メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。

     なお、豊国社は明治十三年(1880、方広寺大仏殿跡(0569参照)の地に豊国神社(0567参照)として再興されている。

     
    (写真1)
     

     (写真1)は豊国廟への参道入口で左手が妙法院、右手が智積院である。「豊国廟参道」と刻まれた大きな石標が立っている。

     
    (写真2)
     

     (写真2)は参道途中にある京都女子学園のスクールバス(プリンセスライン)乗場(右手)である。

     
    (写真3)

     
    (写真4)
     

     (写真3)は豊国廟への階段のスタート地点で、この34段の階段を登った上に(写真4)の鳥居がある。

     
    (写真5)

     
    (写真6)
     

     鳥居をくぐると太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広大な敷地が広がり、ここにかって豊国社殿が建てられていた。現在は一部京都女子学園のスクールバス駐車場になっており(写真5)、秀頼の子・国松丸と秀吉の側室松の丸殿の五輪塔も見られる(写真6)

     
    (写真7)

     
    (写真8)
     

     (写真7)は鳥居から更に真っ直ぐにのびる参道で、正面奥に社殿、その手前左手に社務所が見える。また、そこに行くまでの右手に手水舎(写真8)がある。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     
    (写真11)
     

     (写真9)は社務所、(写真1011)は社殿である。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     
    (写真14)
     

     (写真12)は社殿を通り抜けた先にある石段の登り口で、ここから(写真13)のような313段の石段を何カ所かの踊り場を経て登ると、(写真14)のような平坦な道になり、正面奥に神門が見える。

     
    (写真15)

     
    (写真16)
     

     (写真1516)は神門で、(写真15)は外(西)側から、(写真16)は内(東)側から

    撮ったものある。なお、門の前に4段の石段がある。

     
    (写真17)

     
    (写真18)
     

     (写真17)は神門を入ったところから更に続く172段の石段で、(写真18)はその最後の部分である。ここまでの石段は合計343134172523段あり、途中で何度か休憩しながら登ったが、誰一人登っている人は見かけなかった。

     
    (写真19)

     
    (写真20)
     

     (写真1920)は阿弥陀ヶ峰の山頂に建つ高さ約10mの秀吉の五輪石塔である。 (2014.9.23.訪問)
     

    0570妙法院(Myohoin Temple)

    • 2015.02.16 Monday
    • 23:47
     妙法院(みょうほういん)は東山区東大路通七条上ル東側にある天台宗三門跡寺院(妙法院、青蓮院、三千院)の一つで、山号は南叡山(なんえいざん)。 
      「華頂要略」によると、妙法院は、伝教大師 最澄を開山として大楽大師 恵亮和尚が創建した比叡山山上にあった坊が始まりである。
     平安時代末期の永暦元年(1160)、後白河上皇が、紀州の熊野権現本宮(くまのごんげんほんぐう)の祭神を勧請して新熊野神社を創建するときに、後白河上皇の護持僧だった比叡山三塔の一つの西塔(さいとう)本覚院(ほんがくいん)の僧 昌雲が、初代別当(代表者)に任命され、洛中に移築された。
     妙法院の門主系譜では、初代住持を最澄とし、第15世が後白河法皇、第16世が昌雲となっている。昌雲の弟子であり甥でもある第17世 実全は、後の天台座主になっている。
     鎌倉時代、第18世として尊性法親王(後高倉天皇の皇子)が入寺してから、門跡寺院としての地位が確立し、「綾小路房」、「綾小路御所」、「綾小路宮」などと称されていた。
     正応四年(1291)、後白河法皇百回忌供養は、妙法院住持の尊教が三十三間堂において行い、以後、50年ごとの聖忌供養は、妙法院住持が三十三間堂にて行うことが慣例となっている。
     その後、焼失するが、豊臣秀吉が、方広寺(0569参照)を建立するときに、妙法院を経堂として現在の地である法住寺の付近に移築し復興した。
     文禄四年(1595)、方広寺の大仏殿が完成し、秀吉は、亡両親や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台宗・真言宗・臨済宗・律宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・浄土真宗)の僧を集めた「千僧供養」を妙法院で行った。秀吉は、方広寺や蓮華王院 三十三間堂を妙法院所管の仏堂として管理下においていた。
     江戸時代幕末、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から西国へ出京した「七卿落ち」の舞台にもなっている。

     
    (写真1)

     (写真1)は東大路通に面した西向きの大門(山門)である。「妙法院門跡」の大きい寺札が掛かっている。

     
    (写真2)

     (写真2)は境内北側にある車両口の門で、こちらにも「妙法院門跡」の寺札が掛かり、手前右手に「妙法院」の石標も立っている。

     
    (写真3)

