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- 2019.05.01 Wednesday
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池田屋騒動は、幕末維新の時代、三条小橋西詰北側の旅籠「池田屋」で、古高俊太郎の奪還の会合のために潜伏していた長州藩の尊皇攘夷過激派を、新撰組が襲撃し、多数の死傷者と逮捕者を出した事件である。この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被り、一方、新撰組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげた。
(写真1)
(写真2)
現在「池田屋」のあった三条通木屋町西入ル北側には「池田屋騒動之址」の石碑(写真1)が建っており、「海鮮茶屋池田屋はなの舞」の看板を挙げた店が出来ている(写真2)。
(写真3)
また、店の前の石碑横には、三条小橋商店街振興組合による説明書きが掲示され、池田屋騒動顛末記も詳しく書かれている(写真3)。(2012.2.10.訪問)
石標には「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地」と刻まれ(写真2)(写真3)、その右側に花立てが造ってあるので、花を手向ける人が後を絶たない。
京都市の案内文によると「この地は、慶応三年(1867)十一月十五日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835〜1867)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838〜1867)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。十一月十五日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。龍馬はその場で絶命し、中岡も二日後この世を去った。龍馬三十三歳、中岡三十歳、実に大政奉還(十月十四日)が行われた一ヵ月後、王政復古の大号令(十二月九日)が出る一ヵ月前の出来事であった。龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されている」とある。(2010.11.18.訪問)
酢屋は三条通の一筋南にある鴨川河原町間の小路、龍馬通の木屋町西入ル北側にある。
「酢屋」というのは、初代酢屋嘉兵衛が営んだ材木商の屋号で、享保六年(1721)の創業以来290年続いており、現在も十代目酢屋嘉兵衛が後を継いでいる。
幕末の頃、当時六代目嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していたと「酢屋」のホームページに書かれている。当時、酢屋の前には高瀬川の舟入があり、高瀬舟が出入りして、舟の荷あげをしていた。また、近くに土佐藩邸があり、他の藩邸も建ち並んでいたので、各藩との折衝や伏見、大阪との連絡にも格好の地であったため、坂本龍馬(1835〜1867)は「酢屋」に身を寄せ、海援隊の京都本部もここに置いていた。
(写真1)は酢屋の正面から撮った写真で、龍馬は、品格子のある二階の表西側(左手)の部屋に住まいしていたらしい。二階は現在ギャラリー龍馬として使用され、龍馬の手紙等いろいろな遺品が展示されている。
(写真2)
また、(写真1)の右端に「坂本龍馬寓居之址」と刻まれた石標(写真2)と「坂本龍馬史蹟の一端」と書かれた説明書きの掲げられているのが見える。
(写真3)
毎年11月15日は龍馬の誕生日であり、命日でもあるので、酢屋では龍馬の追悼として、(写真3)のような祭壇を設け、土佐からの花や酒などを供えている。
なお、木屋町通六角下ルの東側に、龍馬の妻お龍の独身時代寓居跡の石標が建っている(写真4)。この石標は、2009年3月にNPO法人京都龍馬会によって建てられたものである。このあたりには薩摩藩士で、明治二十六年京都府知事となった中井弘(1838〜1894)の寓居跡もあり、(写真4)の石標側面には「此付近京都府知事中井弘幕末期寓居跡」とも刻まれている。
また、そのそばに歴史地理研究者中村武生氏による説明書き(写真5)も掲示されている。(2010.11.18.訪問)
南座は四条大橋東詰南側にある劇場である。江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)に江戸幕府(京都所司代)から許された四条河原町7ヶ所の常設芝居小屋の1つで、「南の芝居」と称されていた。幕末には、四条通を隔てた北側の北座と2座のみとなり、明治二十六年(1893)には、北座も廃絶した。南座は京都で現存する唯一の歌舞伎劇場として、興行経営の近代化を進めた松竹株式会社の傘下となって存続し、現在に至っている。
昭和四年(1929)に現在の桃山風の建物が竣工し、平成三年(1991)に外観を残しつつ、最新設備を備えた劇場として改装された。毎年、師走の11月30日から12月26日には顔見世興行が行われ、役者の名前を勘亭流で書いた「まねき」と称される白木の看板が劇場の入口上に並べられる。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は正面側から見た南座、(写真2)は側面側から見た南座の写真である。正面の屋根と入り口の垂れ幕に松竹のマークが見られる。
(写真3)
(写真3)は昔北座のあったあたりで、現在は井筒八ツ橋本舗のビルが建っている。
(写真4)
また、ビルの前には(写真4)のような石標と説明書きが建てられている。(2012.2.10.訪問)
(写真1)はその山門で、「前関白従一位豊臣秀次公之墓」と刻まれた石標が門前に建っている。
