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  • 2019.05.01 Wednesday

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    0715転法輪寺(Temporin-ji Temple)

    • 2019.04.30 Tuesday
    • 18:39

      転法輪寺(てんぽうりんじ)は、御室仁和寺の東門から北東徒歩5分の距離にある浄土宗知恩院派の寺院で、山号は獅子吼山(ししくさん)。通称「関通さん」と呼ばれ、「御室大仏」とも称されている京都最大級の仏像や、裸の阿弥陀如来像が祀られていることで知られている。

     開基の関通上人(16961770)は、この世に苦しむ人々を極楽浄土に導くために自ら「関所を通す」として「関通」と名乗ったといわれ、このため「関通さん」と称されて信仰されていた。初め上京区東三本木通丸太町上ル(鴨川の西岸近く)にある轉輪寺(現在の三本木圓通寺)に住持し、専修念仏を世の人々に説いていたが、その地の狭隘を憂い、別の地を探求されていたところ、洛陽の西の方、一条通の突き当たり北野の地を通られたとき、「この所こそ求むる西方にして、究竟一乘の浄土門弘通に最も適せる勝地なり」と、この地に念佛道場の建立を懇請された。その後、宝暦6年(1756)春、関通上人は、北野の地に、廃寺になっていた円通寺を譲り受け、寺名を変えて轉法輪寺を創始された。そして、宝暦8年(17584月に殿堂庫裡が竣工し、本尊の阿弥陀如来坐像の新彫が完成し、開眼供養、入仏大会の法要が行われた。

     大正時代になって、山下現有僧正(後の総本山知恩院第79世門跡)を住持に迎え、隆盛の時期にあった。創始当時は、京の西の果てだった北野の地も、既に町中にあり「轉法輪寺の阿弥陀様は西方におられるべき」とされたことより、昭和3年(1928)、山下現有僧正を継いだ山下俊孝和尚を中心として、さらに西方である御室の現在の地(龍安寺山田町)へ移転されたのである。

     本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来坐像は、高さ24尺(約7.5m)あり「御室大仏」とも称されている京都最大級の仏像で、宝暦8年(1758)、関通上人により、桜町天皇追福のために新彫され、開眼供養が行われた。光背の中央には桜町天皇御追福のために納められた鏡が飾られており、胎内には、桜町町天皇直筆の御名号、新中和門院の御祈願文、典侍即心院殿の御祈願文、関通上人の御念持佛(阿弥陀如来)一体、関通上人御染筆の造立意願文などが納められているといわれている。

     本尊背後の厨子内に安置されている「裸形阿弥陀如来立像」は、裸のままの童姿であり、日本に五体あるうちの一つで珍しい像であり、名工 賢問子の作といわれている。高さ三尺ほど(約90cm)あり、天智天皇の誕生にまつわる縁起によって作られ、安産守護のご利益があるといわれている。この「裸形阿弥陀如来立像」にまつわる故事は、次のようなものである。

     皇極天皇元年(642)頃、舒明天皇と皇后(後の皇極天皇)の間には皇子がおらず、春日の明神を後宮に勧請して皇子生誕の祈請を日夜行われた。皇后は懐妊されるが、陰陽の博士や僧侶達が占うと、必ず女の子だと言われる。皇后は、春日の明神に、「世継ぎの御子が誕生されることを願ってきたのであって、この皇女を皇子と変えてください。」と21日間の祈願を行われた。すると、夢に春日の明神が現れ「西方にいる阿弥陀様の四十八願の中には変成男子(女性は男性に変わって極楽に生まれることができる)という大願がある。願いが叶うよう、その阿弥陀様をこちらにお迎えして参ります。」と言われると、辺りに光明が輝き、裸のお姿で子供の姿をされた阿弥陀様が現われ、皇后の口の中に入られたという思いをして、眠りから覚められた。その後、皇后は少しの悩み苦しみもなく、皇子(後の天智天皇)を安産された。皇后は、名工 賢問子を召き、夢のお告のことを語り、裸形の阿弥陀如来立像を作られ、天智天皇の御守本尊として祀られた。 
     毎年、2月の涅槃会に合わせて、1ヶ月ほどの間、本堂外陣の壁面いっぱいに掛けられる「釈迦大涅槃図(しゃかだいねはんず)」は、縦5.3m、横3.9mの絹地に、釈迦の誕生から入滅までの様子が描かれている。1764年の作といわれるが、作者は不明である。

    (写真1)

    (写真2)

     (写真1)は「関通轉法輪寺」と刻まれた入り口の石標、(写真2)はその後方に立てられた「第53回京の冬の旅」特別公開の案内板である。

    (写真3)

     (写真3)は南門に相当する「鐘楼門」で、鐘楼と楼門が1つになった、単独の建物となっている竜宮造の門である。

    (写真4)

    (写真4)は楼門中央のくぐり抜けとなっている境内への参道で、「獅子吼山」の扁額が掛かっている。

    (写真5)

    (写真5)は楼門の上に釣られた大きな釣り鐘で、高さ9尺(2.7m)、直径42寸(1.2m)、 重さ一千貫目(約4t)にも及ぶ。この大梵鐘は、明和元年(1764)に、桜町天皇御菩提のために鋳造されたもので、形状の高さ9尺は、九界の衆生済度を表し、直径の四尺二寸は、菩薩四十二位を表すといわれる。

    (写真6)

    (写真7)

    (写真6)は楼門をくぐり抜けた右手にある庫裡と客殿、(写真7)は左手の境内で、裳階(もこし)付きの建物は本堂である。

    (写真8)

    (写真9)

    (写真8)は「轉輪寺」と刻まれた参道手前角にある手水鉢、(写真9)は本堂への参道で、テントの奥が拝観受付の玄関になっている。

    (写真10)

    (写真11)

    (写真12)

    (写真10)は両側に花頭窓がある本堂、(写真11)は参道東側にある庫裡(右)と客殿(左)、(写真12)は本堂の東側の庭園を客殿への渡り廊下から撮ったものである。客殿にもいろいろな展示があり、甘茶とせんべいの接待がなされていた。

    (写真13)

    (写真14)

    (写真15)

