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  • 2019.05.01 Wednesday

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    0201円山公園

    • 2012.10.28 Sunday
    • 08:18

     

    円山公園(まるやまこうえん)は、八坂神社・知恩院に隣接する京都市で最も古い公園地で、総面積は約86600m2である。明治十九年(1886)に開設され、昭和六年(1931)国の名勝に指定されている。 
     園内は、池泉回遊式日本庭園になっており、野外音楽堂・坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像などが立ち、料亭や茶店が散在する。園枝垂桜など桜の名所でもあり、藤、あやめ、紅葉が美しい公園である。

    京都市による「円山公園の由来」の説明書きには次のように記されている。

     「平安の昔、今の円山公園一帯は一面真葛や薄などが生い茂り真葛ケ原と呼ばれていた。鎌倉時代、慈円僧正が

    『わが恋は 松を時雨の染めかねて 真葛ケ原に 風さわぐなり』(新古今集)

    と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれた。江戸時代に入ると安養寺塔頭の六阿弥(左阿弥、也阿弥などいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第ににぎやかさを増してきた。

     この頃から『慈円山安養寺(じえんざんあんようじ)』の『円山(まるやま)』がこのあたりの呼名となったと伝えられている。

     明治十九年(188610月、京都府は円山一帯を公園地に指定し、同二十二年(188912月市政が施行されると同時に京都府から京都市の管理に移された。その後何度か拡張工事を行い、大正二年(1913)、平安神宮神苑をはじめ、無鄰庵、碧雲荘などの名園を創り出した造園家、小川治兵衛の手により中央に池を配した回遊式日本庭園に造り変えられたのが現在の円山公園の姿である。」

     (写真1)
     

     (写真1)は八坂神社西楼門北側の円山公園入口である。公園には八坂神社境内を抜けて行くことも出来る。円山公園は桜の名所であり、公園内に約1000本の桜が咲き誇る。中でも2代目の祗園枝垂桜は名桜として有名である。

     (写真2)

     (写真3)

     (写真4)

     (写真2〜4)は公園の風景で、池には長方形と円形の石を組み合わせた石橋が架かっている。

     (写真5)

     (写真5)のように、池畔のベンチに腰を下ろし、鳩に餌をやる人の姿も見られる。

     (写真6)

     (写真6)は公園内にある坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像で、三条大橋東詰の高山彦九郎、亀山公園の角倉了以と並んで「京都三大銅像」の一つとされている。

     (写真7)

     (写真7)は公園の端にある祇園祭山鉾館で、保存が困難な状況にあった山鉾を永久に保存するために建てられたものである。現在10基の山鉾を収蔵している。

     (写真8)

     (写真8)は
    、「煙草王」と称された明治時代の実業家村井吉兵衛が円山公園の一角に建てた別荘「長楽館(ちょうらくかん)」である。国内外の賓客をもてなす迎賓館として用いられていた明治時代後期における和洋折衷の住宅建築の代表例である。「長楽館」の名称は、伊藤博文が宿泊した時に名付けられたもので、ルネサンス・ロココ様式を基調とした凝ったデザインや家具30点などが見どころとされている。(2012.5.19.8.21.8.23.
    訪問)

    0200八坂神社

    • 2012.10.27 Saturday
    • 18:35
     

    八坂神社(やさかじんじゃ)は、かつて「祗園社(ぎおんしゃ)」などいろいろな名前で称されてきたが、明治元年(1868)の廃仏毀釈令により「八坂神社(やさかじんじゃ)」と称されるようになった。一般には、「祇園さん」又は「八坂さん」として親しまれている。
     古くから疫病除けの神として広く信仰を集め、御霊会(ごりょうえ)(現在の祇園祭)を行ったといわれる。在も日本各地に約
    3千の分社がある根本神社である。
     祭神は、素戔鳴尊、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらのみこがみ)で、日本神話によると祭神の素戔鳴尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)(あらゆる災厄)を退治して、櫛稲田姫命を救い、地上に幸いをもたらした神さまといわれる。

    社伝によると、平安遷都以前の斉明天皇二年(656)にこの付近に素戔鳴尊を祀ったのが起こりといわれている。

    京都三大祭の一つである祇園祭は、毎年7月に行われる当社の祭礼で、平安時代の貞観十一年(869)に各地で疫病が流行した際に、当時の国の数に合わせて六十六本の鉾を立て、神泉苑に神輿を送り、その鎮まりを祈った御霊会(怨霊を退散させる祭り)を起源とするもので、天禄元年(970)ごろから毎年行われるようになった。

    大晦日の夜から元旦にかけて行われる「をけら詣り」は、薬草である「をけら」を混ぜて焚いた「をけら火」を授かり、新年の無病息災を祈るもので、毎年多くの人でにぎわう。また、13日には十二単姿の女性による「かるた始め」が行われる。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真1、2)は西楼門(にしろうもん)(重要文化財)で、四条通、東大路通に面する三間一戸、切妻造、本瓦葺の門である。応仁の乱で焼失したが、明応六年(1497)に桧皮葺で再建され、永禄年間(15581570)に瓦葺きに替えられた。その後、大正二年(1913) 四条通の拡張に伴い移動し、左右に翼廊が付けられて現在の姿となっている。

     (写真3)

