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    0454大将軍神社(西賀茂大将軍神社)(Taishogun Shrine, Nishigamo Taishogun Shrine)

    • 2013.12.31 Tuesday
    • 16:19

     

     大将軍神社(たいしょうぐんじんじゃ)は北区西賀茂角社町、神光院の南西に位置するこの付近一帯、すなわち旧今原村・鎮守庵村・総門村・田尻村の産土神(うぶすながみ)である。祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)、毎年十月二十三日に行われる例祭は旧四ケ村が交代で務める慣行が今に伝えられており、方除け、安産の神として信仰が深い。京都市内には複数の大将軍神社が存在することから、それらを区別するため、当社を西賀茂大将軍神社(にしがもたいしょうぐんじんじゃ)と呼ぶこともある。

     大将軍の社名は、桓武天皇が平安京を造営されるに際し、王城鎮護のために四方の隅に大将軍を祀られたことに由来すると伝えられ、当社のほかにもその社名は見られるが、いずれも由緒は明らかではない。当社もその例外ではないが、古くは角社(すみのやしろ)とも呼ばれるように平安京の西北隅に位置して方違え(かたたがえ)の神としても信仰を集めてきたと考えられ、往年は祭礼も盛大を極めた。

     当社の背後には瓦屋の窯跡(かまあと)があり、付近は朝廷木工(もく)寮に属した瓦屋の所在地で、瓦屋の鎮守神であったとも伝えられている。

     現社殿は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)(上賀茂神社)の摂社・片岡社を移築したもので、賀茂造りの古式を伝えている。

     (写真1)

     

    (写真1)は大将軍神社への曲がり角に立つ「大将軍社」の石標と駒札である。

     (写真2)

     

    (写真2)は入口の鳥居で、右手に由緒書がある。

     (写真3)

     

    (写真3)は鳥居をくぐった後の参道で、石段の上に見えるのは拝殿である。

     (写真4)

     (写真59

     (写真6)

     

    (写真4)は手水舎、(写真5)は拝殿、(写真6)はその内部である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     

    (写真7)は本殿(京都市指定文化財)全景、(写真8)はその正面、(写真9)はその側面である。

     (写真10)

     (写真11)

     

    本殿前の両側に末社が祀られている。(写真10)は東側の末社四社、(写真11)は西側の末社五社である。

     (写真12)

     

    (写真12)は境内にある「世代受け継ぎの木」である(朱色の玉垣で囲んだ場所)。駒札の説明には次のように書かれている。「この社に数百年繁茂した大木が倒れた後、その根元に木の種が落ち自然に成長した状態であります〔実生(みしょう)の木〕。この現象は子供が親の養分を受け成長する事を如実にあらわしており、将に世代受け継ぎの実体であります。 大将軍神社」(2013.11.21.訪問)

     

    0453神光院(Jinkoin Temple)

    • 2013.12.31 Tuesday
    • 16:08

     

     神光院(じんこういん)は北区西賀茂神光院町にある弘法大師の霊場で、京都三弘法(東寺、仁和寺、神光院)の一つとされている。光山(ほうこうざん)と号し、弘法大師像を本尊とする真言宗の寺院である。

     寺伝によれば、建保五年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が「霊光

    の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(18301843)に災火により堂宇を消失した。明治十一年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。

     本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。

     寺宝としては、仏眼曼荼羅図(重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。

    また、境内の茶室は、幕末の歌人太田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。

    当地には御所に奉納する瓦職人の宿所に使用されていた「瓦屋寺」があったともいわれている。

     (写真1)

     

    (写真1)は山門前の参道で、左手に「弘法大師」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     

    (写真2、3)は山門で、右手前に「厄除弘法大師道」の石標が立ち、門柱には、右に「真言宗放光山神光院」、左に「京都三弘法随一寺」の寺札が掛かっている。

     (写真4)

     

    (写真4)は西門である。この門から入った突き当たりの左手に本堂がある。

     (写真5)

     

    (写真5)は山門を入って北西の方向にのびる本堂への参道で、左手にあるのが手水舎である。

     (写真6)

     (写真7)

     

    (写真6)は手水舎の西側にある不動明王堂、(写真7)はその内部で、大聖不動明王を祀っている。

     (写真8)

     (写真9)

     (写真10)

     

    (写真8)は池に架かる橋を渡った奥にある本堂、(写真9、10)は本堂を近くから撮ったもので、中央には「弘法大師、歓喜天、愛染明王」の扁額が掛かっている。

     (写真11)

