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三鈷寺(さんこじ)は西京区大原野石作町にあり、善峯寺と隣接する山に建つ西山宗(せいざんしゅう)の総本山で、山号は西山、華台山(けたいさん)。四宗(天台宗、真言宗、律宗、浄土宗)兼学である。
平安時代の承保元年(1074)、善峯寺の開山である比叡山横川の源算上人(げんさんしょうにん)の隠居所として「北尾往生院」が創建されたのが当寺の起こりである。
二祖 観性法橋(かんしょうほうきょう)を経て三祖 慈鎮(じちん)(慈円)から四祖 西山上人 証空(しょうくう)〔善慧房(ぜんえいぼう)〕に譲られ、証空が、浄土宗西山派の念仏道場として再興した。背後の山の頂上の髢嶽(かもしかだけ)の三峰が、真言宗の仏具の三鈷に似ていることから寺名を「三鈷寺」と改め、勅願所に列せられた。
宝治元年(1247)西山上人入滅となり荼毘に付し、上人に深く帰依した実信坊蓮生(れんしょう)(宇都宮頼綱)が多宝塔を建て、観念三昧院華台廟と称した。蓮生は宇都宮歌壇の重鎮であり、百人一首の成立に深く関わった人物で、華台廟に西山上人と共に祀られている。
応仁の乱により多宝塔以下山内は荒廃し、江戸時代に復興の努力がなされたが、旧観には復さなかった。
五十二代 台龍上人が、現在の寺観を整備し、昭和二十六年(1951)、西山宗として独立した。建物としては華台廟、本堂等を残すのみであるが、古い由緒を物語る寺宝は多い。
客殿からは、比叡山から東山三十六峰、京都市内、宇治、城陽、木津方面まで見渡せ、雄大な眺めが得られる名所で、「二大仏七城俯瞰の地」と称され、中でも東山に上る名月の眺めは関西随一といわれている。
(写真1)
(写真1)は善峯寺北門で、ここから三鈷寺には自由に入れる。
(写真2)
(写真3)
(写真2、3)は善峯寺北門から少し歩いたところにある山門で、門柱には「三鈷寺」の寺札と共に「京都洛西観音霊場第五番、西山国師遺跡霊場第十二番」と書かれた札が掛かっている。
(写真4)
(写真5)
(写真6)
(写真7)
(写真4、5)は山門を入って左手(北側)の前庭、(写真6)は庫裡、(写真7)は玄関である。
(写真8)
(写真9)
(写真8)は客殿への入口、(写真9)は客殿で、ここから右手の眼下に京都市街が一望出来る。
(写真10)
(写真10)は三鈷寺公式HP(http://www.sankoji.com/index.php)に掲載されていた客殿からの眺望である。
(写真11)
(写真12)
(写真13)
(写真11)は山門から入って右手にある裏(西)側から見た華台廟と本堂、(写真12、13)は同じ建物の表(東)側である。
(写真14)
(写真14)は向かって右側の華台廟で、「華臺山」の扁額が掛かり、「このお堂は西山国師(善恵坊証空)と百人一首の成立にかかわった宇都宮頼綱(実信坊蓮生)の御廟で華臺廟といいます」と貼り紙がしてある。
(写真15)
(写真15)は左側の本堂で、ここには十一面観世音菩薩と金身不動明王とが祀られている。
(写真16)
(写真17)
(写真18)
(写真19)
(写真20)
華台廟の前の石段を下って行く道が東側からの参道で、最後はバス道に出る。(写真16〜20)は上から順に下って行く参道の風景で、紅葉が美しい。(写真20)はバス道から参道に入ったところにある看板と「西山本山三鈷寺」と刻まれた石標である。(2013.11.27.訪問)
善峯寺(よしみねでら)は西京区大原野小塩町にある天台宗の寺院で、粟生光明寺、楊谷寺とあわせ西山三山の一つに数えられ、西国三十三所観音霊場第二十番札所でもある。山号は西山(にしやま)、本尊は十一面千手観世音菩薩である。
長元二年(1029)、恵心僧都の弟子源算(げんさん)の開基と伝える。歴朝の崇敬厚く、白河天皇が諸堂を建立した。また、観性(かんしょう)、慈円、証空(しょうくう)らの高僧が相次ぎ、その後、青蓮院の宮(覚快、道覚、尊道、慈道、尊円、尊証、尊真、尊寶)が住したので、「西山宮」と呼ばれた。後花園天皇が伽藍を改築し、往時には僧坊が五十余に及んだが、応仁の乱で焼亡した。元禄年間(1688〜1704)、徳川綱吉の母桂昌院の寄進により復興され、現在に至る。