     (写真3)は内側から見た唐門で、東大路に面し、山門の南側にある切妻造の四脚門である。

     
    (写真4)

     (写真4)は大門を入ったところから東南の方向を撮ったもので、左から庫裡、大玄関、玄関の順に並んでいる。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6)は庫裡(国宝)で、桃山時代の豪華な建物の遺構である。庫裡は寺院の台所兼事務所の役割を果たす建物で、秀吉が行った千僧供養に集まった千人もの僧の食事を準備した台所である。入母屋造で、大棟上のほか、左側屋根上にも小棟を出して煙出しが設けられている。内部は土間、板間、座敷の3部分に分かれ、土間と板間部分は天井板を張らず貫や梁などの構造材をそのまま見せた豪快な造りになっている。
     近世の庫裡は、居住機能も持つが、妙法院の庫裡は、調采喫飯(ちょうさいきっぱん)の場として限定されている。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     
    (写真9)

     (写真7)は大玄関と玄関(重要文化財)、(写真8)は大玄関、(写真9)は玄関である。
      元和五年(1619)、東福門院(徳川秀忠の五女 和子、後水尾天皇の中宮)入内のときに大書院(重要文化財)と共に建築された女院御所の旧殿を移築したものといわれている。玄関の右手前には「明治天皇妙法院行在所」の石標が立っている。

     
    (写真10)

     (写真10)は車両口から入った左(東)側、庫裡の北側にある寺務所である。

     
    (写真11)

     (写真11)は唐門の正面にある本堂への入口で、庭園の向こうに屋根の見えるのが本堂である。

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真12)は本堂(普賢堂)、(写真13)はその説明書きである。江戸寛政期(1790年代)の建立とされ、梁間(7.1m)・桁行(8.9m)とも三間、土間床に龍図の鏡天井を持つ禅宗様の重層宝形造り、堂中央に本尊普賢菩薩像(重要文化財)、後壇には元三大師、五大明王像が安置されている。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14)は本堂内部、(写真15)は本尊の木造普賢菩薩騎象像(重要文化財)で、平安時代末期の作と伝えられている。辰・巳歳の守護尊で殊に「健康長寿」のご利益があるとされ、「延命尊」と呼ばれている。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     
    (写真18)

     (写真16〜18)は、明治三十一年(1898)に建立された檜皮葺の宸殿で、本尊・阿弥陀如来像、中世よりの歴代天皇、皇后の位牌が祀られている。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     
    (写真21)

     (写真19)は宝物庫の龍華堂、(写真20)は地蔵堂、(写真21)は白龍弁財天である。

     
    (写真22)

     (写真22)の大きな石碑は、幕末の文久三年(1863)、公武合体派と対立する勤王急進派の三条実美卿一向が当院に集結、合議の末、市内戦を回避、後の維新を期して、西国へ向け出京したという「七卿落ち」の祈念碑で、有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正元年(1912)に建立されたものである。(2014.9.23.訪問)
     

    0569方広寺・大仏殿跡(Hokouji Temple & Remains of Great Buddha and its Hall)

    • 2015.02.15 Sunday
    • 23:19
     方広寺(ほうこうじ)は豊国神社(0567参照)の北隣にある天台宗山門派の寺院で、豊臣秀吉によって創建され、大仏殿として知られた。
     桃山時代の天正十四年(1586)、豊臣秀吉が、奈良東大寺以上の大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。文禄四年(1595)に大仏殿がほぼ完成。前面82m、側面57m、高さ50mの大仏殿の中に高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗大仏坐像が安置された(初代)。しかし、慶長元年(1596)の大地震により、開眼供養前の大仏と築地が倒壊してしまう。
     慶長二年(1597)信濃国の善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀如来が安置されたが、翌慶長三年(1598)、秀吉の容態が悪化し、阿弥陀如来は善光寺へ返還されている。
     秀吉の死後、豊臣秀頼が遺志を継ぎ、片桐且元を中心に大仏の再建(二代目)を行うも、慶長七年(1602)、鋳造中の大仏が融解して出火し、大仏殿も炎上した。
     その後、慶長十五年(1610)、大仏および大仏殿の再建が始まり、同十七年(1612)銅製の大仏(三代目)と大仏殿が完成した。また、慶長十九年(1614)に梵鐘が完成、南禅寺の禅僧 清韓文英に命じて銘文を起草させたが、徳川家康より梵鐘の銘文について異議が唱えられ(「鐘銘事件」)、大仏の開眼供養が中止された。
     寛文二年(1662)、地震でこの大仏も倒壊、寛文七年(1667)、大仏が木造で造り直された(四代目)。壊れた大仏の銅は、寛永通宝の鋳造に用いられたといわれている。
     寛政十年(1798)、大仏殿に落雷し、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も焼失した。
    享和元年(1801)、旧大仏を1/10に縮小した木像の盧舎那仏(大日如来)が造られ(五代目)、現在も本尊として本堂に安置されている。
     また、天保年間(1830〜1844)、尾張国(現在の愛知県)の有志が、旧大仏を1/10に縮小した肩より上のみの木造半身像と仮殿を造り寄進したが、昭和四十八年(1973)、放火により焼失した。
     平成十二年(2000)、発掘調査が行われ、方広寺大仏殿の基壇と台座が明らかになった。
     現在は、大仏殿跡の遺構は、地下に保存され緑地公園となっている。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は現在の本堂で、「感應」の扁額が掛かっている。

