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    0263本阿弥光悦京屋敷跡

    • 2013.03.30 Saturday
    • 21:48
     

     上京区油小路通今出川上ル五辻通の東北角に本阿弥光悦京屋敷跡がある。

     (写真1)

     (写真1)は油小路通を五辻上ルの地点から南に向かって撮った写真で、右手前方の木が茂っている場所が白峯神宮である。左手五辻角の工事中の柵内に見える石標と説明板が本阿弥光悦京屋敷跡である。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真2)はその周辺を近くから撮ったもので、石標と案内板だけを撮ったのが(写真3)である。上京区文化振興会によって立てられた説明版には次のように書かれている。

     「この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ・拭ひ・目利きのいわゆる三事を以て、世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として、『本阿弥辻子』の名を今に遺している。

     その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、永禄元年(1558)実にこの処に呱々の声をあげたのである。

     光悦はその家業の三事において、達人の名を擅(ほしいまま)にしたが、彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、気韻あふるる富麗清逸の美的境地を開き、天下の数奇者の敬仰をあつめた。

     光悦は元和元年(1615)五十八歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、寛永十四年(1637)、その八十歳の生涯を終ふるまでの晩年を、鷹峰に風流の生を送ったが、彼の壮んなりし五十八年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、家業にいそしむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過ごしたのであった。」(2013.3.12.訪問)

     

    0262白峯神宮

    • 2013.03.29 Friday
    • 18:26
     

     白峯神宮(しらみねじんぐう)は、京都御所に近く、上京区今出川通堀川東入飛鳥井町にある。
     幕末維新の慶応二年(1866)、第121代 孝明天皇が、皇室鎮護の神として第75代 崇徳天皇を祭神とする神宮の創建を幕府に命じるが、12月に崩御された。明治天皇は、父帝の遺志を継いで、慶応四年1868)、蹴鞠と和歌の宗家であった公家飛鳥井家(あすかいけ)邸地を社地として神宮を創建する宣命を出し、崇徳天皇の皇霊を讃岐国坂出の白峯御陵(しらみねごりょう)より遷奉し、本宮に祀られた。これに伴い、平安時代末期より飛鳥井家邸内社として祀られていた「精大明神」は地主社として祀られることになった。 
     明治六年(
    1873)第47代 淳仁天皇の皇霊を、淡路島の天王森御陵(てんのうもりごりょう)より遷奉して合祀。また、明治十一年(1878)源為義、鎮西八郎為朝を祀る「伴緒社」が創建された。その後昭和十五年(1940)に官弊大社に昇格し、「白峯宮」を「白峯神宮」と改称。更に、昭和三十年(1955)境内の飛鳥井の井戸に坐す潜龍神を創祀した。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真1、2)は今出川通から見た白峯神宮の鳥居と門である。

     (写真3)

     (写真4)

     境内に入ると、まず右手に手水舎があり、ここには「飛鳥井」の井戸から清水が湧き出している(写真3)。また、その横には樹齢八百年の霊木「小賀玉(おがたま)」(京都市指定天然記念物)の巨木がある(写真4)。「飛鳥井」は、清少納言の「枕草子」にあげられている9つの名水(飛鳥井・ほりかねの井・走り井・山の井・玉の井・少将ノ井・櫻井・后町の井・千貫の井)の中で唯一現存する井戸である。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真7)

     (写真5)は門を入った正面にある拝殿、(写真6)はその後ろにある本殿である。本殿には
    1998年ワールドカップ杯から、日本サッカー協会により公式ボールが奉納されていることもあって、沢山のボールが奉納されていた(写真7)。

     (写真8)

     本殿の前には左右に名香木含笑花(がんしょうげ)が植えられている(写真8)。5月中旬に花が咲き、バナナのような甘い香気を放つ。

     (写真9)

     境内には末社が3社祀られている。(写真9)は地主社(じぬししゃ)で、中御前は精大明神(せいだいみょうじん)であり、球技・スポーツ競技・芸能上達の守護神とされている。平安時代、蹴鞠の第一人者である公家飛鳥井家が、蹴鞠の守護神「精大明神」を、邸内に祀って代々尊崇されていた。

