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- 2019.05.01 Wednesday
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一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、一条通の堀川に架かる橋で、清明神社(0336参照)から堀川通を約100m南へ下がったところにある。
一条通は、平安京の一番北の通りであり、一条戻橋は洛中と洛外を分ける橋であった。
嫁入りするときには、一条戻橋を渡ると実家に戻ってきてしまうと信じられ、決して渡ってはいけないといわれている。また、戦争中、召喚された兵隊さんやその家族は、無事に戻ってくるようにと願って、一条戻橋に渡りに来ていたともいわれている。
歴史的には、平安時代初期の延暦十三年(794)平安京造営のときに架橋され、その後は、何度も作り直されている。
桃山時代の天正十九年(1591)、豊臣秀吉は、大徳寺の山門から引き下ろした千利休の木像と、千利休の生首を、一条戻橋にさらしたとされている。また、慶長二年(1597)豊臣秀吉のキリスト教禁教令により、日本二十六聖人と称されるキリスト教殉教者が、一条戻橋で、見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。
この橋にはいろいろな故事がある。
「撰集抄」巻七によると、平安時代中期の延喜十八年(918)、文章(もんじょう)博士の三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた息子の僧
三善浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。橋の先には葬送の地があり、葬儀の列は必ずこの橋を渡ったのである。浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという。この故事から、死者がよみがえる場所といわれ「一条戻橋」と称されるようになったといわれている。
また、「太平記」剣の巻によると、その頃、源頼光の四天王の一人だった渡辺綱が、深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送って欲しい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が太刀で腕を切り落としたと記されている。
更に、一条戻橋は、「あの世」と「この世」をつなぐ橋ともいわれていた。伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍清明の父である保名が殺害された場所であり、清明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所ともいわれている。
以上のような歴史を持つ一条戻橋だが、現在の橋は平成七年(1995)に新築されたものである。
(写真1)
(写真2)
(写真1)は東側から見た一条戻橋の全景、(写真2)は欄干親柱である。
(写真3)
(写真3)は橋の下に下りて北方向に向かって撮った一条戻橋で、流れているのは堀川である。
(写真4)
(写真5)
(写真4)は一条戻橋の上流、(写真5)は下流を撮ったものである。(2013.3.25.訪問)
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