スポンサーサイト

  • 2019.05.01 Wednesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -
    • -

    0181藤井右門宅跡

    • 2012.09.30 Sunday
    • 07:48
     

     (写真1)

     (写真2)
     

     上京区烏丸通上立売上ル西側に「藤井右門宅跡(ふじいうもんたくあと)」の顕彰碑と説明板が立っている(写真1、2)。

     (写真3)

    顕彰碑の前には左手に「藤井家旧蹟之跡」、右手に「贈正四位藤井右門瘞髪家」の石標がある(写真3)。

     この地に江戸時代中期の尊王論者・藤井直明(右門)の居宅があった。右門は享保五年(1720)越中国射水(現在の富山県射水市)で生まれ、京都に出て皇学所教授となり、公家に尊王論を説いた。宝暦八年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した「宝暦事件」がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弐(やまがただいに)のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。しかし、幕府は明和三年(1766)、ある事件にかこつけて右門と大弐を捉え処刑した。世にいう「明和事件」である。右門享年48歳。それから約百年、右門らの唱えた尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。

     右門の旧宅は、現在の同志社大学の地に薩摩藩邸があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、幕末維新の史蹟としても忘れがたい。屋敷は大正十一年(1922)区画整理のため取り壊されたが、その翌年、右門の顕彰碑が建てられた。

    なお、顕彰碑の右隣(北側)にある古い民家は、京都市の「景観重要建造物」および「歴史的意匠建造物」に指定されている。(2012.9.4.訪問)

    0180大聖寺

    • 2012.09.29 Saturday
    • 20:34
     

     大聖寺(だいしょうじ)は、同志社大学の西、上京区烏丸今出川上ルにあり、室町幕府の足利義満の花の御所跡に建つ「御寺御所(おてらごしょ)」と称される尼門跡寺院である。   

    正親町天皇の皇女の入寺のとき、尼門跡第1位の綸旨(りんじ)を受け、光格天皇の皇女まで歴代24代の内親王が入寺した〔第2位は宝鏡寺(ほうきょうじ)、第3位は曇華院(どんげいん)〕。明治維新以後は、内親王に代わり公家華族の息女が門跡を継いでいる。 宸翰(しんかん)や、調度品・御所人形・衣裳などの宝物が残されている。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は山門で、その前に「大聖寺庭園」の説明板(写真2)がある。それによると、庭園は元禄十年(1697)、明正天皇の河原の御殿から材料を移して作庭された江戸時代中期の枯山水庭園で、京都市指定名勝となっているが、残念ながら一般に公開されていない。

     (写真3)

    山門を入った右手塀際に「花乃御所」と彫られた自然石の石碑が萩の木に隠れるように立っていた。(写真3)(2012.8.27.訪問)

    0179南蛮寺跡

    • 2012.09.28 Friday
    • 06:52
     

     (写真1)

     (写真2)

     中京区蛸薬師通室町西入の北側に建つビルの片隅の自転車置き場になっている目立たない所に「此付近南蛮寺跡」の石碑と説明板が立っている(写真1、2)。

     織田信長の時代に、耶蘇会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。

     戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄二年(1559)から本格化し、永禄四年(1561)にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正四年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、716日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では、珊太満利亜上人の寺とも呼ばれた。

     しかし、天正十五年(15876月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。

     
     (写真3)

     (写真3)は、正式には被昇天の聖母教会と呼ばれる三階建ての南蛮寺聖堂の絵で、狩野永徳の弟、狩野宗秀(かのうそうしゅう)筆(池長孟コレクション)である。

     (写真4)

     (写真5)

     なお、同志社大学今出川キャンパスの西門を入った右手にある図書館(写真4)の入口右側に南蛮寺の礎石が置かれている(写真5)。(
    2012.8.27.31.訪問)

    0178薩摩藩邸跡

    • 2012.09.27 Thursday
    • 09:27

     

     薩摩藩邸跡(さつまはんていあと)は、幕末維新に相国寺南の二本松に新たに造られた二本松藩邸の跡で、上京区今出川烏丸上ルの同志社大学西門前にその石碑が立っている。

     (写真1)

     (写真2)
     
     (写真1)は同志社西門前の左側(北側)にある石碑と説明板、(写真2)はそれを正面から撮ったものである。

     二本松藩邸は、現在、同志社大学の一部となっている。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは、中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久二年(
    1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ5,805坪(約19,000平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいた。

    薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様の雄藩で、石高は約77万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力倒幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。(2012.8.27訪問) 

     

    0177旧二条城跡

    • 2012.09.26 Wednesday
    • 07:40


     (写真1)

     (写真2)