     (写真3)は境内の南、正面入口、南楼門の前に立つ石鳥居(重要文化財)である。高さ約9.5mの明神鳥居で、扁額は、有栖川宮熾仁親王の筆。正保三年(1646)に建立されたもので、現存する石鳥居で最も大きいものといわれる。

     (写真4)

     (写真5)
     

     (写真4)は南楼門を内側から撮ったもので、これが石鳥居から入る八坂神社の正門である。この門を入って右手(東側)には正月に「かるた始め式」が行われる斎館の能舞台がある(写真5)。

     (写真6)

     (写真6)は舞殿(まいどの)で、南楼門を入って正面にある。この写真の左手に本殿がある。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真7、8)は本殿(重要文化財)で、正面に向拝があり、もとは別棟であった拝殿と本殿とを、一つの大屋根で覆ったものである。他に例がない珍しい建築様式で「祇園造」と称される。面七間側面六間、単層、入母屋造、檜皮葺きである。現在の本殿は 承応三年(1654)、徳川家綱により再建さたもので、平成十四年(2002)には平成の大修造営が行われ、色彩豊かな本殿に修復され、本殿遷座祭が斎行された。

     (写真9)

     (写真9)は西楼門を入った正面にある摂社・疫神社の左手(北側)にある絵馬堂で、近世の画家が描いた絵馬や、江戸時代から現在までに奉納された絵馬が掲げられている。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真1011)は月下氷人石(げっかひょうじんせき)で、南楼門南側に立つ、高さ約mほどの石柱である。案内板的に利用されたもので、「奇縁氷人石」とも称され、南側に「尋方(たづぬるかた)」、北側に「教方(おしゆるかた)」と彫られている。天保十年(1839)に建立され、京都市内に現存する3石柱(誓願時と北野天満宮、八坂神社)の一つ。

     (写真12)

     (写真13)

    月下氷人石の右手(北側)には「空也上人ゆかりの井戸」(写真12)があり、左手(北側)には与謝野晶子の歌碑(写真13)がある。歌碑には「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 晶子」と刻まれている。

     (写真14)

    (写真14)は忠盛燈籠と呼ばれ、拝殿の東方にある高さ約2.4mの六角型石燈籠である。鎌倉時代の作で、祇園社にまつわる平忠盛と白河法皇の故事が案内板に書かれている。

     (写真15)

     (写真16)

    八坂神社には境内に多くの摂社・末社がある。(写真1516)は西門を入った突き当たりにある摂社・疫神社(えきじんじゃ)である。「備後国風土記」などに祭神である蘇民将来(そみんしょうらい)の故事が残る。

     (写真17)

     (写真18)

    (写真1718)は疫神社の南隣にある末社・太田社で、祭神は猿田彦神(さるたひこのかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。猿田彦神は、天孫降臨のときに先導をした神、天鈿女命は、天岩戸隠れのときに、神楽を舞った芸能の神である。

     (写真19)

     (写真20)

    (写真1920)は太田社の前の道を南に突き当たり、東に曲がった右手(南側)にある末社・北向蛭子社(重要文化財)で、祭神は事代主神、正保三年(1646)の建立である。

     (写真21)

     (写真22)

    (写真21)は北向蛭子社の筋向かいにある末社・大国主社で、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。大国主命は俗に「大黒さん」といわれる福の神で、縁結びの神とされている。鳥居の右手に「大国さまと白うさぎ」の石の像(写真22)が造られている。

     (写真23)

    (写真23)は本殿の東側にある摂社・悪王子社(あくおうじしゃ)であるが、修復工事中のため鳥居と石標しか見ることが出来なかった。祭神は素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)で、「悪王子」の「悪」とは、「強力」という意味。荒魂は、現実に姿を現す、霊験あらたかな神とされている。

     (写真24)
     

    (写真24)は悪王子社の北隣にある末社・美御前社(うつくしごぜんしゃ)であるが、ここも修復工事中のため鳥居と案内板しか見ることが出来なかった、祭神は市杵島比売神(いちきしまひめがみ)、多岐理比売神(たぎりひめがみ)、多岐津比売神(たぎつひめがみ)の三女神で、素戔嗚尊が、天照大御神と誓約(うけい)をされたときに、素戔嗚尊の十拳剣を振りすすいで生まれたとされる。美を司り、清浄・潔白の証とされる。本殿の脇の水は、龍穴の水脈を引くといわれ、気のエネルギーを得る「力水」と称され、力水をいただき、美御前社に参拝すると、美しくなるといわれる。

     (写真25)
     
     鳥居の右手にある美容水(写真25)は、数滴、肌につけると、肌の健康が守られるといわれる。祗園の芸妓・舞妓さんや、美容理容・化粧品業者などの崇敬を集めている。

     (写真26)

     (写真27)

    (写真2627)は悪王子社の南隣にある末社・大神宮社(だいじんぐうしゃ)で、祭神は天照大御神と豊受大神(とようけのおおかみ)である。内宮(ないくう)の天照大御神は、皇室の祖神(おやがみ)で、素戔嗚尊の姉神、外宮(げくう)の豊受大神は、天照大御神の食事を司る神である。

     (写真28)

    (写真28)は本殿の西側にある末社・大年社(おおとししゃ)で、祭神は大年神(おおとしのかみ)と巷社神(ちまたやしろのかみ)、別名祗園古宮(ぎおんこみや)ともいわれる。大年神は、素戔嗚尊の御子で、穀物守護の神。この辺り一帯の農耕の神として祀られていた。節分の神ともいわれる。

