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  • 2017.02.03 Friday

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    0709白龍園(Hakuryuen Garden)

    • 2017.02.03 Friday
    • 20:46

     白龍園(はくりゅうえん)は叡山電車二ノ瀬駅の改札を出て階段を下り、真っ直ぐ歩いて突き当たりの鞍馬街道を右手の出町柳方向に5分ほど歩いた左京区鞍馬二ノ瀬町にある知る人ぞ知る日本庭園である。春と秋の一定期間(2016年は3月26日〜5月31日と10月29日〜12月4日)しか公開されず、公開期間中も一日100人限定で、しかも観覧券は当日叡山電車出町柳駅で一人1枚しか購入出来ない。それだけに、観光バスで押し寄せる団体客はなく、混雑もなしにゆっくりと庭園のよさを堪能出来る。観覧時間は春は10時から14時(受付は13時30分まで)で何日か休園日があり、秋は10時から13時30分(受付は13時まで)で、春、秋共に雨天の場合は休園となる。

     白龍園のパンフレットによると、この庭園の造られた場所は安養寺山ともつつじ山とも呼ばれる山の麓で、この山は昔から霊域とされ、不老長寿の白髪白髭の翁と白蛇が祭神として尊崇されていたが、いつしか熊笹と竹藪に覆われた荒れ地となっていた。昭和三十七年(1962)にこの地一帯を手に入れた故青野正一氏(青野株式会社の創業者)は、この地に伝わる歴史伝説と信仰を知り、この地に宿る史実と無数の魂を思い、祭壇の復元、整地と開発を決心したという。そして、その生涯をかけ山を蘇らせ、現在の白龍園の原型を完成させた。その想いは引き継がれて進化を遂げ、今日の白龍園となっている。

     昭和三十八年(1963)に開山されたこの庭園は、最初に山の祭神である「白髭大神(不老長寿)」と「八大龍王(商売繁盛)」を祀る祠と大鳥居が建てられ、霊域を守る神社を形成したことから、祭神の二文字をとって「白龍園」と名付けられた。

     白龍園一帯は、史実に明記されている安養寺跡で、様々な伝説が残されている。悲劇の皇族惟喬親王(これたかしんのう)が隠棲された場所で、源義経の隠れ家があったとか、小野小町のあいびきの屋敷があったとかの伝説も伝わっている。安養寺跡の大地を整理していた際に、土中から石垣や石段跡と共に、古代の土器類や槍の穂先、刀剣の鉄片等が50点近く発見された。調査したところ、約1千年前の平安中期に岩倉地方で造られた須恵器や武器であったことが判明している。

     園内には山奥の僧正ケ谷を水源とする川が流れ、それぞれ異なる見晴らしが楽しめる場所に五つの東屋が建てられている。山の整地から石の段組み、東屋や橋の建設まで、初代社長をはじめ社員家族と地元の手伝い衆が力を合わせて施行していった。重機の入ることが出来ない道なき道を切り開き、石を担いで運び上げ、ひとつひとつ人の手により造り上げられただけに、独特の風情がある。

     

     (写真1)*

     

     (写真1)はパンフレットに掲載された園内の案内図と拝観順路である。

     

     (写真2)

     

     (写真2)は鞍馬街道に面した庭園入口で、「特別公開」の大きな立て看板が右手に立てられており、門を入った左手のテントに受付がある。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は受付を入って直ぐのところにある赤い毛氈を敷いた床几で、赤い傘も立てられている。

     

     (写真4)

     

     (写真4)はその直ぐ奥にある苔むした石段で、左手に「白龍園」と刻まれた大きな自然石があり、石段の中ほど右手に石の大灯籠が立っている。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真5、6)はこの石段を登り切った所から上に見える「彩雲亭」である。「彩雲亭」は白龍園を初代正一氏と共に造り上げた二代目功氏が建築した最も新しい東屋で、功氏が第二次世界大戦の学徒動員時の動乱の時を共に生き延びた同窓の仲間と白龍園に集まった記念に造られたことから、戦時中に軍需工場で自ら造った小型戦闘機の名前「彩雲」に由来して名付けられた。

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真9)

     

     (写真7、8)は「彩雲亭」の南側に建つ「鶯亭」で、その南側は広場になっており、東側には池が造られている。(写真9)は広場にある床几で、ここでも休憩が出来る。

     

     (写真10)

     

     (写真10)は「鶯亭」の手前東側にある百発百中の石碑である。この石碑は明治大正期の海軍軍人、東郷元帥が舞鶴の軍港へ向かう途中、二ノ瀬村で猪狩りを行い、泊まった農家への礼として軸にして送られた「百発百中」の書を写したもので、砲弾をイメージした石は、三年がかりで探されたものといわれている。

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真11)は「鶯亭」のある広場の南端を西側に降りた、寺谷川の流れに近い台地の西端にある「清風亭」である。(写真12)はその南側の山の中腹に祀られている「三原大神」への道の入口にある石碑である。後方には叡山電車の走っているのが見える。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     白龍園は苔の美しいことでも知られるが、特に「清風亭」の周辺はいろいろな苔が目を引く。(写真13〜15)はその苔を撮ったものである。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真16、17)は「鶯亭」の前の広場南端にある茶室風の「龍吟亭」、(写真18)はその内部で、庭園内で最も眺めのよい場所とされている。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     この「龍吟亭」の左(東)側に赤い鳥居があり(写真19)、ここから東が白龍神社への参道となっている。