     上京区下立売通室町角、現在の平安女学院前に「旧二条城跡」の石碑が立っている。(写真1)は下立売通から撮った石碑周辺の写真で、左の通りは室町通である。(写真2)はその石碑である。

    永禄十二年(1569)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地に、ほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築いた。

     (写真3)

     (写真3)は旧二条城推定敷地を示す地図である。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推定される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より)その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は二条御所として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正四年(
    1576)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。なお、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長七年(1602)に築かれた。

     (写真4)

     (写真5)

     (写真6)

    御所の椹木町通の御門から入った左手(北側)の塀際には「推定旧二条城の復元石垣」とその説明板がある。(写真4)はその説明板と復元石垣、(写真5、6)は復元石垣を撮ったものである。ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上ルに埋もれていたのを発見したもので、もとは南面していたのを、ここに復元したものである。

    これと同様なものが烏丸椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。(2012.9.4.訪問)

    0176菅原院天満宮神社

    • 2012.09.25 Tuesday
    • 10:15
     

     菅原院天満宮神社(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)は、菅原氏の邸宅「菅原院」があったところで、京都御苑の下立売御門の向かい側、上京区烏丸通下立売下ルに建つ。
    通称「烏丸の天神さん」と呼ばれている。

    菅原道真が生まれたところとされ、菅原道真とその父祖が祀られ、菅原道真の産湯で使ったといわれる菅公初湯井がある。太宰府天満宮への遺蹟伝承地を結ぶ菅公聖蹟二十五拝の第1番になっている。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1)は「菅原院」と書かれた鳥居の扁額、(写真2)は鳥居の下部で、左手に「菅家邸址」、右手に「御誕生舊跡菅原院天満宮神社」の石標が立っている。

     (写真3)

    (写真3)は神社入口の門。本殿は門を入って右手の奥にある。

     (写真4)

    (写真4)は手水所。牛の口から水が出ている。

     (写真5)

     (写真6)

    (写真5、6)は「産湯の井戸」で、菅原道真が誕生したときに産湯の水が汲み上げられたとされる石台形花崗岩製の井戸である。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真7、8)は本殿である。

     (写真9)

    (写真9)は本殿南にある「天満宮御遺愛の石燈籠」で、右側にそれを示す石碑が立っている。平安時代初期のものとされる。

     (写真10)

    (写真10)は末社 梅丸社で、癌封じの神として信仰されている。(2012.8.27.訪問)

    0175護王神社 

    • 2012.09.24 Monday
    • 21:59
     

     護王神社(ごおうじんじゃ)は、京都御所の蛤御門の西、上京区烏丸通下長者町下ルに立つ神社で、桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする。もとは神護寺境内にあったが、明治十九年(1886)この地に移された。
     和気清麻呂が、宇佐へ配流されたときに、猪に助けられ、足の不自由が回復したという故事から、足腰の病気・怪我回復の御利益があるとされている。拝殿の前に狛犬の代わりに「狛猪」がおかれており、「いのしし神社」とも呼ばれる。
     また、和気広虫が、慈悲深く、戦乱で生じた多くの孤児たちを養子として育てたことにより、「子育て明神」とも呼ばれ、育児の神としても信仰される。

     (写真1)

     (写真2)
     

     (写真1)は烏丸通に面した正面の鳥居、(写真2)は下長者町通に面した横門である。

     (写真3)

    正面鳥居の前には、「護王神社全景鳥瞰図」(写真3)が掲示されている。

     (写真4)

    また、周囲の塀に護王神社の沿革を絵と文章で示したボードが並べて掲示され、順に説明を読んでいけるようにしてある(写真4)。

     (写真5)

    (写真5)は正面鳥居をくぐったところにある神門を境内から撮ったもので、門には菊の御紋が見える。

     (写真6)

     (写真6)は神門から境内に入った写真の右手(南側)にある「霊猪手水舎」と左手(北側)にある吉井勇の歌碑である。歌碑には「風なきに 榠櫨(かりん)の實また ほろと落つ かくて極まる 庭のしづけさ」の歌が刻まれている。また歌碑の右手に京都市選定の名木「かりんの木」がある。この木は胸高幹周1.57m、樹高14m1998)で樹齢は100年を越えているとされる。

     (写真7)

     (写真8)

     (写真9)

    (写真7)は本殿前の拝殿で、その前方両側に狛猪が見える。(写真8、9)が左右の狛猪を拡大して撮った写真である。

     (写真10)

     (写真11)

     (写真12)

    (写真10)は本殿右手にある今一つの「霊猪の手水舎」、(写真1112)は本殿である。

     (写真13)

