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水薬師寺(みずやくしじ)は西塩小路通御前通西入の北側にある七条幼稚園の中に本堂が残っている。山号、院号は塩通山医王院で真言宗の単立寺院である。本尊は薬師如来。京都十二薬師霊場会の第三番霊場でもある。
寺伝によれば、延喜二年(902)大池の中から薬師如来の霊像が出現、醍醐天皇の崇敬篤く、理源大師に命じて諸堂宇を建立され、塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜ったとされる。
鎌倉時代元弘の兵乱により堂宇はことごとく焼失したが、江戸時代の1789年、板倉周防守足利氏の助力によって再建された。
現在はないが、かって境内には弁財天堂とその横に池があったとされ、平清盛(1118〜1181)が熱病を患った際に、その池で水浴びをして平癒したと伝えられている。
(写真1)
(写真1)は西塩小路通から見た水薬師寺で、大きな木が目印である。
(写真2)
(写真2)は七条幼稚園の門で右側の門柱に「水薬師寺」と刻まれた石の銘板が埋め込まれている。また、園内に「京都十二薬師霊場」の赤い幟が見える。
(写真3)
(写真4)
(写真3、4)は園内にある本堂で、本堂前の右手に「真言宗塩通山水薬師寺」の石標が立っている。
(写真5)
(写真5)は本堂正面で、「水薬師寺」の扁額が掛けられている。
(写真6)
(写真6)は本堂手前左手にある小さなお堂と石地蔵である。
なお、本尊の薬師如来が開帳されるのは1月8日のみで、この日は一般公開されるが、普段は非公開である。(2013.2.27.訪問)
梅林寺(ばいりんじ)は御前通八条上ルの東側にある西山浄土宗の寺院で、山号は清香山。土御門家の菩提所となっている。創建の詳細は不明であるが、戦国時代とも江戸時代ともいわれる。
平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明を始祖とする安倍氏は、江戸時代になると陰陽師の名門土御門家として梅小路一帯に屋敷を構えることになる。そこで、土御門家の屋敷に近い梅林寺が菩提寺となり、安倍晴明の直系子孫の墓が造られた。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は御前通に面した梅林寺の全景、(写真2)はその山門である。山門前には「土御門家御菩提所梅林寺」の石標が立っている。
(写真3)
(写真3)は本堂と前庭で、前庭の石灯籠のそばに土御門家ゆかりの遺構である天球儀の台石がある。
(写真4)
(写真4)はその台石で、一辺が約70cmの正方形で高さは15cm、東西北に細い溝が刻まれ、南だけは太い溝が彫られている。また、側面には「安倍泰邦製」と彫られている。この台石の上に天球儀を置いて、陰陽師としての仕事である天体観測をしていたものと考えられる。(2013.2.23.訪問)
(写真1)
道幅の広い七本松通を五条から七条の方へ下ってくると七条通にぶつかり、少し東に曲がってまた南に道幅が狭くなって続いて行くが、この広い七本松通が七条通にぶつかったほぼ正面に細い路地がある。この路地を南に入った突き当たりに権現寺(ごんげんじ)の山門があり、「浄土宗清光山成就院権現寺」の表札が掛かっている(写真1)。権現寺は、かっては祇陀林寺(ぎだりんじ)、歓喜寺(歓喜壽院)、広幡院とも呼ばれた。
権現寺は「安寿と厨子王」で有名な厨子王が、山椒太夫から逃れてたどり着いた寺として、また、源頼朝の祖父に当たる源為義の墓がある寺として知られている。
(写真2)
(写真2)は山門から見た境内で、正面のお堂は地蔵堂、右側にあるのは本堂である。
この地蔵堂には将軍地蔵と厨子王を助けたとされる身代わり地蔵の二体が祀られている。
厨子王は丹後の山椒太夫のもとを逃れて丹波街道を経て権現寺に逃げ延びる。僧は葛籠(つづら)に入れて厨子王を匿うが、追っ手はこの葛籠を槍で突く。しかし、厨子王が身につけていた小さな地蔵に槍先が当たり命を救われたといわれる。また、追っ手が葛籠を開けると地蔵のみが現れたともいわれる。その地蔵はそれ以来身代わり地蔵と呼ばれるようになった。
(写真3)
(写真4)
(写真3、4)は山門前の細い参道西側にある源為義(1096〜1156)の供養塔である。左前方に「六條判官源為義公塚」の石標が立ち、奥の右手に供養塔、左手に顕彰碑がある。