    (写真20)は参道の一番奥にある太鼓橋、(写真21)はその手前左(北)側にある鳥居である。鳥居には「白髭大神、八大龍王」と書かれた扁額が掛かり、その奥に注連縄をした二本の木が見える。この二本の木の根元に「白髭大神」と「八大龍王」の二つの小さな祠が祀られているが、ここだけは撮影禁止となっている。

     

     (写真22)

     

     この鳥居の手前に北に向かって登って行く階段があり、そこを登って山腹に沿って歩いて西方向に戻って行くと、「福寿亭」が建っている。(写真22)は階段を登ったあたりに自生しているスギゴケに似たシダの一種、ヒカゲノカズラである。

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真23、24)は「福寿亭」で、内部には「石徳五訓」の額(写真25)が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真27)

     

     (写真26)は「福寿亭」から眺めた西方の山々、(写真27)は「福寿亭」から「龍吟亭」へ降りてくる石段で、左手に「安養寺跡」の石碑が立っているのが見える。

     

     (写真28)

     

     (写真28)は鞍馬街道をはさんで白龍園入口の門の向かい側にある休憩処「河鹿荘」で、中に入ってでも前庭の床几に座ってでも、抹茶やぜんざい等で疲れを癒すことが出来る。(2016.11.30訪問)

     

    *白龍園パンフレットより引用

     

    0708旧三井家下鴨別邸(Old Mitsui Family Shimogamo Villa)

    • 2017.01.31 Tuesday
    • 09:29

     旧三井家下鴨別邸は下鴨神社の南に位置し、出町柳から高野川に架かる橋を渡り、下鴨東通を北に上がった西側にある。門前の案内板によると「旧財閥で知られる三井家の先祖を祀った顕名霊社(あきなれいしゃ)への参拝の休憩所として大正十四年(1925)に、三井家十代三井八郎右衛門高棟(はちろうえもんたかみね)が建築した。建築に当たっては、明治十三年(1880)建築の木屋町別邸の主屋を移築し、あわせて玄関棟を増築し、以前からあった茶室も修復し、別邸として整備した。建物は三階に四方を見渡せる望楼を持つ開放的な造りや、次の間に円窓を開けた茶室などが特徴である。

     旧三井家下鴨別邸は、戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和二十六年(1951)から長らく京都家庭裁判所の宿舎として使用されていたが、明治初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから、平成二十三年(2011)に重要文化財に指定された。」

     

      (写真1)

     

     (写真1)は下鴨東通から見た旧三井家下鴨別邸の正門、右手の赤い鳥居は下鴨神社の鳥居である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真4)

     

     (写真2)は正面から撮った正門、(写真3)は正門前右手に立てられた「秋の特別公開」の看板、(写真4)はその右にある案内板に書かれた邸内の配置図である。

     

     (写真5)

     

     (写真5)は正門から玄関に行く途中で、南向きに主屋と玄関棟を撮ったもので、右手が玄関棟、左手が主屋である。

     

     (写真6)

     

     (写真6)は西向きの玄関で、ここから入って内部を見学出来る。

     

     (写真7)

     

     (写真7)は南側の庭から見た建物の全景で、左(西)から順に玄関棟、主屋、茶室の三棟が続いている。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は玄関棟で、入母屋造り桟瓦葺の平屋建築である。洋風の意匠を採り入れた天井の高い建物で、鬼瓦には三井家の家紋「四ツ目結(ゆい)」が見られる。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は望楼が特徴的な木造三階建ての主屋である。望楼からは四方が眺められ、見晴らしはよいが、写真撮影は禁止されている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は主屋とその右(東)に隣接する茶室、(写真11)は茶室である。茶室の建築年代は詳らかではないが、修復中、「慶応四年」(1868)と書かれた祈祷札が確認されたことから、その頃に前身建物の一部として茶室が建築されたと考えられている。円窓が特徴的な三畳次の間が付いた四畳半広間と一畳台目の小間の簡素な構成で、庭園はひょうたん形の池と、苔地の築山に曲線園路が巡っている。

     

     写真12)

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真1213)はそれぞれ主屋西側および東側から見た庭である。また、(写真14)は玄関棟の南側から東方向に向かって撮った庭で、右(南)側が池、左(北)側奥に茶室が見える。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真1516)は主屋二階から茶室方向に向かって撮った庭園である。

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真17)は主屋の東側にある中庭、(写真18)は主屋から茶室への渡り廊下である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真1920)はそれぞれ主屋内部にある浴室と便所である。(2016.11.30訪問)

     

    *三井広報委員会HPhttp://www.mitsuipr.com/about/facility/shimogamo.html)より引用

     

    0707和中庵(Wachu-an Old House)

    • 2016.10.14 Friday
    • 09:46

     和中庵(わちゅうあん)は左京区鹿ヶ谷桜谷町、ノートルダム女学院中学高等学校の敷地内に建つ邸宅で、滋賀県近江五箇荘(ごかしょう)出身の繊維製造販売業者、藤井彦四郎(ふじいひこしろう、18761956)が贅を尽くし、粋を凝らして建てたものである。鹿ヶ谷の山裾の林を開拓して造った広大な庭園がある。昭和二十四年(1949)にノートルダム教育修道女会が取得。修道院として改造、利用した後、平成二十年(2008)にノートルダム女学院中学高等学校に移管された。

     ノートルダム女学院中学高等学校発行のパンフレットによると、「藤井彦四郎は、日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの一人と言われる。彦四郎は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。大正期になると帝国人造絹絲(現・帝人)や旭絹織(現・旭化成)などにより人造絹糸の国産化が図られるが、彦四郎は工場経営は行わず毛糸事業に重点を移し、共同毛織、共同毛糸紡績(現・倉敷紡績)を興して『スキー毛糸』のブランドで成功をおさめ財を成した。