     (写真10)

     (写真10)は伴緒社(とものおやしろ)で、武道・弓道上達の守護神とされる。保元の乱の際に、崇徳天皇方に馳せ参じた源為義(みなもとのためよし)と弓で名高い鎮西八郎為朝(ためとも)父子が祀られている。

     (写真11)

     (写真11)は伴緒社の右手にある崇徳天皇欽仰之碑である。

     (写真12)

     (写真12)は潜龍社(せんりゅうしゃ)で、祭神は白峯大龍王、紅峯姫龍王、紫峯大龍王。水・染・醸造の守護神で、潜龍大明神の御神体とされる井戸「潜龍井」がある。家系にまつわる諸々の悪縁を断ち、盗難災難除、病気平癒、事業隆昌のご利益があるとされる。飛鳥井から約50m離れているが、深さが異なり、違った水脈源となり、味も温度も異なる名水である。鳥居右手の手水所にはその水が流れ込んでいる。

     (写真13)

     (写真13)は境内にある歌碑で、「小賀玉の しじ葉がもとの 飛鳥井の井筒 むかしの物語せよ」という宮司 西村尚の歌が書かれている。

     (写真14)

     (写真14)は平成十三年(2001)に建てられた「蹴鞠の碑」で、縁起の石鞠を廻すと球運を授かるという「撫で鞠」がはめ込まれている。碑の裏面に、宮司の歌「小賀玉の 春の木漏日 鞠となり 飛鳥井のへに 遊びてゐるも」が刻まれている。

     (写真15)

     (写真15)は拝殿の西側に造られた「鞠庭」で、蹴鞠保存会により、毎年
    414日と77日に奉納が行われる。

     (写真16)

     (写真16)は境内の西側にある社務所で、その前にある大きな松の木は「三葉乃松(さんようのまつ)」と呼ばれ、豊饒と平安をもたらす神霊が、松を伝って地上に降臨するといわれている。三葉乃松は、「夫婦和楽・家内安全」を象徴しており、松葉は、黄金色になって落葉し、身につけると「金運」のご利益があるといわれている。(2013.3.12.訪問)

     

    0261官休庵

    • 2013.03.29 Friday
    • 12:19

     

     官休庵(かんきゅうあん)は上京区武者小路通小川東入ルにある武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の流祖 一翁宗守(いちおうそうしゅ)(千宗旦の次男)が創建した茶室である。
     「武者小路千家」の名は、官休庵が、武者小路通に立つことに由来する。

    武者小路千家官休庵ホームページ(http://www.mushakouji-senke.or.jp/)によると、「官休庵」の名は、流祖一翁が父宗旦と相談して茶室を造った時に、父からつけて貰った名と伝えられている。その意味は判然としないが、安永三年(1774)、一翁の百年忌の時に大徳寺第三百九十世眞巌宗乗(しんがんそうじょう)和尚により書かれた頌には、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」(茶に専念するために官〔茶道指南〕を辞めたのであろう)と解釈されている。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は官休庵の表門で、道路脇に「千宗守居士遺蹟 官休庵」の石標が立っている(写真2)が、現在は使用されていない様子である。

     (写真3)

    (写真3)は石標の左手にある「京都市指定名勝 官休庵庭園」の説明板である。

     (写真4)

    (写真4)は西端にある通用門で「公益財団法人 官休庵」と「千宗守」の表札が掛かり、左手の壁には文化庁の「登録有形文化財」、京都市の「歴史的意匠建造物」と「景観重要建造物歴史的風致形成建造物」の3枚の銘板が掲げられている。

     (写真5)

    (写真5)は通用門から東に延びる塀を撮ったもので、塀の東端に表門がある。(2013.3.25.訪問)

     

    0260今日庵

    • 2013.03.29 Friday
    • 12:12

     