     (写真1314)は本尊の阿弥陀如来坐像、(写真15)は本尊の右手前にある楠の大木から作られた大木魚で、縦横4尺(1.2m)、高さ1m、重さ約200kgあり、一本の木材から作られた木魚としては小樽龍徳寺の4尺半の大木魚に次いで二番目に大きい木魚である。

    (写真16)

    (写真17)

     (写真16)は釈迦大涅槃図の全体、(写真17)はその中の釈迦周辺部分を拡大したものである。

    (写真18)

    (写真19)

     (写真1819)は釈迦大涅槃図の左右最下部に描かれたいろいろな動物を拡大したものである。

    (写真20)

     (写真20)は本尊の背後に安置された裸形阿弥陀如来立像である。但し、腰には袴が着けられている。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    (写真21) 

     (写真21)は境内西側にある西門で、こちらから入ると左手(北側)に本堂がある。

     なお、轉法輪寺は住職の方針で本堂内部も含め、写真は何処でも撮影可能となっているのは、非常に有り難かった。(2019218日訪問)

     

    0714旧邸御室(Old House Omuro)

    • 2019.02.28 Thursday
    • 16:21

     旧邸御室(きゅうていおむろ)は、京福電鉄北野線御室仁和寺駅の南西徒歩5分程度の右京区御室岡ノ裾町5にある築80年の郊外邸宅建築で、平成30年(2018)「第43回京の夏の旅」で特別公開された。その時に配布された説明書には次のように書かれている。

    「旧邸御室は500坪の敷地に建つ数寄屋造りの邸宅で、網代の天井、一本木の敷居、邸宅二階・洋間の天井画、昭和初期の色気に満ちたガラス、独特の空気に包まれた土蔵など、随所に和の心を感じとることができる。開放的な22畳の大広間の借景となるのは、四季折々の情緒を魅せる日木庭園。双ヶ岡の斜景を利用した庭には15の灯籠が並び、奥には木造平屋建の茶室双庵が持ち受ける。旧邸御室は保存状態がよく、主屋、壁、土蔵、茶室双庵、茶室御待合所の5ヵ所が有形文化財に登録されている。

     昭和12年(1937)に建てられたが、設計者および建設目的は不明。昭和44年(1969)、当時、住居として所有していた大手洒造会社役員・四代目阿部喜兵衛より、現オーナーの父である株式会社山三製材所社長の山本三夫が購入。四代目阿部喜兵衛の祖父にあたる二代目阿部喜兵衛は、朝の連続テレビ小説「マッサン」のモデルで話題となった竹鶴政孝をスコットランドへ送り出したことで知られている。平成28年(201611 月、国登録有形文化財に登録。平成29年(201752日忖の「第95号官報」に掲載。平成29年(2017)より、異文化の交流・情報発信の場として利活用している。

    旧邸御室の現在の所有者は、株式公社山三製材所創業者・山本三夫の次女である村田章代である。京都市中京区にある山三製材所は先代が一代で築き上げた会社で、創業当初は製材業を行っていた。旧邸御室を次代へと残していくために、文化財としての価値を利用して、この街の文化の発展・繁栄に貢献できる場となることを目指している。」

    (写真1)

    (写真1)は旧邸御室の配置図で、南側に門があり、北側は双ケ岡の南裾となっている。

    (写真2)

    (写真2)は門前に立てられた「第43回京の夏の旅」特別公開の看板である。

    (写真3)

    (写真4)

    (写真3)は南側の築地塀、(写真4)は門である。門には「山本」の表札が掛かり、左手に文化庁登録有形文化財のプレートが掲げられている。また門を入った右手に「旧邸御室」の大きな木製の看板表示がある。

    (写真5)

    (写真5)は門の内側、玄関前から門の方向を撮ったものである。

    (写真6)

    (写真6)は大広間南側の廊下から北側の裏庭を撮ったもので、右手玄関脇に茶室、左手に洋間とその奥に蔵が並んでいる。庭には大小3つの灯籠がある。

    (写真7)

    (写真8)

    (写真7)は(写真6)の右手にあった茶室、(写真8)は左手にあった洋間の内部を撮ったもので、洋間の奥には蔵の入り口の扉が見える。

    (写真9)

    (写真10)

    (写真11) 

    (写真9)は蔵の内部(写真1011)は洋間の天井である。蔵の中には建具や屏風、テーブル、琴、各種道具類等が保管されている。また、洋間の格天井にはいろいろな花の絵が描かれている。

    (写真12)

     (写真12)は座敷と次の間が続く大広間の内部である。座敷には、床、琵琶床、付書院、違い棚を備え、次の間との境には、富士山をかたどった欄間があるなど、細部にわたって、特徴的な意匠が施されている。

      (写真13)

       (写真14)

     (写真1314)はそれぞれ座敷から北側の裏庭方向と南側の庭園方向を撮ったもので、座敷に置かれた一枚板のテーブルに庭の景色が映りこみ、その美しさを増幅している。

      (写真15)

     (写真15)は座敷の東側にある庭に面した間で、配置図には「お休み処」と書かれており、飲み物等を注文して休憩できるようになっている。

      (写真16)

      (写真17)

     (写真1617)は南東の隅にある浴室のガラス戸で、保津川を下る筏が描かれている。

      (写真18)

     (写真18)は座敷側から撮った庭園全景で、後方は双ケ岡、左手上方に見えるのは茶室「双庵」である。

      (写真19)

      (写真20)

     (写真19)は茶室待合、(写真20)は茶室「双庵」の外観で、南西の隅ににじり口が見える。

      (写真21)

      (写真22)

     (写真21)は茶室内部、(写真22)は水屋である。

      (写真23)

     (写真23)は茶室付近から庭園北側を撮ったもので、主屋の後方には御室の山が眺望できる。

      (写真24)

     (写真24)は主屋玄関脇に設けられたお土産販売所である。(2018.9.28.訪問)

     

    0713妙教寺(Myokyo-ji Temple)

    • 2019.02.07 Thursday
    • 22:06

     妙教寺(みょうきょうじ)は伏見区納所北城堀49、旧京阪国道と桂川沿いの千本通の間に建つ法華宗真門流の寺院で、山号は大圓山。駒札によると当山は寛永三年(1626)、大坂の富豪上人、法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室淀殿が住んでいたと伝わる淀古城下の一角に建立された。宝泉院日孝を開山上人に仰ぎ、寺地は新しい淀の初代城主、松平定綱公から寄進を受けた。