(写真2)
また、(写真2)は境内の本堂前庭の写真である。
秀次は秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄四年(1595)7月15日、高野山において自害させられた。次いで8月、秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ、石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長十六年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立した。これが当寺の起こりで、僧桂叔を開基とし、寺号は秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。
(写真3)
本堂(写真3)には本尊阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。
また、境内には秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う四十九柱の五輪塔(写真4)がある。この墓域は慶長十六年(1611)創建の時に築かれ、正面三基の墓石は、当時のものである。
(写真5)
中央正面の古石(写真5)は、秀次の首を納めた「中空の石びつ」で、正面右下に〈七月十五日〉の文字が読める。
周囲の五輪の石塔は、後世に建てられたもので、(写真6)に家臣を含む49名の名前と39名の一族(秀次の息子4名、娘1名と秀次に仕えた34名の女性)の処刑順が書かれている。
(写真7)の石塔は、仏の広大な慈悲心と偉大な救済力を秘めた呪文(真言)のひとつ「寶筐印陀羅尼」を奉祀する「寶筐印塔」と呼ばれるものである。塔身に刻まれた経文の最後に「伏して祈る!願わくば此の塔の功徳を以て、この世の全ての人々が苦しみから平等に救われますように!」とあり、秀次一族の供養のために建てられたものと思われる。なお、この塔は元文五年(1740)に建立され、天保十二年(1841)に基壇が修補されている。
(写真8)は墓域に隣接する地蔵堂で、大雲院の貞安上人が処刑場に自ら運び、打たれゆく一人ひとりにその前で引導を授けたという引導地蔵尊が奉安されている。
(写真9)
なお、同じ堂内には秀次一族と家臣達の姿を写す四十九体の極彩色の京人形が安置されている(写真9)。(2012.2.10.訪問)
(写真1)
(写真2)
三条大橋東詰、三条川端東南角に高山彦九郎皇居望拝之像がある(写真1)(写真2)。三条大橋は「粟田口」と称され、大津、山科へと通じて東海道と中山道、東山道、北陸道の4道に通じる京都の出入り口、「京の七口」の一つである。この像は高山彦九郎正之(1747〜1793)が、京都を出入りする際に皇居の方角を向いて望拝している姿を写したもので、「土下座像」とも称されている。円山公園の坂本龍馬、亀山公園の角倉了以と並んで「京都三大銅像」の一つとされている。
(写真3)
初代の銅像が建てられたのは昭和三年(1928)で、法華経と、伊勢神宮で入魂された柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫をした。しかし、昭和十九年(1944)11月、金属回収令で供出され、昭和三十六年(1941)に現在の銅像(2代目)が、少し西に再建された。
初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾記念碑」(写真3)が建てられている。
高山彦九郎は、江戸時代後期の延享四年(1747)、上野国(現在の群馬県)の農民である高山彦八正教の次男として生れた。勤王思想家として各地を遊歴して勤皇論を説いて回り、18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。その姿は
大御門その方向きて橋の上に
頂根(うなね)突きけむ真心たふと
橘 曙覧
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤王の志士達は彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遙かに皇居をネ伏し拝み、
落つる涙は鴨の水アサノサ
と謡い継がれた。
なお、高山彦九郎は、林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」の一人と言われている。(2011.5.21.訪問)
(写真1)
三条大橋の西詰め南側に弥次喜多像がある(写真1)。この像は、江戸時代後期に十返舎一九が書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしたものである。『東海道中膝栗毛』は二人が伊勢詣でを思い立ち、数々の失敗や滑稽な出来事を繰り返しながら、東海道を江戸から京、大阪に旅する様子を描いた滑稽紀行文で、物語では、大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊まって、ハシゴを買わされる話になっている。
このブロンズ像は、三条小橋商店街が、二科展の会員で彫刻家の小山由寿氏に制作を依頼し、平成六年(1994)に建立し、西院春日神社内にある旅行安全・還来成就の神である還来(もどろき)神社に祈祷してもらったと説明書きに書かれていた。
(写真2)
なお、像の左横に「無事に還り来る」の信仰で有名な還来神社にならい、旅の安全を祈願して「撫で石」が設置されている(写真2)。この石は牛若丸(源義経)で有名な鞍馬から産出した鞍馬石で、酸化鉄の含有により、玉葱場剥離が現れ、鉄錆色が全面を覆っているのが特徴である。(2011.6.18.訪問)
(写真1)
(写真2)