     

    (写真11)は境内にある弘法大師像である。

     (写真12)

     (写真13)

     

    (写真1213)は本堂から回廊でつながっている中興堂である。

     (写真14)

     (写真15)

     

    (写真14)は山門正面にある玄関、(写真15)はその右手(東側)にある庫裏である。

     (写真16)

     

    (写真16)は庫裏の南側、池の中の島に祀られた鎮守社である。(2013.11.21.訪問)

    0452正伝寺(Shodenji Temple)

    • 2013.12.13 Friday
    • 16:41

     

     正伝寺(しょうでんじ)は北区西賀茂北鎮守町、五山送り火「船形」の船山山麓にある臨済宗南禅寺派の寺院で、山号は吉祥山。

     鎌倉時代の文永九年(1272)、東巌慧安禅師(とうがんえあんぜんじ)が、師の兀庵普寧(ごつたんふねい)を開山として、烏丸今出川に仏殿を創建したのが始まりで、兀庵普寧の正伝の額を揚げたことから「正伝寺」と称された。
     後醍醐天皇の勅願所となり、弘安五年(
    1282)、賀茂社の社家 森経久の援助を受け、現在の地に移された。興国元年/暦応三年(1340)、足利義満の祈願所ともされ、十刹に加えられている。応仁の乱の兵火により荒廃したが、豊臣秀吉・徳川家康の援助を受け復興された。

     国の重要文化財に指定されている本堂(方丈)は、入母屋造、こけら葺きで、寛永年間(16241644)に伏見城の遺構を移設したものと伝えられる。また、本堂の襖絵は、桃山時代の絵師 狩野山楽の筆になる逸品である。

     更に、本堂前庭は、白砂敷にサツキを中心とした三群の刈込みを配した枯山水で、土塀越しにのぞまれる比叡山が美しい姿を見せている。この庭園は、京都における代表的な借景庭園として、昭和六十年(1985)に京都市指定名勝とされている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は山門で、門前に「吉祥山 正伝護国禅寺」の石標が立ち、門柱には「正傳禅寺」の寺札が掛かっている。

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真3)は山門を入って参道を少し奥に行った左手にある「八幡宮」の石標、(写真4)は「八幡宮」の扁額が掛かるその本殿である。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真7)

     

     (写真5)は更に参道を奥に進むと左手に見える中門、(写真6、7)はそこから庫裏の方に上っていく石段の参道である。

     (写真8)

     (写真9)

     

     (写真8)は参道の突き当たりにある庫裏、(写真9)はその手前左手(南側)にある鐘楼である。

     (写真10)

     

     (写真10)は庫裏の手前から見た本堂(重要文化財)の屋根である。

     (写真11)

     

     (写真11)は本堂で、中央部に「方丈」の扁額が掛かっている。承応二年(1653)、伏見城の御成殿を移建したもので、内部は狩野山楽の襖絵で飾られている(内部は撮影禁止)。廊下の広縁の天井は血天井として知られている。源光庵にあった血天井と同じ由来を持つもので、養源院・宝泉院・興聖寺にも同じ血天井が残されている。

     (写真12)

     (写真13)

     (写真14)

     

     (写真1214)はその血天井で、多くの血痕が今も残っており、手形や足跡らしきものも見られる。

     (写真15)

     (写真16)

     

     (写真15)は本堂前庭、(写真16)はその拡大で、「獅子の子渡しの庭」と称されている。江戸時代初期、小堀遠州の作庭といわれる。比叡山を借景にした白砂敷きの枯山水庭園で、 山茶花(サザンカ)や、躑躅(ツツジ)の築山風の刈り込みが七五三形式に配された名園である。月見の名所でもある。

     (写真17)

     (写真18)

     

     (写真17)は庭園を南側から、(写真18)は北側から見たものである。(2013.11.21.訪問)

    0451法雲寺(Hounji Temple)

    • 2013.12.11 Wednesday
    • 15:18

     

     法雲寺(ほううんじ)は北区西賀茂鎮守菴町、西方寺より少し北にある浄土宗西山深草派の寺院で、山号は日照山。駒札によると当山は安土桃山時代に豊臣秀吉に請願建立された。本堂には弥陀三尊の立像を祀る。地蔵堂には洛陽地蔵菩薩四十八体の内二十九番西院の河原地蔵を安置している。十一面観音菩薩立像は石像として日本一の高さを誇る。本堂正面に比叡山を望み風光明媚な寺院である。