源為義は保元の乱(1156)において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の義朝の手で処刑された。この供養塔は、寺伝によれば「当山(祇陀林寺)中興(1596)のはるか昔より、丹波街道(七条通)を挟んだ北側には、源為義公の墓があった。現在の五輪塔は、貞享三年(1686)の為義の年忌法要に際し、再整備したものである。」とされている。また、明治四十五年(1912)京都駅操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場から現在地へ移設したとのことである。
(写真5)
(写真5)は(写真3)の石標後方にある明治四十五年の移設碑である。
(写真6)
(写真6)は墓地入口に掲示された詳しい説明書きで源氏の略系図も書かれている。(2013.2.23.訪問)
六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)は、壬生通八条の北西角にあり、清和源氏(せいわげんじ)の武士団を結成した源満仲が、応和年間(961〜963)に父の源経基(みなもとのつねもと)(六孫王)*を祀るために創建したといわれる。
*源経基:清和天皇の第六皇子 貞純親王(さだずみしんのう)の子供として生まれ、母親は、右大臣源能有(みなもとよしあり)の娘。天皇の第六皇子の「六」と、孫ということで「六孫王(ろくそんのう)」と称される。15才で元服し、臣籍(しんせき)に下って源の姓を賜わり、承平・天慶の乱を鎮静化した功績で、鎮守府将軍に任じられた。
その後いつしか荒廃していたものを、元禄十三年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人(当時の能筆、作庭家)が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。これが現在の社殿である。
本殿に基経、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇は基経の遺骸を納めた場所で、神廟といわれる。
現在の地は、源経基の邸宅「八条亭」の跡地で、源経基は清和源氏の祖と仰がれ、「清和源氏発祥の宮」と称されている。
源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚く、境内石灯籠に松平吉保など諸大名の寄進者名が残っている。
今昔物語の「六の宮」、芥川龍之介の「六の宮の姫君」などで、六孫王神社が登場している。
(写真1)
(写真1)は壬生通八条の角にある「六孫王神社」の石標で、看板には「清和源氏発祥の宮」と書かれ、入口右手には「弘法大師御作誕生水辨財天」の小さい石標も立っている。
(写真2)
(写真3)
(写真2)は壬生通、(写真3)は八条通に面して立つ鳥居である。
(写真4)
壬生通に面した鳥居をくぐると、更に今一つ鳥居があり、石畳が敷き詰められている。鳥居の奥には左右に朱色の灯籠が並び、石橋を渡った正面に拝殿が見える(写真4)。
(写真5)
(写真6)
(写真5)は(写真4)の鳥居左手の木の後ろに見える鯉魚塚の石碑、(写真6)はその背後にある神龍池である。境内中央にある瓢箪(ひょうたん)形の池で、六孫王の「八条亭」の池だったいわれ、石橋が架けられている。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は拝殿、(写真8)は本殿である。元禄十三年(1700)江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉により、徳川家が清和源氏の末裔とされ、現在の拝殿・本殿が再建された。
(写真9)
(写真10)
(写真9)は拝殿左前方にある手水舎、(写真10)は社務所である。
(写真11)
(写真11)は(写真4)の神龍池にかかる橋の手前右側にある「誕生水弁財天社」である。六孫王の長男 源満仲が誕生するときに、琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願して産湯に使うための井戸の上に建てられたもので、弁財天像は、弘法大師空海の作といわれている。
(写真12)
西寺跡(さいじあと)は、平安京の造営のとき、東寺とともに二大官寺の一つとして羅城門の西に創建された寺院の史跡で、現在は、七本松通東寺西門通下ル西側の西寺児童公園に石碑がおかれている。
