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- 2019.05.01 Wednesday
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勝持寺(しょうじじ)は西京区大原野南春日町にある天台宗の寺院で、大原野神社に隣接しており、正式には小塩山(おしおざん)大原院勝持寺という。
約100本の桜が境内を埋め尽くすことから、「花の寺」と称されている桜の名所である。平安時代末期の僧 西行法師ゆかりの「西行桜(三代目)」が鐘楼のそばにある。
奈良時代中期の白鳳八年(679)、役行者(えんのぎょうしゃ)が、天武天皇の勅命で創建したといわれている。
延暦十年(791)、桓武天皇の勅命で、伝教大師 最澄により再建され、「小塩山 大原寺(たいげんじ)」と称したといわれている。仁寿年間(851〜854)に仏陀上人(ぶっだしょうにん)が、文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、「大原院勝持寺」に改称された。
保延六年(1140)、歌僧 西行法師が、勝持寺で出家して草庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになり、古来から有名な桜の名所として知られるようになった。南北朝の時代、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉が闘茶会を宴すなど、数々の花見の宴、茶会でにぎわったようである。
謡曲「西行桜」は、この隠栖している西行法師と、庵室の庭に咲いている桜をからませて、春宵の閑寂な情趣をえがいたもので、当寺が舞台になっている。
応仁の乱で焼失したが、天正年間(1573〜1592)に再建され、江戸時代初期には桂昌院の帰依を受けたといわれている。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は東門、(写真2)は南門で、南門には「小塩山大原院勝持寺」、「花の寺」、「西国藥師第四十二番霊場」の寺札が掛かっている。
(写真3)
(写真3)南門正面にある書院で、比較的最近建てられたものと思われる。
(写真4)
(写真5)
(写真6)
(写真4、5)は書院奥の境内北東隅にある阿弥陀堂で、右手前には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像が見られる(写真6)。
(写真7)
(写真7)は阿弥陀堂の東側に隣接する瑠璃光殿で、内部には薬師如来像の本尊と胎内仏、金剛力士像(以上重要文化財)、日光菩薩・月光菩薩・十二神将像、西行法師像、醍醐天皇勅額(小野道風筆)等の宝物が納められている。
(写真8)
(写真9)
(写真8、9)は阿弥陀堂の南西に東向きに建つ不動堂である。弘法大師が平安の始め、眼病に悩む人達のため、不動明王に病魔退散を祈願されたところ、霊験あらたかであったため、石不動明王を刻んで岩窟中に安置したと伝えられている。
(写真10)
(写真11)
(写真10)は不動堂内部で、中央のガラス越しに見えるのが岩窟中にある不動明王(写真11)、堂内右手に安置されているのが愛染明王(あいぜんみょうおう)である。
(写真12)
(写真13)
(写真12、13)は不動堂の左手前石垣下にある瀬和井の泉と鏡石である。鏡石は西行法師がこの寺で出家した時(1140)、この石を鏡の代わりに使い、頭を剃ったと伝わっている。
(写真14)
(写真15)
(写真16)
(写真14)は鏡石の南東にある鐘楼、(写真15、16)は鐘楼の東側にある西行桜である。
(写真17)
(写真18)
(写真17、18)は鐘楼の西側にある池とその中に立つ魚籃(ぎょらん)観音である。
(写真19)
(写真20)
(写真19)は境内中央南側にある冴野の沼、(写真20)は境内の中央部に見られる大半が染井吉野の桜である。
花見んと むれつつ人の くるのみぞ
あたらさくらの とがにはありける(西行法師)
地にとどく 西行桜 したしけれ(虚子)
(2014.4.3.訪問)