     大正15年(1926年)、彦四郎は、大文字山のすそ野、法然院・安楽寺・霊鑑寺門跡に続く鹿ヶ谷桜谷町の土地一万数千坪を取得した。山のすそ野でありまた広大な敷地でもあったこの土地の開発には大変な労力を費やすことになるが、彦四郎は時問をみては現地に足を運んで指示を与えている。大正十五年(1926)から、彦四郎の陣頭指示のもと、工事に取り掛かった。そして本邸とともに、長男正次郎・次男繁次郎・分家栄之助・三郎らの住宅も建築した。

     本邸は彦四郎の友、漢学者長尾雨山により、『何事にも偏らず公平に』をモットーとして『和中庵』と命名された。

     昭和二十三年(1948)にノートルダム教育修道女会のセントルイス管区本部の4名のシスターが来日し、京都でいくつかの物件を検討している。その年の12月に、ようやくこの和中庵と出会う。そして、クリスマスの数日前に取得することとなった。この和中庵は彦四郎から引き継がれて藤井家の兄弟姉妹の持ち物だったが当時は空き家となっていたものだった。

     当時彦四郎は『戦後になって、もう私達はこんな大きな家には住まない。どうぞ全部ご自由にお使いください。』とシスターに伝えたそうだ。このようにして和中庵の土地と建物は、藤井家からノートルダム教育修道女会へと売却されることとなった。

     和中庵は清貧を誓って人生を歩もうとするシスターたちの修道院としての役割を果たすため、シャンデリアは蛍光灯に、お座敷の畳は全て板張りに、洋館も聖堂として使われ、すっかり内部の佇まいは変容したまた、多い時には60人ものシスターやシスターの養成期の修練者たちが生活を営んでいたのである

     やがて、シスターたちの高齢化に伴い、修道院としての役割を終えて、平成二十年(2008)年春シスターの引越しが完了。ノートルダム女学院中学高等学校に移管された。

     そのころの和中庵の状態は老朽化が進み、教育施設として活用するには多くの費用を要するため、一時は解体が決定された。しかし、関係者の保存への思いが多くの人々を動かすと、状況は一変。残念ながら、主屋はとり壊すことになったが、その他の、洋館、奥座敷(客殿)、蔵、お茶室については最小限度の改修工事と耐震工事を施すことにより、平成二十六年(2014)から平成二十七年(2015)の2年間の改修工事を経て教育施設として活用できることになり、現在に至っている。」

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真1)はユージニア館の全景、(写真2)はその正面、(写真3)はその前に立てかけられた「第41回京の夏の旅特別公開」の立て看板である。ユージニアの名は、ノートルダム女学院中学高等学校初代校長のシスター ユージニア・レイカーから採ったものである。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)はユージニア館1階の礼拝堂、(写真5)はその講壇部分で、質素な感じがするが、ステンドグラスが美しい。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6〜8)はステンドグラスの一部である。

     

     (写真9)

     

     (写真9)はユージニア館の左(北)奥に建つ木造二階建ての洋館で、平成二十年(2008)まではノートルダム教育修道女会の修道院として使用されていた。

     

     (写真10)

     

     (写真10)は洋館1階の洋間で、寄木細工の床や暖炉等が昔を偲ばせる。

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真11)は洋館2階の広間で、二間続きになっており、床は1階同様の寄木細工、ピアノや(写真12)のような暖炉も見られる。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     (写真13)は洋館の2階から、東側に建つ日本家屋の客殿に通じる渡り廊下、(写真14)は渡り廊下から南側を見下ろした景色、(写真15)は同じく渡り廊下から客殿の方を撮ったものである。客殿は平屋建てであるが、傾斜地の上方に建っているため、洋館の2階と渡り廊下でつながっている。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真16は庭から見た客殿、(写真17)は客殿の渡り廊下から入ったところにある部屋、(写真18は三間続きの書院造り座敷になっている客殿奥の間である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真19)は客殿奥の間から見た南側の庭園、(写真20)は同庭園の西側、(写真21)は同庭園の中央部分である。巨大な沓脱石と井戸が目につく。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真22)は客殿奥の間東側の庭園、(写真23)はその左(北)側築山の上にある大きな石灯籠である。

     

     (写真24)

     

     (写真24)は洋館を出た正面(西側)にある土蔵(現在はノートルダム女学院の施設として利用)である。

     

     (写真25)

     

     (写真26)

     

     (写真27)

     

     (写真25)はユージニア館の南側にあるノートルダム女学院中学高等学校の校門、(写真26)は校門を入って左(東)側にある玄関、(写真27)は南側にのびる校舎である。(2016.8.19.訪問)

     

    *ノートルダム女学院中学高等学校発行の和中庵パンフレットより

     

    0706地蔵院(椿寺)(Jizoin Temple/Tsubaki-dera Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 22:46

     地蔵院(じぞういん)は通称椿寺(つばきでら)と呼ばれ、北区一条通西大路東入大将軍川端町にある浄土宗知恩院の末寺である。山号は昆陽山(こんようざん)、本尊は五劫思惟阿弥陀如来である。

     奈良時代中期の神亀(じんき)三年(726)、聖武天皇の勅願により、行基(ぎょうき)が、摂津国の昆陽池(こやのいけ)のほとりに建立した地蔵院が始まりで、平安時代に衣笠山の南山麓に移され七堂伽藍が整備された。
     南北朝時代末期の元中八年/明徳二年(1391)、内野の合戦の戦災で、すべて焼失したが、 室町時代初期に足利義満が、金閣寺建立の余財で仮堂を建て、地蔵菩薩を祀り再建した。
     桃山時代の天正十七年(1589)、豊臣秀吉の命によって現在地に移され、江戸時代初期の寛文十一年(1671)に善曳和尚により、八宗兼学から浄土宗に改められ、知恩院の末寺となった。