     (写真29)

    (写真29)は大年社の北隣にある十社である。すなわち、多賀社、熊野社、白山社、愛宕社、金峰社、春日社、香取社、諏訪社、松尾社、阿蘇社の十社である。

     (写真30)

    (写真30)は境内北側の参道で、この参道の北側にも日吉社、刃物神社、五社、祖霊社、厳島社が並んでいる。

     (写真31)

    (写真31)は末社・日吉社(ひよししゃ)で、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)。京都の鬼門(北東)を守るため方位除の神として崇敬されている。

     (写真32)

     (写真33)

    (写真3233)は末社・刃物神社で、祭神は天目一箇神。刃物発祥の地とされ、苦難を切捨て、未来を切り開く神とされている。

     (写真34)

    (写真34)は末社・五社で、八幡社(はちまんしゃ)竈神社(かまどしゃ)風神社(かぜじんじゃ)天神社(てんじんじゃ)水神社(みずじんじゃ)が並んで祀られている。

     (写真35)

    (写真35)は末社・祖霊社(それいしゃ)で、八坂神社の役員や関係物故者の御霊が祀られている。

     (写真36)

    (写真36)は末社・厳島社(いつくしましゃ)で、祭神は市杵島比売命。容姿端麗で舞を踊ることから、舞踏・謡曲の神として崇敬されている。(2012.8.21.9.14.訪問)

     

    0199大将軍八神社

    • 2012.10.24 Wednesday
    • 14:36
     

     大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)は、上京区一条通天神通西入ルの商店街の中にある。
     延暦十三年(794)桓武天皇が、平安京造営の際、王城鎮護、方除厄除けのために陰陽道に従い、四方に大将軍を配置した一つで、内裏の北西角(風水の天門)に「大将軍堂」を創建し、大将軍神を春日山麓より勧請して祀ったのが由来である。

     江戸時代には大将軍村の鎮守社として祀られるようになり、「大将軍社」となった。更に明治時代になって、神仏分離令により、陰陽道等の外来神は廃されて、素盞鳴尊とその御子五男三女神、桓武天皇が合祀され、御子八神と暦神の八神が習合して「大将軍八神社」と称されるようになった。

    因みに、平安京の四方に祀られた大将軍神社は
     東方:大将軍神社(東三条大将軍)
     西方:大将軍八神社
     南方:藤森神社境内大将軍社
     北方:今宮神社境内大将軍社、西賀茂大将軍

    であり、五男三女神とは

     素戔嗚尊
     天忍穂耳命
     市杵嶋姫命
     田心媛命
     湍津姫命
     天穂日神
     活津彦根神
     熊野預樟日命

    の八神である。

    また、暦神八将神とは、暦の吉凶を司る星神 牛頭天王(素戔嗚尊)と頗利才女(歳徳神)との子とされる次の八方位の神のことである。
     大歳神(だいさいじん)  :歳星(木星)
     大将軍(だいしょうぐん):太白星(金星)
     大陰神(だいおんじん)  :大歳神の妃、鎮星(土星)
     歳刑神(さいぎょうしん):辰星(水星)
     歳破神(さいはしん)   :大陰神とおなじ土星
     歳殺神(さいさつしん)  :大将軍と同じ金星
     黄幡神(おおばんしん)  :羅ごう星
     豹尾神(ひょうびしん)  :計都星(彗星)

    なお、大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も当社を厚遇したといわれる。

     (写真1)

     (写真2)

    (写真1)は一条通の北側にある石の鳥居、(写真2)はその右手に立つ石標である。

     (写真3)

    (写真3)は神門で、正面奥に社殿が見える。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真6)

    (写真4〜6)は八棟権現造の社殿で、昭和四年(192911月に再建されたものである。 前方には、方位盤が置かれている。

     (写真7)

    (写真7)は社殿の右手奥にある方徳殿で、昭和四十九年(1974)に神饌所を取り壊して創建された収蔵庫である。この中には、武装像50体、束帯像29体、童子像1体の合わせて80体の神像(重要文化財)が安置されており、その他に古天文暦道資料(京都府指定文化財)等も収蔵されている。神像は桧、欅で作られており、平安時代中期から末期にかけて、大将軍信仰が盛んな時期に奉製されたものである。

     (写真8)

    (写真8)は社殿の左手にある招霊ノ木(おがたまのき)[神代榊]である。

     (写真9)

    境内にはいくつかの境内社が祀られている。(写真9)は享保三年(1718)に勧請された五社神社で、恵比寿神社[商売]、稲荷神社[開運]、天満宮[学問]、長者神社[金運]、 金毘羅神社[交通安全]の五社である。

     (写真10)

    (写真10)は五社神社同様、社殿左手前にある三社神社で、命婦神社[女性の守護]、厳島神社[芸能]、猿田彦神社[導き]の三社である。

     (写真11)

     (写真12)

    (写真11)は社殿の左奥にある大杉神社[厄除・開運の神]、(写真12)は社殿右手前にある歳徳神社、大金神社で、安政四年(1857)に創建された陰陽の神である。(2012.10.4.訪問)

     

