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明王堂からいくつかの鳥居をくぐり抜け、無動寺谷を更に15分ほど下って行くと、弁天堂がある。明王院からかなり下るので、ここを訪れる人は少ない。
(写真1)
(写真2)
(写真1)、(写真2)は弁天堂の社殿手前にある石の鳥居で、左手前に「大辨財天女」の石標が立っている。(写真1)の左手は社務所である。
(写真3)
この鳥居をくぐり、奥に入ると木造の社殿がある(写真3)。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は社殿の裏側を撮ったもので、屋根のひさしの下には十二支の彫り物が施されている(写真5)。
(写真6)
(写真6)はその一部の拡大写真で、卯の彫刻であることがわかる。
寂れた感じはなく、奥深い谷間の神社にも、古来の信仰が息づいているように感じられた。(2012.3.27.訪問)
(写真1)
比叡山ドライブウエイの「東塔」バス停、比叡山頂に向かう道と奥比叡ドライブウエイの分岐点でバスを降りると、直ぐ東側に「大弁財天」の赤い鳥居が見え、その側にお堂がある(写真1)。
(写真2)
このお堂は「西尊院堂」と呼ばれており(写真2)、その前の細い道を少し下ると坂本ケーブルの延暦寺駅に着く。
(写真3)
(写真3)はこの駅の正面で、レトロな感じのする駅舎入り口には「登録有形文化財」と書かれている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は登ってくるケーブルカー、(写真5)はこのケーブルカーが到着した駅内部の写真である。
(写真6)
ついでながら、この駅舎の屋上が展望台になっており、琵琶湖南部が一望出来る(写真6)。左端から近江大橋、瀬田の唐橋、石山寺、浜大津と続き、右端には皇子山陸上競技場が見える。
(写真7)
(写真8)
さて、駅舎の前を通って南に向かうと(写真7)、「無動寺参道」の石標と「大弁財天女」の額がかかった石の鳥居がある(写真8)。
(写真9)
ここから10分足らず階段の道を下ると、無動寺明王堂(写真9)に着く。
(写真10)
(写真11)
(写真10)は明王堂の全景、(写真11)は正面写真である。
(写真12)
お堂の前には不動明王の功徳が掲げられている(写真12)。
無動寺明王堂は千日回峯行の根本道場で、不動明王を祀っている。865年に回峯行の創始者とされる相応和尚(そうおうかしょう ) が創建したといわれている。
千日回峰行は不動明王と一体となることを目指す行で、十二年籠山行を終え、百日回峯行を終えた者の中から、厳選された者だけに許される過酷な修行である。行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峯行は7年間にわたる行である。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260個所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となる。
5年700日の回峯を満行すると「堂入り」が行なわれる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入る。堂入り中は、明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨(あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日で、はじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りをし、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻る。
