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    0210哲学の道

    • 2012.12.04 Tuesday
    • 11:28
     

     「哲学の道(てつがくのみち)」は、明治二十三年(1890)に建設された琵琶湖疎水の支線沿いにある若王子橋から銀閣寺橋までの1.8kmほどの道をいい、桜並木の遊歩公園となっている。夏の夜には蛍が飛び交い、秋には紅葉が彩りを添える。

    「哲学の道」は、日本哲学で世界的に著名な京都大学教授西田幾多郎(にしだきたろう18701945)が、研究や読書、思索の疲れを癒すために、毎日のように歩いたことで知られている。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行なり」と、その心境を詠んだ歌碑が近くにある。

    名前の由来の詳細は明らかではないが、京都大学教授でのちに大阪経済大学初代学長を務めた黒正巌(こくしょういわお18951949)が、ドイツに留学した時、ハイデルベルクにあった「哲学者の道フィロゾーフェン・ウェヒ」を思い出し、昭和の初めころ名付けたと言われている。黒正巌は、百姓一揆の研究で有名な経済史学者であり、「道理は天地を貫く」の言葉を残した。

    当時は「哲学者の小径」と呼ばれていたらしく、近くに住む知識人・文人や住民たちの憩いの散歩道となっていた。昭和四十五年(1970)に京都市が遊歩公園として整備し、観光客でにぎわうようになり、「哲学の道」という呼び方が定着するようになった。「日本の道百選」にも「哲学の道」として登録されている。

     (写真1)

    (写真1)は鹿ヶ谷通、永観堂の北にある「哲学の道」の道標で、この手のマークに従って真っ直ぐ東に入ると若王子橋に出る。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2)は若王子橋とそのそばにある「哲学の道」の道標、(写真3)は若王子橋の上から北の方角を眺めたもので、疎水の左手にある道が「哲学の道」である。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真6)

     (写真7)

    (写真4〜6)は「哲学の道」の中ほどの風景で、疎水には(写真7)のように鴨が泳いでいる姿を見ることもある。

     (写真8)

    (写真8)は哲学の道の西側にある店先に立てられた「哲学の道」の由来を書いた説明板である。

     (写真9)

     (写真10)

    (写真9、10)は法然院橋と洗心橋の間にある西田幾多郎の歌碑とその説明を刻んだ黒い石である。

     (写真11)

    (写真11)はその近くにある「ゲンジボタル及びその生息地」の説明板で、「哲学の道」のゲンジボタルは昭和五十九年(1984)に京都市登録天然記念物に登録されている。(2011.1.11.2012.4.4.9.15.11.7.訪問)

    0209法然院

    • 2012.12.02 Sunday
    • 16:44
     

    法然院(ほうねんいん)は、鹿ケ谷(ししがたに)の安楽寺の北方、哲学の道の中ほどから少し東に入った所にあり、善気山萬無教寺(ぜんきさんばんぶきょうじ)と号する浄土宗系の単立寺院である。

    鎌倉時代の初め、専修念佛の祖 法然房源空上人が、弟子の住蓮房(じゅうれんぼう)や、安楽房(あんらくぼう)たちと共に、阿弥陀仏を昼夜に6回拝む六時礼讃(ろくじらいさん)を勤めた草庵で、寛永年間(16241644)ほとんど廃絶していたが、延宝八年(1680)に知恩院の第38世萬無心阿上人(ばんぶしんあしょうにん)と弟子の忍澂和尚(にんちょうおしょう)が念仏道場として再興した。

    参道に散る椿が名景として知られており、境内には、谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇ら多くの文化人の墓がある。

     (写真1)

     (写真2)

    (写真1)は「圓光大師御𦾔跡鹿ヶ谷法然院」の石標、(写真2)は黒く塗られた総門で、石段下の左手にも石標がある。

     (写真3)

    総門を入って左手に行くと茅葺数奇屋造の山門(写真3)があり、山門前の左手には「不許葷辛酒肉入山門」と刻まれた石碑が立っている。

     (写真4)

    (写真4)は山門の上から眺めた境内で、中央参道の両側にある白い盛り砂は白砂壇(びゃくさだん)と呼ばれ、砂壇の間を通ることで、心身を清めて浄域に入ることを意味している。白砂壇の上には季節に応じていろいろな模様が描かれる。

     (写真5)

    (写真5)は新年に造られた「福寿」の白砂壇である。

     (写真6)

    (写真6)は白砂壇を過ぎてから振り返って見た山門の写真である。

     (写真7)

     (写真8)

    (写真7)は山門を入って直ぐ右手(東側)の石段上にある鐘楼、(写真8)は白砂壇を過ぎた右手(東側)にある講堂である。講堂は元禄七年(1694)に大浴室として建立されたが、昭和五十二年(1977)に内部が改装され、講堂として、講演会や個展、コンサートなどに利用されている。

     (写真9)

     (写真10)

    (写真9)は更に参道の奥の方を撮ったもので、池に架かる石の橋を渡った奥の左手に玄関があり、毎年417日と1117日には内部が一般公開される。(写真10)は石の橋と池を横から撮ったものである。

     (写真11)

    (写真11)は参道の突き当たりを右に曲がった奥の方から歩いて来た方向を撮ったもので、参道脇の杉苔が美しい。

     (写真12)

    (写真12)はその一番奥を北方向に直角に曲がったところから参道を撮ったもので、左手(西側)奥に本堂があり、その向かい側(東側)の石段を上がったところに地蔵菩薩堂がある。

     (写真13)

    (写真13)の本堂には恵心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作木造を安置し、直壇(じきだん)には毎朝二十五の生花が散華される。

     (写真14)

     (写真15)

    (写真14)は地蔵菩薩堂、(写真15)はそこから方丈の方向を眺めた写真である。

    方丈は、桃山御殿の遺構を移建したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」及び屏風の雪松図はいずれも重要文化財に指定されているが、内部は撮影禁止になっている。

     (写真16)

    (写真16)は方丈庭園で、中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置された浄土庭園である。

     (写真17)

     (写真18)

    (写真17)は中庭、(写真18)は中庭にある手水鉢で、椿の季節にはこのように椿の花で飾られている。

     (写真19)

     (写真20)

    (写真19)は庫裡の玄関、(写真20)は経蔵である。経蔵は元文二年(1737)の建立で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天と韋駄天像が安置されており、多数の経典の版木が所蔵されている。

     (写真21)

    (写真21)は境内にある多宝塔で1921年に建立されたものである。(2011.1.11.2012.4.4.9.1511.7.訪問)

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