    0198六請神社

    • 2012.10.17 Wednesday
    • 21:33
     

     六請神社(ろくしょうじんじゃ)は等持院南山門から少し東に行った北側にある神社で、古来、衣笠山麓に鎮座していたので衣笠御霊とも衣笠岳御霊とも呼ばれ、その山に鎮まる先人の霊を合せ祀ったのに始まる。
     おそらくは上古この地の開拓者の代々の霊を祀ったものであろう。 昔は開拓の祖神を天照国照神または大国御魂神と呼んだところから、 その天照国照がいつしかこの社の祭神に天照大神ら六柱を勧請して六請神というようになったのである。
     足利氏の等持院創立以来はその鎮守社として境内にまつられていた。神仏分離の時から現地に移ったという。
     衣笠はその名の示すように中世以来埋葬地となっていたところから霊を守る六地蔵の信仰と習合して六の字が社号に加えられ、 したがって祭神数が伊勢、岩清水、賀茂、稲荷、春日の六に限定されたのは民俗学的に興味のある問題である。いずれにしてもこの方面の功労神である。

     (写真1)

     (写真2)
     

     (写真1)は神社の入口、(写真2)は鳥居である。

     (写真3)

     (写真4)

     (写真3)は本社拝殿、(写真4)は横から見た本社である。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真5、6)は本社の東隣にある末社「力石大明神」である。この石は古くから祈願して持ち上げればあらゆる力を授けられるという。特に、氏子の多数の人が持ち上げて、安産・学力・試験・就職その他の誓願成就を祈り、力を得てきた。現在は、石を持ち上げる代わりに、小石に本人の願い事を書いて奉納すれば、御利益があるといわれている。(2012.10.11.訪問)

    0197等持院

    • 2012.10.17 Wednesday
    • 17:57
     

     等持院(とうじいん)は、万年山(まんねんざん)と号し、北区等持院北町、立命館大学の南側にある臨済宗天龍寺派の寺院で、足利尊氏の菩提寺である。3月の椿、馬酔木(あしび)、4月のはなずおう、5月の杜若、8月の百日紅(さるすべり)・芙蓉(ふよう)、10月の金木犀などの花の名所で、秋には、紅葉が美しい。

    もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応(りゃくおう)四年(1341)に足利尊氏が、天龍寺の夢窓疎石を開山として中興し、足利氏の菩提寺である中京区三条高倉の等持寺の別院とした。延文三年(1358)に尊氏がこの寺に葬られると、その法名「等持院仁山妙義」をとって「等持院」と改められ、その後、本寺である等持院と統合した。

    足利氏の菩提所にふさわしく、堂塔伽藍は衣笠山麓に偉容を誇ったが、長禄(ちょうろく)年間(14571460)以来、しばしば火災に遭って荒廃した。現在の建物は江戸時代・文政年間(18181830)の建立である。


     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)

    (写真1)は南山門で、ここから少し北に歩いて墓地の間を抜けると(写真2)の山門があり、その手前に鐘楼(写真3)がある。

     (写真4)

     (写真5)

    (写真4)は山門を入った左手の庫裡、(写真5)は右手の玄関と方丈である。

     (写真6)

    (写真6)は庫裡から入って方丈の方向を撮った写真で、正面に大きな達磨を描いた衝立がある。

     (写真7)

     (写真8)

     方丈(写真7)は、元和二年(
    1616)に福島正則が建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられている。(写真8)はその内部である。

     (写真9)
     

    (写真9)は枯山水の方丈庭園全景である。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

    また、(写真1012)は同じ方丈庭園を西から東に3分割して撮ったものである。

     (写真13)

     (写真14)

    (写真13)は方丈(右手)から霊光殿(左手)への渡り廊下、(写真14)は霊光殿である。内部は撮影禁止だが、霊光殿には尊氏の念持仏といわれる利運地蔵菩薩(りうんじぞうぼさつ)と、その両脇に達磨大師像と夢窓疎石像が安置されている。また左右の壇上には歴代足利将軍の木造13体と、徳川家康像の衣冠等身の木像も安置されている。
     方丈の北側には大きな庭園がある。夢窓疎石の作庭といわれる三大名園の一つで東西に分かれた池泉回遊式庭園になっており、庭園北側には、高い築山が築かれている。

     (写真15)

     (写真16)

     (写真17)

    西苑(写真1517)は、衣笠山を借景にしており、池全体で芙蓉の花を型どった「芙蓉池(ふようち)」がある。池の中の島は「蓮莱島」と称される。

     (写真18)

     (写真19)

     (写真20)

     (写真21)

    庭園北側の築山の上に建つ茶室(写真1821)は「清漣亭」と称され、8代将軍 足利義政好みで、二畳台目席の茶室である。

     (写真22)

    茶室には司馬温公形の手水鉢(写真22)がある。

     (写真23)
     
     茶室から東の方に下りて行くと、織田有楽斎ゆかりの椿「有楽椿」の大木がある(写真23)。「胡蝶侘助」とも称され、樹高十数
    m、根元の幹周り1mあり、現存する有楽椿では最大のものである。地上約80cmで三又になっており、早春から4月ぐらいまで花が咲く。

     (写真24)

    この近くに(写真24)に示す足利家十五代供養搭があり、その右手には、香川県小豆島の俳人赤松柳史の句碑がある。「煩悩はたえず 南瓜を両断す」と刻まれている。また、左手には、赤松柳史の高弟 青山柳為の句碑があり、「芙蓉池に 風あるやなし 落花舞ふ」と刻まれている。

     (写真25)

    更に東に行くと、東苑となり、右手に「心字池(しんじいけ)」が広がる(写真25)。

     (写真26)

