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    0359回向院

    • 2013.07.31 Wednesday
    • 08:33

     

     回向院(えこういん)は上京区御前通一条下ル東竪町にある浄土宗寺院で、山号は光明山。江戸時代後期の画家・長澤蘆雪(ながさわろせつ)(17541799)の墓があることで知られている。寺伝によると浄土宗元祖・法然(11331212)の説法教化の場として、当初は黒谷に創建されたといわれ、紫雲別房と呼ばれた

    長澤蘆雪は円山應挙の高弟で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人といわれている。成就寺障壁画 (和歌山県串本町) 天明六年(1786)、『群猿図屏風』(草堂寺) 六曲一双 紙本墨画 天明七年(1787)、『宮島八景図』(文化庁保管) 絹本墨画及び淡彩 18面 寛政六年(1794)(以上いずれも重要文化財)等多くの作品を残している

     (写真1)

     

    (写真1)は山門で、右手前に「蘆雪の墓当寺にあり」と刻まれた石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     

    (写真2)は山門を入ってからの参道、(写真3)は左手(北側)の奥にある庫裡である。

     (写真4)

     (写真5)

     

     (写真4)は参道の突き当たりにある地蔵堂、(写真5)はその前にある賓頭盧尊者の像である。

     (写真6)

     (写真7)

     

     (写真6、7)は地蔵堂手前の左手(北側)にある本堂で、「紫雲別房」の扁額が掛かっている。

     (写真8)

     

     (写真8)は本堂東側の墓地にある長澤蘆雪の墓である。(2013.7.18.訪問)

     

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%A2%E8%8A%A6%E9%9B%AA2013.7.31閲覧)

     

     

    0358宥清寺

    • 2013.07.30 Tuesday
    • 07:34
     

     宥清寺(ゆうせいじ)は上京区一条通七本松西入滝ケ鼻町にある本門佛立宗の根本道場で、本山となっており、日蓮宗京都十六本山の一つである。延慶元年(1308)、日蓮聖人の直弟・日弁上人によって開創され、京都における日蓮門下最初の寺院となっている。江戸時代の1694年、天台宗の宥清寺を改め、山号を青柳山と称し、日蓮宗妙蓮寺の末寺となった。その後1857年、日扇により、佛立講の根本道場となったが、1863年、日耀以降寺は荒廃した。明治二年(1869)、開導聖人が廃寺同様に荒れ果てていた道場を再興し、その後急速に興隆して現在に至っている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1、2)は山門で、右手前には「本山 宥清寺」の石標が立ち、山門には本門佛立宗根本道場」の寺札が掛かっている。

     (写真3)

     (写真4)

     

     (写真3)は山門を入って左手(西側)に並ぶ百万霊会供養塔、平成の大改修記念碑、宗門納骨堂、(写真4)は平成の大改修記念碑を近くから撮ったものである。

     (写真5)

     

     (写真5)は宗門納骨堂の北側に立つ日扇聖人の銅像で、土台には「佛立開導」とある。

     (写真6)

     (写真7)

     (写真8)

     

     (写真6、7)は本堂、(写真8)はその内部である。「南無妙法蓮華経」を無心に唱える信者の姿があった。

     (写真9)

     (写真10)

     

     (写真9)は本堂の西側にある庫裡の玄関、(写真10)は山門を入った右手(東側)に建つ佛立本山講堂である。(2013.7.18.訪問)

    0357清和院

    • 2013.07.29 Monday
    • 08:26

     

     清和院(せいわいん)は上京区七本松通一条上ル一観音町にあり、第五十六代清和天皇(在位858876)ゆかりの寺で、真言宗智山派に属する。

     平安初期にその後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第(そめどのだい)」の南に仁寿年間(851854)既に創建されていた仏心院を基に、清和天皇譲位後の後院として清和院が設けられたのが始まりである。

    清和院は代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなったが、徳治三年(1308)に再建、仏寺化された。今も京都御所の東北に「染殿第跡」や清和院御門が現存し、その名残をとどめている。

    本尊は木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代・重文)で等身大・玉眼入り、極彩色の精緻を極めた見事な尊像である。清和天皇が清和源氏の祖であったことから、室町将軍足利氏も深く帰依し、その保護を受けて栄えたが、寛文元年(1661)の御所炎上の際に清和院も類焼し、後水尾院と東福門院によって現在地に移転再興された。また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が消失後合併されたため、洛陽観音霊場の結願所でもある。

