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  • 2019.05.01 Wednesday

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    0311葵祭

    • 2013.05.31 Friday
    • 16:07
     

     葵祭(あおいまつり)は、上賀茂神社と下鴨神社の例祭である。古墳時代に始まった京都最古の祭で、かつては、4月の中酉日(なかのとりのひ)に行われており、「賀茂祭(かもまつり)」と称され、単に「祭」といえば、「葵祭(あおいまつり)」のことをいう。神がその出現地へ出現日に幸(みゆき)をすることから、「みあれ」とも称されていた。

    京都の三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)の一つで、三大勅祭(葵祭・石清水祭・春日祭)の一つでもあり、葵祭は「北祭」、石清水祭は「南祭」と呼ばれる。

    毎年51日から15日に行われる葵祭(あおいまつり)の清めのための前儀として、次のようなさまざまな祭事が行われる。
      1
    日 <競馬会足汰式(くらべまえあしぞろえしき)> 上賀茂神社
      3日 <流鏑馬神事(やぶさめしんじ)> 下鴨神社の糺の森
     
    4日 <斎王代禊の儀(さいおうだいみそぎのぎ)> 上賀茂神社
           と下鴨神社の隔年交代

      5日 <歩射神事(ぶしゃしんじ)> 下鴨神社
      5日 <賀茂競馬(かもくらべうま)> 上賀茂神社
    12日 <御蔭祭(みかげまつり)> 下鴨神社、御蔭神社
    12日 <御阿礼神事> 上賀茂神社
    15日 <葵祭の祭事> 京都御所、下鴨神社上賀茂神社
    17日 <献茶祭> 上賀茂神社
    21日 <煎茶献茶式> 下鴨神社
     515日に行われるメインイベント「葵祭の祭事」は、午前1030分に先頭が御所の建礼門前を出発し、長さ約1kmにもおよぶ「路頭の儀」の行列が始まる。行列は、総勢約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台の平安貴族そのままの風雅な王朝行列が、京都御所を出発し下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へ向かう。その道のりは約8kmにもおよぶ。
     先 頭 乗尻(のりじり)の騎馬6騎
     第1列 検非違使(けびいし)と山城使と、その従者たち
     第2列 御幣物をかつぎ供奉(ぐぶ)する官人、馬寮使(めりょうつかい)、紫の藤の花で飾られた御所車
     第3列 勅使に従う舞人(まいびと)と近衛使(このえつかい)
     第4列 楽を奏する倍従(べいじゅう)と内蔵使(くらつかい)、花々で飾った風流傘(ふりゅうがさ)
     第5列 十二単で腰輿に乗る斎王代

    内裏神殿の御簾(みす)、祭儀に係わる人、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬など全てのものに双葉葵(ふたばあおい)を掛けて、桂の小枝に挿して飾ったことから、江戸時代以降に「葵祭」と称されるようになった。「源氏物語」「今昔物語集」「徒然草」などに祭の風情が描かれている。

    庶民の祭である祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷・貴族の祭事・行事であった官の祭であったことが色濃く残され、古式のままに、装束の着付け、調度などは、平安時代の文物風俗が忠実に保たれている。

    以下は、2013年葵祭の行列を建礼門前で撮影したものである。

     (写真1)
      

    (写真1)は乗尻(のりじり)で、行列を先導する競馬である。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2、3)は検非違使志(けびいしのさかん)で、平安時代の警察の役人である。

     (写真4)

    (写真4)は検非違使尉(けびいしのじょう)で、検非違使志の上役にあたる。

     (写真5)

    (写真5)は山城使(やましろつかい)で、山城国を治めていた役人とその住者である。

     (写真6)

    (写真6)の白木の唐櫃に注連縄をかけたものは御幣櫃(ごへいびつ)で、上賀茂神社と下鴨神社の神前に供える御幣物を納めた櫃である。

     (写真7)

    (写真7)は馬寮使(めりょうつかい)で、走馬を司る武官である。騎乗しており、調度掛に弓矢を持たせている。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8、9)は牛車(ぎっしゃ)である。御所車と呼ばれ、勅使が乗る車で、藤の花などを軒に飾り、牛に引かせる。

     (写真10)

    (写真10)は舞人(まいびと)で、近衛府の五位の武官である。歌舞の堪能者が勤める。

     (写真11)

    (写真11)は勅使(ちょくし)で、天皇の使者である。四位近衛中将がこれを勤める。

     (写真12)

    (写真12)は牽馬(ひきうま)で、帰路に備えるための勅使の替馬である。

     (写真13)

     (写真14)

    (写真1314)は風流傘(ふりゅうがさ)で、牡丹、杜若等季節の花を大笠の上に飾り付けたものである。

    ここで本列が終了し、以後は斎王代列となる。

     (写真15)

     (写真16)

    (写真1516)は命婦(みょうぶ)で、小袿(こうちき)を着た高級女官である。花傘をさしかけている。

     (写真17)

     (写真18)

     (写真19)