     地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。

     書院の前庭には、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢百二十年の二世が本堂前に花を咲かせている。薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが一枚ずつ散るのを特徴とする。境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師に当たる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所である。

     

     (写真1)

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真1、2)は一条通に面した山門、(写真3)は山門左手前の道路脇に三本並んで立つ石標で、道路側から順に「洛陽三十番地蔵院」、「夜半亭巴人墓所」、「義商天野屋利兵衛之墓 豊公愛樹五色八重散椿 此寺にあり」と刻まれている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真4)は山門を入ったところから撮った境内で、正面奥にあるのが地蔵堂、右手前の生け垣の中、本堂前庭にあるのが有名な「五色八重散椿」である(写真5、6)。加藤清正が、文禄の役の朝鮮出兵の際に蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰り、豊臣秀吉に献上し、北野大茶会の際に、秀吉が地蔵院に寄進したものといわれている。但し、初代の樹は昭和五十八年(1983)の春に樹齢約400年にて枯死し、現在あるのは、樹齢約120年の二世である。一木で、白色、ピンク、紅色、絞りなどに咲き分け、普通の椿は花ごと落下するが、この椿は、色とりどりの花びらが一片一片散る。3月下旬から4月中旬が見頃という。

     

     (写真7)

     

     (写真7)は五色八重散椿の西側後方にある本堂で「地蔵院」の扁額が掛かっている。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は本堂の右(北)側、山門を入って直ぐ右(西)側にある庫裏である。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は正面奥の地蔵堂で、行基の作といわれる元の本尊「地蔵菩薩」が祀られている。「鍬形(くわがた)地蔵」、「木納屋(このや)地蔵」とも称され、洛陽四十八地蔵願所の第十二番札所になっている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は地蔵堂手前右(西)側にある手水舎、(写真11)はその左手にある観音堂である。

     

     (写真12)

     

     (写真13)

     

     また、(写真12)は観音堂の前に安置されている賓頭盧尊者、(写真13)は十一面観音菩薩立像のお前立ちである。背後の厨子に祀られている十一面観音菩薩立像は、一木造丈五尺三寸、平安時代前期慈覚大師円仁の作といわれており、脇侍に、雨宝童子と春日龍神が安置されている。但し、開帳されるのは1月元旦から3日、春秋両彼岸中、地蔵盆の82324日だけである。洛陽三十三所観音巡礼第三十番札所である。

     

     (写真14)

     

     (写真14)は境内にある三つの社で右から順に鎮守社、椿大神、辨財天である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真1516)はやはり境内にある小さな地蔵堂で、(写真15)には世継地蔵尊の提灯が掛かっている。

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1718)は天野屋利兵衛の墓である。忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)は、赤穂浪士の討入りを陰で支え、晩年、地蔵院に隠棲し、剃髪して浪士らの冥福を祈ったといわれている。討入りのあった1214日には、天野屋利兵衛の木像が公開される。

     

     (写真19)

     

     (写真19)は夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓である。夜半亭巴人は江戸時代初期の俳人で、与謝野蕪村(よさのぶそん)の師 早野巴人(はやのはじん)のことである。

     

     (写真20)

     

     (写真20)は切支丹の墓で、長い間手水鉢として使われていたものが墓と分かり、当寺に納められたといわれている。(2016.2.26.7.22訪問)

     

    0705建仁寺正伝永源院(Shoden Eigen-in Temple)

    • 2016.09.19 Monday
    • 10:23

     正伝永源院(しょうでんえいげんいん)は、大本山建仁寺の北部にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭の一つで、建仁寺第三十九世無涯仁浩(むがいにんこう)が創建した。もと永源庵と称したが、明治六年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、のち「永源」の名を受け継ぎ現在の院名正伝永源院に改めた。

     釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、表門の左手に織田有楽斎や近親者の墓がある。寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。

     有楽斎は、織田信長の弟で本名を長益(ながます)といい、茶人として有楽斎という号を使っていた。信長の死後は剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。晩年は祇園花見小路四条下ルに正伝院を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが、元和七年(1621)に七十五歳で亡くなった。

     有名な国宝茶室如庵(じょあん)は、有楽斎がそこで丹精込めて完成させた。現在は所有が変わり愛知県犬山市に移転しているが、平成八年(1996)には、ゆかりの寺である当院に如庵が復元された。

     有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和三十七年(1962)秋、有楽斎夫人、息女そして孫の織田長好(ながよし)の三基と共にここに移された。現在も各地に有楽流の茶道が受け継がれている。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は正伝永源院の築地塀で、特別拝観の看板が立てかけられている。看板の写真は客殿室中の間にある狩野山楽筆の蓮鷺図(れんろず)襖絵である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)は山門で、右手手前に設けられた小屋は特別拝観の案内所である。

     

     (写真4)

     

     (写真4)は山門手前右手にある駒札横のコーナー部にある「有楽流祖 如庵織田有楽斎墓所」の石標である。

     

     (写真5)

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真5)は山門正面奥の庫裏と玄関、(写真6)は鎮守社、(写真7)は鐘楼である。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は山門を入って左(南)側にある中門で、ここをくぐると墓が沢山並んでいる。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真9、10)中門を入って直ぐ右(西)側にある織田有楽斎と一族のお墓である。昭和三十七年(1962)秋、(写真9)の織田有楽斎(右側)と正室 雲仙院(左側)、(写真10)の織田頼長(次男)の長男 織田長好(右側)と織田頼長 娘・一条昭良正室(左側)のお墓が、旧正伝院の地から現在の地に移された。織田有楽斎のお墓には「正伝院殿如庵有楽大居士」とある。江戸時代初期の制作で、花崗岩製、切石、基礎は単弁反花、露盤宝珠がのっている。