満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となる。延暦寺の記録では満行者は47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には存命中の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる*。(2012.3.27.訪問)
*ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A5%E5%9B%9E%E5%B3%B0%E8%A1%8C#.E5.8D.83.E6.97.A5.E5.9B.9E.E5.B3.B0.E8.A1.8C (2012.3.31閲覧)
延暦寺(えんりゃくじ)は、比叡山全域を境内とする寺院で、日本天台宗の祖・最澄(伝教大師)によって開かれた。山号は比叡山。世界遺産(文化遺産)に登録されている。
比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)など、三塔十六谷の堂塔を総称して「延暦寺」と称される。境内は、国の史跡に指定されている。
比叡山は、平安京からみた北東の鬼門にあたる。奈良の諸大寺の「南都」に対して「北嶺(ほくれい)」、園城寺(おんじょうじ)の「寺門(じもん)」に対して「山門(さんもん)」と称される。
住職(貫主)は、「天台座主(てんだいざす)」と称され、天台宗の寺院を統括する。現在も天台の思想に基づいた「十二年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が続けられている。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は坂本ケーブル延暦寺駅舎付近にある「比叡山回遊案内図」、(写真2)は根本中堂の近くにある比叡山延暦寺の説明書きと境内略図である。大きく東塔エリア、西塔エリア、横川エリアの3エリアに分けられ、各エリアに多くの堂塔が建てられているのがわかる。
(写真3)
(写真3)は根本中堂の近くにある世界遺産の説明書きで、「古都京都の文化財」として1994年12月17日に登録されたことが読み取れる。
歴史的に見ると、飛鳥時代末期の延暦四年(785)に、最澄が比叡山で修行して草庵・薬師堂を建て、自らが彫った薬師如来像を祀ったのを由来とする。延暦七年(788)、最澄は現在の根本中堂の場所に、薬師堂、文殊堂、経蔵からなる小規模な寺院を建立し、「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」と名付けた。桓武天皇が最澄に帰依し、京都の鬼門を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦二十三年(804)最澄は、入唐求法(にゅうとうぐほう)のために中国唐に渡り、開山から2世紀が経って中国では時代遅れとなっていた天台山に登り、天台教学の教えを受けた。延暦二十四年(805)に帰国後、一乗止観院にて天台法華宗の確立に奔走し、大同元年(806)に桓武天皇の勅許により開宗が認められた。創建時の年号をとった「延暦寺」という寺号が許されたのは、弘仁十四年(823)である。
最澄の後を継いだ第3世天台座主・慈覚大師円仁と天台座主・智証大師円珍は、唐に留学して多くの仏典を習得し、延暦寺の密教の発展に尽くした。
嘉祥三年(850)、慈覚大師・円仁が首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立、横川地区の発祥となった。
仁和四年(888)、円仁の遺志を継いだ弟子の天台座主・安慧(あんね)が、天台宗の鎮守神として赤山明神を祀った赤山禅院を創建し、延暦寺の別院とした。
康保三年(966)、延暦寺の中興の祖である第18世天台座主・元三大師良源(りょうげん)は、火災で焼失した伽藍を再建し、寺内の規律を厳しく守らせ、学業の発展にも尽くした。良源は、東塔・西塔・横川(よかわ)の三塔十六谷に三千ほどの寺坊をもつ一大寺院群を形成する。