     (写真1)

     (写真2)

     

    (写真1、2)は山門で、右手前に「洛陽第三十三番」の石標が立っている。この石標の左側面には「勅願所清和院」と刻まれている。

     (写真3)

     (写真4)

     

    (写真3)は山門を入った所で、右側に宝篋印塔があり、その横を奥に入って行くと、寺務所がある(写真4)。

     (写真5)

     

    (写真5)は山門を入った左手にある本堂で、「清和院」の扁額が掛かっている。

     (写真6)

     

    (写真6)は本堂の左手前にある賓頭盧(びんづる)尊者の像である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     
     

    (写真7〜9)は本堂内部で、正面には木造地蔵菩薩立像(重要文化財)が祀られ(写真7)、左側(写真8)と右側(写真9)にも数体の仏像が安置されている。

     (写真10)

     (写真11)

     

    (写真10)は山門左(北)横のコーナー部にある「白梅殿古跡 爪形天満宮」の石標、(写真11)は鳥居である。白梅殿は菅原氏の邸宅であり、菅大臣神社(0142参照)がその跡とされているが、この爪形天満宮との関係は不明である。

     (写真12)

     

    (写真12)は本堂の西隣にある爪形天満宮である。(2013.7.18.訪問)

     

    0356建勲神社

    • 2013.07.28 Sunday
    • 07:29

     

     建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、平安京の四神相応のの玄武に相当する船岡山の山頂付近、北区紫野北舟岡町に建つ織田信長を祀る神社で、通称「けんくん」神社と呼ばれている。

    天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治二年(1869)に明治天皇により創建された。同八年(1875)、別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。建勲の神号は明治天皇から下賜された。

    船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武(北の神)として造営の基準点にされたという場所で、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。応仁の乱の際は西方の陣地となった。

    本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。

    信長着用の紺糸威(こんいとおどし)胴丸、桶狭間の合戦で信長が戦利品として持ち帰った義元左文字と称される太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。

    1019日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が永禄十一年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。

     (写真1)

     (写真2)

     

    (写真1)は建勲通、(写真2)は南船岡通に立つ「(別格官幣)建勲神社」の石標である。東、北、南の三つの参道があり、大鳥居があるのは東参道である。

     (写真3)

     

    (写真3)は船岡東通に面した大鳥居で、国の登録有形文化財に指定されている。京都府下最大の「木造明神型素木(しらき)造」で明治十三年(1680)に新築の後、昭和九年(1934)に全面的に建替えられ、平成十二年(2000)に大改修が実施された。柱の本径は二尺三寸(0.7m)で、推定樹齢千二百年以上の台湾阿里山産紅檜材である。

     (写真4)

     

    (写真4)は大鳥居をくぐった正面に建っている赤い鳥居で、末社 義照稲荷神社他の境内社へ上って行く石段にもいくつか鳥居が続いて建っている。

     (写真5)

     

    (写真5)は東参道を上って行ったところにある同じ境内社への鳥居である。石の鳥居には「稲荷社」の扁額が掛かっている。

     (写真6)

     

    (写真6)は義照稲荷神社の本殿で、宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱の大神が祀られている。

     (写真7)

     

    (写真7)はその西隣に建つ稲荷命婦元社で、船岡山の霊狐が祀られている。伏見稲荷大社の元宮として古来よりの信仰を集め、また、秦氏の守護神として今日の西陣織の祖神をなしている。

     (写真8)

     
     

    (写真8)はその周辺にある船岡稲荷大神他多数の境内社の一部である。

     (写真9)

     

    (写真9)は東参道を上り始めたところに建つ「大平和敬神」の神石で、ここは旧本殿址でもある。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

     

    (写真10)はそこから更に続く東参道、(写真11)は東参道を上り切ったところ、北参道との合流点にある「建勲神社境内図」である。ここからは、比叡山が正面に見え、京都市街も見下ろせて眺望は非常によい(写真12)。

     (写真13)

     (写真14)

     

    境内図のある場所から西に向かって石段を数段上がった左手に桶狭間の合戦出陣に際し、信長が舞った「敦盛」の一節が刻まれた石碑があり(写真13)、そこから西は(写真14)のような広場になっており、右手に社務所、遠くの石段の上に拝殿が見える。

     (写真15)