     

     (写真11)

     

     (写真11)は参道をはさんで織田有楽斎の墓の向かい側にある細川家歴代のお墓で、これも旧正伝院の地から移されてきている。左手前の石に「細川石」と刻まれているのが見える。

     

     (写真12)

     

     (写真12)はその右(南)側に隣接する福島正則とその家臣のお墓である。賤ヶ岳の七本槍の一人である福島正則は、永源庵に住んでいたことがあるといわれており、その父親 福島正信のお墓もある。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真15)

     

     (写真13)は方丈に通じる唐門、(写真14)は方丈で、中央には「正伝院」、「永源庵」二つの扁額が並べて掛けられている(写真15)。

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真1617)は方丈の杉戸絵、(写真18)は福島正則が寄進したといわれる朝鮮鐘である。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真192021)は方丈南庭園をそれぞれ東側、中央、西側から撮ったものである。池泉式庭園で池には石橋が架けられ、築山には五重石塔が建てられている。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真2223)は方丈南庭園の西端に造られた茶室「如庵」の写しである。織田有楽斎が旧正伝院に建立し、現在は有楽苑(愛知県)に移築された茶室「如庵」(国宝)が「写し」として復元・建立されたもので、「鱗板(うろこいた)」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴がある。「如庵」の扁額は、旧肥後熊本藩藩主 細川家第十七代当主 細川護貞の揮毫による。

     

     (写真24)

     

     (写真25)

     

     (写真2425)は方丈西庭園で蹲踞がある。(2014.3.15.訪問)

     

    0704建仁寺大中院(Daichuin Temple)

    • 2016.08.31 Wednesday
    • 13:44

     大中院(だいちゅういん)は花見小路通を南に突き当たったところ、建仁寺北門の手前東側の角にある臨済宗建仁寺派の境外塔頭寺院である。南北朝時代の康永年間(1342-1344)、建仁寺二十七世・東海竺源(とうかいじくげん)の塔所になった。
     室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃し、天文二十一年(1552)に焼失した。
     江戸時代の承応年間(1652-1655)、臨済宗の僧・雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、現在の本堂、庫裏などが建てられた。
     文化年中(1804-1818)、臨済宗の僧・景和竺応、全室慈保(ぜんしつじほ)らが堂宇を再建し、霊洞院より移築した。

    書院の西にある茶室「燕舞軒(えんぶけん)」は、宝暦年間(1751-1763)に建てられたとみられており、三畳中板台目幅洞床。庵号は陶淵明(365-427)の詩句「燕舞春日長」より採られた。通常は非公開で、内部の拝観は出来ない。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は花見小路通から見た大中院で、右手に山門、左手に見えているのが庫裏である。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)は西向きの山門で、「大中院」の寺札が掛かっている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は山門正面の参道と前庭、(写真5)は山門を入った左(北)側にある庫裏である。(2016.7.29訪問)

     

    *京都寺社案内(http://www.kyotofukoh.jp/report1548.html

     

    0703建仁寺久昌院(Kyushoin Temple)

    • 2016.08.31 Wednesday
    • 13:39

     久昌院(きゅうしょういん)は建仁寺境内、三門の西側にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。江戸時代の慶長十三年(1608)、徳川家康の重臣奥平信昌(おくだいらのぶまさ)とその四男松平忠明(まつだいらただあきら)の寄進により、三江紹益(さんこうじょうえき)を開基として創建された。奥平家の菩提寺であり、信昌の戒名から久昌院と名付けられた。墓地には信昌夫妻の霊屋の他鎌倉時代−南北朝時代の臨済宗の僧・雪村友梅(せっそんゆうばい、12901347)や同時代の武将・赤松則村(あかまつのりむら、12771350)〔法名:円心〕の墓もある。通常は非公開で拝観謝絶となっており、内部を見ることは出来ない。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は東向きの山門で、「久昌院」の寺札が掛かっている。

     

     (写真2)

     

     (写真3)

     

     (写真2、3)はそれぞれ山門から方丈のある左手と庫裏のある正面を撮ったものである。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は唐門のある方丈玄関、(写真5)は庫裏とその玄関である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真6)は山門を入った右手にある豊川稲荷神社、(写真7)は同左手にある鐘楼である。(2015.3.132016.7.29.訪問)

     

    0702建仁寺霊源院(Reigenin Temple)

    • 2016.08.29 Monday
    • 09:51

     霊源院(れいげんいん)は建仁寺境内の南東にある臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。室町時代の応永年間(1394〜1428)初期、両足院(0008参照)開基・龍山徳見(りゅうさんとくけん)和尚を勧請開山として、その弟子である一庵一麟(いちあんいちりん)によって創建された。鎌倉時代末期から室町時代にかけ、京都五山と鎌倉五山の禅僧たちによって栄えた漢文学・五山文学の最高峰とされた寺院の一つで、「建仁寺の学問面」の中核となっていた。

     天文年間(1532-1555)に焼失したが、安土・桃山時代〜江戸時代の慶長年間(1596-1615)、柳沢堅物により再建されている。明治五年(1872)、旧地を窮民産業所(祇園町南)敷地に譲り、現在地(塔頭・妙喜庵跡)に移った。
     本堂では建仁寺塔頭妙喜庵の開山住職であった中巌圓月(ちゅうがんえんげつ)坐像(重要文化財)と、その胎内秘仏である毘沙門天立像などを拝観することができるが、内部は撮影禁止である。  

