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    0444子安観世音

    • 2013.11.28 Thursday
    • 16:40
     

     子安観世音(こやすかんぜおん)は京都大学農学部の東、今出川通から志賀越道が分岐する角の左京区北白川西町にある石仏で、北白川石仏とも呼ばれている。花崗岩製で像高は約2m

     駒札には、「ここは昔から白川村の入口に当たり、東は山を越えて近江へ向かい、洛中へは斜めに荒神口に通じていた。また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった。この堂々たる石仏は『拾遺都名所図会』に希代の大像として描かれているが、長い歳月の間にかなりの風化が見られる。古来子安観世音として町の人々の信仰が篤く、今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る。」とある。

     子安観世音は鎌倉時代中期頃の作とされ、豊臣秀吉に気に入られて聚楽第の庭に運び入れられたことがあるが、毎夜「白川に戻せ」とうなり声を上げたために、元の地に戻されたと言い伝えられている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1)は志賀越道から撮った子安観世音、(写真2)は今出川通から撮った子安観世音(右側)とその背後に祀られた石の地蔵(左側)である。

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真3、4)は子安観世音を近くから撮ったものである。駒札の下に「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」と御詠歌が書かれている。

     (写真5)

     

     (写真5)は石の地蔵の祠で、石の土台には卍と「町内安全」の字が見える。(2013.4.6.訪問)

    0443百萬遍知恩寺

    • 2013.11.28 Thursday
    • 10:47
     

     百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)は京都大学の北、百万遍交差点に近い左京区田中門前町にある寺院で、長徳山功徳院(ちょうとくざんくどくいん)と号し、浄土宗八総大本山の一つである。もと賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社の総称)の社領とされた今出川の北)(今の相国寺の辺り)に賀茂の河原屋と呼ばれる草庵があり、賀茂宮司の懇請により法然上人もこの庵に止宿し、布教の地とした。

     上人の死後、勢観房源智上人が尊師を敬慕し、その地に御影堂を建て、功徳院知恩寺と名付けたのが当寺の起こりで、賀茂社の神宮寺としての起源を持つ。

     元弘元年(1331)、疫病が流行した際、第八世の善阿(ぜんな)上人が御所にこもり、七日がかりで百万遍の念仏を唱えて疫病を退散させたので、後醍醐天皇から「百万遍」の寺号と大念珠を賜った。その後、各地を転々とし、寛文元年(1661)にこの地に移った。

     本堂には、本尊として法然上人四十三才の頃の姿を現したと伝える木造を安置し、その東南の釈迦堂には釈迦如来座像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれ祀る。重要文化財の顔輝(がんき)筆「蝦蟆鉄拐図(がまてっかいず)」をはじめ、多くの寺宝を所蔵し、墓地には法然上人や源智上人の廟、画家土佐光起の墓などがある。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は今出川通に面する山門で、左手前に「百萬遍念佛根本道場」の石標が立っている。

     (写真3)

     (写真4)

     

    (写真3、4)は東山通に面する西門で、右手前に「大本山百萬遍知恩寺」、左手前に「圓光大師霊場」の石標が立っている。

     (写真5)

     (写真6)

     

    (写真5)は山門から本堂への参道、(写真6)は西門からの参道である。

     (写真7)

     (写真8)

     

    (写真7)は山門からの参道右手(東側)の手水舎、(写真8)は同左手(西側)の賀茂明神の分社と地蔵菩薩である。

     (写真9)

     (写真10)

     

    また、(写真9、10)は参道左手、地蔵菩薩の北にある阿弥陀堂で、「阿弥陀堂」の扁額が掛かっている。文化八年(1811)に建立され、阿弥陀如来立像が安置されている。

     (写真11)

     (写真12)

     

    (写真1112)は西門からの参道正面に建つ釈迦堂である。寛文四年(1664)、本堂(祈祷堂)として建立され、後柏原天皇の宸翰「知恩寺」の扁額が掛かっている。京都三大釈迦堂の一つ「今出川釈迦堂」として信仰された。

     (写真13)

     

    (写真13)は釈迦堂に安置されている釈迦如来坐像である。

     (写真14)

     (写真15)

     

    (写真14)は釈迦堂前にある「南無阿弥陀佛」の石碑、(写真15)は仏足石である。

     (写真16)

     

    (写真16)は本堂左(西側)手前にある鐘楼である。

     (写真17)

     (写真18)

     (写真19)

     

    (写真1718)は本堂(御影堂)、(写真19)は本堂正面須弥壇上に安置されている法然上人坐像である。

     (写真20)

     

    なお、本堂内部には長さ110m、重さ320kgの大念珠(1930年作)が吊されている(写真20)。

     (写真21)

     (写真22)

     

    (写真21)は本堂の東側にある勢至堂と「倶會一處」の扁額が掛かる納骨堂(写真22)である。

     (写真23)