     (写真16)

     (写真17)

     

    (写真15)は社務所、(写真16)はその東側にある貴賓館、(写真17)は同西側にある祭器庫で、いずれも国の登録有形文化財に指定されている。

     (写真18)

     (写真19)

     

    (写真18)は拝殿前の石段下南側にある手水舎、(写真19)は拝殿で、共に国の登録有形文化財に指定されている。

     (写真20)

     (写真21)

     

    (写真20)は本殿(右側)と神饌所(左側)、(写真21)は神門(祝詞舎)と本殿を近くから撮ったもので、いずれも国の登録有形文化財に指定されている。

     (写真22)

     

    (写真22)は手水舎の南西にある船岡妙見社で、船岡山の地の神 玄武大神が祀られている。妙見は北極星を表し、北を示すシンボルであり、玄武の象徴である。諸厄消除、万病平癒、家宅守護のご利益があるとされている。(2013.7.18.訪問)

     

    0355櫟谷七野神社

    • 2013.07.27 Saturday
    • 07:13
     

     櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は上御霊前通大宮西入、上京区社横町にある神社で、安産、復縁、浮気封じの信仰がある。

     平安時代の貞観元年(859)、文徳天皇の皇后明子が安産を祈願し、奈良の春日大社を勧請したのが創祀とされる。そこへ伊勢、石清水、賀茂、平野、松尾、稲荷の六神を加えて「七の社(ななのやしろ)」にしたとか、付近の地名である紫野、上野、柏野、北野、平野、蓮台野、内野を合わせ「七野の惣社」にしたとかいわれている。

     このあたりは、両賀茂神社に奉仕する斎王の紫野斎院(賀茂斎院)の跡という学説もあり、そのかかわりの神社であるとも考えられている。

     (写真1)

     (写真2)

     

     (写真1)は「櫟谷七野神社」の石標が立つ上御霊通の入口、(写真2)は「七野社」の扁額がかかる石の鳥居である。

     (写真3)

     

     (写真3)は鳥居をくぐって直ぐ左手(西側)にある末社である。この末社の北側は広場になっており、駐車場として使われている。

     (写真4)

     

     (写真4)はこの広場から拝殿を撮ったもので、拝殿は石垣を積んだ上にあり、広場からは十数段の石段を上って参拝する。この石垣には神社修復に参加した諸大名の寄進印が刻されたものもある。

     (写真5)

     (写真6)

     

     (写真5)は中央石段の左手にある「櫟谷七野 春日神社」の石標、(写真6)は同右手にある神鹿の像である。春日大社を勧請したことによるものと推察される。

     (写真7)

     (写真8)

     

     (写真7)は拝殿、(写真8)は内拝殿と本殿である。拝殿の右手に「賀茂斎院跡」の石碑があり、その下に説明書きがある。それには「この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、『紫野斎院』とも称された。この斎院の敷地は、大宮通と廬山寺通を東南の角としており、約150m四方を占めていた。斎王は、嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、累計未婚の皇女が卜定され、約400年続き、後鳥羽天皇の皇女・三十五代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。斎王の中には選子(のぶこ)内親王や、式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院にはほぼ500人の官人や女官が仕えており、女官にも優れた歌人が少なくなかった。」と書かれている。

     (写真9)

     

     (写真9)は拝殿の前に置かれた白砂で、「社前高砂山ご祈願」ご案内と書いた説明書きがある。伝説では宇多天皇皇后が天皇の寵愛を失った時に当社に詣で、境内の白砂で奈良の三笠山をかたどった小さな山を築いて祈ったところ、寵愛が戻ったといわれている。これにならって現在でもこの白砂で本殿前に山(この山を「高砂山」という)をつくって祈願するのが、復縁祈願のやり方とされ、信仰されている。

     (写真10)

     

     (写真10)は拝殿前の左(西)側にある末社の稲荷社である。

     (写真11)

     

     (写真11)は拝殿前から南方の境内を見下ろしたもので、左奥に鳥居が見える。

     (写真12)

     

     なお、櫟谷七野神社には智恵光院通からも入れるようになっており、細い辻の奥に鳥居が見える。(写真12)はその鳥居を直前から撮ったもので、左手に「村社 櫟谷七野神社」と刻まれた石標が立ち、突き当たりを右に曲がると拝殿下の広場に出る。(2013.7.18.訪問)