     (写真1)

     

     (写真1)は山門で、門前には「日照山 法雲寺」と「子養育地蔵尊」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     

     山門を入り、石段を上っていくと、まず地蔵堂がある。(写真2、3)はその地蔵堂で、子養育地蔵尊が祀られている。

     (写真4)

     (写真5)

     

     (写真4、5)は地蔵堂から更に石段を上ったところにある本堂で、明治三十四年(1901)に完成したものである。堂宇は嘗ては四条大宮にあったが、昭和五十八年(1983)に現在地に移転されている。

     (写真6)

     

     (写真6)は本堂の右手(北側)にある十一面観音菩薩石像で、岡崎産の石で造られており、総高さ10m

     (写真7)

     

     (写真7)は平成六年(1994)に建てられた信徒会館の入口で、この屋上は展望台になっており、京都北部が一望出来る。特に本堂正面に見える比叡山や近くの北山が美しい。

     (写真8)

     

     (写真8)は展望台から見た比叡山(最も高い山)である。(2013.11.21.訪問)

     

    0450西方寺(Saihoji Temple)

    • 2013.12.10 Tuesday
    • 14:54

     

     西方寺(さいほうじ)は北区西賀茂鎮守菴町、五山送り火の一つ「船形」の点される西賀茂船山の南東にある浄土宗鎮西派の寺院で、正式名称は来迎山大船院西方寺。

     承和年間(834848)に円仁(慈覚大師)が創建したと伝え、もとは天台宗山門派に属していたが、正和年間(13121316)に道空上人が中興して浄土宗に改められ、以後、六斎念仏弘通の寺として知られている。

     毎年八月十六日には、五山送り火の一つである船形万燈籠が点火され、終了後、境内で六斎念仏が行われる。当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られており、昭和五十八年(1983)に重要無形民族文化財に指定されている。

     境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャード・ポンソンビーの碑が建てられている。また、背後の小谷墓地には、幕末の歌人太田垣蓮月尼や上賀茂神社の祠官賀茂季鷹(かものすえたか)、また著名な料理人で陶芸家でもある、北大路魯山人や「鉄道唱歌」の作曲者・多梅雄(おおのうめお)などの墓がある。

     (写真1)

     (写真2)
     

     (写真1、2)は山門で、門柱には「浄土宗 西方寺」の寺札が掛かっている。

     (写真3)

     (写真4)
     

     (写真3、4)は山門正面にある本堂で、「西方寺」の扁額が掛かっており、本尊の阿弥陀如来像が安置されている。

     (写真5)

     (写真6)
     

     (写真5)は山門を入った左手(西側)にあるリチャード・ポンソンビーの碑「本尊美君碑」、(写真6)はその横にある「故蓮月尼紀年碑」である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)
     

     (写真7)は境内にある沢山の石地蔵、(写真8)は本堂右手の玄関、(写真9)は更にその右手にある庫裏である。(2013.11.21.訪問)

    0449一様院

    • 2013.12.09 Monday
    • 23:37
     

     一様院(いちよういん)は北区大宮藥師山東町にある黄檗宗の寺院で、山号は白毫山。江戸時代中期の正徳年間(17111716)、公家の中枢として皇室と徳川幕府との関係改善に尽力した近衛基熙が開基となり、隠巌禅尼を迎えて開山とした。歴代住職は尼僧であったが、前住職が初めて男僧として入山し、現在十四代を継いでいる。本尊は薬師如来。

     高台にあり、庭園は比叡山を借景としているといわれているが、通常は非公開である。月一回座禅会が行われている。

     (写真1)

     

     (写真1)は通りから山門に至る石段で、登り口に「薬師如来 一様庵」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真2、3)は山門で、「一様院」の寺札が掛かっている。

     (写真4)

     (写真5)

     

    (写真4)は山門から見た境内で、正面奥に見えるのが薬師堂(写真5)である。

     (写真6)

     

    (写真6)は山門を入った左手にある「白毫山」と刻まれた大きな石の水溜めである。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     
     

    (写真7)は薬師堂の左手奥にある中門、(写真8)は中門を入った右手の庫裏、(写真9)は玄関である。(2013.11.21.訪問)

    0448常照寺

    • 2013.12.07 Saturday
    • 22:45
     

     常照寺(じょうしょうじ)は北区鷹峯北鷹峯町、源光庵より少し北東にある日蓮宗の寺院で、山号は寂光山(じゃっこうざん)。駒札によると、当山は、元和二年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永四年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第二十一世寂照院日乾上人を招じて開創された山城六檀林の一偉観「鷹峰檀林」の旧跡である。

     吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天下随一の太夫と謳われた二代目吉野太夫(灰屋紹益の妻)が寄進したものである。

     境内には本堂を中心に開山堂、鬼子母尊神堂(きしもそんしんどう)、常富堂(つねとみどう)、衆玅堂(しゅうみょうどう)(書院)、梅樹庵(庫裡)などがある。また吉野太夫の墓所や吉野窓を設えた茶席遺芳庵(いほうあん)、聚楽亭や全国でも唯一の帯塚などがある。

     毎年四月第二日曜日には吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供茶(くちゃ)法要、茶会などが催され、全国各地からの参詣者で賑わう。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は朱塗りの山門で、「太夫寄進吉野門」の木札が掛かっており、「吉野の赤門」と称される。寛永年間(16241644)に島原の二代目 吉野太夫が、23歳の時に寄進したものである。

     (写真3)

     

     (写真3)は山門を入った所から撮った参道で、正面奥に見えるのが本堂である。

     (写真4)

     (写真5)

     

     (写真4、5)は山門を入って直ぐ右手にある帯塚で、女性の心の象徴でもある「帯」に感謝し、供養するために昭和四十四年(1969)に建立された。帯塚の石は、四国 吉野川で採取された重さ約6トンの自然石で、庭は、中根近作の設計により、苔をもって鷹ヶ峰三山が表現されている。

     (写真6)

     

     (写真6)は帯塚の左手前にある吉川観方先生小直衣の像である。観方先生は我が国時代風俗研究の権威で、厖大な資料のコレクターとして服飾文化に多大の貢献をされたため、その功績を記念するために建てられたと説明書きにあった。

     (写真7)

     (写真8)

     

     (写真7)は本堂までの右手にある宝蔵、(写真8)はその横にある石碑で、「蔵の財より身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり 日蓮聖人四条金吾殿御返事」と刻まれている。

     (写真9)

     (写真10)

     (写真11)

     

     (写真9、10)は本堂で、日潮上人筆の扁額「旃檀林」が掲げられている。(写真11)は本堂内部である。

     (写真12)

     (写真13)

     (写真14)

     

     (写真12)は本堂から西方を見た境内の写真で、紅葉が美しい。木立の間の奥の方に見えるのが鬼子母尊神堂(写真1314)である。

     (写真15)

     (写真16)

     

     (写真1516)は鬼子母尊神堂の北側に建つ鎮守社の常富堂で、常富大菩薩が祀られている。

     (写真17)

     (写真18)

     

     (写真1718)は常富堂の右(東)側にある妙法龍神社で、龍神が祀られている。

     (写真19)

     (写真20)

     

     (写真1920)は妙法龍神社と本堂の間の北側にある中門で、「白馬池」の扁額が掛かっているが、この門をくぐって山道を下って行くと白馬池がある。

     (写真21)

     (写真22)

     

     (写真21)は白馬池で、左に「白馬池」と刻まれた自然石の石標があり、右手池畔に白馬観音像(写真22)が祀られている。

     (写真23)

     

     (写真23)は本堂の裏手(北側)にある茶室「聚楽亭」である。

     (写真24)

     (写真25)

     (写真26)

     (写真27)

     

     (写真2427)はその東の方、墓地の北側の谷を望む所にある茶室「遺芳庵」で、吉野太夫が好んだ大きな丸窓「吉野窓」(写真2627が配されている。窓の下の部分が円ではなく直線になっているのが特徴で、不完全な円はまだ悟りに至っていないことを意味し、吉野太夫は自らを戒めて円を欠いたといわれている。

     (写真28)

     (写真29)

     

     (写真28)は墓地の中にある吉野太夫の墓、(写真29)はその前方(西側)にある開山堂で、開祖 日乾上人が祀られている。

     (写真30)

     (写真31)

     (写真32)

     

     (写真3032)は本堂の北東にある比翼塚で、吉野太夫と豪商の夫 佐野紹益(灰屋紹益)二人の名が刻まれており(写真31)、歌碑(写真32)には灰屋紹益の歌「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」が刻まれて居る。(2013.11.21.訪問)

     

    0447圓成寺(岩戸妙見宮)