     (写真24)

     

    (写真23)は本堂北東部にある中門、(写真24)は中門内部正面の方丈で、「方丈」の扁額が掛かっているのが見える。

     (写真25)

     (写真26)

     

    (写真25)は本堂の後方(北側)にある玄関と庫裏(写真26)である。

     (写真27)

     (写真28)

     (写真29)

     (写真30)

     

    (写真2728)は本堂の西側にある百萬辨財天と加茂明神(写真2930)である。(2013.10.26.訪問)

    0442光福寺

    • 2013.11.19 Tuesday
    • 15:30
     

     光福寺(こうふくじ)は出町柳の東、左京区田中上柳町にある浄土宗知恩院派の寺院で、正しくは、干菜山(ほしなざん)斎教院(さいきょういん)安養殿(あんようでん)光福寺と号し、山号をとって俗に「ほしな寺」とも呼ばれている。

     寺伝によれば、寛元年間(12431247)に道空(どうくう)上人が西山安養谷(あんにょうだに)(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起りで、天正十年(1582)に月空宗心(げっくうそうしん)によって現在の地に移されたと伝わる。

     道空は「六斎念仏」を世に広めたことで知られ、当寺に伝わる「六斎念仏興起書(こうきしょ)」によると、後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜ったという。六斎念仏とは、毎月の六斎日(八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日)に精進潔斎(身を清めること)して念仏を唱えることが起源であったが民衆の間に広まるにつれ、鉦や太鼓を打ち鳴らす念仏となった。大きくわけて空也堂系と干菜寺系があり、空也堂系は踊り念仏で芸能的色彩を帯びていったのに対し、干菜寺系は原型を留めた六斎念仏といえる。

     また、文禄二年(1593)に豊臣秀吉が鷹狩りの途中、当寺に立ち寄った時、住職宗心が乾菜を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。

     本堂には、正和二年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫では、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓や秀吉の画像等を所蔵している。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)

     

     (写真1、2)は山門で、右手前に「六齋念佛総本寺」の石標と干菜寺六齋の様子を刻んだ石碑(写真3)がある。

     (写真4)

     

     (写真4)は山門から真っ直ぐ北に伸びる参道で、正面奥に見えるのが本堂である。

     (写真5)

     (写真6)

     

     (写真5、6)は本堂で、「光福寺」の扁額が掛かり、扉には菊の御紋が見える。

     (写真7)

     (写真8)

     

     (写真7)は本堂左手前に立っている「南無阿弥陀仏」の石碑、(写真8)はその横にある「せいしまるさま」(法然上人の幼名)の像である。

     (写真9)

     

     (写真9)は本堂の左手(西側)にある玄関(右)と庫裏(左)である。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

     

     (写真10)は参道脇にある地蔵堂、(写真11)は鬼瓦である。また、(写真12)は鬼瓦の後方(西側)にある収蔵庫である。

     (写真13)

     (写真14)

     

     (写真13)は参道の東側にある鐘楼、(写真14)は庫裏の前にある水子地蔵尊である。

     (写真15)

     

     (写真15)は庭にある「宇津の井戸」で、月空宗心上人が故郷宇津より移したといわれている。(2013.7.21.訪問)

    0441妙音辨財天

    • 2013.11.15 Friday
    • 22:50
     

     妙音辨財天(みょうおんべんざいてん)は加茂川と高野川が合流する三角州から西、賀茂川に架かる出町橋の西詰、上京区青龍町にある神社で、出町妙音堂とも呼ばれている。本殿の本尊は青龍妙音辨財天画像で、西園寺公衡(きんひら)(12641315)の長女西園寺寧子(やすこ)(大光明院殿・広儀門院)が、第九十三代後伏見天皇の女后に輿入れされた折りに、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、光巌、光明、崇光天皇と伝承されて来た霊像である。その後享保年間、伏見宮家第十四代、貞建(さだたけ)親王に至って伏見邸が河原町今出川下ル出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願により、再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。世に伏見御所の辨財天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の御利益をもたらすものと信仰されている。

     (写真1)

     

     (写真1)は入口の鳥居で「妙音天」の扁額が掛かり、手前に「妙音辨財天」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真2)は手水舎、(写真3、4)は東向きに建つ本堂で、拝所には「妙音堂」、本殿には「妙音辨財天」の扁額が掛かっている。

     (写真5)

     

     (写真5)は本堂を裏(西)側から撮ったもので、巳の絵馬(額)が沢山飾られている。

     (写真6)

     (写真7)

     

     (写真6、7)は本堂の奥(西側)にある六角堂で、「妙音天」の扁額が掛かり、扉には菊の御紋が見られる。

     (写真8)

     (写真9)

     

     (写真8)は本堂手前の南側にある社務所で、左端に(写真9)に示す「京洛七福神」の札が掛かっている。

     (写真10)

     