     今日庵(こんにちあん)は、上京区小川通寺之内上ル東側、不審庵(0259参照)の北隣にあり、国の名勝・重要文化財に指定されている。三千家の一つ・茶道の最大の流派裏千家(うらせんけ)の代表的な茶室である。
     千宗旦が、表千家不審庵を江岑宗左に譲り、北裏に隠居所として建てたもので、裏千家の禅と茶を一体にとらえたわび草庵の茶室とされる。
     「裏干家」の名は、表千家(不審庵)の北裏にあることから称され、「今日庵」は、裏千家の代名詞にもなっている。

     今日庵の名前の由来は、庵の茶席開きの当日、遅刻してきた清巌和尚が、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」と書いて帰ったといわれ、それを見た千宗旦が「今日庵」と命名したといわれる。

     (写真1)

     (写真2)
      

     (写真1)は今日庵の表門で、右手前の植え込みの中に「千宗旦居士遺蹟 今日庵」の石標が立っている(写真2)。

     (写真3)

     (写真4)

    (写真3)は今日庵前庭、(写真4)は表門の北側にある通用門である。(2013.3.12.3.14.訪問)
     

    0259不審庵

    • 2013.03.29 Friday
    • 12:04
     

     不審庵(ふしんあん)は、表千家の代表的な茶室を称する場合と、表千家の組織を指す場合がある。

    表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つである。裏千家・武者小路千家との三千家の一つで、千利休を祖(初代)とする千家の本家にあたる。門弟数は、裏千家の半数程度であるといわれる。
     不審庵は、上京区小川通寺之内上ル東側にあり、国の名勝に指定されている。裏千家宗家 今日庵(
    0260参照)と隣接しており、不審庵が通りからみて今日庵の表にあることから、「表千家」と称される。
     紀州藩主 紀州徳川家(御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家からも援助を受けた。
     家元は、四代 江岑宗左(こうしんそうさ)の「宗左」を受け継ぎ、家元後嗣(若宗匠)は「宗員」、隠居してからは三代 千宗旦の「宗旦」を名乗る伝統がある。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は不審庵の表門である。左手前に「千利休居士遺蹟 不審庵」と刻まれた石標が立っている(写真2)。

     (写真3)

    (写真3)は不審庵前庭である。

    表門のたたずまいや、玄関へ向かうアプローチ、建物のたたずまいに格式張ったところがなく、千利休の「しほらしく異風になく目に立たぬこと」が受け継がれている。

     (写真4)

     (写真5)

    なお、表千家は、不審庵の裏側に当たる妙顕寺の西の通りに、表千家茶道会館を建てており(写真4、5)、その北側に隣接して千家の私邸がある。(2013.3.14.訪問)
     

    0258本法寺

    • 2013.03.28 Thursday
    • 21:50

     

    本法寺(ほんぽうじ)は上京区小川通寺之内上ル本法寺前町にある日蓮宗京都十六本山の一つで、山号は叡昌山(えいしょうざん)。永享八年(1436)本阿弥清信が日親上人(にっしんしょうにん)を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。

    はじめ四条高倉にあったが、天文五年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。

    現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴(ともえ)の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。寺宝には銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の佛大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵している。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1、2)は小川通から入る仁王門(京都府指定有形文化財)である。門前左手には「大摩利支尊天」の石標がある。また、門には「叡昌山」の扁額が掛かり、向かって右側に執(しゅ)金剛大力神の阿形像、左側に蜜迹(みつしゃく)金剛大力神の吽形像を安置している。

     (写真3)

    (写真3)は堀川通に面した裏口である。本堂と多宝塔の屋根が見える。

     (写真4)

    (写真4)は仁王門を入った所から撮った参道で、右手に大摩利支尊天の鳥居、多宝塔、本堂が順に並んでいる。

     (写真5)

     (写真6)

    (写真5、6)は本堂(京都府指定有形文化財)で、左前方に本阿弥光悦手植の松(写真7)と長谷川等伯の像が見える。

     (写真7)