    (写真1719)は斎王代(さいおうだい)とそのお供で、斎王代はかっては未婚の内親王が務めていたが、現在は京都在住の未婚女性から選ばれる。重さ30kgもある豪華な十二単衣を着て、腰輿(およよ)と呼ばれる輿に乗る行列の華である。

     (写真20)

     (写真21)

    (写真2021)は駒女(むなのりおんな)で、斎王付きの清浄な巫女(みかんこ)である。騎馬で参向するのでその名がある。

     (写真22)

    (写真22)は蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)で、斎院の物品、会計を司る蔵人所の雅楽を演奏する文官である。いろいろな楽器を持っている。

     (写真23)

     (写真24)

    (写真2324)は行列の最後尾となる牛車である。本列の牛車とは少し飾りが異なる。

    2013.5.15.見学)

    0310法輪寺(達磨寺)

    • 2013.05.29 Wednesday
    • 22:11
     

     法輪寺(ほうりんじ)は上京区下立売通御前西入にある寺院で、臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる起き上がり達磨をはじめ、心願成就を祈って奉納された八千余の達磨を達磨堂に祀っていることから、達磨寺の名で親しまれている。

    江戸時代の享保十二年(1727)に萬海(まんかい)慈源和尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦(ねしゃか)木造、十六羅漢木造、徳川時代の鋳匠・藤原国次(くにつぐ)作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の『夜船閑話(やせんかんな)』で有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とされる白幽子(はくゆうし)の旧墓石などがある。
     また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す無尽庭(むじんてい)がある。
     なお、達磨大師は、インドから中国へ禅を伝え、禅宗の開祖となる。少林寺で手も足も無くなる厳しい修行をされたといわれる。

     (写真1)

    (写真1)は山門で、右手前の石標には「三國随一 起上りだるまてら 法輪禅寺」と刻まれている。

     (写真2)

    (写真2)は山門を入ってからの参道と前庭である。この参道の突き当たりを左(東方向)に曲がった正面に達磨堂がある。


    (写真3)

    (写真4)

    (写真5)

     (写真3)はその達磨堂の正面外観、(写真4)はその内部で、「三国随一」といわれる起き上がりの達磨や、大小8,000体もの達磨が祀られている。(写真5)は中央奥に祀られている達磨像である。

     (写真6)

     また、(写真6)は達磨堂の天井画で、やはり達磨が描かれている。

     (写真7)
     

     (写真7)は達磨堂の前方から更に南方向に続く参道を撮ったもので、左手に待合、正面に本堂庭園への入口がある。

     (写真8)

     (写真9)

     (写真8)は(写真7)の正面入口から入った内部で、右手にある本堂の東前庭となっている。この前庭の一番奥に「少林寺拳法根本道場発祥地」の石碑があり(写真9)、その後方(東側)に現在も道場がある。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

     (写真10)は本堂、(写真11)はその中央、(写真12)は中央内部である。「転法輪」の扁額は、琉球中山国円覚寺の月羅山和尚筆である。

     (写真13)

     (写真14)
     
     (写真15)

     (写真1314)は本堂南側の無尽庭で、(写真13)は東から西方向、(写真14)は西から東方向をそれぞれ撮ったものである。石組みと苔と新緑の楓の木が美しい庭である。また、(写真15)は本堂の縁側西端に置かれた牛の置物である。

     (写真16)

     (写真17)

     (写真18)

     (写真16)は本堂の北側にある「衆聖堂」(山田無文老師の命名)、(写真17)はその一階内部である。中央に樟一本造りの大達磨立像、その後方上部に十六羅漢木像が安置され、他にも沢山の達磨像が奉安されている。(写真18)はその一部である。

     (写真19)

     また、天井には樋口文勝老師画による大きなが達磨が描かれ、写真左上の賛は山田無文老師が「不倒」と雄渾に書かれている(写真19)。

     (写真20)

     衆聖堂の後方には(写真20)のような階段があり、二階に上がれる。

     (写真21)

     (写真22)

     (写真23)

     (写真21)は二階の内部正面、(写真22)は右側面、(写真23)は左側面である。

     (写真24)

    正面前方には金箔仏涅槃木像が安置されている(写真24)。四百余年前の桃山時代の作といわれる等身大の寝釈迦像は珍しい。

    右側面は「貴寧磨(キネマ)殿」と呼ばれ、十一面観世音菩薩坐像と共に、尾上松之助、牧野省三、大河内伝次郎、板東三津五郎、望月優子、田中絹代はじめ、映画人六百有余霊が祀られている。また、左側面は「英霊殿」と呼ばれ、十一面観世音菩薩立像と共に第二次世界大戦戦没者の多数の位牌が並んでいる。

     (写真25)

    (写真25)は達磨堂の手前右手(南側)にある鐘楼である。梵鐘は京三条釜座の名工 藤原国次が鋳造したことで知られる名鐘である。

     (写真26)

    (写真26)は鐘楼の北側にある「十二支干支達磨大師」と呼ばれる達磨石像で、周囲は十二支の動物たちで囲まれている。

     (写真27)

     (写真28)

     (写真29)

