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- 2019.05.01 Wednesday
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聖澤院(しょうたくいん)は妙心寺塔頭寺院の一つで、妙心寺四派(0049参照)の一つ・聖澤派の本庵である。大永四年(1524)に細川氏や土岐氏の支援を得て創建された。妙心寺「中興開山」といわれた雪江宗深(せっこうそうしん)には四人の優れた弟子があり、後にそれぞれが「四派」の開祖として妙心寺発展の祖となったが、その一人「才は東陽」と称えられた東陽英朝(とうようえいちょう)を勧請開祖に迎えた。
聖澤院の建物は近世禅宗塔頭寺院の典型的な姿を留めており、方丈(客殿)は慶長年間に建立されたものである。八十四面に及ぶ襖絵は、江戸前期から中期の狩野派の絵師で、平戸藩(長崎県)御用絵師でもあった片山尚景(かたやまなおかげ)が手がけた。墨一色で表情豊かに七頭の獅子の勇姿を描いた「獅子図」や「十牛図」、「花鳥図」などが残されている。
江戸時代前期に建てられた書院は、床柱に杉丸太を用いるなど数寄屋の趣を取り入れた造りで、一の間には「山水・麒麟図」、二の間には「竹林七賢図」の襖絵及び壁貼付絵がある。いずれも江戸幕府に仕えた絵師・狩野栄川院(えいせんいん)典信(みちのぶ)筆の水墨画で、太い濃墨の曲線で見事に立体感が表された二頭の麒麟や、瀟洒な竹林に佇む隠士の姿が描き出された水墨画である。また、近代の文人画家・富岡鉄斎60歳の時の作で、雄大な山岳風景を描いた「巌栖谷飲図(がんせいこくいんず)」も残されている。
(写真1)
(写真2)
(写真3)
(写真1、2)は山門、(写真3)は山門前に立てられた「第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」の看板である。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は山門を入った右手(北側)にある玄関、(写真5)はその更に右手にある庫裡である。
(写真6)
(写真6)は山門を入った左手(南側)にある方丈への入口で、ここが拝観受付となっている。
(写真7)
(写真7)は方丈で、中央に「聖澤院」の扁額が掛かっている。内部は撮影禁止である。
(写真8)
(写真9)
(写真10)
(写真8〜10)は方丈前の庭園で、(写真8)は東側、(写真9)は中央部、(写真10)は西側を撮ったものである。
(写真11)
(写真11)は方丈前庭園東端にある手水鉢である。
(写真12)
(写真13)
(写真12)は方丈の北西隅にある手水鉢で、その前方に見えるのが、書院西の庭(写真13)である。
(写真14)
(写真15)
(写真14、15)は書院で、左(西)から一の間、二の間、三の間と続く。手前に見えるのは方丈から書院への渡り廊下である。
(写真16)
(写真16)は渡り廊下の東側にある坪庭で、東端に花頭窓が見える。
(写真17)
(写真18)
(写真17)は花頭窓の東側にある坪庭、(写真18)は花頭窓の東側から西向きに撮ったもので、手前に鉢植えの蝋梅が咲いている。
(写真19)
(写真19)はこの坪庭横の廊下に掛けられた聖澤派寺院名刺簿の一部で、全国にある聖澤派寺院の名前が掲げられている。
(写真20)
(写真20)は方丈東側の廊下で、前方に見えるのは方丈庭園である。(2014.1.27.訪問)
十輪寺(じゅうりんじ)は西京区大原野小塩町にある天台宗の寺院で、山号は小塩山(おしおやま)。平安時代の六歌仙の一人で、「伊勢物語」でも知られる在原業平(ありわらのなりひら)が晩年隠棲したと伝えられ、なりひら寺とも呼ばれる。
寺伝によれば、嘉祥三年(850)、文徳(もんとく)天皇の后・染殿(そめどの)皇后の安産祈願のために、比叡山の恵亮(えりょう)和尚を開山に請じて創建したものと伝えられている。以後、勅願所として栄えたが、応仁の兵火により堂宇は焼亡し、江戸時代の寛文年間(1661〜1673)に、公卿の藤原定好(さだよし)により再興され、更に、藤原常雅(つねまさ)により堂宇が整備され、現在に至っている。
鳳輦形(ほうれんがた)という珍しい屋根をした本堂には、皇后の安産祈願に霊験があったといわれる本尊の地蔵菩薩(腹帯地蔵)や、花山天皇が西国巡礼の際に背負っていたと伝えられる十一面観音〔禅衣(おいずる)観音〕を安置している。