西寺は、平安京が遷都されてからすぐの延暦十五年(796)頃から、平安京の入口にあたる羅城門の西側に東寺(教王護国寺)と対称に造営された官寺(かんじ)である。金堂、講堂(屋根には緑釉瓦が葺かれていた)を中心として南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂など主要な建物が建ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていた。しかし、西寺は東寺に比べて早くから衰え、天福元年(1233)には塔も焼失し、以降は再興されることなく地中に埋もれてしまった。近年、数多くの発掘調査が実施されて、主要な建物跡が次々と確認され、一辺が22mもある市内でも最大の井戸跡が検出されている。
寺域は、東西二丁(約250m)、南北四丁(約510m)を有し、主要伽藍跡は現在唐橋小学校と西寺児童公園(講堂跡が公園中央に土塁として残る)の下にあり、伽藍中心部は国の史跡に指定されている。
西寺は、平安時代の寺院を研究するうえで重要なだけでなく、東寺とともに平安京を復原するうえで大変貴重な遺構である。
(写真1)
(写真1)は西寺跡付近の写真で、中央道路の右手に西寺児童公園、左手に唐橋小学校があり、主要伽藍はこの辺りにあったと推定されている。
(写真2)
(写真2)は西寺公園北西入口付近から撮った写真で、中央土塁上の左手に石標の立っているのが見える。土塁の背後に見える校舎が唐橋小学校である。
(写真3)
(写真3)は公園中央の土塁の上で、右側の木の前方に「史蹟西寺址」の石標が立っている。また、左側の木の前方に礎石の一つがある。
(写真4)
(写真5)
(写真4)はその礎石を近くから撮ったもの、(写真5)は別の礎石と石標である。
(写真6)
(写真6)は公園内にある西寺跡の説明書きで、推定復原図が描かれている。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は東寺西門通の西寺前バス停前にある4階建てのビルの片隅にある「史跡西寺大炊殿跡」の石碑、(写真8)はその拡大である。
なお、現在も御前通東寺西門通上ルの西側角に浄土宗西山禅林寺派の「西寺」が寺院として存在するが、建て替え工事のため完全に取り壊されていた。(2013.2.14.、2.23.訪問)
矢取地蔵寺(やとりじぞうじ)は、九条千本の羅城門跡(0234参照)の向かいにある小さなお堂である。この地蔵堂は明治十八年(1885)に地元 唐橋村(八条村)の人々により寄進され建立された。祀られている石造矢取地蔵尊は、高さ約160cmで、右肩に矢傷の跡が残っており、当初は「矢負地蔵(やおいじぞう)」と称されていたといわれる。
昭和時代初期、九条通の拡幅工事のときに、地蔵堂周辺から多数のお地蔵が発掘され、地蔵堂の右側に祀られている。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は矢取地蔵の地蔵堂、(写真2)は「矢取地蔵尊」の扁額である。左右に「弘法大師御詠歌」と「矢取地蔵尊御詠歌」の額も掛けられている。
(写真3)
(写真3)は地蔵堂右側に祀られている多数の石地蔵である。
なお、矢取地蔵については、次のような故事が残っている。
「平安時代初期の天長元年(824)夏、長期間雨が降らず大干ばつとなり、淳和天皇は、東寺の弘法大師空海と、西寺の守敏大師(しゅびんたいし)に、神泉苑での降雨祈祷を命じた。
先に名乗りをあげたのが守敏大師。17日間も祈祷を続けたが雨は降らなかった。次に空海。守敏大師は、雨を降らす龍神の動きを呪術によって止めていたという。しかし、空海は、天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、降雨祈祷を行い、みごとに3日3晩、雨を降り続けさせたといわれる。これにより、神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。
面目をつぶされた守敏大師は、空海に恨みをもち、羅城門の近くを通る空海を待ち伏せ、後ろから矢を放つ。そこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏大師の矢を右肩に受け、空海は難を逃れた。空海の身代わりになった僧は、地蔵尊だったといわれ「矢取地蔵」と称されるようになった。」(2013.2.14.訪問)
羅城門(らじょうもん)は、平安京の中央を南北に走っていた朱雀大路の南端に建っていた大門で、平安京の正門とされ、北端の朱雀門と相対していた。「羅城」とは、都市を取り囲む城壁のことを言い、羅城門を境にして、洛中と洛外が区別された。
この地は、平安京の昔、朱雀大路(今の千本通に当たる。当時の道幅は二十八丈約82.3m)と九条通との交差点(現在の九条千本の辺り)に位置していた。