    (写真27)は山門を入ってからの参道右手(西側)にある庫裡、(写真28)は庫裡の前に立っている達磨像、(写真29)は山門と庫裡の間にある地蔵堂である。

     (写真30)

    法輪寺は参道脇に咲く芙蓉と牡丹の名所でもある。訪れた時はもう牡丹の季節の終わり近くであったが、それでも数カ所きれいな牡丹の花を見ることが出来た。(写真30)はその一輪である。(2013.4.27.訪問)

     

    0309竹林寺

    • 2013.05.29 Wednesday
    • 22:04
     

     竹林寺(ちくりんじ)は上京区下立売通御前西入にある浄土宗西山禅林寺派(永観堂)の末寺で、山号は五台山(ごだいさん)、院号は法泉院(ほうせんいん)である。「赤門の竹林寺(あかもんのちくりんじ)」、「あかちく」とも呼ばれている。
     
    鎌倉時代中期の弘安二年(1279)、顕意道教上人により創建された。

     (写真1)
     

     (写真1)は赤門と呼ばれる竹林寺山門で、左手前に「元治甲子勤王志士贈正四位平野國臣外三十餘士の墓アリ」の石塔と「竹林寺 平野國臣以下三十七士の墓」の説明書きが立っている。それによると「平野國臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに尊皇攘夷運動に奔走したが捕らえられ、元治元年(
    1864719日蛤御門の変(禁門の変)の時、戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同志、天誅組の水郡善之祐以下十六名、池田屋事件の古高俊太郎以下八名の勤皇志士とともに未決のまま斬首された。『憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地』と辞世の詞をよみ、三十七歳の生涯を終えた。明治十年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された國臣ら勤皇志士三十七名の遺骨であることがわかり、改めて当寺に移葬された。」とある。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2)は表通りの寺の塀に掲げられた三十七志士の霊名、(写真3)は山門を入って直ぐ右手にある「六角獄舎殉難志士之墓」である。

     (写真4)

     (写真5)

    (写真4)は山門正面の玄関と書院、(写真5)は右手二階の本堂で乾第十五番札所になっており、平安時代初期の作とされる一木等身の十一面観音菩薩が安置されている。(2013.4.27.訪問)

    0308西院春日神社

    • 2013.05.28 Tuesday
    • 12:29
     

     西院春日神社(さいいんかすがじんじゃ)は、西院の春日(佐井)通四条上ルにあり、春日神社とも呼ばれている。4つの本殿があり、祭神は第一殿は建御賀豆智命(たけみかつちのみこと)、第二殿は伊波比主命(いはひぬしのみこと)、第三殿は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、第四殿は比売神(ひめがみ)で、病気平癒、厄除、交通旅行安全の信仰を集めている。京都十六社朱印めぐりの一つである。

    平安時代初期の天長十年(833)、淳和天皇が仁明天皇に譲位し、淳和院離宮(西院)に移られたときに、勅命により奈良の春日四座大神を勧請し、皇室や藤原氏の守護神とされたのが由来である。

     (写真1)

     (写真2)

    (写真1)は春日通から撮った神社全景、(写真2)は春日通に面した鳥居である。右手に「春日神社」の石標が立っている。

     (写真3)

    (写真3)は春日通より一筋西の佐井西通に面した鳥居で、神社には東西両方に参道がある。

     (写真4)

     (写真5)

    (写真4)は手水舎、(写真5)はその西横にある「一願蛙」の石像である。大きな蛙の背中に2匹の小さな蛙が乗っており、3匹のカエルから「身にかえる」や「見返る」といわれ、水をかけて祈願すると自分の身に返ってくるといわれる。

     (写真6)

     (写真7)

     (写真8)

    (写真6)は拝殿、(写真7)は本殿(拝所)、(写真8)は右端にある若宮神社である。

     (写真9)

    (写真9)は本殿内部で、4つの社が並んでいるのが見える。右端の鳥居内部は若宮神社の本殿である。

    本殿には霊石「疱瘡石」がある。淳和天皇の皇女・崇子(たかこ)内親王が疱瘡(ほうそう)にかかり、春日神社でご祈願をされると、神前の石が崇子内親王の身代りとして疱瘡になり、崇子内親王の疱瘡が完治されたという故事がある。都に疫病が流行ると、この石の表面が必ずぬれたといわれる。普段は祈祷殿に納めてあるが、毎月一日、十一日、十五日の月次祭の日には本殿内で公開されている。

     (写真10)

    (写真10)は境内の東側にある社務所の玄関である。玄関の左右に藤の木があり、左側は賜藤、右側は六尺藤と呼ばれている。また、西側の参道にも白い山藤の藤棚がある。

     (写真11)

    (写真11)は六尺藤を近くから撮ったものである。六尺は誇張であるが、確かに普通の藤よりも房が長い。

     (写真12)

     (写真13)