     十八世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保十一年(1840)に再建されたものである。

     慶応四年(1868)、戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いで周辺が戦場となり、14日、本堂の壁、柱を砲弾が貫通し、その跡と砲弾を保存している。平成二十五年(2013)、京都市により、「京都市民が残したいと思う建物」に選定された。

     境内には淀古城跡の碑や榎本武揚揮毫の戊辰之役東軍戦死者招魂碑、戦没学徒木村久夫の碑、当山鎮守きつね「小満・小女郎」の塚がある。

     小満・小女郎については次のような伝説が残っている。「かつて妙教寺には、住職により小満・小女郎と名付けられた夫婦狐が住んでいた。ある時小満・小女郎は勝手に寺の買物帳を持ち出して綿を買い、子狐に着せたり床に敷いたりしていたが、住職に気づかれ寺を追い出される事となった。狐たちはまっすぐ鳥羽街道を京へ上ったが、食うものもなく子連れの難儀さに、とうとう千本御池あたりで小満は倒れてしまった。 その地の貧乏な老夫婦に助けられた狐たちは、お礼にせんべいを作って売るように老夫婦に勧めたところ、美味しさから飛ぶように売れ、老夫婦は出世し金持ちとなった。この経緯が京に広まり、出世稲荷と名付けられた社が作られ、小満・小女郎は稲荷のお使いとして崇められるようになった。その後、夫婦狐は住職の夢枕に立ち、昔の罪を詫びるとともに、今後は寺の鎮守として寺を守ることを誓ったという。」妙見堂の前に、妙教寺鎮守小満小女郎の塚が築かれている

    (写真1)

     (写真1)は山門で、左手前に特別公開の看板と拝観受付のテントが見える。右手前には「南無妙法蓮華経」の石標が建っている。

    (写真2)

    (写真3)

     (写真2、3)は境内の写真である。(写真2)は山門を入った左手で、左から順に妙見堂、庫裡、鐘楼、本堂。(写真3)は山門正面で、参道の突き当たりにあるのが本堂である。

    (写真4)

    (写真5)

     (写真4、5)はそれぞれ妙見堂と鐘楼を近くから撮ったものである。

    (写真6)

    (写真7)

    (写真8)

     (写真6、7)は本堂の近影、(写真8)は本堂の右手側面で、板壁中央の最上部に小さな窓が見える。これは戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いで砲弾が貫通した個所である。

    (写真9)

    (写真10)

    (写真11)

     (写真9、10)は本堂左手の玄関、(写真11)はその左手にある庫裡である。建物内部はすべて撮影禁止となっている。

    (写真12)

     (写真12)は特別公開の看板にあった本堂内部の写真で、右半分は(写真8)の砲弾飛込口を内部から撮ったもの、左半分はここから飛び込んだ砲弾が貫通した本堂左手の柱である。

    (写真13)

     (写真13)は鐘楼の近くにある「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」と刻まれた石標で、「淀古城址」の下には「此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師寺与一岩成佐通淀君らの居城となった淀古城の址である」、「戊辰役砲弾貫通跡」の下には「慶應四年正月四日戊辰役の際東軍砲弾が飛来し本堂を貫通したその弾痕がある」とそれぞれの説明も刻まれている。

    (写真14)

    (写真15)

     (写真1415)は本堂の右手前にある「戊辰之役東軍戦死者之碑」と「戦没学徒木村久夫の碑」で、「音もなく 我より去りしものなれど 書きて偲びぬ 明日といふ字を 木村久夫」と歌も刻まれている。

    (写真16)

     (写真16)は妙見堂の前にある「妙教寺鎮守小満小女郎之塚」である。(2018.4.30.訪問)

     

    https://ja.wikipedia.org/wiki/妙教寺_(京都市伏見区)

     

    0712法傳寺(Hodenji Temple)

    • 2019.02.04 Monday
    • 21:34

     法傳寺(ほうでんじ)は伏見区下鳥羽中三町64、鴨川と桂川の合流地点より少し北の鴨川堤防沿いにある浄土宗の寺院で、正式名称は瑞華山 薬師院 法傳寺である。

     平成30年度春期京都非公開文化財特別公開の『拝観の手引』によると、開基は神亀三年(726)、開山は行基菩薩、聖武天皇が諸病平癒のための勅願所(祈願寺)として、行基に一刀三礼の薬師尊像を彫刻させて当寺に安置し、仏餉田500町を賜り「法田寺」と号したとされている。当初真言宗(三論宗の説もあり)であったが、その後、知恩院第十一世円智上人が岩屋金峰寺の不動明王の霊夢を感得して、この地に阿弥陀堂を建立し、閑居後も当寺にて念佛弘通に努めた。その時に寺号を「法傳寺」に改めたという。

     また、江戸時代の寺格制度(本末制度)により、法傳寺は中本山として末寺十餘箇寺を有していた。

     現在浄土宗に限らず、他の仏教系宗派において、誦経や念佛を修する際、木魚を用いるのが一般的であるが、この木魚による念佛の歴史は、江戸中期の浄土宗の僧、法傳寺中興の祖といわれる不退円説上人が最初で、彼は寛延二年(1749)、法傳寺の住職となり、念佛弘通に尽力した。このことにより、法傳寺は木魚念佛最初の地としても知られている。

     戊辰戦争最初の戦いとなる「鳥羽伏見の戦い」は、慶応四年(1868)の13日に薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍(倒幕派・西軍)と、会津藩や新撰組を含む旧幕府軍(徳川軍・東軍)が衝突して勃発した。東軍は多数の死者・負傷者を出し、淀・八幡方面に敗走していくのだが、死者への弔いや残された負傷者の手当は下鳥羽の民衆が行っていたと伝えられている。法傳寺境内も避難所として死傷者の受け入れを行い、さながら野戦病院のようであったという言い伝えがある。

     明治三十年(1897)に東軍慰霊祭が営まれ、その記念として所縁のある法傳寺山門北に「戊辰東軍戦士之碑」の慰霊碑が建立された。

    (写真1)