     また、本堂内には二つの茶室がある。茶室「也足軒(やそくけん)」は、大正元年(1912)に建てられた。四畳半、二畳台目で、本堂内に躙口が南面してある珍しい構造である。
     本堂南にもう一つの茶室「妙喜庵(みょうきあん)」がある。一畳台目の小さい茶室で、壁の一面に花頭窓が開けられている。
     方丈の南と西に枯山水式庭園「甘露庭(かんろてい)」がある。苔地に、石、飛石、蹲踞が配され、花梨、松、甘茶などの植栽がある。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は山門で、毘沙門天の幟と共に、右手には特別公開の看板が立てられている。

     

     (写真2)

     

     (写真2)はその看板で、写真の毘沙門天像は左手に水晶の玉を掲げており、その中には最澄が持ち帰ったといわれる仏舎利が収められている。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は山門を入った正面の玄関で、「妙喜世界」と書かれた扁額が掛かっている。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は玄関前庭で、石の上に布袋像が置かれている。(写真5)は玄関に向かって左(北)側の庫裡である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6〜8)は方丈庭園「甘露庭」である。

     

     (写真9)

     

     (写真10)

     

     (写真9、10)は庭園に置かれた人形で、その表情が見ている者の心を和ませる。(2015.3.13.訪問)

     

    0701建仁寺大統院(Daitoin Temple)

    • 2016.08.01 Monday
    • 21:29

     大統院(だいとういん)は、建仁寺の塔頭一つで、建仁寺の南東の隅にたち、別格地とされる。古澗慈稽(こかんじけい)や日政(にっせい)など、名僧を輩出したことで知られる。

     南北朝時代、夢窓疎石の弟子で、建仁寺夢想派の建仁寺四十三代住持 青山慈永仏観禅師(せいざんじえいぶっかんぜんじ)によって創建されたといわれる。

     天文五年(1536)、延暦寺の衆徒が、法華宗の洛中21ヶ寺本山を襲った天文法華の乱により焼失。江戸時代初期、古澗慈稽禅師のとき、禅師に帰依した長谷川守尚(大統院殿虎峯宗降居士)の発願により再建が始まった。

     寛永十四年(1637)、住持 九厳中達禅師に帰依した長谷川守尚の子 長谷川正尚により再建が完成した。その頃、儒者 林羅山(1583〜1657)が寓居していたといわれている。

     大正十三年(1924)、表門と唐門を残して焼失したが、昭和五年(1930)、本堂のみが再建された。昭和三十年(1955)に復興が始まり、平成二十一年(2009)に本堂前庭が完成したことで復興が完成した。

     

     (写真1)

     

     (写真1)は建仁寺(0700参照)境内南端の道を東に入って行く大統院の参道で、突き当たりに山門がある。

     

     (写真2)

     

     (写真2)は山門で、通常は非公開であるが、訪問した時は、左手前方に「平成二十七年度秋期特別公開」の看板が立てられ、公開されていた。

     

     (写真3)

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真3〜5)は山門を入ってから本堂までの参道で、正面奥に見えるのが本堂、左手は庫裡である。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真6、7)は参道左(北)側の庫裡である。

     

     (写真8)

     

     (写真8)は唐門で本堂への玄関口となっており、特別公開の受付がある。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は本堂で、内部には円山応挙筆の「幽霊画」、円山派鈴木松年筆の「骸骨之図」、独特のユーモラスな画風で知られる白隠慧鶴筆の「蛤蜊観音図」、江戸時代末期の陶芸家 奥田頴川(おくだえいせん)作の「赤絵十二支四神鏡文皿(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)」等の寺宝が展示公開されていたが、写真撮影は禁止であった。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真12)

     

     (写真10〜12)は本堂南側にある市松模様の庭を西、中央、東と順に撮ったもので、ツツジの築山を背景に、格子状に白砂と苔が置かれている。平成二十一年(2009)北山安夫の作庭によるもので、建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されている。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13、14)は北西の角から撮った「耕雲庭」である。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真15)は北庭、(写真16)は西庭である。(2015.11.6.訪問)

     

    0700建仁寺(Kenninji Temple)

    • 2016.07.30 Saturday
    • 21:34

     建仁寺(けんにんじ)は大和大路通四条下ル小松町にある臨済宗建仁寺派の大本山寺院で、山号は東山(とうざん)。日本最古の禅寺で、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂塔(やさかのとう)」のある法観寺は建仁寺の末寺になる。「建仁寺の学問面(がくもんづら)」と称され、詩文芸術に秀でた禅僧を輩出し、「五山文学」と称される文芸を作り出した。

     鎌倉時代の建仁二年(1202)、鎌倉幕府二代将軍 源頼家(開基)の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として創建され、土御門天皇の勅願寺となって、年号から寺号を賜った。

    元久二年(1205)、中国 宋の百丈山(ひゃくじょうざん)(江西省)に似せて諸堂が建立された。開山は、日本の禅宗の開祖とされる栄西禅師。当時の京都では、天台宗、真言宗の既存宗派の勢力が強大だったことで、天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学としたが、第十世の聖一国師 円爾弁円(えんにべんねん)、第十一世の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を経て純粋な禅寺として確立した。