三条大橋は三条通の鴨川に架かる橋である。(写真1)は南側から、(写真2)は北側から撮った三条大橋の写真である。この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡単な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。
(写真3)
また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘(写真3)によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、盤石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略・・・)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。
かってはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。
元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二十五年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートル。なお、橋の西詰め北側は、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。
(写真4)
(写真4)は高札場の案内板で、文化二年(1805)に三条大橋西詰の御高札場(現近江屋ビル前広場)に掲げられていた高札の絵図が描かれている。
(写真5)
(写真5)は天正年間の橋脚に使われたものと考えられ、「天正十七年津國御影 七月吉日」と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかる。
(写真6)
(写真7)
なお、三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠には刀傷が残っている。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる。(写真6)は北側、(写真7)は南側の刀傷である。(2012.2.10.訪問)
(写真1)
三条通の高瀬川に架かる橋が三条小橋である。(写真1)はこの橋の木屋町通南側の写真で、三条小橋商店街振興組合の案内板が建っている。
(写真2)
(写真2)(京都市資料)は昭和4年(1929)以前の三条小橋の情景である。案内板によると江戸時代より、木屋町〜河原町間の三条通は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じであった。
また、小橋右側(北側)の旅館「吉岡家」は、江戸時代から続く旅館である。幕末に「新撰組」の基礎である「浪士組」を結成し、その後新撰組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士「清川八郎」が安政二年(1855)に書いた紀行文『西遊草』のなかで、三条小橋かたわらの「吉岡や」に泊まったと記している。また、左側のアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は有名な建築家安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだこの当時までは、建物が残っていた。
また、『京城勝覧』(儒学者・貝原益軒著1630〜1714)のなかに「三条小橋高瀬川にわたせり。此下より舟にのり伏見にゆく。此邊より大橋の際まで旅篭屋多し。」と当時の三条小橋周辺を紹介している。(2012.2.10.訪問)
高瀬川は慶長16年(1611)頃角倉了以が開いた運河で、ここを通行する高瀬舟の荷物の揚げ降ろしをしたり、船の方向転換をするための掘割の船溜所を船入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運びいれるためこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水をとり入れ、鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく、舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘上下し、大阪などの物資を運びいれた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が建ち並んで賑わっていた。船入はこの一之船入をはじめ、二条から四条にかけて、高瀬川から西側に直角に突き出すように9ヶ所設けられていたが、現在は、一之船入を残し、全て埋め立てられてしまった。
明治以降高瀬川は船運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は、京都の情緒の大きな要素となっている。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。
(写真1)は高瀬川の始まる木屋町二条下がるに設けられた「一之船入」と刻まれた橋で、遠くに高瀬舟のモデルが繋留されているのが見える。
(写真2)
(写真2)はもう少し船に近寄って写したもので、右岸の石垣の切れ目から右に入ったところが「一之船入」である。
(写真3)
(写真3)は「史跡高瀬川一之船入」の石碑である。
(写真4)
(写真4)は石碑の後方を写したもので、川の西方の掘割を「一之船入」という。
(写真5)
(写真5)は石碑より少し北の高瀬川沿いに設けられた俳句の句碑で、
高瀬川
舟入の灯影に明くる春の雪 (那須)乙郎
と刻まれている。(2012.2.10.訪問)