     
    (写真3)

     (写真3)はその東側に隣接する大黒天堂で、手前左手に「傳教大師御作 豊太閤護持 大黒尊天」と刻まれた石標が立っている。

     
    (写真4)

     (写真4)は大黒天堂の南側にある手水舎で、後方(南)に見えるのは豊国神社である。

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真5、6)は本堂の南側にある鐘楼で、天井には天女などの絵が描かれている。梵鐘は慶長十九年(1614)、京都三条釜座の名護屋三唱により鋳造されており、大きさは、高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tである。

     
    (写真7)

     
    (写真8)

     (写真7)は国家安康の梵鐘(重要文化財)で、東大寺、知恩院のものと共に日本三大名鐘の一つに数えられている。(写真8)はその銘文で、白枠で囲われた「国家安康」「君臣豊楽」の部分が、家と康を分断し、豊臣家を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったといわれている。

     
    (写真9)

     
    (写真10)

     (写真9)は鐘楼内に展示されている大仏殿遺物の一例で、手前から順に秀頼によって再興された大仏殿の柱にまかれていたという鉄製の輪(部分)、大仏殿の屋根の一部にまかれていたという鉄製の金具、大仏の蓮弁の一部、(写真10)は鉄製の輪の内部に置かれた説明書きである。

     
    (写真11)

     
    (写真12)

     
    (写真13)

     (写真11)は旧大仏を1/10に縮小した本尊の盧舎那仏で、(写真12)はその蓮弁内側の蓮肉部を拡大して撮ったもの(赤線で囲った部分)、(写真13)は本尊の左手にある龍の絵である。

     
    (写真14)

     
    (写真15)

     (写真14、15)は眉間籠り仏で、三代目大仏の眉間にはまっていた仏像である。

     
    (写真16)

     
    (写真17)

     (写真16、17)は本堂に展示されている旧大仏遺物である。(写真16)は三代目大仏の蓮肉部で、(写真12)の蓮肉部の10倍の大きさがある。(写真17)の左側にあるのは、大仏殿の四隅に吊られていた風鐸である。

     
    (写真18)

     (写真18)は鐘銘拓本で、最後から三行目上から二段目に「国家安康」、同二行目最上段に「君臣豊楽」の部分が見える。

     
    (写真19)

     
    (写真20)

     (写真19)は大黒堂内部で、手前側の間には「大黒天」の大きな額が掛かっており、天井は格天井になっていて、いろいろな花の絵が描かれている(写真20)。

     
    (写真21)

     
    (写真22)

     (写真21)は一番奥の仏間で、中央後方に伝教大師(767〜822)作と伝えられる小さな大黒尊天像が安置されている。(写真22)はその拡大で、鎧を身に着けており、秀吉の護持仏になっていたという。その前に祀られた同じ姿の大きい像は前立仏である。

     
    (写真23)

     
    (写真24)

     (写真23、24)は方広寺の東南、豊国神社の東隣にある大仏殿跡で、「大仏殿跡緑地」の石標が立ち、緑地公園になっている。発掘調査によって大仏殿の基壇、台座などが見つかった場所で、この地下に大仏殿跡の遺構が保存されている。

     
    (写真25)

     
    (写真26)

     (写真25、26)は公園内に立てられた説明板で、それぞれ「方広寺大仏殿跡」と「大仏殿緑地」の説明が、図面と写真入りで詳しく書かれている。

     
    (写真27)

     (写真27)は京都国立博物館の平成知新館前にある「方広寺復元図」で、これを見ると大仏殿のあった頃の広大な敷地と現在の差がよく解る。

     
    (写真28)

     (写真28)は京都国立博物館の西側に今も残る大仏殿石塁遺構である。
    なお、正面通は、方広寺大仏の正面の通りから名付けられたもので、豊臣秀吉は、東の豊国廟と西本願寺と方広寺が一直線になるよう計画したといわれるが、徳川家康により、その間に東本願寺・渉成園が創建され分断されてしまった。(2014.9.23.訪問)

     

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