    (写真2)

    (写真3)

     (写真1,2)は山門の全景、(写真3)は近くから撮った山門である。山門の右手前には「法傳寺 特別公開」の看板、左手前には「浄土宗 瑞華山 法傳寺」の石標が立ち、門柱には「浄土宗 瑞華山 薬師院 法傳寺」の寺札が掛かっている。

    (写真4)

     (写真4)は境内から山門方向を撮ったもので、参道の北側は墓地、南側は駐車場になっている。

    (写真5)

     (写真5)は本堂で、「瑞華山」の扁額が掛かっている。内部は撮影禁止であるが、特別公開の看板に写真が出ていた本尊の阿弥陀如来坐像の他、日本で唯一現存する不退円説上人像、薬師如来坐像等が安置され、また鳥羽伏見の戦いの遺物として法傳寺に保管されている刀剣や砲弾、戦死者名簿等が展示されていた。

    (写真6)

    (写真7)

    (写真8)

     (写真6)は山門の左手にある慰霊碑の並ぶ場所で、(写真7)は一番左にある「戊辰東軍戦死之碑」、(写真8)はその右にある「志那事変 大東亜戦 戦没者之碑」と「精忠碑」である。(2018.4.30.訪問)

     

    0711了徳寺(Ryotokuji Temple)

    • 2019.02.02 Saturday
    • 17:58

     了徳寺(りょうとくじ)は右京区鳴滝本町83にあり、通称大根焚寺と称される真言宗大谷派の寺院で、山号は法輪山(ほうりんざん)である。

     毎年、12月9日、10日には大根焚きが行われる。「大根焚き」は、京都の初冬の風物詩として、俳句の季題にもなっており、三寶寺(12/1,2)、千本釈迦堂(12/7,8)、妙満寺(12/9)、了徳寺(12/9,10)、華厳寺(鈴虫寺)(12/15,16)、蛸薬師堂(12/31)、法住寺(1/13)、三千院(2/8〜11)[日付は2018〜2019の場合]等で毎年行われているが、中でも鳴滝の了徳寺は最もよく知られている。

     了徳寺が書いている「大根焚の由来」によると「建長四年(1252)宗祖親鸞聖人がこの鳴滝の地でお念仏の教えを説かれた時、村人達はそのお礼にと大根を塩味で焚いてもてなしました。聖人はたいそう喜ばれ後々の形見にと庭前のすすきの穂を筆代わリに、釜の炭をもって『帰命尽十方无碍光如来』の十字の名号を残されました。以来この「すすきの名号」を徳とし聖人の教えに立ち帰リ、毎年報恩講が勤められ現在に至っています。いつの頃からか『大根焚』の名で世に知られ俳句の季題などにもとり入れられるようになリました。今でもすすきの名号やすすき塚は当寺に残っています。 真宗大谷派 法輪山 了徳寺」とある。

     了徳寺の報恩講においては、約三千本もの篠大根が、檀家門徒の奉仕により、前日の早朝から直径が1mもある大鍋で煮込まれる。油揚げも入れられ、醤油で味付けがされるが、 本堂に祀られている親鸞聖人の木像には、昔ながらの塩味の大根煮がお供えされる。この大根を食べると中風にかからないといわれている。なお、篠大根は、亀岡市篠町の農家でつくられる青くび大根である。

    (写真1)

     (写真1)は了徳寺山門付近の道で大根焚きの時には、道ばたに屋台の店が数件並んでいる。

    (写真2)

    (写真3)

     (写真2、3)は山門で、左手前に「親鸞聖人御𦾔跡 大根焚寺」「南無阿彌陀佛」と刻まれた石標が立ち、門柱には「一二月九日十日大根焚報恩講」の木札が掛けられている。また、山門を入った左手に受け付けが見える。

    (写真4)

     (写真4)は本堂外観で、近所の小学生が団体で参拝し、大根焚の振る舞いを受けていた。

    (写真5)

    (写真6)

     (写真5、6)は本堂内部で、中央に本尊の阿弥陀如来像、右手には親鸞聖人坐像が安置されている。この本尊は聖徳太子自らが桂の木を彫ってつくり、応仁の乱後に安置されたと伝えられている。また、親鸞聖人坐像は鎌倉時代の仏師、湛慶の作とされている。

    (写真7)

     (写真7)は本堂外部、右手にある親鸞聖人の銅像で、手前にろうそく立てが設けられている。

    (写真8)

     (写真8)は本堂右手の玄関で、その右手に台所への入り口がある。

    (写真9)

    (写真10)

     (写真9、10)は玄関と台所前にある大根を切ったり焚いたりする場所で、大釜戸以外にも大鍋をかけるいくつかの釜が用意され、男女の門徒の人たちが忙しく立ち働いていた。

    (写真11)

    (写真12)

    (写真13)

     (写真11)は切り出された焚く前の大根、(写真12、13)は台所内部で、ここでも沢山の人が振る舞いの準備に当たり、美味しそうに焚けた大根をお椀に盛り付けていた。

    (写真14)

    (写真15)

     (写真14)は玄関を入った所から台所に向かって撮った写真、(写真15)は梁に貼り付けられたメニューの写真で、おみやげに持ち帰ることも出来るようになっており、客間や本堂には多くのテーブルが用意されて、次々に大根が振る舞われていた。

    (写真16)

     (写真16)は台所の裏庭で、ここにも釜が二つあり、振る舞いの準備がされていた。

    (写真17)

    (写真18)

    (写真19)

     (写真17)は裏側から見たお寺の建物と客間の前庭、(写真18、19)は奥の客間から見た前庭で、庭にも茣蓙が敷かれ、テーブルや床几が用意されて、多くの参拝客を収容出来るようになっていた。

    (写真20)

     (写真20)は振る舞われた大根焚きである。幸い朝一番の9時10分過ぎだったので、まだ参拝者は少なく、本堂でゆっくり賞味することが出来た。お椀にはよく味のしみた大根三切れと甘い味の油揚げ一枚が入っており、寒い時なのであつあつの大根は美味しかった。箸紙には「なつかしや けふ鳴滝の 大根焚」の句が書かれていた。(2018.12.10.訪問)
     