良源の没後は、円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになっていく。正暦四年(993)円珍派の約千名の僧が、山を下りて、園城寺(三井寺)に立てこもる。以来、山門(円仁派、延暦寺)と寺門(円珍派、園城寺)は、対立と抗争を繰り返し、必然的に武装化した法師「僧兵」が現われ、「比叡山の山法師」と称され俗界との係わりを深めていく。
元亀二年(1571)9月12日織田信長の焼き討ちによって延暦寺の全山が焼失してしまう。建物で残ったのは西塔にある瑠璃堂のみといわれ、僧侶や坂本の町から逃げてきた住民など合わせて2000人以上が焼殺・惨殺されたといわれる。復興は、豊臣秀吉や徳川家康らによって長年かかって再建された。
平成十八年(2006)1月26日、根本中堂で、開宗1200年の節目を記念する「祥当法要」が行われ、天台座主や全国の僧侶が集まって天台声明(しょうみょう)が唄われた。(2012.3.27.訪問)
法金剛院は双ケ丘の東麓、JR山陰線花園駅下車、西に徒歩5分のところにある。京都では数少ない律宗寺院で、山号は五位山。極楽浄土に見立てた面積約2000平方メートルの浄土式庭園は有名で、平安末期の姿をとどめている。花の寺としても知られ、とりわけ蓮の名所として名高い。
平安時代の初めに右大臣清原夏野がこの地で営んだ山荘を、没後、寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起こりで、大治五年(1130)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院(たいけんもんいん)が再興し、寺名を法金剛院と改めた。待賢門院は、藤原氏の出身で、崇徳天皇・後白河天皇の母親でもある。四季折々の美しい景観は、待賢門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠まれている。その後、弘安二年(1279)に円覚により再興され、律宗に改められた。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は表門で、ここをくぐって中に入ると法金剛院全景説明図(写真2)がある。
(写真3)
その左手奥にある中門(写真3)を入ると、その中に拝観受付があって拝観料を払う。
(写真4)
中に入ると東側に庭園が広がり、北に本堂(礼堂)が建っている。(写真4)が礼堂で「法金剛院」の扁額が掛かっている。この礼堂は、元和四年(1618)に再建されたもので、礼堂の奥(西)の仏殿内には本尊の阿弥陀如来坐像、四本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊坐像(いずれも重要文化財)などを安置している。また、寺宝として、蓮華式香炉(重要文化財)などの工芸品や書画など多数を蔵している。
庭園は、昭和四十三年(1968)に発掘、復元されたもので、池の北側にある巨石を並べて造られた「青女(せいじょ)の滝」は、五位山と呼ばれる背後の山とともに国の特別名勝に指定されている。現存する同時代の滝石組としては最大の規模を誇り、仁和寺の石僧林賢が築き、徳大寺静意(じょうい)が長承二年(1133)に完成した。
(写真5)
(写真6)
(写真5)は「青女の滝」、(写真6)は特別名勝指定の石標である。滝は残念ながら水が涸れていて、石組しか見られなかった。
(写真7)
(写真8)
(写真7)は庭園の池を礼堂側から東方向に向かって撮ったもの、(写真8)は池の東側から礼堂(西)方向に向かって撮ったものである。池の真ん中に突き出て見えるのは鶴島である。
(写真9)
(写真9)は礼堂の東側、庭園の傍にある仏足石である。釈迦の象徴とされ、仏の三十二相の一つで足の裏に転法輪が描かれている。
(写真10)