    (写真12)は境内南側にある淳和院礎石〔0307高山寺(西院之河原)参照)、(写真13)は境内西側にある仁孝天皇 御胞衣塚(おえなづか)である。江戸時代後期の寛政十二年(1800)、仁孝天皇の御降誕のときに、吉の方角にあたる西院春日神社に、御胞衣(おえな)が埋蔵された。御胞衣とは、「後産」ともいわれるお産の後に出てくる胎盤をいう。 宮中では、御胞衣を吉方にあたる場所に埋蔵し、その子の健やかなご成育を祈願する慣行があった。

     (写真14)

    (写真14)は境内西側にある摂社「還来神社(もどろきじんじゃ)」で、旅行安全、還来成就の守り神といわれている。平安時代初期の貞観十六年年(874)、淳和院が火災に見舞われ、避難した正子内親王らが、その後、洞裏院に無事還御され「洞裏院が類焼を免れて無事還り来るは是れまったく神の加護である」といわれ祀られた。ご祈願、御礼のときには、「わらじ奉納」が行われる慣わしがあり、沢山のわらじが掛けられている。

     (写真15)

    (写真15)は還来神社のまえにある「梛石(なぎいし)」で、石を撫でて病気平癒、厄除、交通旅行安全が祈願されるため、「撫石(なでいし)」とも呼ばれる。

     (写真16)

    (写真16)は神木・梛の木(なぎのき)で、梛の葉は、身につけると「災難除け」のお守りになり、鏡の下に敷くと「夫婦和合」のお守りになるというご利益がある。梛(なぎ)は「凪」に通じ、海上の風波の鎮まることに通じるといわれる。

     (写真17)

     (写真18)

    (写真17)は境内西側にある稲荷大明神、辨財天、(写真18)は西院宮(左)と住吉社(右)である。(2013.4.27.訪問)

    0307高山寺(西院之河原)

    • 2013.05.25 Saturday
    • 10:27
     

     高山寺(こうざんじ)は四条西大路(西院)の北東角にある浄土宗の寺院で、号は日照山。西院の河原(さいのかわら)、賽の河原とも呼ばれ、本尊の地蔵菩薩(子安地蔵)は安産地蔵として、また子供を救う地蔵として信仰を集めている。足利義政夫人日野富子もここで祈願し、義尚を生んだという。

     この地は、平安前期、淳和天皇の後院(ごいん)〔天皇即位後の御所〕淳和院があったところである。広さは東西約230m、南北約250m、池に面した華麗な御所で、高山寺はほぼ南東隅にあたる。天長十年(833)、仁明天皇に譲位された淳和天皇は、皇太后正子内親王とここに住まれ、平安前期宮廷文化の一中心でもあった。承和七年(840)上皇がこの地で崩御されて後、皇太后は出家され、淳和院は仏堂修行の道場となり、薨後(こうご)は遺命により寺となった。高山寺はその故地に建てられたものである。なお、淳和院は別名西院といい、西院の地名の起源でもある。

     (写真1)

     (写真1)は四条通に面した山門で、右手に「西院之河原旧跡高山寺」、左手に「淳和院跡」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真4)

     (写真2)は山門正面の本堂遠景、(写真3)は近くから撮った本堂、(写真4)は本堂中央に掛かる御詠歌の額である。

     (写真5)

     (写真6)

    (写真2)の左側にある木の下に大きな地蔵尊が見える。(写真5)はその地蔵尊で、像高3m、右手に錫杖を持っていない。この地蔵尊のまわりには沢山の石仏地蔵が集められている。(写真6)はその一部である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真7)は本堂に向かって右側にある水子地蔵(左端)と宝篋印塔(中央)で、その奥にも(写真8)のような石仏地蔵がある。

     (写真9)

     (写真10)

     (写真9)は山門を入った左側にある鐘楼、(写真10)は本堂の左(西)側にある玄関である。(2013.4.27.訪問)

    0306高山寺

    • 2013.05.23 Thursday
    • 21:32
     

    高山寺(こうさんじ)は、京都市街北西の清滝川に沿った高雄山神護寺、槇尾山西明寺の更に奥にある「三尾」の一つ、栂尾山(とがのをさん)と号する真言宗の寺院で、紅葉の名所である。本尊は釈迦如来で、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。
     寺伝によれば、宝亀(ほうき)五年(
    774)、光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。

    広い境内(国の史跡)には、石水院(せきすいいん)(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。寺宝は数多く、鳥羽僧正筆とされる「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」をはじめ、「明恵上人樹上坐禅図」など国宝八点、重要文化財約一万点が所蔵されている。

    また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えた所で、ここから全国に茶が普及したといわれている。この由緒から、毎年118日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。

     (写真1)

     (写真2)

    (写真1)は表参道の登り口、(写真2)は表参道で、左手に「栂尾山高山寺」の石碑、右手に「佛足石参道」の石標が立っている。

     (写真3)

     (写真4)

    (写真3)は表参道の境内入口近くに立てられた「世界文化遺産 高山寺」の石碑、(写真4)はその入口で、右手に「史跡高山寺境内」の石標が立っている。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真7)