    (写真7)は寛政年間(17891801)に建立された多宝塔(京都府指定有形文化財)である。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8)は多宝塔の南側にある鐘楼(京都府指定有形文化財)、(写真9)はその東横にある経蔵(京都府指定有形文化財)である。経蔵は安土桃山時代の天正十六年(1588)、10世日通により建立され、宝蔵と共に天明の大火(1788)を免れた当寺最古の建物である。扁額は享保二年(1717)本覚院宮(宝鏡寺第22代門跡・徳厳禅尼)筆で、「法海蔵」と書かれている。

     (写真10)

     (写真11)

    (写真10)は多宝塔の東側にある大摩利支尊天、(写真11)はその拝殿の東側に橋で繋がっている北辰殿である。

     (写真12)

     (写真13)

    (写真12)は本堂手前の北側にある開山堂(京都府指定有形文化財)、(写真13)はその右手前に植えられた「叡昌松」である。

     (写真14)
     

    (写真14)は開山堂の西側にある唐門(京都府指定有形文化財)で、その右手前に柵で囲われているのが説法石(清明石)である。日親は一条戻橋でこの石に傘を立て、説法を行ったといわれている。江戸時代、1702年の夢告により当地に移された。安倍晴明の邸内にあったとされ、清明石ともいわれる。また、唐門の右手後方にあるコンクリート造りの高い建物は涅槃会館(宝物展示館)である。

     (写真15)

     (写真16)
     

    唐門の前を通り、玄関と本堂を結ぶ渡廊下の下をくぐって西に行くと、右手(北側)に庫裡(京都府指定有形文化財)がある(写真15)。庫裡への入口に「光悦作 巴の庭 本法寺方丈」と刻まれた石標が立っている。庫裡の手前右側には玄関(京都府指定有形文化財)がある(写真16)。

     (写真17)

     (写真18)

     (写真19)

    庫裡に入ると内部拝観の受付があり、その前を真っ直ぐ東に進むと右手に十(つなし)の庭が広がる(写真1719)。(写真17)は庭の西端から南方向を、(写真18)は東方向を撮ったもの、(写真19)は庭の東端である。

     (写真20)

    (写真20)は庭の東端にある開山堂で、(写真12)の後方に当たる。

    十の庭に面して涅槃会館があり、内部は撮影禁止となっているが、沢山の寺宝が展示されていた。丁度春季特別寺宝展(314日〜415日)の初日に訪問したので、普段は復刻版が展示されている長谷川等伯の「佛大涅槃図」の実物を見ることが出来た。この絵は慶長四年(1599)、等伯が61歳の時に描いたもので、京都三大涅槃図の一つである。総堅約10メートル、総横メートル(本地堅793.9センチ、同横532.6センチ)に及ぶ紙本濃彩画の見事な絵で、1階と2階から鑑賞出来るようになっている。説明書きには「その法量は、東福寺の吉山明兆筆の涅槃図(1408年)には、わずかに及ばないが、大徳寺の狩野松榮筆の涅槃図(1563年)よりは、はるかに大きく、その卓越せる技法の点では日本一の大涅槃図と称してよく、唯一の重要文化財指定を受けている。」と書かれている。

     (写真21)

     (写真22)

    涅槃会館の西端を北に進むと書院に向かう回廊に出る(写真21)。ここから北の方向を撮ったのが(写真22)で、ここが巴の庭の南端に当たり、手前に光悦垣が造られている。

     (写真23)

    (写真23)は書院側から回廊を撮ったもので、右手に蹲踞の庭がある。

     (写真24)

    (写真24)は蹲踞の庭で、光悦の作庭といわれている。また中央燈籠の横にある蹲踞も光悦作といわれている。

     (写真25)

     (写真26)

     (写真27)

    (写真2527)は書院(京都府指定有形文化財)内部を撮ったものである。この書院は、文政12年に紀州家の寄進によるもので、上段の間をはじめ18畳が三間ある。(写真25)は南端の間、(写真26)は中の間、(写真27)は上段の間である。

     (写真28)