また、本堂の裏山には、業平の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や業平が塩を焼いて、その煙にかっての恋人・二条后(にじょうのきさき)〔藤原高子(たかいこ)〕への思いを託したといわれる塩がまの跡がある。毎年五月二十八日の業平忌と十一月二十三日の塩がま清祭(きよめさい)には、三味線に似た三弦を用いた三弦法要が営まれる。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)はバス道に面した十輪寺への入口で、石段の左手(写真1)には「腹帯地蔵尊 草分観世音 十輪寺」の石標と「十輪寺」の駒札が、石段の右手(写真2)には「業平卿旧跡墳墓地」の石標、「十輪寺と謡曲『小塩』」の駒札、「在原業平卿ゆかりの寺」の立て札がそれぞれ立っている。
(写真3)
(写真3)は(写真2)の石段を真っ直ぐ上った上部を撮ったもので、石段の途中から上部へは入れないように柵がしてあるが、一番上に見える柵の内部は、後述する本堂前の庭園で、左手に鐘楼がある。
(写真4)
(写真5)
(写真4、5)は石段途中の柵の前を右手に上って行ったところにある山門で、この小袖門(潜り戸)から中に入ると内部の参観が出来る。
(写真6)
(写真6)は中から見た山門で、写真の右手に入って行くと庭園が広がっている。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は山門正面の玄関、(写真8)はその右にある拝観受付である。なお、建物の内部は撮影禁止となっている。
(写真9)
(写真10)
(写真9)は庭園西端に南向きに建つ本堂である。(写真10)のように屋根が鳳輦形の御輿(みこし)の形をした非常に珍しい建物で、内部の天井の彫刻も独特の意匠が施されている。江戸時代中期の寛延三年(1750)に再建されており、本尊と禅衣観音が安置されている。
(写真11)
(写真12)
(写真11、12)は庭園を中央北側から撮ったもので、(写真11)は山門側(東半分)、(写真12)は鐘楼側(西半分)である。
(写真13)
(写真13)は(写真11)の土塀近辺で、大きな紅葉の木には「業平紅葉」と表示がある。
(写真14)
(写真14)は(写真13)の右手(西側)を撮ったもので、柵は(写真3)に写っていたのと同じ柵の内側である。また、柵の左手にある大木は大樟樹(おおくすのき)で「樹齢800年、本尊が樟でつくられているのでその分身としている。伝説によると、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にならしめたというので願かけ樟ともよばれ神木にしている」と説明書きがある。
(写真15)
(写真15)は(写真14)の更に右(西)側、本堂の前にある鐘楼で、寛文六年(1666)頃に創建されており、不迷梵鐘(まよわずのかね)が吊られている。
(写真16)
(写真16)は庭園中央部の北側で、池の向こうに本堂(左側)と在原御殿(右側)をつなぐ高廊下が見える。
(写真17)
(写真17)は本堂西側の道で、この石段を上って行くと業平の墓や塩がまの旧跡がある。
(写真18)
(写真18)は宝篋印塔で、左手前に「在原業平卿之墓」と刻まれた石標が立っている。
(写真19)
(写真19)は宝篋印塔から更に東側に上って行く道で、紅葉が美しい。この上にあるのが塩がまの旧跡である。
(写真20)
(写真21)
(写真20)は塩がまの旧跡、(写真21)は塩がまを近くから撮ったものである。(写真21)には「業平朝臣塩竃旧蹟」の石標とその由来を書いた駒札が見える。
(写真22)
(写真23)
(写真24)
(写真22〜24)は高廊下とその北側にある茶室と東側にある業平御殿に囲まれた「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」である。高廊下から、茶室から、業平御殿からと、三ヶ所の見る位置によって、いろいろな見え方がするといわれる。寛延三年(1750)、右大臣 藤原常雅が本堂を再興した時に造園されたもので、大きな三個の石は過去、現在、未来を表現するといわれ、この小さな庭に大宇宙を感じるという由来になっている。(2014.11.27.訪問)