    • 2013.12.06 Friday
    • 11:39
     

     圓成寺(えんじょうじ)は北区鷹峯北鷹峯町、光悦寺の道をはさんだ真向かいに建つ日蓮宗本満寺派の修行のための寺院で、山号は清雲山。山がせまり、鬱蒼とした木々に囲まれ、紅葉が鮮やかなお寺で、北極星や北斗七星を神格化した菩薩が祀られ、妙見信仰を集めている。

     入口の由緒書によると、平安京の大極殿から北に位置するこの鷹ヶ峰一帯の山々は、「北山」と呼ばれる聖地であった。皇城北方鎮護の官寺「霊巌寺」があり、平安京総鎮守の「妙見大菩薩」が祀られていた。中世には廃れていたこの旧跡を寛永七年(1630)、本山満願寺二十一世圓成院日任(にっとう)上人が、一条家の懇請により、この地に当山を創し改めて法華勧請し、日本第一の妙見霊場を復興された。

     「岩戸妙見宮」は古墳状の石窟造りで、内陣には大亀の背に足を踏まえ、右手に剣を左手に蛇を握り頭上に北斗七星を戴いた六尺余の石像「岩戸妙見大菩薩」が安置されている。 明治時代初期、廃仏毀釈により荒廃したが、明治二十一年(1888)に復興修理され、昭和十八年(1943)に本堂が建立されている。それまでは、岩戸妙見宮が主殿であり、庫裏が本堂を兼ねていた。

     (写真1)

     

     (写真1)は光悦寺の向かい側にある入口の門で、左手前に「岩戸妙見宮 圓成庵」の石標が立ち、門柱には左に「北山霊巌寺旧蹟 日蓮宗清雲山圓成寺」、右に「皇城北方鎮護 北辰妙見大菩薩鎮座」の木札が掛けられている。

     (写真2)

     (写真3)

     

     (写真2、3)はその奥にある山門で、「清雲山」の扁額が掛かり、中央に「山内写真撮影を禁ず」と書かれた立て札が見える。

     (写真4)

     

     (写真4)は山門の外から撮った境内で、参道正面に石の鳥居があり、その向こうに見えるのが「岩戸妙見宮」の社殿である。残念ながらこれより内部の写真は撮れなかったが、岩戸妙見宮以外にも本堂、常富殿(つねとみでん)、大黒殿、白雲弁天社、巌門(いわと)の瀧等見るべきものは多い。

     (写真5)

     

     なお、(写真5)は山門の左手にある庫裏である。(2013.11.21.訪問)

     

     

    0446光悦寺

    • 2013.12.05 Thursday
    • 21:37
     

     光悦寺(こうえつじ)は京都北西部の鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)の山麓、北区鷹峯光悦町にある日蓮宗の寺院で、山号は大虚山(たいきょざん)。

     当地は、元和元年(1615)徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。

     光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。

     当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦の没〔寛永十四年(1637)〕後に、本法寺の日慈上人を開山に請じて、明暦二年(1656)に寺に改めたものである。

     (写真1)

     

     (写真1)は光悦寺入口で、右側に「本阿彌光悦翁𦾔蹟」の石碑、左側に駒札が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真2、3)は山門、(写真4)は山門を入ったところから撮った参道である。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真5)は茅葺きの鐘楼、(写真6)は本堂への渡り廊下である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     

     (写真7、8)は本堂で「光悦寺」の扁額が掛かっており、(写真9)はその内部である。

     (写真10)

     

     渡り廊下の下をくぐり北山杉の木立を行くと前方に三巴亭(さんぱてい)茶席(写真10)がある。

     (写真11)

     (写真12)

     

     三巴亭の南方に、光悦が80歳で亡くなるまでの晩年を過ごしたとされる大虚庵茶席があり、露地には石燈籠と本阿弥光悦遺愛の薄墨の手水鉢がある。光悦の没後廃滅したが、大正四年(1915)に再建されている(写真1112)。

     (写真13)

     (写真14)

     

    (写真1314)は竹を斜めに組み、徐々に高さの変る独特の垣根「光悦垣」で、大虚庵を囲むように作られ、牛が寝そべったように見えることから「臥牛垣(ねうしがき)」とも称される。

     (写真15)

     

    (写真15)は大虚庵茶席の前方にある了寂軒茶席である。

     (写真16)

     

    (写真16)は徳友庵茶席で、光悦の号である徳友斎からから採って名付けられている。

     (写真17)

     

    (写真17)は遙かに京都市内を見下ろす場所に建てられている本阿弥庵茶席である。この茶席からは前方に鷹峰三山が見渡せ、非常に眺めがよい。

     (写真18)