    0354西法寺

    • 2013.07.26 Friday
    • 10:21
     

    西法寺(さいほうじ)は大宮通鞍馬口下ル東入、上京区新ン町(しんちょう)にある寺院で、安居院(あぐい)と号し、浄土真宗本願寺派に属する。文禄二年(1593)、僧明円が安居院を再建し、名を西法寺と改めて真宗寺院としたものである。安居院とは、この近くにあった比叡山延暦寺山内の竹林院の里坊のことである。平安時代の末期以来、安居院には名僧が住み、中でも澄憲僧正(藤原信西の子)、聖覚法印(信西の孫)らが唱導(神仏の功徳を説いて信仰を勧めること)の技術に優れ、以後、代々受け継いで安居院流の唱導を作り出したことで有名である。14世紀頃に神社の縁起を集めた「神道集」がこの流派の人々によって作られた。聖覚の墓は当寺の境内にある。なお、聖覚は謡曲「源氏供養」にも語られている。寺宝として安居院及び真宗関係の仏像・文書類等を蔵している。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)

     

    (写真1)は西法寺全景、(写真2、3)は山門である。山門の左手前には「聖覺法印𦾔蹟」と刻まれた石標が立っており、左(東)隣に「西法寺門徒会館」と書かれた建物と駐車場がある。

     (写真4)

     (写真5)

     

    (写真4)は山門正面の中門(写真5)と庫裡(右側)である。(2013.7.21.訪問)

     

    0353常盤井

    • 2013.07.25 Thursday
    • 06:38
     

    大徳寺の南、智恵光院通の建勲通と建勲北通の中間にある辻を東に曲がって直ぐの北側、北区紫野下築山町の道路脇に、源義経の母常盤御前が使用したと伝えられる小さな井戸の跡がある。常盤は一条長政と再婚し、この辺りにあった一条長政の別邸に住んでいたが、この井戸は常盤がその時に化粧や飲み水に使ったとされ、「常盤井(ときわい)」または「常盤化粧井」と呼ばれている。かっては京都の名水の一つにも数えられていたといわれているが、現在井戸は枯れてしまっており、井戸の傍に寛文十二年(1672)に建てられた「常槃井」と刻まれた石碑が建っているだけである。

     (写真1)

     (写真2)

     
     

    (写真1、2)は狭い道路脇にある常盤井の跡である。(2013.7.18.訪問)

    0352玄武神社

    • 2013.07.24 Wednesday
    • 14:37
     

     玄武神社(げんぶじんじゃ)は猪熊通北大路下ル、北区紫野雲林院町にある神社で、祭神として文徳(もんとく)天皇の皇子である惟喬(これたか)親王を祀り、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれている。

     社名の玄武は、青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)とともに王城を守る四神の一つで、平安京の北面の守護神として名付けられた。亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多い。

    当社の起こりは、親王の末裔で当時この地に住んでいた星野茂光が、元慶年間(877885)に、親王の御霊を慰め、また王城北面の鎮護を願って、親王の外祖父に当たる紀名虎(きのなとら)が所蔵していた親王寵愛の剣を祀ったことに始まると伝えられている。

    毎年四月の第二日曜日には、「玄武やすらい花」(国の重要無形民族文化財)が行われる。この民族芸能は平安時代の花の精の力による疫神封じ(花鎮め)に由来し、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦や太鼓の囃しにあわせて鬼や子鬼が町を踊り歩く。京都の奇祭の一つとして知られている。

     (写真1)

     (写真2)

     

    (写真1)は玄武神社全景、(写真2)は正面の鳥居で、鳥居には「玄武神社」の扁額が掛かり、右手前には「村社 玄武神社」の石標が立っている。

     (写真3)

     (写真4)

      

    (写真3)は手水舎、(写真4)は本殿右手にある社務所である。

     (写真5)

     (写真6)

     

    (写真5)は本殿(拝所)正面、(写真6)は西横から見た本殿である。

     (写真7)

     (写真8)

     

    (写真7)は近くから撮った本殿である。また、(写真8)は本殿手前の中央に飾られた亀に蛇がからむ玄武の石像である。亀は長寿、蛇は商売繁盛を招くという。

     (写真9)

     (写真10)

     

    (写真9)は内拝殿左側に掛けられた四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)の額、(写真10)は同右側に掛けられた玄武の額である。

     (写真11)

     (写真12)