    中央に大小2つの島があり、亀島と称される(写真26)。夏至の頃には、半夏生が咲き誇る。

     (写真27)

     東苑の方丈近くに「宝筐印塔(ほうきょういんとう)」が建っている(写真27)。足利尊氏のお墓といわれ、高さは
    5尺、延文三年(1358)の建立である。

     (写真28)

    (写真28)は南山門から山門に至るまでの間にある墓地の横に立てられた「マキノ省三の像」である。牧野省三は、京都府生まれの映画監督・映画プロデューサ・実業家で、日本で最初の職業的映画監督とされ「日本映画の父」と称される。日活より独立して最初に建てた撮影所「牧野教育映画製作所」が等持院の境内であったことに因むものである。(2012.10.11.訪問)

     

    0196龍安寺

    • 2012.10.15 Monday
    • 23:18

     

    龍安寺(りょうあんじ)は、衣笠山の山麓に位置し、きぬかけの路沿いに建つ臨済宗妙心寺派の寺院で、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。

    もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳二年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。一時、応仁の乱により焼失したが、明応八年(1499)に細川政元が再興し、その後、名僧が相次いで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭23を数えるほど栄えた。しかし、寛政九年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)はきぬかけの路より南にある門で、ここから真っ直ぐにきぬかけの路を越えて行くと(写真2)の山門がある。

     (写真3)

     (写真4)

    (写真3)は山門を入った右手にある龍安寺全景の説明図、(写真4)は左手にある鏡容池(きょうようち)で、周囲は、回遊式庭園になっている。徳大寺家によって造園されたもので、円融天皇の御願寺である円融寺の跡地にあたり、その園池といわれる。かつて、おしどりの群れがいたことから「おしどり池」とも称される。伏虎島、辨天島がある。

     (写真5)

    池には(写真5)のように睡蓮の花が沢山咲いていた。

     (写真6)

    (写真6)は鏡容池の北東部の砂利道で龍安寺垣と称される竹垣が美しい。

     (写真7)

     (写真8)

    (写真7)は下から眺めた庫裡とその前の石段で、紅葉の名所である。(写真8)は同じ石段の上から下方を眺めたものである。

     (写真9)

     (写真10)

    (写真9、10)は庫裡を入った正面にある屏風と左手にある衝立である。

     (写真11)

     (写真12)

    この間を通って西に行くと左手にミニチュアの石庭(写真11)と梵鐘(写真12)がある。

     (写真13)

    その先に慶長十一年(1606)に建築された方丈(重要文化財)(写真13)がある。創建時の方丈が火災で失われた後、塔頭 西源院の方丈を移築したものといわれている。

     (写真14)

    (写真14)は方丈内部を撮ったものである。

     (写真15)

     (写真16)

     (写真17)

    (写真1517)は方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)で、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の石庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。

     (写真18)

     (写真19)

    背後の築地塀は油塀と呼ばれ、枯山水の庭とよく調和している。油塀中央の外側にあるのは枝垂れ桜で、春にはピンク色の花をつけ、庭を華やかな雰囲気にしている(写真1819)。西側築地塀の北(方丈側)を高く、南を低くして、遠近法の手法で狭い空間を広く見せている。

     (写真20)

    (写真20)は方丈の西側にある庭園で、石庭とは趣が異なり、苔の緑が美しい庭である。奥に見える渡り廊下の左手に仏殿等があるが、一般公開されていない。

     (写真21)

    方丈の北東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知(われただたるをしる)」と刻まれた石造りの手水鉢がある(写真21)。

     (写真22)

     (写真23)

    (写真22)は方丈の東側にある庭で、龍安寺垣と「日本最古侘助椿 豊太閤朝鮮伝来」と立て札に書かれた椿の老樹が目につく(写真23)。方丈から東庭を隔てた東北隅に龍安寺垣をめぐらせた茶室「蔵六庵」があるが、ここも一般公開されていない。

     (写真24)

     (写真25)

     (写真24)は方丈勅使門である。また、(写真25)は仏殿に通じる門で、ここを入った左手に鐘楼がある。

     (写真26)

     (写真26)は境内西端にある納骨堂である。

     (写真27)

     (写真28)

     鏡容池の北側に2つの塔頭「大珠院」と「西源院」がある。(写真2728)は大珠院の門である。一方は閉ざされ、他方は「不許拝観」の札が掛かり、中には入れない。大珠院には真田幸村の墓がある。

     (写真29)

     (写真30)

     (写真29)は西源院の門で、ここにも「拝観謝絶」の札が掛かっている。幸い門が開いていたので、門の外から内部を撮ったのが(写真30)である。

     なお、鏡容池西には桜苑があり、桜の名所としても知られている。(2008.4.7.2012.10.11.訪問)

    0195きぬかけの路

    • 2012.10.14 Sunday
    • 07:21
     

     金閣寺から仁和寺に至る市道衣笠宇多野線約2.5kmは「きぬかけの路」と呼ばれ、衣笠山の山麓に沿って金閣寺、等持院、龍安寺、妙心寺、仁和寺等の有名なお寺が点在していることから、京都でも有数の観光道路となっている。

     (写真1)

     (写真2)
     

     (写真1、2)は仁和寺と龍安寺の中間にある住吉大伴神社の前(道路の北側)にある「きぬかけの路」の石碑とその周辺である。ここに刻まれた説明によると「平成三年(1991)、金閣寺から御室方面にいたる道のりに公募によって名付けられた「きぬかけの路」との愛称は、その昔、宇多天皇が真夏の衣笠山に白絹を掛けて雪景色を楽しんだとの故事から、衣笠山はきぬかけ山とも呼ばれることに由来する。」とある。