    境内には和気清麻呂の像が2つある。(写真13)はその一つで平成十年(1998)和気清麻呂公1200年祭を記念して建てられた。造形作家松本繁来の作で、台座の「和気清麻呂公」の文字は、茶道裏千家家元 千宗室氏の揮毫によるものである。

     (写真14)

    (写真14)の小さい方の像は、昭和十七年(1942、滋野国民学校(滋野中学校)に建立され、その除幕式は護王神社の奉仕によって行われた。平成十四年(2002)、学校の廃校を機に京都市教育委員会より護王神社に貸与されたものである。

     (写真15)

    (写真15)は(写真13)の清麻呂公像のすぐ後ろに建つ幅3m、高さ2mの大きな岩「さざれ石」で、国歌「君が代」にも詠まれている。

     (写真16)

     (写真17)

    (写真1617)は、それぞれ境内にある末社と祖霊社である。

     (写真18)

    境内にはいろいろないのししのコレクション(写真18)や、剥製のいのしし等が展示されていた。(2012.8.27.訪問)

     

    0174革堂

    • 2012.09.17 Monday
    • 12:02
     

     革堂(こうどう)は、京都御苑の南東の角を少し下がった中京区寺町通竹屋町上ルにある霊麀山行願寺(れいゆうざんぎょうがんじ)と号する天台宗の寺院で、西国三十三ケ所観音霊場の第十九番札所である。

    寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその革をまとって鹿を憐れみ、人々から革聖(かわのひじり)と呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになったといわれている。

    以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、この地に移された。

    現在の本堂(京都市指定文化財)は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置している。

     (写真1)

    (写真1)は山門で、左手前方に「西國十九番札所一条かうどふ」の石標がある。

     (写真2)

     (写真3)

    (写真2)は手水舎、(写真3)は本堂の正面写真で、右手に「西国十九番革堂行願寺」の石標が見える。

     (写真4)

    (写真4)は本堂を近くから撮ったもので、「革堂観音」の赤い提灯とその後方に「革堂」の扁額が見える。

     (写真5)

    (写真5)は本堂左手にある歌碑とその左手前にある行円上人ゆかりの車石である。

     (写真6)

    (写真6)は庫裡の北西にある鎮宅霊符神堂である。

     (写真7)

    (写真7)は鐘楼(京都市指定文化財)とその横にある小祠で、鐘楼は文化元年(1804)に創建されたものである。

     (写真8)

     (写真9)

    (写真8)は鐘楼の左手にある百体地蔵尊、(写真9)は更にその左、境内北西の隅近くにある加茂大明神五輪塔である。五輪塔の水輪がくり抜かれて、その中に加茂大明神が祀られている。行円上人は、加茂社の槻の木で本尊千手観音菩薩を創ったといわれている。

     (写真10)

     (写真11)

    (写真10)は本堂の北西対面にある愛染堂で愛染明王像が祀られている。(写真11)はその右手横にある寿老人神堂である。都七福神めぐりの一つで、寿老人像は桃山時代の作といわれ、豊臣秀吉が万人快楽のために祀ったといわれる。

     (写真12)

    (写真12)は寿老人神堂の横に安置されている七福神である。なお、都七福神めぐりの神社寺院は次の通りである。

    えびす神 恵比須神社       (東山区)
       大黒天  松ヶ崎大黒天
    (妙円寺) (左京区)

    毘沙門天 東寺(教王護国寺)   (南区) 

    弁財天  六波羅蜜寺      (東山区)
      福禄寿  赤山禅院        (左京区
    )
      寿老人  革堂
    (行願寺)     (中京区)
      布袋尊  萬福寺        (宇治市)

    2012.8.31.訪問)
     

    0173六角堂

    • 2012.09.16 Sunday
    • 15:56
     

     六角堂(ろっかくどう)は、中京区六角通東洞院西入にある紫雲山頂法寺(しうんざんちょうぼうじ)と号する寺で、本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうつくり)であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。
     革堂(行願寺)が上京の町堂であり、六角堂は、下京の町堂として親しまれ、町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たしていた。観音霊場の札所としても庶民の信仰を集め、門前町が発展し、洛中では有数の旅宿町として発展した。 

    開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳二年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三ケ所観音霊場(現十八番の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。

     (写真1)

     (写真2)
     

    (写真1、2)は山門である。山門の右の柱には「六角堂頂法寺」、左の柱には「六角堂頂法寺貫主池坊専永」の表札が掛かっている。

     (写真3)

     (写真4)

     (写真3)は本堂正面遠景と大きな柳の木、(写真4)は本堂の近景である。「頂法寺」の扁額と観音菩薩の赤い提灯が中央に見える。現在の建物は、明治八年(1875)に再建されたものである。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。