(写真10)は、庭園の北東側に平成九年(1997)に建てられた待賢門院堀河の歌碑で、「ながからむ心もしらず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ」と彫られている。待賢門院堀河は、待賢門院(藤原璋子)に仕えて「堀河」と称された女流歌人で、小倉百人一首にも選ばれている。
(写真11)
(写真12)
なお、仏殿の更に奥に建つ地蔵院の前に仏手柑(ぶっしゅかん)の木(写真11)があり、もう実のなる季節は過ぎていたが、受付にその実が置いてあったので写真を撮らせてもらった(写真12)。柑橘類だが、そのままでは食べられないとのことだった。(2012.3.8.訪問)
退蔵院は妙心寺山内にある塔頭の中でも屈指の古刹である。越前(現在の福井県)の豪族・波多野重通が妙心寺三世の無因禅師を開祖として、応永二年(1395)に創建した。建物はその後再建され、現在の方丈(重要文化財)は慶長年間(1596〜1615)の建築である。方丈西の庭園(国の史蹟及び名勝)は、室町時代の有名な画家・狩野元信の作庭と伝えられている。200平方メートルほどの広さであるが、石組本位の枯山水庭園で、一見無造作に石や橋が配置されているように見えるが、全体として見事に絵画的な調和を保っている名園である。
寺宝のうち瓢鯰図一幅(国宝)は、瓢箪で鯰を押えるという禅の公案(試験問題)を絵に表したもので、足利義持の命により如拙が心血を注いで描いた最高傑作としてよく知られている。如拙は相国寺の禅僧であったが、宋元画を学び日本の水墨画を開拓した先駆者で、雪舟もわが師と呼んで手本としたといわれている。
(写真1)
(写真1)は退蔵院の薬医門全景、(写真2)はそれを近くから撮ったものである。薬医門とは、当時高貴な薬医にしか与えられなかった御屋敷門の形で、江戸中期に建立されている。正面奥の庫裡入り口に「退蔵院」の扁額が掛かっている。
(写真3)
(写真3)は門の前に立てられた退蔵院全景の説明図である。
(写真4)
門を入り大玄関の前を左手に行くと聖観音像(写真4)が立っている。
(写真5)
この前を通り、真っ直ぐ塀に沿って(写真5)の道を奥に進むと、右手に方丈の入口がある。
(写真6)
(写真6)は方丈正面の写真で、中央賽銭箱後方の大きな額に入って飾られているのが、国宝「瓢鯰図」のレプリカである。
(写真7)
(写真7)は瓢鯰図の写真である。
(写真8)
「元信の庭」は方丈の南と西に面して作庭されている。南面の庭(写真8)は一面に苔が張りつめた平坦地に赤松が植栽されたのみの庭である。
(写真9)
(写真10)
(写真9)、(写真10)は方丈西端から北に向かって眺めた西面の庭で、枯山水様式である。
(写真11)
また、(写真11)は同じ庭を奥から撮った写真である(退蔵院オフィシャルサイトからのコピー)。池の中央部に中島を配した亀島を、西側に三導石、南西部に蓬莱島、手前に鶴島、北西部築山の奥には立石による段落ちの枯滝を組み、栗石を敷いて渓流を表現している。中島の岬には二ヶ所の石橋が渡され、石組の表現は豪快華麗の中に閑静な趣がある。
(写真12)
方丈の南から塀の外を一旦東方向に引き返し、墓地の前で南に折れると余香苑の入口がある(写真12)。
(写真13)
(写真14)
余香苑に入ると正面に大きな紅枝垂れ桜があり、左手には枯山水の「陽の庭」(写真13)、右手には「陰の庭」(写真14)が配されている。余香苑は、造園家・中根金作の設計による約800坪の回遊式山水庭園で、昭和三十八年(1963)から3年がかりで完成した。
(写真15)
(写真15)は余香苑入口付近にある水琴窟で、蹲踞(つくばい)の下が深く掘られ、手水に使われた水が底の水面に落ちて、深く澄んだ琴のような音が響く。
(写真16)
(写真17)
(写真16)、(写真17)は余香苑の全景で、手前に瓢箪池があり、(写真17)の右手後方には三段落ちの滝が流れ落ちているのが見える。桜の季節にまた訪れたい庭園であった。(2012.3.8.訪問)
桂春院は慶長三年(1558)に美濃の豪族石河壹岐守貞政が桂南和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