門は正面十丈六尺(約32m)、奥行二丈六尺(約8m)、高さ約七十尺(約21m)の二重閣七間五戸、入母屋造、瓦葺きで、木部は朱塗り、壁は白土塗り、屋根の棟の両端には、金色の鴟尾(しび)がのっていた。内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。門外には作道(つくりみち)が鳥羽の河港まで続いていた。また、羅城門を守護する東西に東寺、西寺が置かれていた。
嘉承三年(1107)正月、山陰地方に源義親を討伐した平正盛は、京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。
しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともに、この門も次第に荒廃し、盗賊のすみかともなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅城門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに花園児童公園内に、明治二十八年(1895)建立の標石一本を残すのみである。
(写真1)
(写真1)は九条千本から少し東にある矢取地蔵寺(0235参照)の右端にある羅城門跡の石標である。
(写真2)
(写真3)
(写真2)はそこから少し奥(北)に入った公園内にある「羅城門遺址」の石標、(写真3)はその拡大である。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は現在と平安京当時の羅城門の位置を示す地図、(写真5)は羅城門復原イラストで、いずれも現地の説明板から撮ったものである。(2014.2.14.訪問)
東寺(とうじ)は、京都駅の南西、九条大宮北西の一角にある真言宗の総本山で、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。平安遷都とともに延暦十五年(796)、羅城門の東に東国(左京)の鎮護のために建てられたのが当寺の起こりで、弘仁十四年(823)、空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺(きょうおうごこくじ)と改めて、真言宗の根本道場となった。
学僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰が厚く、事あるごとに祈祷法会が行われ、中世には多くの寺領も寄せられた。創建の後。度々兵火にかかったが、その都度再建された。仁和寺、神光院とともに京都三弘法の一つでもある。
伽藍の規模は平安時代のまま残っている。伽藍配置は、奈良時代の寺院建築形式で、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並び、左右に、五重塔と灌頂院が配置されている。
空海が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供(しょうじんく)」の儀式は、現在も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われている。
毎月21日の空海の命日に供養を行う「御影供(みえく)」の日には市が行われ、「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
6月下旬は、蓮(ハス)の名所としても知られる。
(写真1)
(写真1)は東寺パンフレットに記載されている東寺境内案内図である。
1.山門
(1)北総門(重要文化財)
(写真2)
(写真3)
(写真2、3)は八条通にある北総門である。鎌倉時代後期の遺構で、この門をくぐると北大門までの左手(東側)に塔頭の地蔵院、宝菩提院、観智院等があり、右手(西側)には洛南高校と宝物館がある。
(2)北大門(重要文化財)
(写真4)
(写真5)
(写真4、5)は北総門から300m足らず南にある北大門である。鎌倉時代前期に建立され、慶長六年(1601)に修補されている。
(3)南大門(重要文化財)
(写真6)
(写真7)
(写真6、7)は南大門である。東寺の伽藍の正面の門で、九条通に南面して建つ。 三間一戸、八脚門、切妻造で、当初のものは焼失し、明治二十八年(1895)平安遷都 千百年記念祭記念事業の一つとして、三十三間堂の西門が移築された。慶長六年(1601)に建造されたもので、桃山時代の遺構である。
(4)東大門(重要文化財)
(写真8)
(写真9)
(写真8、9)は大宮通の九条通寄りに東面して建つ東大門で