     この道が開通したのは昭和三十八年(1963)なので、歴史的に古くからあった道ではない。しかし、公募で名前がつけられてから、観光道路として有名になり、交通量も多いが、歩いても京都らしさの感じられる道である。

     (写真3)

     (写真3)はこの付近が、御室・衣笠歴史的風土特別保存地区に指定されている説明書で、地図に「きぬかけの路」も明示されている。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真6)

     (写真4〜6)は「きぬかけの路」を何カ所か撮ったものである。(2012.10.11.訪問)

    0194五智山蓮華寺

    • 2012.10.13 Saturday
    • 11:32


     五智山蓮華寺(ごちさんれんげじ)は、御室仁和寺の隣に立つ、真言宗御室派の別格本山の寺院で、庭には、丈六の石造の五智如来像五体が座っている。春には、五智如来像を覆うように咲く桜の名所でもある。

    平安時代の天喜(てんぎ)五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ、広沢池の北西にあったが、応仁の乱の後、鳴滝の音戸山山腹に移され、長く荒廃していたのを、寛永十八年(1641)に江戸の豪商・樋口兵太夫翁が再興し、山頂に石造の五智如来像を安置した。その後、火災にかかって焼亡し、昭和三年(1928)に現在地に移された。

    昭和三十三年(1958)には、離散していた石仏が集められて安置され、境内に並ぶ五智如来像五体と観音坐像十一体の石仏群は壮観である。五智如来とは、薬師、宝生、大日、阿弥陀、釈迦の五仏で、智恵の祈願仏として知られ、現在も学業の守護尊として信仰を集めている。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は山門、(写真2)は鐘堂である。

     (写真3)

     (写真4)

    そのそばに、蓮華寺略史(写真3)と石像還座記(写真4)の石碑が立っている。

     (写真5)

    (写真5)は五智如来像を西から東に向かって撮ったもので、遠くに見えるのは十三重宝塔である。

     (写真6)

    (写真6)は同じ五智如来像を東から西に向かって撮ったもので、右から順に薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五仏である。

     (写真7)

    (写真7)は五智如来像の後部にある観音坐像十一体の石仏群である。

     (写真8)

    (写真8)は本堂で、本尊・阿弥陀坐像が安置されている。

     (写真9)

     (写真10)

     (写真11)

    (写真9〜11)はコンクリート造りの不動堂で、寛朝大僧正が圓融天皇中宮・藤原詮子(せんし)のために安産を祈ったといわれる本尊・五智不動尊が安置されている。(2012.10.11.訪問)
     
     

    0193仁和寺

    • 2012.10.12 Friday
    • 14:21
     

     仁和寺(にんなじ)は、京福電鉄御室仁和寺駅を降りた北側正面にあり、皇室とゆかりの深い門跡寺院で、宇多法皇が住まわれたことから「御室御所(おむろごしょ)」と称される。真言宗御室派の総本山で、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。

     平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和四年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、三十余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。

     以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡(ならびがおか)西麓に仮御所を設けた時期もあった。

     現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移した金堂(国宝)をはじめ、御影堂(みえどう)・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。

     西門から成就山の麓にかけて、四国の八十八カ所霊場を縮小した「御室八十八カ所巡りの霊場」がある。中門の左手には、京都一の遅咲きで23mの低木の「御室桜」(名勝)が見られ、有名な桜の名所としても知られる。

    また、東寺、神光院とともに京都三弘法の一つでもある。

     (写真1)
     

    (写真1)は二王門(におうもん)(重要文化財)である。知恩院の「三門(国宝)」、南禅寺の「三門(重要文化財)」とともに京都三大門と呼ばれ、正保元年(1644)頃に建立された純和様建築である。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2,3)は二王門の阿吽像である。

     (写真4)

     (写真5)

    二王門の他に東門(写真4)と西門(写真5)がある。

     (写真6)

    (写真6)は仁和寺全景の説明図である。

     (写真7)

    (写真7)は二王門を入った所から正面を撮った写真で、左手に御殿があり、正面奥に中門が見える。なお、左手に見える仮建屋(足場)は、改修中の勅使門である。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8)は御殿の本坊表門で、内裏の台所門を移築した遺構である。ここを入ると右手に平唐門(写真9)がある。

     (写真10)

    (写真10)は御殿入口で、ここで靴を脱いで内部を拝観する。御殿は二王門から中門までの参道の西側、境内の1/4程を占める仁和寺の本坊で、宇多法皇の御所があった辺りに建つ。御殿、宸殿、勅使門、白書院、黒書院、霊明殿、白砂の南庭、池泉回遊式の北庭がある。桃山時代、京都御所の常御殿を賜り、宸殿として移築されたが、明治二十年(1887)に焼失し、現在の建物は、明治時代末から大正時代初期に再建されたものである。

     (写真11)

     (写真12)

     (写真11)は白書院の一部で、非公式の対面所となっていたところである。白木の柱を用いているので「白書院」と称される。三室の襖絵はすべて松が描かれている。昭和十二年(1937)の福永晴帆の作である。(写真12)は扁額である。

     (写真13)