    (写真5)は入口を入って直ぐの両側にある石燈籠、(写真6)はよく紅葉の高山寺のポスターになっている表参道で、この写真の右手に水原秋桜子の句「ひぐらしや ここにいませ 茶の聖」が刻まれた句碑がある(写真7)。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8)は裏参道の登り口近くにある高山寺付近案内図、(写真9)はその登り口である。バス停からは裏参道の方が近いので、こちらから登って表参道から下る人が多い。

     (写真10)

     (写真11)

    (写真10)は裏参道にもある「史跡 高山寺境内」の石標、(写真11)は表参道と裏参道の合流地点で、手前側が表参道、右側が裏参道である。

     (写真12)

     (写真13)

    (写真12)は石水院の山門、(写真13)は山門を入った正面にある門で、門の左手前に笠塔婆の下乗石(重要美術品)が立っている。

     (写真14)

     (写真15)

     (写真16)

    (写真14)は玄関、(写真15)はその左手にある庫裡、(写真16)は庫裡の手前左手にある鐘楼である。鐘楼は茶席の待合を兼ねて造られている。

     (写真17)

     (写真18)

    (写真17)は石水園廂の間入口、(写真18)はその手前(北側)にある中庭である。

     (写真19)

    (写真19)は廂の間正面を西側から撮ったもので、欄間には冨岡鉄斎筆「石水院」の扁額が掛かり、落板敷の中央に小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。

     (写真20)

    (写真20)は廂の間の南方向で、新緑を背景にした菱格子戸と蛙股並びに手前の善財童子のシルエットが美しい。

     (写真21)

     (写真22)

    (写真2122)は廂の間西側庭園の北半分、南半分をそれぞれ撮ったものである。

     (写真23)

     (写真24)

    (写真23)は石水園南の間中央で、欄間には後鳥羽上皇筆と伝えられる「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらす こうざんのてら)」の扁額がかかり、奥の間にはケースの中に運慶作と伝えられる明恵上人遺愛の木彫の犬(写真24)が置かれている。

     (写真25)

    (写真25)は南の間西側で、長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額が掛かっている。また、ガラスケースの中には鳥獣人物戯画全四巻の中、第二巻〜第四巻の縮小版が展示されている。

     (写真26)

    (写真26)は南縁から見た南東方向の景色である。

     (写真27)

     (写真28)

    (写真2728)は東の間に展示された鳥獣人物戯画(複写)の一部である。

     (写真29)

    (写真29)は石水院の直ぐ北にある茶室「遺香庵」で、昭和六年(1931)茶祖 明恵上人の七百年遠忌を記念して建てられたものである。

     (写真30)

     (写真31)

    (写真30)は茶室の近くにある「日本最古之茶園」の石標、(写真31)はその茶畑である。栂尾産のお茶は「本茶(ほんちや)」と称され、栂尾以外の「非茶(ひちゃ)」と区別された。その後、茶の畑が、仁和寺・醍醐・宇治・葉室(西京区松尾)にも作られ広まった。

     (写真32)

    (写真32)は開山堂で、明恵上人坐像(重要文化財)が安置されている。この場所は、明恵上人の晩年の頃の草庵 禅堂院があった跡といわれるが、建物は、近世に建てられたものである。

     (写真33)

     (写真34)
     

    (写真33)は開山堂の西側に立つ聖観音像、(写真34)はその前に立つキリシタン燈籠である。東大寺、仁和寺から寄進されたものといわれている。

     (写真35)

     (写真36)

     (写真37)

    (写真35)は開山堂の上(北)にある「明恵上人御廟」で明恵上人の遺体が安置されている。(写真3637)はその左手前にある高山寺型の宝筐印塔(重要文化財)と笠石塔婆(重要文化財)で、明恵の遺訓「阿留辺畿夜宇和(あるべきやうわ)」が刻まれた碑である。

     (写真38)

     (写真39)

    (写真3839)は明恵上人御廟の西側にある小さな仏足石の祠とその中にある「仏足石」である。明恵上人が、釈迦を慕い、足形を刻んだとされている。

     (写真40)

     (写真40)は仏足石の東北にある「旧石水院跡」で、明治二十二年(1889)まで、石水院が立っていた跡地である。今もその頃の石組みが残っている。

     (写真41)

     (写真42)

     (写真43)

    (写真41)は明恵が奈良から勧請したという春日明神社、(写真4243)はその西隣にある金堂(本堂)である。高山寺の最も奥に、老杉に囲まれた中に建つ質素な建物で、本尊 釈迦如来坐像が安置されている。現在の金堂は寛永十一年(1634)仁和寺から移築されたものである。

     (写真44)

     (写真44)は表参道から金堂へと続く石段の金堂道である。(
    2013.5.2.訪問)
     

    0305西明寺

    • 2013.05.21 Tuesday
    • 17:38
     

     西明寺(さいみょうじ)は、神護寺と高山寺の間にある寺院で、槇尾山と号する真言宗大覚寺派の準別格本山である。院号は平等心王院(びょうどうしんのういん)。
     高雄(尾)山の神護寺、栂尾山の高山寺とともに三尾(さんび)の名刹の一つとして知られ、紅葉の名所として名高い。