ある。建久九年(1198)現在の建物が、文覚上人の大勧進によっ
て再建された。延元元年/建武三年(1336)新田義貞が、東寺に
いた足利尊氏を攻め、危機に陥った足利尊氏は、門を閉めて難を
逃れたことから、現在も閉められており、「不開門(あかずのも
ん)」と称されている。 慶長十年(1605)豊臣秀頼により大修
理が行われている。現在周囲で工事が行われており、柵がめぐら
せてあった。
(5)慶賀門(重要文化財)
(写真10)
(写真11)
(写真10,11)は大宮通の東大門の北方に東面して建つ慶賀門
である。鎌倉時代前期の遺構で八脚門(やつあしもん)である。
(6)蓮華門(国宝)
(写真12)
(写真13)
(写真12、13)は境内の西、小子房の西側に建つ蓮華門である。三間一戸、八脚門(やつあしもん)、切妻造、本瓦葺、側面は二重虹梁蟇股で、鎌倉時代前期の遺構である。
天長九年(832)空海が59才のとき、高野山の金堂も完成し隠棲することになる。 蓮華門からの旅立ちのとき、西院に祀っていた不動明王が見送りにきて、不動明王の目から涙が流れ落ち、空海の足下や足跡には蓮の花が咲いたといわれ、「蓮華門」と称されるようになった。
2.五重塔(国宝)
(写真14)
(写真15)
(写真16)
(写真17)
(写真14〜17)はいろいろな位置から眺めた五重塔である。金堂の東側、境内の東南隅に建つ、現在の京都のシンボルとなっている塔である。
基壇礎石上から最高部の相輪頂(そうりんちょう)まで総高54.8mで、現存する木造塔としては日本一の高さを誇る。天長三年(826)空海が創建に着手し、約50年後に完成したといわれる。4度焼失し、その都度、古来の工法で再建を繰り返した。現在の塔は5代目で、寛永二十一年(1643)徳川家光の寄進により上棟された。
(写真18)
(写真18)は初層内部の説明図である。初層内部は極彩色が施され、中央心柱を真言密教の本尊である大日如来にみたてて、心柱を守るように金剛界四仏が鎮座している。即ち、南は宝生如来、西は阿弥陀如来、東は阿悶如来、北は不空成就如来の四如来坐像である。また、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁には真言八祖像が描かれ、これら四如来とともに曼荼羅を形成している。寺伝では長谷川等竹筆とされている。
五重塔の初層は正月三が日と特別な期間だけ一般公開されているが、内部は撮影禁止である。
3.金堂(国宝)
(写真19)
(写真20)
(写真19、20)は金堂である。東寺の本堂で、南大門をくぐった正面に建つ。延暦十五年(796)の創建といわれる。文明十八年(1486)創建時の金堂は焼失するが、礎石は、創建時のものが現存している。慶長八年(1603)現存の建物が、豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建された。天竺様の構造法を用いた豪華雄大な桃山時代の代表的な建築物で、細部には、唐・和風の技術が巧みに取り入れられており、広大な空間の中に本尊の薬師如来三尊像が安置されている。
4.講堂(重要文化財)
(写真21)
(写真21)は講堂である。金堂の北側に建つ純和風建築様式の建物で、東寺の創建された当時にはなかった。承和二年(835)空海によって建てられたが、文明十八年(1486)土一揆により焼失。延徳三年(1491)現存の講堂が、創建時の基壇の上に再建された。
空海により、大日如来を中心とした日本最古の本格的な21体の密教仏像で立体曼荼羅が表現されている
5.食堂
(写真22)
(写真22)は食堂(じきどう)である。僧侶が集まり、食事修行
(じきじしゅぎょう)が行われたお堂で、空海没後、承和十年
(843)までに創建された。醍醐寺の開祖 理源大師 聖宝(しょう
ぼう)が彫った千手観音立像が本尊として祀られ、足利尊氏が居住
した。
昭和五年(1930)の火災で焼失し、国宝だった本尊の千手観音立
像も焼損し、1960年代に修理されて、現在は寺内の宝物館に安置さ
れている(重要文化財)。
昭和八年(1933)現在の建物が再建され、十一面観音菩薩が本尊
として祀られている。
洛陽三十三所観音巡礼第二十三番札所である。
6.夜叉神堂
(写真23)
(写真23)は食堂の南にある夜叉神堂である。東(写真右)は雄夜叉(本地文殊菩薩) 西(写真左)は雌夜叉(本地 虚空蔵菩薩)で、当初は、南大門の左右に安置されていたが、参拝者が拝まないで通ると、ただちに罰があたったといわれ、中門(現在の金堂前燈籠のあたり)の左右に移された。文禄五年/慶長元年(1596)中門が倒壊したときに、現在の小堂が建立され安置された。夜叉神像は、空海の作といわれ、歯痛治癒のご利益があるといわれている。
7.大師堂(国宝)
空海の住房跡とされる「西院」は境内の西北部にあり、大師堂は南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。入母屋造の礼堂、切妻の中門、ゆるやかな勾配の総檜皮葺の屋根等寝殿造の面影を伝える数少ない遺構である。康暦元年(1379)火災により焼失したが、その翌年に再建された。
(写真24)
(写真25)
堂の北半分〔前堂(まえどう)〕は「御影堂」とも称され、明徳元年(1390)弘法大師坐像(国宝)を安置するために、礼堂と廊が増築された(写真24、25)。
(写真26)
(写真27)
堂の南側〔後堂(うしろどう)〕は「不動堂」とも称され、非公開の秘仏で、空海の念持仏とされる日本の不動明王像としては最古の不動明王坐像(国宝)が安置されている(写真26、27)。
(写真28)
(写真28)は西院(御影堂)入口の門である。
8.毘沙門堂
(写真29)
(写真29)は毘沙門堂である。天慶元年(938)平将門の乱のときに、都の守護神として羅城門の楼上に兜跋毘沙門天立像(国宝)が安置されたが、天元三年(980)に羅城門が暴風雨で倒壊したときに、東寺に運び込まれ、それ以後は食堂に安置されていた。その後、文政五年(1822)に現在の毘沙門堂が創建され、そこに祀られることになった。なお、毘沙門堂は平成六年(1994)東寺創建千二百年記念事業により修復されている。
9.三面大黒天
(写真30)
(写真30)は大師堂(不動堂)の西に建つ三面大黒天のお堂で、右端(北側)には安産不動明王が祀られている。三面大黒天は、大黒天・毘沙門天・弁財天の三体の天神が合体したもので、空海の作といわれている。大黒天は、大地の神さまで、大地は糧を表し、土は槌で表され、それを振ると福寿円満が訪れるといわれる。毘沙門天は、四天王の北方の守護神で、財宝を司る神さま、弁財天は、インドでは河の神さまで、弁舌・音楽・技芸上達の神さまである。三尊のご利益が一度に授かれるといわれている。
10.大日堂
(写真31)
(写真31)は大師堂(御影堂)の北にある大日堂である。修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)作と伝えられる胎蔵界大日如来が祀られ、江戸期元禄十一年(1698)に御影堂の礼拝堂として建立された。当時、一般の参詣者は御影堂に入れず、ここから参拝した。現在は東寺信徒の永代供養の位牌を祀り、各家先祖や故人の回向を行う専用のお堂となっている。
11.宝蔵(重要文化財)
(写真32)
12.灌頂院(重要文化財)
(写真33)
(写真34)
(写真33)は灌頂院(かんじょういん)と東門(重要文化財)、(写真34)は北門(重要文化財)である。灌頂院は江戸時代前期の建物であるが、北門・東門は、鎌倉前期の建物である。
密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式「伝法灌頂」や、正月の8日から14日までの間に天皇の安泰を祈願する儀式「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」などの儀式を行うためのお堂で、仏像は安置されていない。
13.小子房
小子房(こしぼう)は金堂の西側にある。内部は撮影禁止であるが、鷲の間・牡丹の間・勅使の間など6部屋からなる。堂本印象が43歳のときに描いた障壁画で飾られている。鷲の間・瓜の間などは水墨画が描かれ、勅使の間には極彩色の「渓流に鶴」が描かれている。
昭和九年(1934)弘法大師空海1100年御遠忌にあたり再建された。
(写真35)
(写真36)
(写真37)
(写真35)は小子房とその勅使門、(写真36)は勅使門の北側にある門から入った正面の本坊玄関である。また、(写真37)は門を入った右手(北側)にある庫裡と事務所である。
(写真38)
(写真39)
(写真40)
(写真38〜40)は小子房の西北にある庭園で、七代目小川治兵衛(1860〜1933)の作庭である。(写真38、39)の左手にある門は蓮華門である。
(写真41)
(写真42)
(写真41、42)は小子房勅使の間から南に出た所から撮った南庭で、(写真41)の土塀の外に見えるのが灌頂院とその北門である。
14.八幡宮
(写真43)
(写真44)
(写真43、44)は南大門を入って直ぐ左手(西側)にある八幡宮で、東寺の鎮守神である僧形八幡神坐像と女神坐像(じょしんざぞう)二躯の3体が安置されている。