     (写真13)は白書院から眺めた南庭と宸殿で、宸殿前には左近の桜、右近の橘が植えられている。

     (写真14)

     (写真14)は白書院から宸殿と黒書院の方に続く廊下で、右手に宸殿、左手に黒書院がある。

     (写真15)

     (写真16)

     (写真15)は黒書院の一部である。花園の旧安井門跡寝殿を移築されたもので、5部屋あり、襖絵は全て堂本印象によるものである。(写真16)は黒書院前の庭である。

     (写真17)

     (写真18)

     (写真19)

     (写真20)

     (写真1720)は宸殿の内部である。宸殿は御殿の中で最も重要な建物で、門跡の御座所だったところであり、現在は、儀式や式典に使用されている。大正三年(1914)に完成。桃山様式を取り入れた本格的な書院造で、化粧材は、全て、木曽御料林産のヒノキ材が用いられている。3部屋よりなり、西から東に、上段の間・中段の間・下段の間があり、東端には車寄がある。絵画は、全て原在泉によって描かれたものである。
     上段の間(写真17)の床は「遠山流水」、襖は春の「桜花」、その裏面の中段の間(写真18)には夏の「葵祭之図」、対面(写真19)には秋の「大堰川三船之図」、下段の間(写真20)の襖には冬の「鷹野行幸図(大阪交野)」が描かれている。

     (写真21)

     (写真22)

     (写真23)

    (写真2123)は宸殿から見た北庭である。(写真21)は右(東)部分で、北側の樹木が茂る築山には、茶室飛濤亭があり、その奥に五重塔が見える。(写真22)は中央部分で、中央に石橋があり、東西にくびれた池は南北朝時代の典型な特徴である。(写真23)は左(西)部分で、遠くに見える建物は霊明殿である。

     (写真24)

     (写真25)

    (写真24)は茶室飛濤亭、(写真25)は茶室遼廓亭(ともに重要文化財)である。いずれも一般には公開されていない。

     (写真26)

     (写真27)

    (写真2627)は霊明殿とその内部である。御殿内の唯一の仏堂で、仁和寺歴代門跡の位牌が祀られている。明治四十四年(1911)に竣工された。

     (写真28)

     (写真28)は本尊の秘仏・薬師如来座像(国宝)で、全高
    10.7cm、平安時代後期の円勢・長円の作である。

     (写真29)

    (写真29)は中門である。ここをくぐると左手に名勝御室桜がある。

     (写真30)

     (写真31)

     (写真32)

    (写真30)は御室桜の石標、(写真3132)は御室桜の咲いている頃の写真である。御室桜は遅咲きで背丈が低いのが特徴で、数多くの歌や俳句に詠まれている。例えば、

    「仁和寺や 足もとよりぞ 花の雲」(春泥)

    「春に来て 御室を出るや 宵月夜」(与謝蕪村)

    「わたしゃお多福 御室の桜 鼻が低ても 人が好く」(俗謡)

    等である。

     (写真33)

     中門から金堂への参道の右手(東)に五重塔(重要文化財)がある(写真33)。寛永二十一年(1644)の建立で、総高は約36m、各層の屋根の大きさがほとんど変わらない。

     (写真34)

     (写真34)は金堂(国宝)である。本尊の阿弥陀三尊像が祀られている。寛永年間(16241644年)に慶長十八年(1613)に建立された御所の紫宸殿が移築、改造されたもので、 最古の紫宸殿の遺構であり、桃山時代の寝殿造の遺構として貴重なものである。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気がよく残されている。

     (写真35)

     (写真36)

     (写真35)は経蔵(重要文化財)、(写真36)は鐘楼(重要文化財)である。鐘楼は袴腰式(はかまこししき)で、江戸時代初期の建立である。

     (写真37)

     (写真37)は観音堂(重要文化財)である。須弥壇がおかれ、十一面観世音菩薩、二十八部衆などが祀られている。仁和寺に伝わる法流の伝授など、密教儀式の伝承や修行道場として使用されている。

     (写真38)

     (写真39)

     (写真38)は鐘楼の北にある水掛不動尊で、(写真39)の不動明王像に柄杓で水を掛けるようになっている。

     (写真40)

     (写真41)

     (写真40)は西門近くにある御影堂である。宗祖 弘法大師代 二世門跡 性信法親王が祀られている。10m四方の檜皮葺小堂で、江戸時代に京都御所の清涼殿の古材を用いて建設されたものである。御影堂前には、御影堂中門(重要文化財)が建っている(写真41)。

    2010.4.13.2012.10.8.訪問)

     

    0192梅宮大社

    • 2012.10.11 Thursday
    • 11:14
     

         梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、嵐山の南、松尾橋を渡って四条通を少し東に歩いた北側にある神社である。

    奈良時代の政治家であった橘諸兄(たちばなのもろえ)の母・縣犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)が、橘氏の氏神として現在の綴喜郡井手町付近に創建したのが始まりといわれる。平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)(壇林皇后)によって現在の地に移された。
     酒解神(さかとけのかみ)[大山祇神(おおやまずみのかみ)]、大若子神(おおわくこのかみ)[瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)]、小若子神(こわくこのかみ)[彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)]、酒解子神(さかとけこのかみ)[木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)]の四座を祭神とする。酒解神の御子・酒解子神は大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから、歓喜して、狭名田(さなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造り、これを飲んだという神話から、古くから安産と造酒の神として有名である。