     天長年間(824834)に、弘法大師(空海)の弟子、智泉大徳(ちせんだいとく)が神護寺の別院として開創し、鎌倉時代の建治年間(12751278)に和泉国(現在の大阪府南西部)槇尾山の我宝自性上人(がほうじしょうしょうにん)が中興したと伝えられる。その後、正応(しょうおう)三年(1290)に、後宇多(ごうだ)天皇より名前を賜り、神護寺から独立した。

     現在の本堂は、徳川五代将軍綱吉の生母、桂昌院が、元禄十三年(1700)に寄進したものと伝えられ、正面の須弥檀(しゅみだん)に本尊の釈迦如来立像(重要文化財)が祀られている。この像は高さ51cmの小像で、清凉寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像を模して、鎌倉時代に運慶によって作られたものである。

     (写真1)

     (写真1)は清滝川に架かる朱塗りの指月橋(しげつきょう)で、橋の手前に「槇尾山聖天堂」の石標が立っている。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真4)

     (写真2)は橋の上から眺めた清滝川の清流、(写真3、4)は橋を渡ってから上っていく石段の参道である。

     (写真5)

    (写真5)は表門(京都市指定有形文化財)である。元禄十三年(1700)建立の一間薬医門で、築地塀が付いている。

     (写真6)

     (写真7)

    (写真6)は表門を入った左手にある鐘楼、(写真7)は右手にある聖天堂である。

     (写真8)

     (写真8)は鎌倉時代の中興の祖自性上人の歌碑で「白露の おのが姿をそのままに 紅葉におけば 紅の玉」と刻まれている。

     (写真9)

     (写真10)

    (写真9、10)は表門の正面に建つ本堂(京都市指定有形文化財)である。正面入口の梁上に「霊山鷲心」の扁額が掲げられている。

     (写真11)

     (写真12)

    (写真11)は本堂右手の庭園、(写真12)は本堂前に高く聳える槙(高野槙)の木で、樹齢約700年、自性上人手植の木といわれ、日本最古の槙の木の一本である。

     (写真13)

    (写真13)は本堂の左手に建つ客殿である。本堂左後方と短い渡り廊下で結ばれており、江戸時代前期に移築されたものである。かつては食堂で、僧侶の生活や戒律の道場であった。

     (写真14)

     (写真15)

    (写真14)は客殿の西側にある庫裡、(写真15)は境内の一番西奥にある裏門である。(2013.5.2.訪問)

     

    0304神護寺

    • 2013.05.18 Saturday
    • 16:23
     

     神護寺(じんごじ)は、京都市街の北西愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、清滝川に架かる高雄橋から長い急な石段の参道を上りつめた奥の山中に建つ。

    高雄山と号し、高野山真言宗の別格本山である。当寺の起源は、もと高雄山寺といい、天応元年(781)愛宕(あたご)五坊の一つとして建立されたといわれ、また和気清麻呂が河内国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(弘法大師)が住持となって神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改称した。その後寺運は次第に衰え、寿永三年(1184)文覚(もんかく)上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって漸次修営され、現在に至っている。 
     栂尾山高山寺、槙尾山西明寺とともに「三尾」と称され、いずれも紅葉の名所である。

     (写真1)
     

     (写真1)は高雄のバス停から清滝川の方に下って行く道の入口に立つ「高雄山神護寺」の石標である。

     (写真2)

     (写真2)は高雄観光マップで、三尾がすべて含まれている概略観光ルート図である。

     (写真3)

     (写真4)

     (写真3)は清滝川に架かる高雄橋で、橋のたもと(左手前)には「山内女人禁制」の石標が立っている。この橋を渡った左側が参道の登り口である(写真4)が、江戸時代まで女性は高雄橋を渡って山内に入れなかったようである。

     (写真5)

     (写真5)は参道の途中にある硯石で、弘法大師が墨をすったといわれる石である。

     (写真6)

     (写真7)

     (写真6)は参道の石段を上り切ったところにある楼門である。元和九年(1623)に建立されたもので、扁額には「神護国祚真言寺」と書かれている(写真7)。

     (写真8)

     (写真9)

     (写真8)は楼門から見た境内、(写真9)は楼門を入った左手にある境内案内図である。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真10)は楼門を入って直ぐ右手にある唐門、(写真11)はその左隣(西側)にある宝蔵である。

     (写真12)

    (写真12)は宝蔵の西側にある「和気公霊廟」である。和気清麻呂と姉和気広虫が祀られていた護王神社跡で、明治十九年(1886)護王神社は、明治天皇の勅命により、御所の守護神として、現在の地の京都御所蛤御門前に移された

     (写真13)

    (写真13)は和気公霊廟の北、石段を上ったところにある鐘楼で、楼門と同じ元和九年(1623)の建立である。鐘楼にかかる銅鐘(国宝)は貞観(じょうがん)十七年(875)の鋳造で、鐘の表面に鋳出された長文の銘文は、文人の橘広相(たちばなひろみ)が序詞をつくり、菅原是善(これよし)(菅原道真の父)が銘を選び、歌人・能書家藤原敏行が字を書いたものである。古来「三絶の鐘」(この時代の一流の文化人の3人が関わっていることに由来する)といい、平等院・園城寺(三井寺)の鐘とともに、「天下の三名鐘」の一つとされている。