(写真1)
(写真1)は、門と玄関の写真で、「名勝及び史蹟桂春院庭園」の石標が立ち、庭園拝観の看板が出ているようにこの塔頭は庭園が有名で、一般公開されている。
(写真2)
(写真2)は、門を入って右手を撮った写真である。
庭園は方丈の南、東及び書院前庭の三つに分かれる。作庭者や年代は不明だが、江戸時代初期小堀遠州の弟子玉淵坊が、妙心寺の他の塔頭の庭園を作庭していたとされる。
(写真3)
(写真3)は、「清浄の庭」と呼ばれる方丈北側の壺庭である。井筒を利用して、西南隅に紀州の巨岩・奇石を立てて枯滝の石組がされている。白砂の渓流が、滝でひびいて音をたてて流れているように表現されている。
(写真4)
(写真5)
(写真4)、(写真5)は、「侘の庭」と呼ばれ、書院前庭より、飛石づたいに茶室「既白庵」に通じる露地庭である。なお、茶室は草庵風の三畳の席で、藤村庸軒の好みと伝えている。
(写真6)
(写真7)
(写真6)、(写真7)は、「思惟の庭」と呼ばれる方丈東側の庭で、左右の築山に十六羅漢石、中央の礎石を坐禅石にみたてた仙境が表現されている。馬酔木(あしび)や楓などの樹木が植えられ奥山の風景が見られる。(写真6)の奥に見える梅軒門の先にあるのが茶室「既白庵」である。
(写真8)
(写真9)
(写真8)、(写真9)は、「真如の庭」と呼ばれる方丈南側の庭で、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈込みで蔽い、その下に椿、楓等の樹木を植え、庭石を七五三風に配している。
(写真10)
(写真10)は方丈前の廊下である。方丈は寛永八年(1631)に建立され、京都府指定文化財になっている。
(写真11)
(写真11)は方丈の写真で、天間独立の筆による扁額「桂春院」が掲げられている。
(写真12)
内部の襖絵はすべて狩野山楽の弟子狩野山雪によるもので、中の間正面奥の襖絵(写真12)は寺宝の「金碧松三日月図」である。
(写真13)
(写真13)は東の間で、芦原に洛雁、雪竹に茅屋の図が描かれている。
内部は写真撮影禁止の所が多い中で、自由に写真を撮っても良いというのは有り難かったが、一方襖絵の保存状態があまりよくないのが気になった。(2012.3.8.訪問)
隣華院(りんかいん)は、妙心寺塔頭の一つで、境内の北西、北門から南へ下った左手(東側)最初の寺院である。桃山時代の慶長四年(1599)、脇坂安治(わきざかやすはる)が、妙心寺58世 南化玄興(なんかげんこう)を開山に創建した。その後、文政三年(1820)正月より天保三年(1832)まで、隣華院十世南海玄等が、大改修を行い、客殿(方丈)・諸堂・表門・大玄関などが再建された。
通常は一般公開されていないが、京の冬の旅の企画で1月7日から3月18日まで特別公開されている。
(写真1)
(写真1)は表門で、正面奥に玄関がある。門の棟瓦先端に家紋「輪違」が見える。
(写真2)
(写真2)は門を入って左手にある庫裡で、隣華院の扁額が掛かっている。
(写真3)
(写真3)は門を入って右手にある拝観入口で、ここから客殿(方丈)の方に上がる。
(写真4)
(写真4)は門を入って直ぐ右手のコーナー部付近に置かれた2つの大きな棟瓦である。昔大屋根に使用されていたものと思われ、家紋「輪違」が認められる。
(写真5)
(写真5)は客殿の南にある庭で、「凡梵庭(ぼんぼんてい)」と呼ばれている。ありのままの「平凡」と生命の根源の「梵」を表しているという。白砂の砂紋に、2つの苔による島がある。
(写真6)
(写真6)は庭の西端の部分で、小さなお堂がある。
客殿(方丈)は文化年間(1804年〜1818年)脇坂安董、脇坂安宅父子によりに改築され京都所司代屋敷として使われた。
室内は写真撮影禁止なので、以下は隣華院HPとパンフレットからコピーした。
(写真7)
(写真7)は客殿室中の障壁画「山水図」(重要文化財)で、慶長四年(1599)創建時に長谷川等伯により描かれたものである。