広大な境内地には、重要文化財の多宝塔をはじめ、多くの堂塔が建ち並び、池泉や四季の花々で彩られる廻遊式庭園は優れた眺望を有する。特に、多宝塔の前にある五葉の松は天然記念物で、波に泳ぐ龍のように見えるので、『遊龍の松』と呼ばれる。
また、年二回(5月、10月の第二日曜日)の薬湯は有名で、神経痛、腰痛の祈願所でもある。
(写真1)
(写真1)は公式ホームページ(http://www.yoshiminedera.com/index1.htm)に掲載されている境内参拝案内図で、境内地は30万坪(100万m2)とある。
(写真2)
(写真3)
(写真2)はバス道から東門に至る参道の入口で、左手の石標には「西国二十番札所 よしみね古道」と刻まれている(写真3)。
(写真4)
(写真4)は東門までの参道の山道「阿知坂」途中にある開山源算上人座禅石である。 源算上人が初めて登山したとき、この岩の上で坐禅したといわれている。
(写真5)
(写真6)
(写真5)は東門、(写真6)は東門を入って右手を北に上ったところにある山門で、「善峯寺」の大きな扁額が掛かっている。この山門は元禄五年(1692)に桂昌院により再建されているが、楼上の本尊 文殊菩薩と両脇 金剛力士は運慶の作で、源頼朝が寄進したといわれている。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は山門を入った正面の奥にある観音堂(本堂)、(写真8)はその扁額で、「南無千手観世音菩薩」と書かれ、堂内には本尊十一面千手観世音菩薩が安置されている。
(写真9)
(写真9)は観音堂の左手前にある手水舎である。
(写真10)
(写真11)
(写真12)
観音堂の右手にある石段(写真10)を五葉の松をくぐって上がると左手に経堂(写真11)、右手に多宝塔(重要文化財)(写真12)がある。
(写真13)
(写真14)
(写真15)
(写真13〜15)は多宝塔の南庭に立つ五葉松「遊龍松(天然記念物)」の幹から枝の先までを撮ったものである。樹齢600年といわれ、高さは2mほどであるが、境内に長大な枝を伸ばし、龍のように見える。安政四年(1857)、右大臣 花山家厚により「遊龍」と名付けられたといわれている。全長54mあったが、平成六年(1994)、松くい虫のため約15mほど切られている。
(写真16)
(写真17)
(写真16)は多宝塔の東側、少し低い位置にある護摩堂で、元禄五年(1692)に建立されている。内部には不動明王五大尊が安置されている(写真17)。
(写真18)
(写真18)は護摩堂の近くにあるつりがね堂である。貞享二年(1685)の建立で、桂昌院が五代将軍 徳川綱吉の厄除けのために寄進した「厄除けの鐘」が吊られている。
(写真19)
この付近からは(写真19)に見られるように、京都方面の眺望が非常によい。
(写真20)
(写真21)
(写真20)は多宝塔から北に少し歩いた位置にある開山堂で、元禄五年(1692)に建立されており、117歳の姿の源算上人が祀られている。(写真21)はこの開山堂を釈迦堂の方から眺めたもので、周辺の紅葉が見事である。
(写真22)
(写真22)は開山堂の西側にある幸福地蔵(しあわせじぞう)で、桂昌院が幸せを願い祈念したといわれる大きな地蔵像が安置されている。自分以外の人の幸せを願うとされる。
(写真23)
(写真23)は少し離れた位置から開山堂と幸福地蔵を撮ったもので、左が開山堂、右が幸福地蔵である。
(写真24)
(写真24)は幸福地蔵から北西の山腹にある白山権現である。
(写真25)
(写真26)
(写真25、26)は幸福地蔵の西側山腹にある釈迦堂である。明治十八年(1885)の建立で、本尊の釈迦如来像は、源算上人の作とされ、元々は、釈迦岳に安置されていたといわれている。
(写真27)
(写真28)
(写真27)は釈迦堂の左手を更に奥の院の方に登っていく道で、突き当たりに見えている赤い鳥居は稲荷大明神である(写真28)。
(写真29)
(写真30)
(写真29、30)は奥の院の手前にあるけいしょう殿で、昭和六十二年(1987)に花山天皇の西国中興1000年を記念して建立された。内部には桂昌院像が祀られている。
(写真31)
(写真32)