    また、皇子に恵まれなかった壇林皇后が、本殿の横に鎮座する「またげ石」をまたいで子どもを授かったことから、この石をまたげば子宝に恵まれると伝えられ、その下の白砂は安産のお守りとされている。

    現在、本殿、拝殿、弊殿、廻廊、中門などがあるが、これらは元禄十三年(1700)の再建によるものである。

    庭園は、杜若や花菖蒲の名所として知られるほか、梅、八重桜、椿、つつじ、あじさいが美しい。

     (写真1)

     (写真2)

     (写真3)
     

    (写真1)は正面の石の鳥居と参道、(写真2、3)は東側の参道と石の鳥居である。

     (写真4)

     (写真5)

    この2つの参道が交差する地点付近の正面に赤い鳥居(写真4)があり、これをくぐって、小さな川を渡ると楼門(京都府登録文化財)(写真5)がある。二層部には奉納された酒樽が並んでいる。

     (写真6)

    (写真6)は手水舎で、その横にも奉納された沢山の酒樽が並んでいる。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

    (写真7)は拝殿(京都府登録文化財)、(写真8、9)は本殿(京都府登録文化財)である。本殿内部では若い夫婦が祈祷を受けていた。

     (写真10)

    (写真10)は拝殿の東側にある「百度石」で、100本の竹串またはこよりを持ってお百度まいりをする場所である。

     (写真11)

    (写真11)は本殿の向かって左側にある末社の護王社(京都府登録文化財)である。祭神は橘氏公(たちばなのうじぎみ)で、橘逸勢(たちばなのはやなり)が配祀されている。橘氏公(檀林皇后の兄)は、嵯峨天皇の右大臣として仕え、日本最初の学校橘学館院を創立した。また、橘逸勢(檀林皇后の従兄弟)は、遣唐使として唐に渡り、嵯峨天皇と弘法大師と共に三筆とされる。二人は、日本の学問の興隆の基を築いたとされ、学問の守護神とされている。元禄十三年(1700)に再建されている。

     (写真12)

    (写真12)は本殿の向かって右側にある末社の若宮社(京都府登録文化財)である。祭神は橘諸兄で、橘嘉智子が配祀されている。橘諸兄は、聖武天皇の左大臣として仕え、井手に住んでいたので「井手の左大臣」とも称された。やはり、元禄十三年(1700)に再建されている。

     (写真13)

     (写真14)

    (写真13)は本殿の右横、若宮社との間にある「またげ石」の所在を知らせる石標(右)と案内板(左)で、この柵の内部に「またげ石」がある(写真14)。「血脈相続の石」といわれ、夫・妻の順に3回またぐと子宝に恵まれるといわれている子授け祈願の霊石である。在、またげ石には、夫婦一緒に子授けの祈祷を受けると案内してもらえる。

     (写真15)

     (写真16)

    (写真15)は東門で、ここから神苑に入ることが出来る。門の前には神苑案内図が張り出されている(写真16)。

     (写真17)
     
     この神苑は江戸時代に造営された回遊式庭園で、かつては桂川より水を引いていた。内部は東神苑、西神苑、北神苑の3つに分けられている。(写真17)は東門を入ったところから見た東神苑である。前方の池は咲耶池と呼ばれ、その周りには、杜若、花菖蒲、霧島つつじが咲く。

     (写真18)

    左手に島があって橋が架かり、池には沢山の鯉が居る。島の中にある茶席「池中亭」は「芦のまろ屋」とも称される茅葺(かやぶき)の建物で、嘉永四年(1851)に建立されたものである(写真18)。

     (写真19)

    (写真19)は茶室の北東側にある別の橋の手前から撮った「池中亭」の写真である。

     (写真20)

    (写真20)は池畔にある大納言源経信卿の歌碑で、百人一首の歌「夕されば門田の稲葉訪れて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く」が刻まれている。当時の梅津の里を詠んだ歌で、この茶室の茅葺き屋根の形が、往時の芦の円屋の姿を今に伝える唯一のものといわれている。

     (写真21)

     (写真22)


     (写真2122)は池の北東部から撮った東神苑である。

     (写真23)

     (写真24)

    (写真23)は池の北東隅にある参集殿、(写真24)はその玄関である。この建物は昭和九年(1934)に建立されたものである。

     (写真25)

     (写真26)

    (写真2526)は北神苑の勾玉(まがたま)池で、写真2枚を合わせると勾玉の形になる。この池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲く。また、5月下旬〜6月下旬には、東神苑から北神苑にかけて60種類500本の紫陽花が咲き誇る。

    なお、西神苑は35550本の紅白の花に彩られる梅林で、祭神である木花咲耶姫命の「木花」が「梅」の古称といわれ、梅の花が梅宮の神花になっている。金色の枝の「金枝梅」や、本で紅白を咲き分ける「想いのまま」、呉服枝重、白牡丹、盤上の梅、樹齢100年以上の老木など珍しいものもある。「冬至梅」は、極早咲で12月末から咲き始める。寒紅梅、丹紅、道知辺などが早咲きで、見頃は2月中旬より3月中旬。遅咲のものは、3下旬で、山桜と一緒に咲く。

    花の季節ではないので、道ばたに咲く萩と彼岸花以外、咲いている花はなかったが、広大な庭園は手入れや水やりが十分なされていない感があり、多くの人手と費用をかけないと折角の名園も維持が困難のように見受けられた。(2012.9.29.訪問)

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