    0710圓通寺(Entsuji Temple)

    • 2019.02.01 Friday
    • 20:52

     圓通寺(えんつうじ)は左京区岩倉幡枝町、深泥池の北1kmほどの所にあるにある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は大悲山。江戸時代初期(1639)に後水尾天皇が造営された幡枝(はたえ)離宮の跡であり、幡枝小御所、幡枝茶園とも呼ばれていた。延宝6年(1678)、霊元天皇が乳母 円光院の願いを受けて御殿と庭園を賜り、円光院文英尼が開基となり、妙心寺十世 景川宗隆(けいせんそうりゅう)を勧請開山として尼寺が創建されたのが始まりである。その後、後水尾上皇により、「大悲・圓通」の勅額を賜り、延宝8年(1680)、霊元天皇は勅願寺と定め、梵鐘を納進されている。

     本堂中央には定朝の作といわれる本尊 聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)座像が安置されているが、毎年正月の三が日しか公開されない。また、本堂奥の間には釈迦如来像と共に後水尾天皇以降の歴代皇族の尊牌が祀られている。

     本尊の聖観世音菩薩は「微笑にまさるきれいな化粧なし」と書かれていた通り、微笑の表情が素晴らしい仏像で、心の安まる思いがした。

     本堂の東面にある400坪ほどの前庭(国の名勝)は、借景式枯山水庭園で、一面に青苔でおおわれた平庭の北隅に数十個の石が置かれ、刈り込みされた端正な風情で、深い奥行きを感じさせる。杉木立の間のツツジ・サザンカなど50種類の生垣の向こうに竹林があり、はるかに比叡山の稜線が見える。本堂の柱も、庭園の一部としての役割を担っている。

     後水尾上皇が、比叡山の借景を得るために、各所をまわってようやくこの地を探し当てたといわれる。比叡山を、正面から眺められ、左右に連なる山々と共に、力強い雄大な姿を見せている。大小40個ほどの庭石は、後水尾上皇が自ら配したといわれており、後水尾上皇が眺めた庭の美しさをいまに伝える名勝庭園である。

     本堂の奥には独立して潮音堂があり、ここには不空羂索観世音菩薩が安置されていたが、この仏像もきれいな仏像であった。いずれの建物も内部は撮影禁止となっていた。 
     なお、京都市では、高層マンション建築など急速に進む都市開発により、貴重な借景を壊してしまうと危惧され、圓通寺庭園などの借景を保護するために眺望条例(京都市眺望景観創生条例)が制定されており、圓通寺周辺区域では、高さだけでなく、屋根の形式なども制限されている。  

    (写真1)

    (写真2)

     (写真1、2)は山門で、右手に駒札が立てられ、左手前にある石標には「不許酒肉五辛入門」と刻まれている。因みに、五辛(ごしん)は五葷(ごくん)とも呼ばれ、仏門で食することを禁じられている臭みのある五種の蔬菜で、大蒜(にんにく)、 革葱(らっきょう)、 慈葱(ねぎ)、 蘭葱(ひる)、 興渠(にら)がそれに当たる。

    (写真3)

     (写真3)は山門を入った参道から山門の方向を撮ったもので、山門を入って直ぐ左手に自然石の歌碑が見える。

    (写真4)

     (写真4)はその歌碑で、高浜虚子の歌「柿落葉 踏ミてたづねぬ 円通寺」が刻まれている。高浜虚子は昭和30年(1955)、鞍馬からの帰りに圓通寺を訪ねた。

    (写真5)

    (写真6)

     (写真5、6)は参道の奥に向かって左手と右手を撮ったもので、左手には鐘楼、玄関、本堂、潮音堂、右手には庫裡が見える。

    (写真7)

    (写真8)

    (写真9)

    (写真7)は鐘楼、(写真8)は玄関、(写真9)は潮音堂である。

    (写真10)

    (写真11)

    (写真10)は玄関前の花頭窓から外の景色で、鐘楼が見える。(写真11)は玄関から奥を撮ったものである。

    (写真12) (写真13)

    (写真14)

    (写真1214)は借景で有名な本堂前の庭園を異なる角度と構図で撮ったもので、いずれも背景の比叡山が庭の一部になっていて美しい。

    (写真15)

    (写真16)

    (写真17)

    (写真15)は同庭園の南側、(写真16)は北側を撮ったもので、枯山水の石組みの様子がよく分かる。(写真17)は庭園北側の手水鉢である。(2018.1.1.訪問)

     

    0709白龍園(Hakuryuen Garden)

    • 2017.02.03 Friday
    • 20:46

     白龍園(はくりゅうえん)は叡山電車二ノ瀬駅の改札を出て階段を下り、真っ直ぐ歩いて突き当たりの鞍馬街道を右手の出町柳方向に5分ほど歩いた左京区鞍馬二ノ瀬町にある知る人ぞ知る日本庭園である。春と秋の一定期間(2016年は3月26日〜5月31日と10月29日〜12月4日)しか公開されず、公開期間中も一日100人限定で、しかも観覧券は当日叡山電車出町柳駅で一人1枚しか購入出来ない。それだけに、観光バスで押し寄せる団体客はなく、混雑もなしにゆっくりと庭園のよさを堪能出来る。観覧時間は春は10時から14時(受付は13時30分まで)で何日か休園日があり、秋は10時から13時30分(受付は13時まで)で、春、秋共に雨天の場合は休園となる。

     白龍園のパンフレットによると、この庭園の造られた場所は安養寺山ともつつじ山とも呼ばれる山の麓で、この山は昔から霊域とされ、不老長寿の白髪白髭の翁と白蛇が祭神として尊崇されていたが、いつしか熊笹と竹藪に覆われた荒れ地となっていた。昭和三十七年(1962)にこの地一帯を手に入れた故青野正一氏(青野株式会社の創業者)は、この地に伝わる歴史伝説と信仰を知り、この地に宿る史実と無数の魂を思い、祭壇の復元、整地と開発を決心したという。そして、その生涯をかけ山を蘇らせ、現在の白龍園の原型を完成させた。その想いは引き継がれて進化を遂げ、今日の白龍園となっている。