(写真31、32)は奥の院薬師堂で、元禄十四年(1701)に建立されており、出世薬師仏が安置されている。桂昌院の両親が祈願したといわれている。
(写真33)
(写真33)は薬師堂の裏にある蓮華寿院庭で、歴代の法親王が住持をしていた西山宮・蓮華寿院跡地というが、現在は池があるだけで伽藍は存在しない。
(写真34)
(写真34)は蓮華寿院庭から少し奥の道を南に下ってきたところにある青蓮の滝で、滝の竿石は、青蓮院より下賜されたものといわれている。
(写真35)
(写真36)
(写真35、36)はそこから更に下った、稲荷大明神の南側にある阿弥陀堂である。寛文十三年(1673)の建立で、本尊の宝冠阿弥陀如来、徳川家代々と善峯寺の信者の位牌が安置されている。常行三昧道場でもあり、「常行堂」とも称される。
(写真37)
(写真38)
(写真37)は阿弥陀堂の左(南)側にある書院で、ここから眺める南側山腹の紅葉は、種々の色合いを見せて美しい(写真38)。
(写真39)
(写真39)は阿弥陀堂の前を西に下ったところから撮った参道で、正面奥に見えているのが阿弥陀堂である。
(写真40)
(写真40)はこの道の左手(南側)にある本坊の門である。(2013.11.27.訪問)
蚕の社(かいこのやしろ)は、木島神社(このしまじんじゃ、木嶋神社)とも呼ばれ、嵐電「蚕の社」駅の北方、右京区太秦森ヶ東町にある延喜式内社で、正式名称は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」を意味する「木嶋座天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」である。
祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。
『続日本紀』大宝元年(701)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたことがわかる古社である。
この嵯峨野一帯は、古墳時代に朝鮮半島から渡来し、製陶・養蚕・機織などにすぐれた技術をもっていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養(こかい)神社(東本殿)があり「蚕の社」もそれにちなんだ社名である。
この神社は、古くより祈雨(きう)の神として信仰が厚く、参詣の人も多かったことが平安時代に書かれた『日本三代実録』や『梁塵秘抄』などの文献からうかがい知ることができる。
社殿は明治以降のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を取り囲むように巨樹が繁茂している。本殿の西側には四季湧水する「元糺(もとただす)の池」という神池があり、天保二年(1831)に再興された京都三鳥居の一つとされる石製三柱鳥居が建つ(他の二つは京都御苑厳島神社の唐破風鳥居と北野天満宮の境内末社 伴氏神社の鳥居)。
例祭は、毎年10月10日に行われるが、夏期土用の丑の日には、この池に手足を浸すと諸病によいという民間信仰がある。
市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果たしてきた秦氏との関連を含め、大変貴重なものとして昭和六十年(1985)に京都市の史跡に指定された。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は三条通から見た蚕の社への参道の鳥居、(写真2)は「蚕養神社」と書かれたその扁額である。
(写真3)
(写真4)
(写真3)は境内入口の鳥居で、右手前に「式内郷社 木嶋座天照御魂神社」と「蚕神社」の石標が立っている。(写真4)は境内平面図である。
(写真5)
(写真6)
(写真5)は鳥居をくぐって直ぐの位置から見た境内と参道で、正面奥にみえるのは拝殿(写真6)である。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は拝殿の北側から見た、また、(写真8)は近くから撮った本殿拝所である。
(写真9)
(写真10)
(写真11)