その他の障壁画は狩野永岳により、文政八年(1825)に描かれたもので、客殿上間一の間の「四季花鳥図」、客殿二の間の「松図」「西園雅集図」「竹虎図」「龍図」、客殿下間一の間の「紅葉図」などがある。
(写真8)
(写真9)
(写真8)、(写真9)はその一部である。(2012.3.8.訪問)
玉鳳院(ぎょくほういん)は、花園天皇の塔所である。妙心寺における最初の塔頭で、46の塔頭の中でも最も由緒ある寺院である。
南北朝時代、延元二年/建武四年(1337)花園法皇が、この地にあった離宮を、無相大師 関山慧玄(かんざんえげん)を開山として禅寺とし、花園法皇が、参禅のために本坊の傍らに設けたのが由来で、「玉鳳禅宮」と称された。正平十五年/延文五年(1360)関山慧玄が死去し、玉鳳禅宮の傍らに塔頭が建てられ「微笑庵(みしょうあん)」と名付けられた。 応仁の乱によって諸堂が全焼し、微笑庵の前の四脚門だけが焼け残った。
(写真1)は表門で、門前に「名勝及史蹟玉鳳院庭園」と刻まれた石標が立っている。表門を入って正面に庫裡が見える。
(写真2)は庫裡で「玉鳳院」の扁額が掛かっている。庫裡から右手に方丈へと続き、方丈と開山堂が、渡り廊下で結ばれている。その渡り廊下の北と南に庭園が造られている。内部は庭園も含め一切撮影禁止となっている。
1.唐門
(写真3)
方丈の正門が京都府指定文化財の唐門である。寛文年間(1661
〜1673)に寄進されたと言われている。(写真3)は外から見た唐
門である。
2.方丈
重要文化財の方丈は開山堂の西に建ち、渡り廊下で結ばれてい
る。単層、入母屋造、檜皮葺、寝殿風の建物で、もと花園法皇の離
宮跡である。中央奥の昭堂に、花園法皇の法体姿の木造が安置され
ている。前方下段の東側には、徳川家康や徳川家の位牌、西側に豊
臣秀吉、織田信長、織田信忠、武田信玄などの位牌が安置されてい
る。
上間一之間は、「拈花室(ねんげしつ)」と称される。正面の
「玉鳳禅宮」の扁額は、後花園天皇の宸筆。襖絵は、金地着色の
「秋草図」が狩野益信の筆、「麒麟図」「花鳥図」「竜虎図」「山
水図」「牡丹図」が狩野安信の筆、「桐鳳凰図」は作者不明であ
る。
創建当時の建物は、応仁の乱で焼失し、明暦二年(1656)に再建
されたものである。
3.開山堂
重要文化財開山堂は「微笑庵(みしょうあん)」とも称され、
扁額が掲げられている。正面三間(桁行)、梁間四間(奥行)、一
重入母屋造、本瓦葺。一重禅宗様三間堂(ぜんしゅうようさんげん
どう)の代表建築。正面、拝所の奥の昭堂に、開山関山慧玄の尊像
が安置され、灯明の火は長年消えたことがない。天文六年(1537)
東福寺から移築された室町時代の建物で、妙心寺山内で現存する最
古のお堂である。京都における禅宗様三間堂の好例である。妙心寺
山内でも、最も神聖な場所とされている。
4.四脚門
重要文化財の四脚門は開山堂前にある平唐破風門で、檜皮葺き、
「一本彫成」の唐破風が両横にある。応仁の乱での焼失から逃れら
れており、破風板・懸魚・桁隠し・梁・冠木・蟇股などは、創建当
初のもの。現存する、最古の唐門である。
(写真5)
門には、応仁の乱の鏃(やじり)の跡が残っている(写真6)。
5.庭園
国の名勝及び史蹟となっている庭園は次の3つからなっている。
いずれも江戸時代初期の作庭である。
(1)南庭
方丈と開山堂とが並ぶ南前面の、幾何学模様をあしらった枯山
水庭園。一面に白砂が敷き詰められ砂紋を描き、その間に御影の
切石の延段が幾何学的に組み敷かれている。丁度畠の畝のような
感じである。
開山堂の前には、玉鳳院型(妙心寺型)の唐物風の彫刻をほど
こした一対の灯籠が置かれている。
(2)山岳の庭
開山堂の東に、築山を築いて、多くの石を使って山岳風に石組
みがされている。インドの仏跡にみたて「鶏足嶺(けいそくれ
い)」と称される。
(3)風水泉の庭
方丈と開山堂とを結ぶ廊下の北側の中庭で、蓬来式と須弥山様
式とを併せた枯山水庭園である。「風水泉」と称される井戸と、
蓮華を刻んだ棗型手水鉢(なつめがたちょうずばち)がある。関