     

    (写真18)は鷹峰三山で、左から鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰である。

     (写真19)

     (写真20)

     

    (写真19)は境内にある光悦の墓、(写真20)は光悦の子・光瑳(右)、孫・光甫(中央)、その他一族(左)の墓所である。(2013.11.21.訪問)

    0445源光庵

    • 2013.12.03 Tuesday
    • 23:32
     

     源光庵(げんこうあん)は北区鷹峯北鷹峯町にある曹洞宗の寺院で、正式名称は鷹峯山(ようほうざん)寶樹林源光庵。別称「復古禅林(ふっこぜんりん)」とも呼ばれる。
     貞和二年(
    1346)に大徳寺の第二世・徹翁義享国師(てっとうぎこうこくし)によって創建され、当初は臨済宗に属していたが。元禄七年(1694)加賀国(現在の石川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師により再興され、曹洞宗に改められた。

     本堂には本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀っている。本堂から庭園を望む壁面には、「悟りの窓」という丸窓と「迷いの窓」という角窓が並び、前者は「禅と円通」の心、すなわち何事にもとらわれない、おおらかな境地や大宇宙を、後者は「人間の生涯」、生老病死の四苦八苦を象徴しているといわれ、いずれも仏教の真理を表している。また、廊下の天井は、もと伏見城の床板で、慶長五年(1600)の落城の際、徳川家康の忠臣・鳥居元忠らが自刃した時の血痕が残っているものを、供養のためここに移したもので、血天井として知られている。

     境内裏の「稚児井(ちごのいど)」は、創建された頃、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、多くの人を救ったと伝えられている。

     (写真1)

     

     (写真1)は源光庵山門入口で、駒札とともに「禅曹洞宗」、「源光庵」、「開運霊芝観世音」の石標が立っている。

     (写真2)

     

     (写真2)は入口奥にある新しい門で、この門から入って左(西)に行くと山門への参道に出る。

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真3)は山門、(写真4)はその扁額で、「復古禅林」と書かれている。

     (写真5)

     (写真6)

     

     (写真5、6)は元禄七年(1694)に創建された本堂で、右手前に見事な楓の巨木がある。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     

     (写真7)は本堂廊下の扁額「萬徳殿」、(写真8)は本堂内陣中央、(写真9)は同西側で、それぞれ本尊釈迦牟尼仏、芝霊観世音像を安置している。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

     

    (写真1011)は本堂廊下の血天井、(写真12)は玄関脇にある血天井の説明書きである。それによると慶長五年(1600)に、関ヶ原本戦の前哨戦であった伏見城の攻防戦で、石田三成らの豊臣軍の大軍に攻められ伏見城中で自刃した徳川軍の鳥居元忠(とりいもとただ)ら約800人を供養するために、自刃したときの血痕が残る大広間の床板だったものを、廊下の天井にして祀ったものである。同じ血天井が、養源院・宝泉院・正伝寺・興聖寺にも残っている。

     (写真13)

     (写真14)

     

    廊下の西端には鳥居元忠一党の位牌が安置されている(写真1314)。

     (写真15)

     

    (写真15)は本堂西側の庭園である。

     (写真16)

     (写真17)

     

    (写真1617)は本堂東の間の北側にある二つの窓で、左側の円型の窓(写真16)が「悟りの窓」、その右横にある四角の窓(写真17)が「迷いの窓」である。

     (写真18)

     

     (写真18)は本堂とつながってその北側にある開山堂内部で、卍山禅師の木造が安置され、その下に舎利が収められている。開山堂は、享保四年(1719)に建立され、復古堂とも称されている。

     (写真19)

     (写真20)

     (写真21)

     (写真22)

     

     (写真19)は本堂と書院の間にある庭園、(写真2022)は書院庭園である。

     (写真23)

     (写真24)

     (写真25)

     

     (写真23)は書院の床の間、(写真24)は襖絵で、江戸時代の山口雪渓(16441732)筆、(写真25)は屋久杉の屏風である。

     (写真26)

     (写真27)

     

     (写真26)は山門に入る手前右(東)側にある鐘楼、(写真27)は本堂の北西、西隣の鷹峯小学校の校庭との間にある「稚児井」で、由来の説明書きには「平成二十年に隣接小学校のグランド新設工事に伴い、谷にあった稚児井は埋没されたが、地上のこの場所に移設し、歴史的伝説ある遺跡として永久保存するものである。」と書かれていた。(2013.11.21.訪問)

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