     (写真14)
      

    (写真14)は和気公霊廟の西側にある明王堂で、扁額は七代目市川團十郎の揮毫である。

     (写真15)

     (写真16)

    (写真1516)は、明王堂の西の石段上に建つ「金堂」で、入母屋造・本瓦葺の本格的な密教仏堂である。昭和九年(1934)実業家 山口玄洞の寄進で建立された。本尊は薬師如来立像(重要文化財)である。

     (写真17)

    (写真17)は金堂への石段上から見た五大堂(手前)と毘沙門堂(奥)である。

     (写真18)

     (写真19)

    (写真18)は元和九年(1623)建立の五大堂、(写真19)は同じ年に建立された毘沙門堂である。毘沙門堂は現在の金堂が建つ前の「金堂」で、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。内部の厨子に、平安時代の毘沙門天立像(重要文化財)が安置されている。

     (写真20)

    (写真20)は五大堂、毘沙門堂の西奥に建つ「大師堂」(重要文化財)で、入母屋造・柿葺(こけらぶき)、蔀戸の住宅風の軽快な仏堂である。桃山時代に再建されており、納涼房(のうりょうぼう)といって、もと空海の住房であったと伝える。小さな厨子の中に板彫弘法大師像(重要文化財)が安置されている。

     (写真21)

    (写真21)は金堂から更に北西に上った山腹に建つ「多宝塔」で、金堂と同様、昭和九年(1934)実業家 山口玄洞の寄進で建立されている。内部には五大虚空蔵菩薩坐像(国宝)が安置されている。

     (写真22)

     (写真23)

    (写真22)は多宝塔から石段を下ってきた所にある竜王堂、(写真23)はそこから更に南の地蔵院へ下る道にある「閼伽井(あかい)」で、空海が灌頂のために掘ったといわれている。

     (写真24)

     (写真25)

    (写真24)は境内の最も西南地点にある地蔵院で、そこから南には清滝川の渓谷、錦雲渓の風景が広がり、錦雲峡へ向かってかわらけ投げができる(写真25)。

     (写真26)

     (写真27)

     (写真28)

    (写真26)は楼門に入る手前の右手(北側)にある本坊の門、(写真27)は門を入って右手ある庫裡、(写真28)は左手にある玄関である。51日〜5日の間だけ玄関から入った左手にある書院で宝物虫払特別展が行われ、源頼朝像、釈迦如来像、平重盛像(いずれも国宝)他多数の国宝や重要文化財を含む宝物68点の展示がなされていた。(2013.5.2.訪問)

    0303平岡八幡宮(Hiraoka Hachiman-gu Shrine)

    • 2013.05.16 Thursday
    • 21:14

     

     平岡八幡宮(ひらおかはちまんぐう)は周山街道の梅ヶ畑にあり、JRバスの平岡八幡で降りると直ぐ鳥居が見える。梅ヶ畑八幡宮とも呼ばれ、応神(おうじん)天皇を祭神とする右京区梅ヶ畑一帯の産土社(うぶすなしゃ)である。大同四年(809)に神護寺の鎮守として空海が大分県の宇佐八幡宮から勧請したのが起源であり、応永十四年(1407)の焼失後には足利義満が社殿を再建している。

     現在の本殿は、文政九年(1826)に造営されたもので、大工は上嵯峨の宗兵衛と室町の中川常右衛門藤原忠寛である。この本殿は市内に現存する数少ない切妻造本殿の一つであり、平成十二年(2000)に京都市の有形文化財に指定されている。

     また、毎年十月の祭礼「三役相撲(京都市無形民族文化財)」は地元の子供と大人が取り組み、神の加護を受けた子供が勝つという古くから伝わる神事である。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)

     (写真1、2)は八幡宮の石標と正面の鳥居である。鳥居はもう一個所拝殿の西方向にもある(写真3)。周山街道は平岡八幡宮の正面鳥居前で西から北に大きくカーブするので、もう一つの鳥居もやはり周山街道に面していることになる。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真4)は表参道の中ほど右手(東側)にある「後鳥羽天皇深縁之地」の石碑、(写真5)は参道奥の左手(西側)にある「椿の小径」の石標である。平岡八幡宮は椿の名所でもあり、多くの種類の椿が境内のあちこちに植えられているが、この小径の両側にも椿の木が沢山ある。

     (写真6)

     (写真6)は表参道の一番奥、拝殿への石段下の広場に造られた土俵である。十月の例祭では「三役相撲」が行われる。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

     (写真7)は石段を上る手前右手にある手水舎、(写真8)は石段を上った上にある拝殿、(写真9)は西側の参道奥から撮った拝殿である。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