延暦十五年(796)平安京と東寺の守護のために創建されたが、明治元年(1868)に焼失、平成四年(1992)に再建された。
東寺に本陣をおく足利尊氏を新田義貞が攻め入ったとき、鎮守八幡宮の神殿から流鏑(かぶらや)が新田勢に向かって飛び、足利尊氏が勝利した故事がある。
15.八島神社
(写真45)
(写真45)は南大門を入って直ぐ右手(東側)にある八島神社(八島殿)である。祭神は、東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)ともいう。東寺が創建される以前よりあり、東寺の寺門造立成就、方位安全、法道繁盛が祈願されたといわれる。
日本を「大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)」と称していたことから名付けられたといわれる。
16.鐘楼
(写真46)
(写真46)は御影堂の北西にある鐘楼である。梵鐘は足利尊氏の寄進といわれており、室町時代の貞和四年(1348)に完成した。但し、現在の鐘は複製で、実物は宝物館に保管されている。(2013.2.14.訪問)
寂光院(じゃっこういん)は、大原の里の一番西奥にある天台宗の尼寺で、京都バスの大原バス停より山裾の道を20分ほど西に歩いた所にある。山号は清香山(せいこうざん)、寺号は玉泉寺(ぎょくせんじ)という。推古二年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。
文治元年(1185)9月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、御閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。翌文治二年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸として知られている。
旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で、慶長八年(1603)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成十二年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊・六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。現在の本堂及び本尊は平成十七年(2005)6月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)はバス停から寂光院へ行く近道で、田畑が残る大原の里をゆっくり歩くと、昔のことが偲ばれる。
(写真3)
(写真3)は途中の山側にある「朧(おぼろ)の清水」で、ここには美しい容姿の持ち主だった建礼門院が、おぼろ月夜の夜、水面に映るやつれた姿を見て、身の上を嘆いたといわれる泉が残っており、「朧の清水平家物語(建礼門院)縁の泉」と表示されている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は寂光院の山門に上って行く参道の石段、(写真5)は山門である。山門正面に本堂が見える。
(写真6)
(写真7)
(写真6)は山門手前の右(東)側にある苔むした茅葺き屋根の門で、茶室への入口となっており、「狐雲」の扁額が掛かっている。門の左手前に寂光院の説明書きがある。この門を入ると(写真7)のように池のある庭があり、正面の奥に茶室が見える。
(写真8)
(写真9)
(写真8、9)は本堂である。扁額には「寂光院御再興 黄門秀頼卿 御母儀浅井備前守息女 為二世安楽也」とある。内部は撮影禁止となっているが、本尊の木造 地蔵菩薩立像、
建礼門院像、阿波内侍像等が安置されている。新しい本尊はヒノキ材の寄木造で、財団法人 美術院国宝修理所によって3年半をかけて、旧本尊の姿を忠実に模して制作され、平成十七年(2005)に完成したものである。
(写真10)
(写真10)は本堂前西側の庭園で、汀(みぎわ)の池、千年の姫子松、汀の桜等があり、『平家物語』当時のままとされている。写真中央にある姫子松は樹齢千年の名木であったが、平成十二年(2000)の火災によって痛みが激しくなり、遂に平成十六年(2004)夏に枯死した。樹高15mもあったので、倒木防御処置として上部を伐採し、以後御神木として祀られている。
(写真11)
(写真11)は汀の池の西側にある諸行無常の鐘楼である。
(写真12)