     (写真10)は社務所奥の東側にある「豊川稲荷大明神」である。

     (写真11)

     

    なお、(写真11)は出町橋西詰北側にある「鯖街道口」の石標である。(2013.10.26.訪問)

     

    0440長徳寺

    • 2013.11.14 Thursday
    • 14:32
     

     長徳寺(ちょうとくじ)は川端通今出川上ル、出町柳駅すぐそばの左京区田中下柳町にある浄土宗の寺院で、常林寺の北隣に位置する、「砂川の三軒寺」の一つである。江戸時代の慶長十年(1605)に開山 万愚牛廊、開基 摂津・溝口領主長谷川宗二(はせがわそうにん)によって当初は裏寺町に建てられたと伝えられている。山号は報恩山。その後消失し、寛文十二年(1672)に現在地に移転した。山門前にあるピンクのオカメ桜で知られている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は山門で、左手前に「浄土宗 報恩山 長徳寺」の石標が立っており、その上に枝を伸ばしているのがオカメ桜である。山門の右手前には現在改修工事中の地蔵堂があり、「北向地蔵尊」が安置されている。

     (写真3)

     

     (写真3)は山門から撮った境内で、左手前に庫裏、その隣に玄関、更にその奥に本堂がある。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真6)

     (写真7)

     

     (写真4)は庫裏、(写真5)は玄関、(写真6、7)は本堂である。

     (写真8)

     

     (写真8)は本堂の右手(東側)にある墓地の入口で、「幕末維新士 小林良典墓在」と刻まれた石標が立っている。(2013.10.26.訪問)

    0439常林寺

    • 2013.11.13 Wednesday
    • 17:47
     

     常林寺(じょうりんじ)は、川端通今出川上ル出町柳駅すぐそばの左京区田中下柳町にある浄土宗の寺院で、正定院の北隣に位置する。光明山・摂取院と号し、天正元年(1573)に念仏専修僧魯道和尚によって開創され、現在の寺町通荒神口の一角に最初の堂宇が建立された。知恩院末の有力寺院で、総本山の役番として末寺へ配布された通達には常林寺の書判がみられる。

     寛文十一年(1671)の大火で類焼して、現在地へ地所替えとなり、元禄十一年(1698)に現本堂が建立された。本尊は来迎の阿弥陀三尊、境内の世継子育地蔵尊は門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めた。

     砂の河原に囲繞され、肩を寄せ合って立つ、当山と長徳寺、正定院の浄土宗3カ寺は「砂川の三軒寺」と呼ばれた。昔から当山は「萩の寺」として知られ、毎年九月初めより、庭一杯に咲く萩の風情はえもいわれない。

     海軍伝習生として長崎や神戸にしばしば赴いた若き日の勝海舟が、京における宿坊にしていたといわれている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は川端通に面した山門で「萩の寺常林寺」の寺札が掛かり、門前には「世継子育地蔵尊常林寺」の石標が立っている。

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真3)は山門正面の本堂、(写真4)は本堂の左手(北側)にある庫裏である。

     (写真5)

     

     (写真5)は山門を入って直ぐの本堂前庭にある「念ずれば花ひらく 真民」と刻まれた坂村真民(さかむらしんみん)の石碑である。

     (写真6)

     

     (写真6)は山門を入った左手(北側)にある「世継子育地蔵尊」のお堂である。(2013.10.26.訪問)

    0438正定院

    • 2013.11.12 Tuesday
    • 16:07
     

     正定院(しょうじょういん)は、川端今出川の北東角、出町柳駅すぐそばの左京区田中下柳町にある浄土宗の寺院で、かつては、門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めたといわれる。隣同士に建つ正定院と長徳院、常林院の浄土宗三ヵ寺は、かつて、背後に「砂川」という小川が流れていて鴨川に注いでおり、砂の河原に囲まれていたことから「砂川の三軒寺」と呼ばれていた。9月初旬には、萩が庭一杯に咲く「萩の寺」としても知られている。山号は竹谷山、本尊は阿弥陀如来である。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)

     

     (写真1、2)は山門、(写真3)は山門正面の玄関で、門前には「竹谷山 正定院」の石標が立ち、門柱には「ちご地蔵尊 當山」と書かれた比較的新しい札が掛けてある。

     (写真4)

     

     (写真4)は玄関の左手(西側)にある庫裏である。

     (写真5)

     

     (写真5)は山門を入った右手(東側)を撮ったもので、「ちご地蔵尊」、中門、本堂が見える。

     (写真6)

     (写真7)

     

     (写真6)は玄関前にある「襖絵 皆川月義」とある石碑、(写真7)は赤ん坊を背負い、錫杖を右手に持った「ちご地蔵尊」である。

     (写真8)

     (写真9)

     (写真10)

     

    (写真8)は中門、(写真9)は中門から見た本堂、(写真10)は本堂前庭である。(2013.7.21.訪問)

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