(写真9)は拝所の奥中央にある本殿、(写真10)は本殿の右(東)側にある蚕養神社、(写真11)は本殿左(西)側に並ぶ末社の八社である。
(写真12)
(写真13)
(写真12)は拝殿から本殿拝所に至る参道の石段を上がらずに、西側に少しはずれた所に建つ鳥居で、その鳥居をくぐって左手(西側)に下りて行くと(写真13)に示す元糺の池がある。
(写真14)
(写真15)
池は南北方向の中央部が竹垣で仕切られており、竹垣の右手に手水所(写真14)、竹垣の奥の池中央に有名な三柱鳥居(写真15)がある。但し、写真を撮った時には池の水は涸れていた。
(写真16)
(写真16)は池の西側に広がる元糺の森である。嵯峨天皇が、「糺」を下鴨神社に遷し、木嶋神社の森を「元糺」とされたといわれる。以来、下鴨神社の森は「糺の森(ただすのもり)」、木嶋神社の森は「元糺の森」と称されるようになった。
(写真17)
(写真18)
(写真19)
(写真17)は境内入口の鳥居から拝殿までの参道西側にある末社の入口、(写真18)は末社の一つで、石室の中に祀られている白清社、(写真19)は稲荷社である。
(写真20)
(写真20)は参道東側にある社務所である。(2014.11.30.訪問)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、天神川と西高瀬川が交差する付近の猿田彦橋のそば、右京区山ノ内荒木町に立つ楠(クスノキ)の大木で囲まれた中にある神社である。
山ノ内庚申(やまのうちこうしん)とも呼ばれ、京洛三庚申の一つに数えられる(他に八坂の庚申堂、粟田口庚申堂〈尊勝院〉)。
平安時代初期、伝教大師 最澄が、座禅のための霊窟を探して歩いていたところ、猿田彦大神が現れてこの地が示されたため、座禅石の横に猿田彦大神を祀ったことが由来といわれている。
後嵯峨天皇が行幸されたときに、猿田彦大神が道案内をしたため、後嵯峨天皇が社殿を建立したといわれている。
1885年、社殿が現在地に移され、1980年庚申の年に神殿修復している。
祭神は猿田彦大神、境内社の大国主神社に大国主命、秋葉社に火伏せの神の秋葉大明神、稲荷社に稲荷大神を祀る。
開運除災、除病招福、諸芸上達、交通安全などの信仰がある。
(写真1)
(写真1)は石の鳥居で、「猿田彦大神」の扁額が掛かり、右前方に「猿田彦神社」の石標が立っている。
(写真2)
(写真3)
(写真2)は手水舎、(写真3)は手水舎近くから見た境内一円である。拝殿の手前に護摩基壇が設けられている。
(写真4)
(写真5)
(写真6)
(写真4)は拝殿、(写真5)は拝所と本殿、(写真6)は拝所蟇股の猿の彫刻である。
(写真7)
(写真7)は本殿の左(南)側にある大国主神社で、右手前に大黒尊天の像がある。
(写真8)
(写真9)
(写真8)は本殿の右(北)側にある秋葉大明神と稲荷神社、(写真9)はその鳥居である。
(写真10)
(写真10)は大国主神社の左(南)側にある社で、右から順に役行者尊、聖観世音菩薩、不動明王、延命地蔵大菩薩、延命地蔵大菩薩が祀られている。
(写真11)
(写真12)
(写真11)は境内南側にある社務所で、その前に大きな楠が立っている。(写真12)はこの楠を拝殿と本殿の間から撮ったもので、木にはしめ縄がしてあり、「区民誇りの木〈庚申楠〉高さ20m、幹周り360cm、樹齢七百年を経ているといわれる」と書いた札がつけられている。(2013.11.30.訪問)
西院野々宮神社(さいいんののみやじんじゃ)は西小路通より一筋西の通りの四条下ル、右京区西院日照町にある神社で西四条斎宮(にししじょうさいぐう)とも呼ばれ、祭神は倭姫命(やまとひめのみこと)と布勢内親王(ふせないしんのう)である。
境内に掲げられた由緒書および公式ホームページには以下のように書かれている。
“二柱の祭神は共に伊勢神宮に斎王として仕えた方で、倭姫命は垂仁天皇、布勢内親王は桓武天皇の皇女にあたる。
この地は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が伊勢へ赴くまでの間、心身を清めるための潔斎所である「野々宮」が築かれた聖地で、各地に残る「野々宮」の名称はこの地が発祥とされている。