    (写真28)は書院中の間から巴の庭を撮ったものである。この庭は3つの築山が巴形に見えることから三つ巴の庭」とも呼ばれている。寺のパンフレットによれば、本庭は本阿弥光悦の作といわれ、室町期の書院風枯山水の影響を強く残す名庭で、国の名勝に指定されている。書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さは約200坪。東南隅に石組枯滝が配され、手前に置かれた縦縞紋様の青石によって、流れ落ちる水を表現している。また、書院の縁先近くには、半円を二つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」、「蓮」(宗祖日蓮)を表現したといわれている。

     (写真29)

     (写真30)

    (写真29)は書院南端から、(写真30)は同北端から撮った巴の庭の写真である。

     (写真31)

    (写真31)は書院中央部から南方向を撮ったもので、「日」、「蓮」の表現がよくわかる。

     (写真32)

    (写真32)は庭の北端部を撮ったもので、背後にある建物は宝蔵である。

     (写真33)

    (写真33)は庭の東南部を撮ったもので、枯滝や流水がうまく表現されているのがわかる。(2013.3.12.3.14.訪問)

    0257慈受院門跡

    • 2013.03.27 Wednesday
    • 18:33

     

    慈受院(じじゅいん)門跡は、「薄雲御所」、「竹之御所」、「烏丸御所」とも称される臨済宗の単立尼門跡寺院で、山号は広徳山(こうとくざん)。上京区堀川通寺之内上ルの東側にあり、尼五山第二位・通玄寺の三子院の一つ(他の2院は曇華院・総持院)となっている。

    正長元年(1428)室町幕府第四代将軍足利義持の正室、日野栄子が夫の遺言により皇室の菩提を弔うために創建したと伝えられる。慈受院という寺名は、日野栄子の法名『慈受院浄賢竹庭尼大禅師』に由来する。以後、後西天皇の皇女瑞光内親王、伏見宮息女が入山するなど代々宮家(王女・皇女)・将軍足利家・近衛家・花山家から交互に住持が入っていた門跡寺院として法灯を伝えている。(大正八年総持院と統合)

    また近年、角田文衛博士の調査により、慈受院は『源氏物語』に登場する薄雲御所ゆかりの寺院としての側面を有していたことが明らかになった。御所文化のおもむきを残し、『源氏物語』ゆかりの門跡寺院である慈受院には今も皇室ゆかりの調度品などが数多く残る。

     (写真1)
     

    (写真1)は堀川通に面した入口で、左側に「慈受院門跡」、右側に「薄雲御所」の石標が立っている。

     (写真2)

    (写真2)は入口の右側に掲げられた「源氏物語ゆかりの寺院 薄雲御所と源氏物語」の説明書きである。

     (写真3)

    (写真3)は山門で、右手前に「薄雲御所 慈受院門跡」の石標が立ち、門柱には「拝観謝絶」の札が掛かっている。

     (写真4)

    (写真4)は山門の西側にある毘沙門堂(左)と稲荷大明神(右)で、毘沙門堂の前には「日本三躰随一毘沙門天王」の石標が立っている。

     (写真5)

    (写真5)は稲荷大明神の右側に立っている3つの石標で、奥から順に「白蓮辨財天」、「吉丸大明神」、「福一大明神」と刻まれている。

     (写真6)

     (写真7)

    (写真6)は毘沙門堂の左手(西側)にある「地蔵尊 大日如来」の小さい祠で、その左手には小さな庭が造られている。(写真7)は同じ庭を北側から撮ったものである。作庭記によるとこの庭は、当寺の開祖慈受院浄賢竹庭尼大禅師に因み「竹」を主題に、仏教伝来の祖地あすかの遺石を配して新しく造られたようである。

     (写真8)

    (写真8)は、この庭のそばにある十三重塔で、塔身に四天王彫刻が施されている。(2013.3.12.訪問)

    0256宝鏡寺

    • 2013.03.27 Wednesday
    • 18:19

     