     

    (写真1112)は本殿の左(西側)に建てられた末社・三輪明神社で、白い鳥居に「三輪明神」の扁額が掛かっている。

     (写真13)

     (写真14)

     

    (写真1314)は三輪明神の左隣(西側)にある末社・玄武稲荷社で、赤い鳥居に「玄武稲荷大神」の扁額が掛かっている。(2013.7.21.訪問)

    0351紫式部・小野篁の墓

    • 2013.07.23 Tuesday
    • 07:35
          

    堀川通北大路下ル西側、北区紫野西御所田町、島津製作所紫野工場の北に紫式部と小野篁の墓が隣接して建てられている。
     この辺りは淳和天皇の離宮があったところで、紫式部が晩年に住んだといわれ、後に、大徳寺の別坊となった雲林院の塔頭・百毫院があった所の南にあたる。

    南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人であった四辻善成(よつつじよしなり)が書いた『源氏物語』の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』には、「式部墓所は雲林院の塔頭の白毫院南にあり小野篁墓の西なり」とある。

    紫式部の墓は平成元年(1989)社団法人 紫式部顕彰会によって整備されている。
     小野篁の墓は紫式部の墓の東隣にあり、ほぼ同規模、同形式の墓である。小野篁(802852)は平安時代初期の公家・文人で、小野道風、小野小町の祖父とされる。伝説では、昼間は内裏に勤める役人であるが、夜は井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐役を務めていたといわれている。百人一首の歌、「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人にはつげよ あまの釣舟」で有名である。

     (写真1)

     

    (写真1)は堀川通の島津製作所紫野工場の北にある「紫式部墓所」と「小野篁卿墓」の石標である。

     (写真2)

     

    ここから奥に入って行くと、敷地が右(北)に広がっていて、そこに紫式部と小野篁の墓が並んでいる(写真2)。

     (写真3)

     (写真4)

     (写真5)

     

    (写真3,4)は奥(西)側にある紫式部の墓、(写真5)は「紫式部顕彰碑」である。

     (写真6)

     (写真7)

     (写真8)

     

    (写真6、7)は手前(東)側にある小野篁の墓、(写真8)は「参議小野公塋域碑」である。

     (写真9)

     

    (写真9)は紫式部の墓の前にある「歯痛留地蔵尊」である。(2013.7.18.訪問)

     

    0350西陣織会館

    • 2013.07.22 Monday
    • 16:12
     

    西陣織会館(にしじんおりかいかん)は上京区堀川通今出川下ルにある西陣織の総合PR館で、史料室や連日上演しているきものショーの見学、西陣織商品の即売の他、西陣ならではの着物体験や手織体験も充実している。純国産絹織工房では、職人による実演、養蚕・製糸行程のパネル展示、純国産絹糸を使って製織した製品の展示・販売もを行っており、観光客に西陣織を知ってもらうのには恰好の施設である。

     (写真1)

     (写真2)

     

    (写真1)は堀川通から撮った西陣織会館の外観。(写真2)はその入口である。

     (写真3)

     

    (写真3)は入口の西側にある「西陣」の歴史を記した石碑と「村雲御所跡」の石碑である。村雲御所は,豊臣秀次の母瑞竜院日秀(15331625)が,豊臣秀吉(15361598)に追放され自害した息子秀次(156895)を追善するため建立した寺院で、この附近を村雲と称し、宮家や摂関家からの入寺があったため村雲御所と呼ばれた。日蓮宗唯一の尼門跡寺院で、昭和三十八年(1963)近江八幡市に移転した。この石標は瑞竜寺跡を示すものである。

     (写真4)

     

    (写真4)は西側の団体観光客入口で、観光バスの駐車場に面している。

     (写真5)

     

    (写真5)は1階の入口を入ったところで、手前にあるステージでは、10時〜16時の間約1時間おきに17回きものショーが上演される。

     (写真6)

     

    (写真6)は1階ステージ脇にある幻の機といわれる「空引機(そらびきばた)」である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     

    (写真7)は2階にある「純国産絹織工房」、(写真8、9)は職人の方による実演である。

     (写真10)

     

    (写真10)は2階の売店で、西陣織に関連するいろいろなみやげもの等を求めることが出来る。

     (写真11)

     (写真12)

     

    (写真1112)はきものショーの一部である。(2010.3.26.2013.7.8.訪問)

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