    栄西禅師は寺伝では「ようさい」であるが、一般的には「えいさい」と慣用される。永治元年(1141)、備中(岡山)吉備津宮の社家の生まれ、14歳で比叡山に登り、天台密教を修めたのち、二度の入宋(現中国)求法を果たし日本へ最初の禅を伝えた。中国から将来した茶種による茶の栽培やお茶の効用を説いた。『喫茶養生記』を著すなど現在にまで至る日本のお茶文化の礎を開いた「茶祖」として親しまれている。開山降誕会には禅院茶礼の古式にのっとり、「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」が行われる。建保三年(1215)示寂、75歳。
     栄西禅師が宋からの帰路に暴風雨に襲われたときに、えびす神が現われ、船に祀ると、たちまち暴風雨が静まったといわれ、栄西禅師が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守として山内にえびす神を祀り恵美須神社(0698参照)を創建した。
     建仁寺は、元中三年/至徳三年(1386)、京都五山の第三位となったが、天文二十一年(1552) に細川晴元一党が火を五条に放ったため類焼し、伽藍のほとんどを焼失した。その後、天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉により寺領が寄進され、後の大名 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、自分の住持していた安芸安国寺から文明十九年(1487)建造の方丈を移築し、復興された。

    明治五年(1872)には、西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として80日間の京都博覧会が開催されている。展示品は約2,500点、入場者は3万人を越え、外国人も約1,000人が入場した。

    建仁寺の伽藍は、最盛期には、塔頭約60ほどあったが、応仁の乱による焼失の他、たびたびの火災で、創建当時の建物は残っていない。現在の建物の多くは、江戸時代以降に復興されたもの。約22,000坪 塔頭14ヶ寺。

    寺宝として、俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屏風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲龍図」など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。

     

     (写真1)*

     

     (写真2)**

     

     (写真1、2)は建仁寺公式HPに掲載されている境内図と拝観案内図である。

     

     (写真3)

     

     (写真3)は勅使門(重要文化財)で、建仁寺の南側正面、八坂通に面した銅板葺切妻の四脚門である。平教盛(あるいは平重盛)の館門を応仁の乱後に移築したものといわれているが定かではない。鎌倉時代後期の唐様建築の遺構で、簡素で大らかな建築である。柱や扉に矢の痕跡があり、「矢根門(やのねもん)」「矢立門(やたちもん)」と称される。

     

     (写真4)

     

     (写真5)

     

     (写真4)は花見小路通の南端にある北門、(写真5)は大和大路通に面した西門で、いずれの門も右手前に「臨済宗大本山 建仁寺」の大きな石標が立っている。

     

     (写真6)

     

     (写真7)

     

     (写真8)

     

     (写真6)は勅使門正面の放生池に架かる石橋と三門、(写真7、8)は三門(空門、無相門、無作門の三解脱門)で、「望闕楼」(ぼうけつろう)(「御所を望む楼閣」という意味)と名付けられている。

     

     (写真9)

     

     (写真9)は三門に掛かる「望闕楼」の扁額で、第四世竹田黙雷(宗淵)筆。軒丸瓦には「建仁」の字が読み取れる。大正十二年(1923)に安寧寺(静岡県浜松市)から移築したもので、江戸時代末期の建築である。楼上には、釈迦如来、迦葉尊者・阿難尊者、十六羅漢が安置されている。

     

     (写真10)

     

     (写真11)

     

     (写真10)は法堂(はっとう)である。五間四間一重裳階付の禅宗様仏殿建築で、明和二年(1765)に徳川幕府の帰依を受けて建立されている。正面須弥檀には、本尊 釈迦如来坐像と、脇待 迦葉尊者・阿難尊者が祀られている(写真11)。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねた建物で「拈華堂(ねんげどう)」と称される。

     

     (写真12)

     

     (写真12)は平成十四年(2002)に創建800年を記念して、小泉淳作により天井一杯に描かれた畳108枚分の雲龍図「大双龍図」である。

     

     (写真13)

     

     (写真14)

     

     (写真13、14)は法堂の北東部にある二つの鐘楼である。(写真13)は「陀羅尼の鐘」と呼ばれる東の鐘、(写真14)は西の鐘で、いずれも17世紀中頃に建立されている。

     

     (写真15)

     

     (写真16)

     

     (写真17)

     

     (写真18)

     

     (写真15)は二つの鐘楼の北側にある庫裡への道脇に立てられた風神雷神図と雲龍図の看板、(写真16)は庫裡(本坊)、(写真17、18)はその左(西)側に隣接する玄関である。 

      本坊、方丈、法堂等内部を拝観するにはこの庫裡から入る。建仁寺では内部の写真撮影がすべてOKの大らかさがうれしい。

     

     (写真19)

     

     (写真20)

     

     (写真21)

     

     (写真19)は庫裡正面にある「大哉心乎(大いなるかな心や)」(「人のこころは本来自由で大らかである」の意)と栄西禅師『興禅護国論』の序にある言葉が書かれた衝立、(写真20)は入って直ぐの部屋に展示されている俵屋宗達の風神雷神図屏風(国宝)の高精細複製作品、(写真21)は金澤翔子書の「風神雷神」屏風である。

     

     (写真22)

     

     (写真23)

     

     (写真24)

     

     (写真22、23)は方丈(重要文化財)、(写真24)は方丈中央に掛けられた扁額である。
     方丈は桁行27.6m 梁間20.8mの単層入母屋造、銅板葺、玄関付属の大規模な典型的な禅宗方丈建築で、室中(しっちゅう)(中央の部屋)の前面は、中央双折桟唐戸(ふたつおりさんからど)、両脇間の桟唐戸付真室(室中の奥)は、浅く前後に区切られ、前方を仏壇、後方を二室に区分される。

     

     (写真25)

     

     (写真25)は室中内部で、中央右手に大きな栄西禅師の頂相が掛けられている。

     