延暦十六年(797)に布勢内親王が、承平二年(932)には雅子内親王(醍醐天皇皇女)がそれぞれ野々宮に入り、伊勢下向までの月日を世俗からはなれてこの地で過ごした。
匂い薄く咲ける花をも君がため
折とじをればいろまさりけり
権中納言 敦忠
折らざりし時より匂ふ花なれば
わがため深き色とやにみる
雅子内親王
この二首は「玉葉和歌集」に記された藤原敦忠と、西四条の斎宮と称された雅子内親王の歌で、また、小倉百人一首には雅子内親王を想い敦忠が詠んだ
あひみての後の心にくらぶれば
昔はものを思わざりけり
の一首がおさめられ、王朝人の恋の舞台となったところでもある。
平安時代以後、天照大御神の神鏡を伊勢の地に奉祀した倭姫命の聖徳と、慈悲淑徳の誉れ高い布勢内親王を偲び「西院・野々宮神社」が創建されて以来、皇室をはじめ公家・庶民にいたるまで広く崇敬を集めてきた。
江戸時代以降「西院・春日神社」の御旅所とされ、十月の祭典には天皇の御使いをはじめ多くの公家が参列し、現在でも十月第二日曜には、春日神社の神輿二基が渡御し、春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれる。
社殿は、安永四年(1774)に後桃園天皇より、宮中・賢所を拝領して造営されたものである。
古くは機織の守護神とされ織女の信仰厚く、後には御祭神の徳を偲び広く女人の守り神として女性の崇敬をあつめている。”
(写真1)
(写真1)は鳥居と境内の全景で、鳥居の右手前に「野々宮神社」の石標が立って居る。
(写真2)
(写真3)
(写真2)は手水舎、(写真3)は拝殿と本殿の全景である。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は拝殿・拝所で、「野々宮神社」の扁額が掛かっている(写真5)。
(写真6)
(写真7)
(写真6、7)は本殿の正面と左側面を撮ったもので、本殿は神明造である。
(写真8)
(写真9)
(写真8)は社務所、(写真9)はその屋根の一部を拡大して撮ったものである。(2013.12.14.訪問)
龍田稲荷神社(たつたいなりじんじゃ)は中京区蛸薬師通油小路西入山田町、空也堂(0462参照)の西隣にある稲荷神社で、藤堂稲荷神社(とうどういなりじんじゃ)とも呼ばれる。
ここは、もと古田織部の屋敷があったと伝わり、のち戦国大名・藤堂高虎(1556〜1630)が元和元年(1615)に京屋敷を構えたところといわれている。その後、この京屋敷は明治三年(1870)に廃されるまで、津藩の藩邸として存続した。
藩邸廃止後、跡地に高虎時代から津藩京屋敷に祀られており、藤堂稲荷とも呼ばれていた民部(みんぶ)稲荷大明神が残り、明治時代になって亀屋町にあった龍田稲荷大明神と坊門四条町の御福(おふく)稲荷大明神が合祀され、現在の龍田稲荷神社となった。
(写真1)
(写真1)は蛸薬師通に面した鳥居で、扁額には「正一位稲荷神社」と書かれている。
(写真2)
(写真3)
(写真2、3)は鳥居から本殿に至る参道で、右手に水盤があり、その後方参道右手に末社大辨財尊天の社が見える。また左手には「藤堂家稲荷神社」と刻まれた自然石の石碑が立っている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は本殿、(写真5)はその扁額で右から順に「民部稲荷大明神」、「龍田稲荷大明神」、「御福稲荷大明神」と書かれている。(2013.10.26.訪問)
空也堂(くうやどう)は蛸薬師通堀川東入亀屋町にある天台宗の寺院で、空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する。天慶二年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので、櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。
毎年十一月の第二日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服茶の献茶式の後、空也僧による歓喜遊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民族文化財の六斎念仏焼香式が奉修される。
