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- 2019.05.01 Wednesday
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実報寺(じっぽうじ)は東山区五条橋東、鳥辺山の広大な墓地の入口にある日蓮宗の寺院で、山号は多寶山。大谷本廟入口の北側にある道を東に上って行くと最初に左手に見えてくるのが実報寺の入口で、実報寺の石標の横に鳥辺野(とりべの)の駒札が立っている。それによると「鳥辺野は、東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心にして西方に広がる山麓一帯を言う。北は清水寺の南、当山(実報寺)を含む辺りから、南は今熊野観音寺の北、一條天皇皇后定子陵のある鳥戸野(とりべの)陵に至る地域を総称している。
平安時代以来の墓所として、北の『蓮台野(れんだいの)』、西の『化野(あだしの)』と共に京都の三大墳墓地を成しており、鳥辺野の北部はもっぱら庶民の墓が多く、南部は皇族や貴族の墳墓地が多いのが特徴になっている。
藤原道長をはじめ、藤原家一族の火葬の地でもあり、源氏物語では光源氏の母 桐壷(きりつぼ)が葬送されたという設定である。生田流箏曲の始祖 生田検校(いくたけんぎょう)(1656〜1715)の墓碑もこの地域にあり、豊臣秀吉の墓も阿弥陀ヶ峰の中腹にある。徒然草にある『化野の露消ゆることなく、鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ』の一節は有名。」
(写真1)
(写真1)は実報寺入口で、左(西)側に「南無妙法蓮華経法界」の題目碑、右(東)側に「多寶山 實報寺」の石標、その更に右に鳥辺野の駒札が立っている。
(写真2)
(写真2)は実報寺石標の右後方に立つ二つの石標で、一つは「要法寺開山本廟」、もう一つは「流粗生田検校之墓参道」と刻まれている。実報寺は日蓮本宗大本山要法寺(0279参照)の菩提所であり、要法寺開山である日尊上人の逆修塔(笠塔婆)がある。
(写真3)
(写真3)は入口左手にあるお俊・伝兵衛の墓の石標である。江戸時代、釜座三条の呉服商・井筒屋伝兵衛と、先斗町「近江屋」の遊女・お俊が、聖護院の森で心中したという事件は、近松門左衛門の人形浄瑠璃「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてびき)」の題材になっている。
(写真4)
(写真5)
(写真6)
(写真4)は入口を入って右手(東側)にある鳥辺山墓地の門、(写真5)はその扁額、(写真6)は墓地内部である。
(写真7)
(写真8)
(写真7、8)は墓地北端の階段を上って行った上にある山門で、「多寶山」の扁額が掛かっている。
(写真9)
(写真10)
(写真9、10)は本堂で、「棲神殿」の扁額が掛かっている。
(写真11)
(写真11)は庫裡で、「實報寺」の扁額が掛かっている。
(写真12)
(写真12)は本堂の東にある開山本廟で、中央奥にあるのが開山題目笠塔婆、手前左手にあるのが、当初の笠塔婆残欠といわれている。なお、この写真の左端にある木の前方、竹垣で囲われた場所の中に微かに見えるのが、お俊・伝兵衛の墓であるが、何故か写真撮影は禁止されたので、近くから撮ることは出来なかった。墓石を固定するのに使われたと思われる土台のコンクリートが割れて、伝兵衛の墓が傾いているのを撮られるとみっともないという配慮があったのかも知れない。(2014.9.23.、2015.3.5.訪問)
實報寺は、日尊が日目の遺言通りにお骨を要法寺に持って来て、實報寺ができる前に御廟所を建て埋葬して、周辺の土地を日郷とともに日蓮正宗の寺院として買った。
だが、日蓮正宗では日目の後に就くはずだった第四祖の猊座を、未熟な日道が第4世と名乗り押領したため、日郷は、實報寺の基礎となる周辺の土地買収後に、千葉へ移り妙本寺を建て終生を迎える。
日尊も、京都に日目のお骨を持って来たまま大石寺に戻ることなく、日目の御廟所を守るために、老僧になる頃に實報寺を建て終生を迎える。