     (写真5)

     (写真6)

     (写真5)は境内の東北隅に建つ太子堂で、聖徳太子の2才の頃の南無仏像が安置されている。(写真6)はその扁額である。

     (写真7)

     (写真7)は本堂の東南にある親鸞堂である。建仁元年(1201)、親鸞聖人が29歳のとき、毎夜、比叡山を下りて、六角堂に百日参籠され、夢中に四句を授かり浄土真宗を開かれたといわれる。夢のお告げを聞いておられる姿の「夢想之像」と、六角堂参籠の姿を自刻されたといわれる「草鞋の御影」が安置されている。

     (写真8)

    (写真8)は本堂前の六角形の礎石で、旧本堂の礎石といわれる。臍石(へそいし)と呼ばれ、古来、京都の中心に当たるとされてきた。

     (写真9)

     (写真10)

     (写真11)

    (写真9)は手水舎、(写真10)はその東にある十六羅漢である。また、(写真11)は親鸞堂の手前右手にある「一言願い地蔵」で、少し首を傾けたお地蔵さんは、参拝者の願いを叶えてあげようか、どうしようかと考えておられるといわれる。

     (写真12)

    (写真12)は太子堂の左手にある聖徳太子沐浴の古跡である。飛鳥時代の用明天皇二年(587)、聖徳太子が四天王寺の建立のために用材を探しにこの地を訪れたときに、池で水浴をするために、そばの多良の木(たらのき)にかけておいた持仏の如意輪観音が、木から離れず、光をはなって「我は汝の本尊となって七世を経たが、ここは衆生に利益を与えるにふさわしい地であるから、御堂を建ててほしい」というお告げがあり、この地に六角堂が建立されたと伝える古跡である。

     (写真13)

    (写真13)は生け花発祥の地のモニュメントで、背景となっている文書は、「池坊専応口伝」(16世紀の中頃、池坊家の祖先、池坊専応がその弟子に授けた花伝書「大巻伝」)の冒頭の部分が刻まれており、「瓶に美しい花を挿すこと」と、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」ことの違いが述べられている。

     (写真14)

    また、本堂北の本坊は池坊(いけのぼう)と呼ばれ、室町時代以降、多くの生け花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっており、 代々、池坊の宗家(華道宗家)が、六角堂の住職を兼ねる。(写真14)はその建物で、入口には「華道家元」の表札が掛かっている。

     (写真15)

    (写真15)は本堂西にある「北向地蔵尊」で、内裏(御所)を守護されるために、北を向いておられる。御所を守護されることは、人々の生活を守ることにつながるといわれる。

     (写真16)

    (写真16)はその南側に並ぶ「わらべ地蔵」で、小さな子供を守護される。寝たり、立ったりしている姿は、それぞれ修行をされ禅定の姿で守護されている。

     (写真17)

     (写真18)

    その他境内には、石不動(写真17)や不動明王(写真18)等も祀られていた。


    (写真19)

    (写真19)は鐘楼で、本堂のある境内(六角通の北側)とは離れて、六角通の南側に建っていた。

     (写真20)

    なお、(写真20)は隣のビルのエレベーターに乗り、9階から撮った写真で、上から見下ろすと本堂が六角であることがよくわかる。(2012.8.31.訪問)

    0172囲碁「本因坊」発祥の地

    • 2012.09.16 Sunday
    • 07:57


     (写真1)

     寺町通夷川上ル東側の歩道脇に「囲碁『本因坊』発祥の地」という立て札(説明版)が立っている(写真1)。寺町通には天正十七年(
    1589)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたが、この地にあった寂光寺もその一つで、別名を久遠院とも呼ばれた。通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。

     この寂光寺の塔頭「本因坊」に住んでいた僧侶の日海(にっかい)(15591623)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂(さんさ)と改名して幕府の碁所を任された。

     算砂は江戸に屋敷を拝領した後も、寺町の本因坊を本居として、春に江戸へ下り、年末に京に戻る暮らしをしていた。

     以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、二十一世の秀哉(しゅうさい)は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和十一年(1936)、今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。

     宝永の大火(1708)で罹災した寂光寺は、現在仁王門通東山西入に位置し、算砂愛用の碁盤や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。

     (写真2)

     (写真2)は説明板の横に造られた石のテーブルとベンチで、テーブルは碁盤になっており、碁石があれば対戦可能である。実際、平成二十一年(2009110日に今村俊也九段と滝口政季九段により打ち初め式が行われたことが銘板に書かれていた。(2012.8.31.訪問)

     

    PR

    calendar

    S M T W T F S
          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    30      
    << September 2012 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM