スポンサーサイト
- 2019.05.01 Wednesday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
- -
松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)は下京区七条大橋西詰稲荷町にある伏見稲荷大社の境外(けいがい)末社で、田中社ともいう。
平安時代の天暦(てんりゃく)二年(948)に創始され、社名は、同十年(956)、勅(みことのり)により燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明をともしてその神輿(みこし)を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永八年(1711)現在の地に移ったとされる。
大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とし、天智天皇像(木像)及び大友皇子像(木像)を安置する。また、境内西側には、五条坂の安祥院(あんしょういん)の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水遺跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)の銘のある手洗石及び井戸がある。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は七条通に面した鳥居で、「松明殿稲荷神社」の扁額が掛かり、左(東)横に「松明殿稲荷神社」の石標が立っている。
(写真3)
(写真4)
(写真3)は参道の赤い鳥居、(写真4)はその奥の拝殿で、共に「松明殿稲荷神社」の扁額が掛かっている。
(写真5)
(写真6)
(写真5)は拝殿から見た本殿、(写真6)は境内右手(西側)奥にある末社の天満宮である。
(写真7)
(写真8)
(写真7、8)は境内に入って直ぐの右手(西側)にある地蔵堂と手水舎で、手水舎には木食正禅養阿上人が寄贈した「宝暦二年(1752)夏」と刻まれた井戸と手洗石がある。
(写真9)
(写真9)はこの井戸のことを記した「市民しんぶん 下京区版」の記事である。(2014.11.14.訪問)
専称寺(せんしょうじ)は東山区塩小路通大和大路西入七軒町にある寺院で、もと天台宗の末寺であったが、現在は浄土宗西山禅林寺派(せいざんぜんりんじは)に属している。創設は慶長十六年(1611)で、本堂は元禄十二年(1699)の再建である。
境内には、醍醐三宝院の開山である理源大師(りげんだいし)の自作念持仏「馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)」が祀られている。このことから馬頭山(ばとうさん)専称寺と号し、「馬頭さんのお寺」と呼ばれるようになった。
古文書によると、その昔、霊地大峰山(おおみねさん)に大蛇が伏して人々を悩ましていた折、理源大師は、三面憤怒(ふんぬ)の相好で虎牙(こが)を現し宝冠に白馬の頭を戴いた馬頭観音の姿は、まさに悪魔も降伏させると確信し、自作の観音像を持参して山に入り、難なく大蛇を退治したという。
また、寺に所蔵する江戸時代の名陶・欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)(1765〜1837)の陶墓(とうばか)や青磁象香炉は、貴重な美術品として珍重されている。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門で、左手手前に駒札が立っている。
(写真3)
(写真3)は山門右手の通用門を入ったところから撮った境内で、山門正面の参道奥に本堂、その左(西側)に隣接して玄関、玄関の西側に東向きの庫裡がある。
(写真4)
(写真5)
(写真4、5)は本堂で、「専稱寺」の扁額が掛かっている。
(写真6)
(写真7)
(写真6)は玄関、(写真7)は庫裡である。(2014.11.14.訪問)
豊国廟(ほうこくびょう)は東山七条から智積院と妙法院の間の道(女坂)を東に登って行く阿弥陀ヶ峰の山上にある豊臣秀吉の廟所(墓所)である。
天下統一を果たした秀吉は、慶長三年(1598)八月十八日、伏見城で六十三歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、阿弥陀ヶ峰に葬られた。翌年四月十八日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、社領一万石を誇る壮大壮麗な豊国社(とよくにのやしろ)が創建された。
以後、毎年四月と八月の十八日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、慶長二十年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、以後は墓参する人もなくなった。
現在の廟は明治三十一年(1898)、豊太閤三百年祭に際し、豊国会により全国からの募金で整備されたもので、そのとき墳上に高さ約十メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。
なお、豊国社は明治十三年(1880)、方広寺大仏殿跡(0569参照)の地に豊国神社(0567参照)として再興されている。
(写真1)
(写真1)は豊国廟への参道入口で左手が妙法院、右手が智積院である。「豊国廟参道」と刻まれた大きな石標が立っている。
(写真2)
(写真2)は参道途中にある京都女子学園のスクールバス(プリンセスライン)乗場(右手)である。
(写真3)
(写真4)
(写真3)は豊国廟への階段のスタート地点で、この34段の階段を登った上に(写真4)の鳥居がある。
(写真5)
(写真6)
鳥居をくぐると太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広大な敷地が広がり、ここにかって豊国社殿が建てられていた。現在は一部京都女子学園のスクールバス駐車場になっており(写真5)、秀頼の子・国松丸と秀吉の側室松の丸殿の五輪塔も見られる(写真6)。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は鳥居から更に真っ直ぐにのびる参道で、正面奥に社殿、その手前左手に社務所が見える。また、そこに行くまでの右手に手水舎(写真8)がある。
(写真9)
(写真10)
(写真11)
(写真9)は社務所、(写真10、11)は社殿である。
(写真12)
(写真13)
(写真14)
(写真12)は社殿を通り抜けた先にある石段の登り口で、ここから(写真13)のような313段の石段を何カ所かの踊り場を経て登ると、(写真14)のような平坦な道になり、正面奥に神門が見える。
(写真15)
(写真16)
(写真15、16)は神門で、(写真15)は外(西)側から、(写真16)は内(東)側から
撮ったものある。なお、門の前に4段の石段がある。
(写真17)
(写真18)
(写真17)は神門を入ったところから更に続く172段の石段で、(写真18)はその最後の部分である。ここまでの石段は合計34+313+4+172=523段あり、途中で何度か休憩しながら登ったが、誰一人登っている人は見かけなかった。
(写真19)
(写真20)
(写真19、20)は阿弥陀ヶ峰の山頂に建つ高さ約10mの秀吉の五輪石塔である。 (2014.9.23.訪問)