     昭和三十八年(1963)に開山されたこの庭園は、最初に山の祭神である「白髭大神(不老長寿)」と「八大龍王(商売繁盛)」を祀る祠と大鳥居が建てられ、霊域を守る神社を形成したことから、祭神の二文字をとって「白龍園」と名付けられた。

     白龍園一帯は、史実に明記されている安養寺跡で、様々な伝説が残されている。悲劇の皇族惟喬親王(これたかしんのう)が隠棲された場所で、源義経の隠れ家があったとか、小野小町のあいびきの屋敷があったとかの伝説も伝わっている。安養寺跡の大地を整理していた際に、土中から石垣や石段跡と共に、古代の土器類や槍の穂先、刀剣の鉄片等が50点近く発見された。調査したところ、約1千年前の平安中期に岩倉地方で造られた須恵器や武器であったことが判明している。

     園内には山奥の僧正ケ谷を水源とする川が流れ、それぞれ異なる見晴らしが楽しめる場所に五つの東屋が建てられている。山の整地から石の段組み、東屋や橋の建設まで、初代社長をはじめ社員家族と地元の手伝い衆が力を合わせて施行していった。重機の入ることが出来ない道なき道を切り開き、石を担いで運び上げ、ひとつひとつ人の手により造り上げられただけに、独特の風情がある。

     

     (写真1)*

     

     (写真1)はパンフレットに掲載された園内の案内図と拝観順路である。

     

     (写真2)

     

     (写真2)は鞍馬街道に面した庭園入口で、「特別公開」の大きな立て看板が右手に立てられており、門を入った左手のテントに受付がある。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は受付を入って直ぐのところにある赤い毛氈を敷いた床几で、赤い傘も立てられている。

     

     (写真4)

     

     (写真4)はその直ぐ奥にある苔むした石段で、左手に「白龍園」と刻まれた大きな自然石があり、石段の中ほど右手に石の大灯籠が立っている。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真5、6)はこの石段を登り切った所から上に見える「彩雲亭」である。「彩雲亭」は白龍園を初代正一氏と共に造り上げた二代目功氏が建築した最も新しい東屋で、功氏が第二次世界大戦の学徒動員時の動乱の時を共に生き延びた同窓の仲間と白龍園に集まった記念に造られたことから、戦時中に軍需工場で自ら造った小型戦闘機の名前「彩雲」に由来して名付けられた。

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真9)

     

     (写真7、8)は「彩雲亭」の南側に建つ「鶯亭」で、その南側は広場になっており、東側には池が造られている。(写真9)は広場にある床几で、ここでも休憩が出来る。

     

     (写真10)

     

     (写真10)は「鶯亭」の手前東側にある百発百中の石碑である。この石碑は明治大正期の海軍軍人、東郷元帥が舞鶴の軍港へ向かう途中、二ノ瀬村で猪狩りを行い、泊まった農家への礼として軸にして送られた「百発百中」の書を写したもので、砲弾をイメージした石は、三年がかりで探されたものといわれている。

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真11)は「鶯亭」のある広場の南端を西側に降りた、寺谷川の流れに近い台地の西端にある「清風亭」である。(写真12)はその南側の山の中腹に祀られている「三原大神」への道の入口にある石碑である。後方には叡山電車の走っているのが見える。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     白龍園は苔の美しいことでも知られるが、特に「清風亭」の周辺はいろいろな苔が目を引く。(写真13〜15)はその苔を撮ったものである。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真16、17)は「鶯亭」の前の広場南端にある茶室風の「龍吟亭」、(写真18)はその内部で、庭園内で最も眺めのよい場所とされている。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     この「龍吟亭」の左(東)側に赤い鳥居があり(写真19)、ここから東が白龍神社への参道となっている。

    (写真20)は参道の一番奥にある太鼓橋、(写真21)はその手前左(北)側にある鳥居である。鳥居には「白髭大神、八大龍王」と書かれた扁額が掛かり、その奥に注連縄をした二本の木が見える。この二本の木の根元に「白髭大神」と「八大龍王」の二つの小さな祠が祀られているが、ここだけは撮影禁止となっている。

     

     (写真22)

     

     この鳥居の手前に北に向かって登って行く階段があり、そこを登って山腹に沿って歩いて西方向に戻って行くと、「福寿亭」が建っている。(写真22)は階段を登ったあたりに自生しているスギゴケに似たシダの一種、ヒカゲノカズラである。

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真23、24)は「福寿亭」で、内部には「石徳五訓」の額(写真25)が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真27)

     

     (写真26)は「福寿亭」から眺めた西方の山々、(写真27)は「福寿亭」から「龍吟亭」へ降りてくる石段で、左手に「安養寺跡」の石碑が立っているのが見える。

     

     (写真28)

     

     (写真28)は鞍馬街道をはさんで白龍園入口の門の向かい側にある休憩処「河鹿荘」で、中に入ってでも前庭の床几に座ってでも、抹茶やぜんざい等で疲れを癒すことが出来る。(2016.11.30訪問)

     

    *白龍園パンフレットより引用

     

    0708旧三井家下鴨別邸(Old Mitsui Family Shimogamo Villa)

    • 2017.01.31 Tuesday
    • 09:29

     旧三井家下鴨別邸は下鴨神社の南に位置し、出町柳から高野川に架かる橋を渡り、下鴨東通を北に上がった西側にある。門前の案内板によると「旧財閥で知られる三井家の先祖を祀った顕名霊社(あきなれいしゃ)への参拝の休憩所として大正十四年(1925)に、三井家十代三井八郎右衛門高棟(はちろうえもんたかみね)が建築した。建築に当たっては、明治十三年(1880)建築の木屋町別邸の主屋を移築し、あわせて玄関棟を増築し、以前からあった茶室も修復し、別邸として整備した。建物は三階に四方を見渡せる望楼を持つ開放的な造りや、次の間に円窓を開けた茶室などが特徴である。

     旧三井家下鴨別邸は、戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和二十六年(1951)から長らく京都家庭裁判所の宿舎として使用されていたが、明治初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから、平成二十三年(2011)に重要文化財に指定された。」

     

      (写真1)

     

     (写真1)は下鴨東通から見た旧三井家下鴨別邸の正門、右手の赤い鳥居は下鴨神社の鳥居である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真4)