山慧玄が、二世授翁禅師に託して、風水泉わきの老樹の下で、行
脚の旅姿で亡くなったといわれる霊地とされる。
6.祥雲院殿(しょううんいんでん)霊屋(おたまや)
開山堂の北の奥に建つ小廟。3m四方の禅宗様建築で、豊臣秀吉
と淀君との長男棄丸(鶴松)の像が安置されている御霊屋。天正十
九年(1591)棄丸は三歳で死去。棄丸の後見役の石河光重の兄が、
妙心寺養徳院に住していたことから、葬儀が妙心寺で行われた。棄
丸が愛用していた玩具などが所蔵されている。
7.織田信長・武田信玄石塔
開山堂の東北隅に織田信長・織田信忠の石塔があり、隣に武田信
玄と、武田三武将(武田勝頼・武田信勝・武田信豊)の石塔が立っ
ている。
8.鐘楼
(写真7)
鐘楼は庫裡の西側(左手横)にある(写真7)。銅鐘は、慶長十
五年(1610)に鋳造されたものである。(2012.3.8.訪問)
妙心寺には四十六の塔頭(たっちゅう)がある。塔頭とは大寺に所属する別坊(子院)であり、妙心寺の場合は山内だけでなく境外に建てられているものもある。その中に4つの大きな本庵があり、他の塔頭はこの4つの派に分かれる。4つの本庵とは「龍泉庵(りょうせんあん)」、「東海庵(とうかいあん)」、「聖澤院(しょうたくいん)」、「霊雲院(れいうんいん)」のことである。
1.龍泉庵
(写真1)
(写真2)
(写真1)、(写真2)は、龍泉派の本庵で、開祖は妙心寺十
世、景川宗隆禅師。妙心寺の四本庵の中で最初に創建された塔頭で
ある。
2.東海庵
(写真3)
(写真4)
(写真3)、(写真4)は、東海派の本庵で、開祖は妙心寺十一
世悟渓宋頓禅師。龍泉庵の次に創建された塔頭である。両者の寺号
には「院」ではなく「庵」と付けられている。
3.聖澤院
(写真5)
(写真6)
(写真5)、(写真6)は、聖澤派の本庵で、創建開祖は妙心寺
十八世の天蔭徳樹禅師、勧請開祖は十三世の東陽英朝禅師である。
4.霊雲院
(写真7)
(写真8)
(写真7)、(写真8)は、霊雲派の本庵で、創建開祖は妙心寺
二十五世の大休宗休禅師、勧請開祖は十二世の特芳禅傑禅師であ
る。
塔頭の中には国宝や重要文化財、史蹟、名勝の庭園を有するものもあり、中には一般公開されている塔頭もある(0050〜0053参照)。
参考までに、学生時代に下宿していた如是院と玉龍院の写真を示す。
(写真9)
(写真10)
(写真9)は如是院の門、(写真10)はその門を入ったところから玄関へのアプローチを撮ったもので、右隣は福寿院である。
(写真11)
(写真12)
また、(写真11)は玉龍院の門、(写真12)は門を入ったところから玄関を撮ったもので、右手に庫裡がある。(2012.3.8.訪問)
三門の東側に位置する浴室は「明智風呂」と称され、天正十五年(1587)明智光秀の叔父で、塔頭の太嶺院(廃寺)の開基密宗和尚(みつそうおしょう)が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。その後明暦二年(1656)に改築された。
(写真1)
(写真1)は浴室の建物外観で、一重切妻造、本瓦葺。
(写真2)
(写真2)は内部浴室の写真で、室内中央に蒸し風呂形式の浴槽と洗場があり、簀子板敷(すのこいたじき)の隙間から蒸気を出す。引き戸のある3つの窓が正面にあるが、上の窓は明かり取り、中の窓は温度調節用、下の窓は浴室への出入口となっている。浴室の左手後方の障子窓の下に穴が開いていて、そこから内部に樋が入って来ているのが見える。この窓の外には井戸があり、そこから水をくみ上げて樋に流し、内部にある石の水溜にためるようになっている。また、浴室の東背面には竃室がある。
(写真3)
浴槽の南側(右手)に休憩室が設けられており、ここが脱衣場にもなった(写真3)。なお、浴室建物入り口正面には位牌棚があり、その中央に、狩野宗信筆の跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)画像が掲げられている。(2012.3.8.訪問)