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- 2019.05.01 Wednesday
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本覚寺(ほんかくじ)は下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある浄土宗の寺院で、山号は佛性山(ぶっしょうざん)。團譽上人(だんよしょうにん)〔玉翁和尚(ぎょくおうおしょう)〕を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝(みなもとのさねとも)の後室 坊門信子(ぼうもんのぶこ)が、貞応(じょうおう)元年(1222)に、西八条の遍照心院(へんじょうしんいん)(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(1591)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)(光源氏のモデル)の河原院塩竃の第(かわらのいんしおがまのだい)のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竃の浦(宮城県)の景観を移し、毎月難波(なにわ)の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所本塩竃町にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期に八文字屋本(はちもんじやぼん)と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。
洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第四十八番札所でもあり、札所本尊は泥付地蔵である。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門で、左手前に「佛性山 本覚寺」と「此寺に八文字屋自笑翁碑あり」と刻まれた二つの石標と駒札が立っている。
(写真3)
(写真4)
(写真3)は鐘楼、(写真4)は山門の奥に見える勅使門である。
(写真5)
(写真6)
(写真5、6)は本堂で、「佛性山」の扁額が掛かっている。
(写真7)
(写真7)は前庭である。(2014.9.23.訪問)
白毫寺(びゃくごうじ)は下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある単立寺院で、速成就院と号し、太子堂白毫寺とも呼ばれている。
創建の詳細は不明であるが、かっては、知恩院総門の北、粟田口にあったという。当初は真言律宗で京都の拠点寺になっていた。鎌倉時代の忍性(にんしょう)の創建ともいわれている。
江戸時代、知恩院の拡張に伴い、当地に移ったとされ、当初は塩竃太子堂といわれた。 天明の大火(1788)、安政の大火(1858)、元治の大火(1864)でいずれも類焼している。
本堂安置の本尊・聖徳太子立像は聖徳太子自刻ともいわれ、南無仏太子と称している。二歳の聖徳太子が合掌し、南無仏と唱えた姿を表し、その故事に由来する。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門である。
(写真3)
(写真4)
(写真3)は本堂と前庭、(写真4)は本堂で、「聖徳太子」の扁額が掛かっている。
(写真5)
(写真5)は本堂の右(北)側にある玄関で、「太子堂」の扁額が掛かっている。
(写真6)
(写真6)は玄関の右(東)側にある庫裡である。(2014.9.23.訪問)
上徳寺(じょうとくじ)は下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある浄土宗の寺院で、山号は塩竃山(えんそうざん)。
寺伝によれば、慶長八年(1603)に、徳川家康によって、上徳院殿(徳川家康の側室・阿茶の局)が開基となり、伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した寺といわれる。寺内に泰栄院(徳川家康の側室・お仙の方)の宝篋印塔がある。
以後、度重なる火災により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。
本堂は、宝暦三年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したものである。堂内には、江州矢橋(やばせ)(滋賀県)の鞭崎(むちざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置している。
境内の地蔵堂は、明治四年(1871)に再建され、高さ2メートル余の石地蔵を安置している。この地蔵は「世継(よつぎ)地蔵」と呼ばれ、往古から、良い世継ぎが授かるご利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。
また、境内には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内雲鼓(ほりうちうんこ)(1728没)の句碑及び墓がある。
なお、上徳寺の地には、かつて源融の邸宅 六条河原院があり、鴨川の水を引き入れて池をつくり、陸奥国の塩釜の浦の景観を真似た庭園を造営した。毎月30石の海水を難波から運ばせては塩焼をさせて、その風情を楽しんだといわれている。現在の地名「本塩竈町」は、それに由来するもので、上徳寺の山号は「塩竃山」、住職の苗字も「塩竈」と称する。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門で、左(南)手前に「上徳院殿、霊光院殿 阿茶の局墓所」、右(北)手前に「冠翁堀内雲鼓墓所」の石碑が立っており、門には「世継地蔵大菩薩」の提灯が下がっている。
(写真3)
(写真4)
(写真3、4)は本堂で、「塩竃山」の扁額が掛かっている。
(写真5)
(写真5)は本堂左手の勅使門で、その右(西)側に社務所がある。
(写真6)
(写真7)
(写真8)
(写真6、7)は社務所の右(西)側にある地蔵堂で、世継地蔵が安置されている。また、(写真8)はその前にある手水舎である。
(写真9)
境内にはこれ以外にも地蔵尊が沢山祀られている。(写真9)は「身代り地蔵尊」で、苦悩・災難・疾病・輪禍などの身代りとなって守護してもらえるという。
(写真10)
(写真10)は「はがため地蔵尊」(一番左)で、「歯固め」として歯を守り、寿命を伸ばしてもらえるという。
(写真11)
(写真11)は「水子地蔵尊」で、人形作家 岡本正太郎(1895〜1980)作。南北朝時代、観応二年(1351)銘の緑泥片石の板卒塔婆がある。
(写真12)
(写真12)は二つ並んだ延命地蔵尊である。
(写真13)
(写真14)
(写真13)は写経・願文を納経するために建てられた大慈殿とその前に造られた宝篋印塔、(写真14)は平成十四年(2002)に造られた佛足石である。
(写真15)
(写真15)は墓地の一部で、通路の右手に阿茶の局の墓、左手に泰栄院の宝篋印塔が見える。
(写真16)
(写真17)
(写真16)は上徳院殿(阿茶の局)の墓、(写真17)は泰栄院(お仙の方)の宝篋印塔である。何故、お仙の方の墓碑が上徳寺にあるのかは不明であるが、阿茶の局と共に実父が甲斐武田家の旧臣であったことと関係があるのかもしれない。
(写真18)
(写真18)は山門を入って直ぐ右(北)側にある堀内雲鼓の句碑で、「日のめぐみ うれしからずや 夏木立 雲鼓」と刻まれている。(2014.9.23.訪問)