     (写真10)本殿の拝所、(写真11)は本殿である。本殿の内陣は格天井になっており、44面に極彩色の花卉(かき)図が描かれているため、「花の天井」と呼ばれている。また、内陣鴨居には、極彩色で紅白熨斗(のし)袋に紅白梅、紅白椿が描かれている。これらの彩色画は文政十年(1827)画工 綾戸鐘次郎藤原之信により描かれたものである。本殿内陣は撮影禁止なので、ポスターからコピーした「花の天井」の一部を(写真12)に示す。

     (写真13)

     (写真14)

    (写真13)は本殿の蛙股に彫られた琴弾き弁財天、(写真14)は長押に見られる瓢箪の紋で、これは豊臣秀吉から寄進されたしるしということだった。

     (写真15)

    (写真15)は本殿の右手(東側)にある「山の神石」で「さざれ石」とも呼ばれ、獅子の形をしているという。

     (写真16)

    (写真16)は本殿の左手(西側)にある「為朝の試し石」で、弓の達人だった源為朝(鎮西八郎為朝)が矢で射抜いたといわれる石であり、勝運出世の石ともいわれる。俳人鈴鹿野風呂の句碑にもなっており、「眞開らきの龍胆(りんどう)玉の如き晴れ」の句が刻まれている。

     (写真17)

    (写真17)は本殿北東の隅にある小さい池で、鬼門を避けるために造られたものである。モリアオガエルが棲息しているらしい。

     (写真18)

     (写真19)

    境内には末社が四社祀られている。(写真18)は地主社(じぬししゃ)で、祭神は大地主大神(おおとこぬしのみこと)、(写真19)は武内社で、祭神は武内宿祢(たけうちのすくね)である。

     (写真20)

     (写真21)

    また、(写真20)は貴布祢社(きふねしゃ)で、祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)、(写真21)は若宮社で、祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)である。

     (写真22)

    (写真22)は土俵のある広場の西南にある神木の椎(しい)の木、ブナ科のツブラシイで、樹齢600年以上、高さ約15m、胸高幹周り約4.8m、京都市内では最大径級の椎である。

     (写真23)

     (写真24)

     (写真25)

    境内の椿の花はもうほとんど散っていたが、11月末から3月末ぐらいまで、約200種、約300本の多種多様な椿が咲く。本殿横には、葉の形が金魚に似ている金魚椿があり、他にも樹齢300年とも500年とも伝えられる平岡八幡やぶ椿や樹齢170年以上の古木白玉椿等が有名である。(写真23)はその日の朝に咲いたいろいろな椿の花を摘んで鉢に生けたもの、(写真2425)はまだ咲いていた残り少ない花の一部である。(2013.5.2.訪問)

     

    0302大龍寺

    • 2013.05.13 Monday
    • 07:05
     

     大龍寺(だいりゅうじ)は福王子から周山街道の3つ目のバス停「高雄病院前」でバスを降り、高雄病院の少し西の通りを北に入った山腹にある浄土宗の寺院である。正式には八部山護法院光明堂大龍寺という。

    天正十四年(1586)、京都に疫病が流行した際に、然誉上人(ねんよしょうにん)が烏樞沙摩明王(うすさまみょうおう)の法力により現在の中京区裏寺町に寺院を建立したのが起こりである。天明八年(1788)、天明の大火によって焼失したが、文化元年(1804)、烏樞沙摩堂は、信者が材木を持ち寄り建立された。場所柄もあって花街の信仰を集め、「うすさまさん」とか「うっさん」と呼ばれて親しまれた。昭和五十二年(1977)現在の地に移転した。

     (写真1)

    (写真1)はバス停付近の周山街道から北に入る道の角に立っている大龍寺の案内塔で、「ウッサンの寺大龍寺」と書かれている。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2、3)は山門で、山門下の右手に「日本三軀随一烏樞沙摩明王奉安所」の石標が立っている。

     (写真4)

     (写真5)

    (写真4)は山門の次にある中門で、この門をくぐると手水所(写真5)がある。

     (写真6)

     (写真7)

    (写真6、7)は中門を入った左手にある烏樞沙摩堂で、その向拝には故二代目中村雁次郎が奉納したといわれる木彫りの河童が左右に飾られている。

    烏樞沙摩明王は穢れを祓う法力があるとされ、厠の守護神で、下半身の病気や生理痛にも霊験あらたかといわれている。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8、9)はその左隣にある乳守地蔵堂で、乳の出がよくなるご利益があるといわれている。

     (写真10)

    ここから更に藤棚の下を通って石段を上がって行くと今一つ中門がある(写真10)。

     (写真11)

    (写真11)はその中門を入った所から本堂の方向を撮ったもので、本堂はそこから更に階段を上がった上にある。

     (写真12)

     (写真13)

    (写真1213)は本堂で、「八部山」の扁額が掛かっている。

     (写真14)

     (写真15)

    (写真14)は本堂付近から境内の下の方を撮ったもので、右手の門が第二の中門、その右下に見えている屋根が烏樞沙摩堂、左手遠方に見えているのが鐘楼(写真15)である。2013.5.2.訪問)

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