     

     (写真2)は正面から撮った正門、(写真3)は正門前右手に立てられた「秋の特別公開」の看板、(写真4)はその右にある案内板に書かれた邸内の配置図である。

     

     (写真5)

     

     (写真5)は正門から玄関に行く途中で、南向きに主屋と玄関棟を撮ったもので、右手が玄関棟、左手が主屋である。

     

     (写真6)

     

     (写真6)は西向きの玄関で、ここから入って内部を見学出来る。

     

     (写真7)

     

     (写真7)は南側の庭から見た建物の全景で、左(西)から順に玄関棟、主屋、茶室の三棟が続いている。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は玄関棟で、入母屋造り桟瓦葺の平屋建築である。洋風の意匠を採り入れた天井の高い建物で、鬼瓦には三井家の家紋「四ツ目結(ゆい)」が見られる。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は望楼が特徴的な木造三階建ての主屋である。望楼からは四方が眺められ、見晴らしはよいが、写真撮影は禁止されている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は主屋とその右(東)に隣接する茶室、(写真11)は茶室である。茶室の建築年代は詳らかではないが、修復中、「慶応四年」(1868)と書かれた祈祷札が確認されたことから、その頃に前身建物の一部として茶室が建築されたと考えられている。円窓が特徴的な三畳次の間が付いた四畳半広間と一畳台目の小間の簡素な構成で、庭園はひょうたん形の池と、苔地の築山に曲線園路が巡っている。

     

     写真12)

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真1213)はそれぞれ主屋西側および東側から見た庭である。また、(写真14)は玄関棟の南側から東方向に向かって撮った庭で、右(南)側が池、左(北)側奥に茶室が見える。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真1516)は主屋二階から茶室方向に向かって撮った庭園である。

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真17)は主屋の東側にある中庭、(写真18)は主屋から茶室への渡り廊下である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真1920)はそれぞれ主屋内部にある浴室と便所である。(2016.11.30訪問)

     

    *三井広報委員会HPhttp://www.mitsuipr.com/about/facility/shimogamo.html)より引用

     

    0707和中庵(Wachu-an Old House)

    • 2016.10.14 Friday
    • 09:46

     和中庵(わちゅうあん)は左京区鹿ヶ谷桜谷町、ノートルダム女学院中学高等学校の敷地内に建つ邸宅で、滋賀県近江五箇荘(ごかしょう)出身の繊維製造販売業者、藤井彦四郎(ふじいひこしろう、18761956)が贅を尽くし、粋を凝らして建てたものである。鹿ヶ谷の山裾の林を開拓して造った広大な庭園がある。昭和二十四年(1949)にノートルダム教育修道女会が取得。修道院として改造、利用した後、平成二十年(2008)にノートルダム女学院中学高等学校に移管された。

     ノートルダム女学院中学高等学校発行のパンフレットによると、「藤井彦四郎は、日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの一人と言われる。彦四郎は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。大正期になると帝国人造絹絲(現・帝人)や旭絹織(現・旭化成)などにより人造絹糸の国産化が図られるが、彦四郎は工場経営は行わず毛糸事業に重点を移し、共同毛織、共同毛糸紡績(現・倉敷紡績)を興して『スキー毛糸』のブランドで成功をおさめ財を成した。

     大正15年(1926年)、彦四郎は、大文字山のすそ野、法然院・安楽寺・霊鑑寺門跡に続く鹿ヶ谷桜谷町の土地一万数千坪を取得した。山のすそ野でありまた広大な敷地でもあったこの土地の開発には大変な労力を費やすことになるが、彦四郎は時問をみては現地に足を運んで指示を与えている。大正十五年(1926)から、彦四郎の陣頭指示のもと、工事に取り掛かった。そして本邸とともに、長男正次郎・次男繁次郎・分家栄之助・三郎らの住宅も建築した。

     本邸は彦四郎の友、漢学者長尾雨山により、『何事にも偏らず公平に』をモットーとして『和中庵』と命名された。

     昭和二十三年(1948)にノートルダム教育修道女会のセントルイス管区本部の4名のシスターが来日し、京都でいくつかの物件を検討している。その年の12月に、ようやくこの和中庵と出会う。そして、クリスマスの数日前に取得することとなった。この和中庵は彦四郎から引き継がれて藤井家の兄弟姉妹の持ち物だったが当時は空き家となっていたものだった。

     当時彦四郎は『戦後になって、もう私達はこんな大きな家には住まない。どうぞ全部ご自由にお使いください。』とシスターに伝えたそうだ。このようにして和中庵の土地と建物は、藤井家からノートルダム教育修道女会へと売却されることとなった。

     和中庵は清貧を誓って人生を歩もうとするシスターたちの修道院としての役割を果たすため、シャンデリアは蛍光灯に、お座敷の畳は全て板張りに、洋館も聖堂として使われ、すっかり内部の佇まいは変容したまた、多い時には60人ものシスターやシスターの養成期の修練者たちが生活を営んでいたのである

     やがて、シスターたちの高齢化に伴い、修道院としての役割を終えて、平成二十年(2008)年春シスターの引越しが完了。ノートルダム女学院中学高等学校に移管された。

     そのころの和中庵の状態は老朽化が進み、教育施設として活用するには多くの費用を要するため、一時は解体が決定された。しかし、関係者の保存への思いが多くの人々を動かすと、状況は一変。残念ながら、主屋はとり壊すことになったが、その他の、洋館、奥座敷(客殿)、蔵、お茶室については最小限度の改修工事と耐震工事を施すことにより、平成二十六年(2014)から平成二十七年(2015)の2年間の改修工事を経て教育施設として活用できることになり、現在に至っている。」

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真1)はユージニア館の全景、(写真2)はその正面、(写真3)はその前に立てかけられた「第41回京の夏の旅特別公開」の立て看板である。ユージニアの名は、ノートルダム女学院中学高等学校初代校長のシスター ユージニア・レイカーから採ったものである。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)はユージニア館1階の礼拝堂、(写真5)はその講壇部分で、質素な感じがするが、ステンドグラスが美しい。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6〜8)はステンドグラスの一部である。

     

     (写真9)

