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    0689冷泉家(Reizeike Residence)

    • 2016.01.18 Monday
    • 22:54
     冷泉家(れいぜいけ)は、上京区今出川通烏丸東入玄武町、同志社大学南西角近くに取り残された形で保存されている。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫の発行するパフレット「重要文化財冷泉家住宅について」によれば、「歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする『和歌の家』で、定家の孫・為相を初代とし、以来八百年の長きにわたり、和歌の宗家としてその伝統を今日に伝えた。和歌に関する多くの典籍や古文書を守り伝え、昭和五十六年(1981)、財団法人冷泉家時雨亭文庫を設立し、現在に至っている。
     冷泉家住宅は現存する最古の公家住宅として昭和五十七年(1982)、重要文化財に指定された。平成六年(1994)から始まった解体修理工事は足かけ七年をかけて、平成十二年(2000)末に竣工した。寝殿造りの殿舎の起(むく)り屋根は、もともとの柿(こけら)葺きに戻され、瀟洒な姿を甦らせている。
     冷泉家が豊臣秀吉によって形成された公家町の一画である現在地に屋敷を構えたのは、江戸時代初めの慶長年間(1600年頃)である。以来四百年この地を動いていない。
     天明八年(1788)、御所を含む都の過半を焼き尽くしたいわゆる天明の大火の時、御文庫などの土蔵以外の建物はすべて焼失したが、寛政二年(1790)、屋敷は直ぐに再建され今に至っている。
     明治時代になって。ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、それらの屋敷は取り壊されて公家町は消滅し、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備された。しかし、今出川通りを隔て、留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、旧地にほぼ完全な姿で保存される、近世公家住宅の唯一の遺構となっている。」
     普段は非公開であり、特別公開期間中も内部は一切撮影禁止である。特別公開では、表門から入って、立蔀・式台、塀重門、座敷、台所、御文庫、庭園等を外部から拝観出来るが、建物の内部には入れない。

     
    (写真1)

     
    (写真2)

     (写真1、2)は冷泉家表門と築地塀で、今出川通りに南面して建つ表門は、本瓦葺きの一間一戸の薬医門である。この表門で特に目を引くのは、屋根両隅の留蓋瓦として立つ、阿吽を対にした亀像瓦である。これは冷泉家が京都御所の北に位置していることから、いわゆる四神相応の制にいう、玄武神を表しているものである。
    なお、特別公開の看板に掲示されている写真は、表門を入って右手の玄関部分で、立蔀、大玄関式台、塀重門が写っている。

     
    (写真3)

     
    (写真4)

     
    (写真5)

     
    (写真6)

     (写真3、4)は東側の留蓋瓦(阿の亀像瓦)、(写真5、6)は西側の留蓋瓦(吽の亀像瓦)である。

     
    (写真7)

     (写真7)は表門西側の築地塀端部付近の瓦で、丸瓦部分に「平成十二年修補」と刻まれている。(2015.11.2.訪問)

     

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