(写真12)は本堂手前右側にある南蛮鉄の雪見燈籠で、豊臣秀吉の寄進により桃山城から移されたと伝えられている。
(写真13)
(写真13)は山門を入った右手にある客殿である。
(写真14)
(写真15)
(写真14、15)は本堂前北側の回遊式四方正面の庭で、林泉・木立・清浄の池として表現される。特に石清水を引いた三段の滝は玉だれの泉と称し、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝のそれぞれ異なる音色がひとつになって合奏するかのように作庭されている。
(写真16)
(写真16)は西門を出た所にある「旧本尊地蔵菩薩収蔵庫、建礼門院御庵室跡地」の表示板である。
(写真17)
(写真18)
本堂右手裏山には建礼門院大原西陵があり、五輪塔の仏教式御陵として珍しい。(写真17)は大原西陵の入口、(写真18)はその参道である。
(写真19)
(写真19)は建礼門院大原西陵で、右手に石標が立ち、左手の石の柵の一番右の隙間から植え込みの上部に五輪塔が見える。
(写真20)
(写真20)は参道を上から撮ったもので、御陵のある位置を感じ取ることが出来る。(2013.1.31.訪問)
実光院(じっこういん)は、三千院の北、律川を渡って直ぐ左手(西側)にあり、魚山大原寺下院の本堂・勝林院の僧院である。長和二年(1013)勝林院の中興の祖 寂源法師が天台声明(てんだいしょうみょう)を伝承するために開いた延暦寺の別院でもある。寂源法師は、平安時代に唐から仏教儀式音楽である声明を伝えた延暦寺の慈覚大師円仁の九代目の弟子に当たる。
実光院は、はじめ隣の大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇陵)の地にあったが、大正八年(1919)に勝林院の塔頭だった普賢院と理覚院を併合し、普賢院跡地である現在地に移転された。
(写真1)
(写真2)
(写真1、2)は山門で「実光院」の扁額と「天台宗魚山実光院」の表札が掛かり、手前には「魚山実光院」の石標が立っている。
(写真3)
(写真3)は山門を入って石段を10段ほど下った正面にある玄関である。玄関から入ると、直ぐ左手が客殿で、現在の客殿は、大正十年(1921)に建てられたものである。
(写真4)
(写真5)
(写真4、5)は客殿内部で、欄間に並ぶ三十六詩仙画像は、江戸時代中期の狩野派の画家の筆である。
(写真6)
(写真7)
(写真6、7)は仏間で、本尊の地蔵菩薩像、脇侍の不動明王像と毘沙門天像が安置されている。
(写真8)
床の間を始め、各所に楽器が陳列してあるが(写真4、8)、これらはいずれも声明研究の一助にと歴代住職が収集したものである。
庭園は2つに分かれており、部屋から眺めるのもよいが、玄関の奥から庭に下りて歩くことも出来るので、2倍楽しめる気がする。
(写真9)
(写真9)は玄関の奥から庭に下りて、南の方向を撮った写真で、左手に客殿があり、その南側(写真の左側奥)に旧普賢院庭園(契心園)、西側(写真の右側)に旧理覚院庭園が広がっている。
(写真10)
(写真11)
(写真12)
(写真13)
(写真10〜13)は旧普賢院庭園で、客殿の南に広がる池泉鑑賞式の庭園である。江戸時代後期の作庭で、心字の池に律川から導いた滝の水が流れ落ち、滝口の近くには蓬莱石組がある。築山の松は鶴を、池の島は亀を表象している。また、築山には石造の五重塔を配置し、池のこちら側を俗世間、向こう側を仏の浄土に見立てている。
(写真14)
(写真15)
(写真16)
(写真17)
(写真14〜17)は旧理覚院庭園で、客殿の西側一帯に広がる池泉回遊式庭園である。理覚院が廃寺となり実光院に併合された後、荒廃していた土地を当時の住職が作庭したものである。中央にはひょうたん池があり、配置してある石の多くは寺領の山や谷から運び込んだものである。西の金比羅山や小塩山を借景に取り入れるために庭木を低く仕立てているので、極めて開放的な明るい印象を与えている。
(写真18)
庭木には茶花を多く植え込み、鑑賞者の楽しみに供している。庭の中央にある不断桜(ふだんざくら)(写真18)は、例年初秋より翌年の春まで花を咲かせる珍しい品種で、秋の紅葉の季節には観桜と紅葉狩りが一度に楽しめる。1月末に訪問したが、その時も小さい花がちらほら咲いていた。
(写真19)
(写真19)は庭の西北隅にある茶室「理覚庵(りかくあん)」で、昭和五十年(1975)に建てられたものである。
(写真20)
(写真20)は茶室内部で、桧の変木床柱を始め、材木のほとんどは実光院領の山林から調達したものである。(2013.1.31.訪問)