     

     (写真9)はユージニア館の左(北)奥に建つ木造二階建ての洋館で、平成二十年(2008)まではノートルダム教育修道女会の修道院として使用されていた。

     

     (写真10)

     

     (写真10)は洋館1階の洋間で、寄木細工の床や暖炉等が昔を偲ばせる。

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真11)は洋館2階の広間で、二間続きになっており、床は1階同様の寄木細工、ピアノや(写真12)のような暖炉も見られる。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     (写真13)は洋館の2階から、東側に建つ日本家屋の客殿に通じる渡り廊下、(写真14)は渡り廊下から南側を見下ろした景色、(写真15)は同じく渡り廊下から客殿の方を撮ったものである。客殿は平屋建てであるが、傾斜地の上方に建っているため、洋館の2階と渡り廊下でつながっている。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真16は庭から見た客殿、(写真17)は客殿の渡り廊下から入ったところにある部屋、(写真18は三間続きの書院造り座敷になっている客殿奥の間である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真19)は客殿奥の間から見た南側の庭園、(写真20)は同庭園の西側、(写真21)は同庭園の中央部分である。巨大な沓脱石と井戸が目につく。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真22)は客殿奥の間東側の庭園、(写真23)はその左(北)側築山の上にある大きな石灯籠である。

     

     (写真24)

     

     (写真24)は洋館を出た正面(西側)にある土蔵(現在はノートルダム女学院の施設として利用)である。

     

     (写真25)

     

     (写真26)

     

     (写真27)

     

     (写真25)はユージニア館の南側にあるノートルダム女学院中学高等学校の校門、(写真26)は校門を入って左(東)側にある玄関、(写真27)は南側にのびる校舎である。(2016.8.19.訪問)

     

    *ノートルダム女学院中学高等学校発行の和中庵パンフレットより

     

    0706地蔵院(椿寺)(Jizoin Temple/Tsubaki-dera Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 22:46

     地蔵院(じぞういん)は通称椿寺(つばきでら)と呼ばれ、北区一条通西大路東入大将軍川端町にある浄土宗知恩院の末寺である。山号は昆陽山(こんようざん)、本尊は五劫思惟阿弥陀如来である。

     奈良時代中期の神亀(じんき)三年(726)、聖武天皇の勅願により、行基(ぎょうき)が、摂津国の昆陽池(こやのいけ)のほとりに建立した地蔵院が始まりで、平安時代に衣笠山の南山麓に移され七堂伽藍が整備された。
     南北朝時代末期の元中八年/明徳二年(1391)、内野の合戦の戦災で、すべて焼失したが、 室町時代初期に足利義満が、金閣寺建立の余財で仮堂を建て、地蔵菩薩を祀り再建した。
     桃山時代の天正十七年(1589)、豊臣秀吉の命によって現在地に移され、江戸時代初期の寛文十一年(1671)に善曳和尚により、八宗兼学から浄土宗に改められ、知恩院の末寺となった。

     地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。

     書院の前庭には、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢百二十年の二世が本堂前に花を咲かせている。薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが一枚ずつ散るのを特徴とする。境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師に当たる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所である。

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真1、2)は一条通に面した山門、(写真3)は山門左手前の道路脇に三本並んで立つ石標で、道路側から順に「洛陽三十番地蔵院」、「夜半亭巴人墓所」、「義商天野屋利兵衛之墓 豊公愛樹五色八重散椿 此寺にあり」と刻まれている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真4)は山門を入ったところから撮った境内で、正面奥にあるのが地蔵堂、右手前の生け垣の中、本堂前庭にあるのが有名な「五色八重散椿」である(写真5、6)。加藤清正が、文禄の役の朝鮮出兵の際に蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰り、豊臣秀吉に献上し、北野大茶会の際に、秀吉が地蔵院に寄進したものといわれている。但し、初代の樹は昭和五十八年(1983)の春に樹齢約400年にて枯死し、現在あるのは、樹齢約120年の二世である。一木で、白色、ピンク、紅色、絞りなどに咲き分け、普通の椿は花ごと落下するが、この椿は、色とりどりの花びらが一片一片散る。3月下旬から4月中旬が見頃という。

     

     (写真7)

     

     (写真7)は五色八重散椿の西側後方にある本堂で「地蔵院」の扁額が掛かっている。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は本堂の右(北)側、山門を入って直ぐ右(西)側にある庫裏である。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は正面奥の地蔵堂で、行基の作といわれる元の本尊「地蔵菩薩」が祀られている。「鍬形(くわがた)地蔵」、「木納屋(このや)地蔵」とも称され、洛陽四十八地蔵願所の第十二番札所になっている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は地蔵堂手前右(西)側にある手水舎、(写真11)はその左手にある観音堂である。

     

     (写真12)

     

     (写真13)

     

     また、(写真12)は観音堂の前に安置されている賓頭盧尊者、(写真13)は十一面観音菩薩立像のお前立ちである。背後の厨子に祀られている十一面観音菩薩立像は、一木造丈五尺三寸、平安時代前期慈覚大師円仁の作といわれており、脇侍に、雨宝童子と春日龍神が安置されている。但し、開帳されるのは1月元旦から3日、春秋両彼岸中、地蔵盆の82324日だけである。洛陽三十三所観音巡礼第三十番札所である。

     

     (写真14)

     

     (写真14)は境内にある三つの社で右から順に鎮守社、椿大神、辨財天である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真1516)はやはり境内にある小さな地蔵堂で、(写真15)には世継地蔵尊の提灯が掛かっている。

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1718)は天野屋利兵衛の墓である。忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)は、赤穂浪士の討入りを陰で支え、晩年、地蔵院に隠棲し、剃髪して浪士らの冥福を祈ったといわれている。討入りのあった1214日には、天野屋利兵衛の木像が公開される。

     

     (写真19)

     

     (写真19)は夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓である。夜半亭巴人は江戸時代初期の俳人で、与謝野蕪村(よさのぶそん)の師 早野巴人(はやのはじん)のことである。

     

     (写真20)

     

     (写真20)は切支丹の墓で、長い間手水鉢として使われていたものが墓と分かり、当寺に納められたといわれている。(2016.2.26.7.22訪問)

     

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