    宝鏡寺(ほうきょうじ)は上京区寺之内通堀川東入ル百々町(どどちょう)にある。代々歴代皇女が住持となった由緒ある臨済宗単立の尼門跡寺院で、「百々御所(どどごしょ)」と称される。山号は西山(せいざん)、創建は無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)、開山は光厳天皇皇女華林宮(かりんのみや)恵厳禅尼(えごんぜんに)である。京都にある7つの尼門跡寺院のうち、大聖寺門跡に次ぎ、二番目の寺格に列せられている。

    孝明天皇が愛した京人形や、数百体の人形が保存されており、「人形寺(にんぎょうでら)」とも称される。 
     本尊の聖観世音菩薩が、手に鏡を持っていたことから「宝鏡寺」と名付けられたといわれる。全国から送られてきたお人形の人形供養が、毎日行われている。
     珍しい月光椿や伊勢なでしこなどの花が四季折々に咲く花の名所であり、本堂南側の紅葉も美しい。

    写真撮影は建物内部だけでなく庭園もすべて禁止されているので、撮れたのは外観写真だけである。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は山門で、右手前に「宝鏡寺門跡」の石標が立っており、この石標の側面には「𦾔百々御所」と刻まれている(写真2)。

     (写真3)

    (写真3)は山門横に掲げられた説明板で、それによると、書院・本堂・使者の間・玄関・阿弥陀堂・表門の六棟が京都市指定有形文化財になっている。

     (写真4)

     (写真5)

    (写真4)は山門を入った正面、(写真5)は右手方向を撮ったものである。

     (写真6)

     (写真7)

     (写真8)

    (写真6)は玄関、(写真7)は勅使門と本堂である。また、(写真8)は寺之内通の塀の外から見た本堂で、秋には楓の木が紅葉して美しい。

     (写真9)

    (写真9)は山門を入った右手(東側)にある人形塚で、全国から寄せられた壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養し、その霊を慰めるために、昭和三十四年(1959)秋、京人形商工業協同組合や、人形製作に携わる人などによって建立された。塚は、吉川観方(よしかわかんぽう)により、京人形を象徴する愛らしい手に宝鏡を持った御所人形が彫り込まれている。

     (写真10)

     (写真10)は人形塚の台座で、「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ 汝の成佛の誠なれ 實篤」という武者小路実篤の歌碑が刻まれている。
    2013.3.12.訪問)

    0255百々橋の礎石

    • 2013.03.26 Tuesday
    • 18:49
     

     百々橋の礎石(どどばしのそせき)は、応仁の乱(14671477)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋(どどばし)」の礎石の一つで、上京区寺之内通堀川東入ル百々町にある。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1、2)は百々橋の礎石とその説明板である。
     百々橋は当地を南北に流れていた小川(こかわ)に架かっていた橋(長さ約
    7.4m、幅約4m)で、橋名は、応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図(ちゅうじゃくけいしちず)」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられる。

    応仁の乱の際、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度に渡り合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。

    古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、昭和三十八年(1963)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方々の御尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管された。

    その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復原されたが、橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺構として当地に遺(のこ)された。(2013.3.12.訪問)
     

    0254京・西陣孝太郎の酢

    • 2013.03.26 Tuesday
    • 18:44
     

     上京区旧新町通寺之内上ルに「孝太郎の酢」の看板を掲げた古い町家がある。ここは創業以来170余年が過ぎた今も、変わらぬ製法で、京の名水と国産米をじっくりと熟成させて酢を造っている店である。ホームページ(http://koutarou-su.com/index.html)の説明によると「お酢は決して出しゃばらず、お料理の味を引き立てる名脇役のような存在であるべきという教えから、添加物や化学調味料を一切使わず、体に良いものを美味しく召し上がっていただくために、素材そのものを深く吟味し、時間を惜しまず手間暇かけて作り続けることを店のこだわりとしております。」とある。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)
     

     (写真1、2)はその店の外観である。この建物は(写真3)の銘板にあるように「歴史的意匠建造物」として20021月に京都市の指定を受けている。歴史的な京の町家がどんどん失われていく中で、古い建物を維持保存していくのは大変なことと思うが、酢を造るこだわりと同様、この店構えをいつまでも保つことにもこだわってほしいと思う。(2013.3.12.訪問)

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