(写真1)
(写真1)は山門で、一般公開されていないため、通常は閉じられている。
(写真2)
(写真2)は隣の空き地から見た境内で、山門からの参道は途中で左右に分かれ、左手は庫裡、右手は玄関に通じている。
(写真3)
(写真3)は更に建物の近くから撮ったもので、木々の間に見える自然石の石碑には「市中道場」と刻まれている(写真では「市中道」までしか見えないが)。
(写真4)
(写真4)は隣の駐車場から見た玄関で、奥は本堂になっていると思われる。
(写真5)
(写真5)は庫裡の前にある地蔵堂である。(2013.10.26.訪問)
西往寺(さいおうじ)は下京区高辻通大宮西入坊門町にある浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
西往寺には平安時代の作とされる宝誌和尚(ほうしわじょう)立像(木像、鉈彫り)が伝来している(重要文化財、京都国立博物館に寄託)。この像は宝誌の顔面が縦に裂けて、その内側から十一面観音の相を現そうとする瞬間を具象化した、特異な彫像である。宝誌和尚は実在した中国南北朝時代の僧侶。梁(りょう)の武帝(ぶてい)が絵師に和尚の肖像を描くよう命じると、和尚の顔が割れて中の菩薩がどんどん変化するので、結局お顔を描くことが出来なかったという故事に基づいたものと考えられる。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は高辻通に南面した山門で、正面に本堂が見える。
(写真3)
(写真4)
(写真3、4)はそれぞれ山門東側および西側の屋根瓦の拡大である。
(写真5)
(写真5)は本堂で、「西往寺」の扁額が掛かっている。(2013.10.26.訪問)
正法院(しょうほういん)は下京区松原通大宮西入坊門町にある浄土宗の寺院で、山号は転輪城山。開基は慶長十五年(1610)といわれている。
ホームページには永代供養の詳細が書かれているだけであるが、宿坊も営まれている。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門である。
(写真3)
(写真4)
(写真5)
(写真3、4)は本堂、(写真5)は本堂の右隣(東側)にある玄関である。(2014.1.9.訪問)
長円寺(ちょうえんじ)は下京区松原通大宮西入南側、中堂寺西寺町にある浄土宗本派の寺院で、山号は延命山。慶長十三年(1608)京都所司代板倉伊賀守勝重が清巌和尚を開基に請じて建立したのが当寺の起りで、勝重の没後、その法諱(ほうき)「長円院」にちなんで寺名を「長円寺」と号した。
堂宇は天明の大火で焼亡したが、十五世瑞誉上人のとき再建され、華頂宮尊頂法親王から「長円寺」の額を賜った。いま本堂・庫裡・客殿等の建物があって、本堂には本尊と慈覚大師作と伝える阿弥陀三尊を祀る。
また本堂南の観音堂に安置する聖観音像は恵心僧都作と伝え、疫病に霊験があると信じられている。
洛陽観音巡り第二十四番の札所である。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門で、右手前に「洛陽廿四番長圓寺」の石標と駒札が立っている。
(写真3)
(写真3)は山門正面に見える庫裡である。
(写真4)
(写真4)は庫裡の前から見た境内で、山門を入って直ぐ右(西側)にあるのが玄関、続いて本堂、その南隣が観音堂である。いずれも東向きに建てられている。
(写真5)
(写真6)
(写真7)
(写真5)は玄関、(写真6)は本堂、(写真7)は観音堂である。
(写真8)
(写真9)
また、(写真8)は観音堂を近くから撮ったもので、「洛陽廿四番長圓寺聖観音縁起」(左側)と御詠歌(右側)の額が掛かっている。(写真9)は聖観音像である。
(写真10)
(写真10)は観音堂右手前にある「茶所」の石標と賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像である。
(写真11)
(写真12)
(写真11)ほ本堂の左前方にある仏足石、(写真12)は山門に貼ってあった「洛陽三十三所観音巡礼」のポスターである。(2013.10.26.、2014.1.9.訪問)