     (写真26)

     

     (写真26)は東福門院によって寄進された本尊の十一面観音菩薩像である。

     

     (写真27)

     

     (写真28)

     

     (写真29)

     

     方丈には、室中の他、礼の間、檀那の間、衣鉢の間、仏間、書院の間と六つの部屋があり、それぞれに襖絵が描かれている。(写真27、28、29)はその一部で、それぞれ海北友松筆「雲龍図」、海北友松筆「琴棋書画図」(重要文化財)、海北友松筆「花鳥図」である。

     

     (写真30)

     

     (写真31)

     

     (写真30、31)は方丈前庭「大雄苑(だいおうえん)」をそれぞれ東端と西端から撮ったものである。白砂と緑苔に巨岩を配した枯山水庭園で、前方の法堂を借景としている。小川治兵衛の作で、中国の百丈山(ひゃくじょうざん)から名付けられたといわれる。

     

     (写真32)

     

     (写真33)

     

     (写真32)は(写真31)に見える花頭窓の後方、玄関脇(西側)にある唐門を外側から撮ったもの、(写真33)はこの花頭窓から見た大雄苑である。

     

     (写真34)

     

     (写真35)

     

     (写真36)

     

     また、(写真34、35)は方丈から法堂への通路、(写真36)は方丈正面の勅使門である。

     

     (写真37)

     

     (写真38)

     

     (写真37、38)は方丈西庭で、前庭西南隅に相当する後方の木の茂みの中に見える七重の石塔は、織田有楽斎(おだゆうらくさい)が、兄 織田信長の追善のために建てた供養塔である。

     茶室を拝観するためには方丈西庭の北端からスリッパを履いて庭に出る。

     

     (写真39)

     

     (写真39)は茶室に向かう道の左(西)側にある田村月樵遺愛の大硯である。田村月樵は我が国洋画界の先覚者といわれるほどの油絵画家であったが、晩年油絵から遠ざかり、仏画のみに没頭した。この碑は、月樵が生前愛用した長さ三尺の大硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばって前進していく様子を彼自身が刻みつけたというものである。

     

     (写真40)

     

     (写真41)

     

     (写真40)は茶室「清凉軒」への露地入口、(写真41)は「清涼軒」で、抹茶席がある。

     

     (写真42)

     

     (写真43)

     

     (写真42、43)は茶室「東陽坊」をそれぞれ西側と北側から撮ったものである。この茶室は千利休の高弟の一人 真如堂長盛(ちょうせい)好みの草庵茶室で、豊臣秀吉の北野大茶会にて、紙屋川の土手に建てられた副席といわれている。

     

     (写真44)

     

     (写真45)

     

     (写真46)

     

     (写真44〜46)はその内部で、二帖台目の茶席、一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる。二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれている。

     

     (写真47)

     

     (写真48)


     (写真47)は茶室南側に置かれた豊臣秀吉遺愛の鳥帽子石、(写真48)は茶室近くの建仁寺垣で、4つ割り竹の表を外に密に縦に並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹を渡し、蕨縄(わらびなわ)で結んだ竹垣である。

     

     (写真49)

     

     (写真49)は「東陽坊」近くにある「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)首塚」である。 安国寺恵瓊は、安芸安国寺の持住となり、毛利家の外交僧として活躍。豊臣秀吉に伊予23,000石の大名に取り立てられ、建仁寺の方丈移築、東福寺の庫裡の再建などを行った。 慶長五年(1600)、関が原の戦いで西軍の最高首脳として暗躍したことで、六条河原で斬首にされ、建仁寺の僧が首を持ち帰り、方丈裏に葬られた。

     

     (写真50)

     

     (写真51)

     

     (写真52)

     

     茶室拝観後は再び方丈西側に戻り、方丈北庭に沿って大書院の方へ歩く。(写真50、51)は方丈北庭、(写真52)はその中にある「霊照堂(れいしょうどう)」(納骨堂)である。

     

     (写真53)

     

     (写真54)

     

     方丈北庭の東端にある廊下を北に向かうと、小書院と大書院があり、その間に中庭の「潮音庭」がある。(写真53、54)は四つの部屋からなる小書院で、床の間には菩提達磨尊者の軸が掛けられている。

     

     (写真55)

     

     (写真56)

     

     (写真57)

     

     大書院には「風神雷神図屏風」(複製)(写真55、56)や開山堂楼門「宝陀閣」の楼上に安置されている陶製十六羅漢像(写真57)が展示されている。

     

     (写真58)

     

     (写真59)

     

     (写真58、59)は大書院と小書院の間にある中庭「潮音庭」で、小堀泰厳老大師の作庭、北山安夫の監修によるものである。一文字型の手水鉢が置かれ、中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配された枯淡な四方正面の庭で、石組は、大きな渦潮の流れを表す。

     

     (写真60)

     

     (写真60)は小書院の南側にある「○△□乃庭」で、単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)、水(○)、火(△)で象徴したものともいわれる。奥の白砂部分が△、中央の植木と苔地、砂紋が○、手前の井筒が□を表す。
     以上で内部拝観を終え、庫裡正面の道を法堂を右(西)に見ながら北から南に向かう。

     

     (写真61)

     

     (写真61)は法堂南東部にある「桑の碑」で、栄西の『喫茶養生記』下巻には、桑の効用について書かれている。五種の病(飲水病、中風、不食、瘡病、脚気)には、諸仏菩薩の樹であるという桑の妙薬が効くとされている。

     

     (写真62)

     

     (写真63)

     

     (写真62、63)は桑の碑の南側にある栄西禅師「茶碑」である。茶祖 栄西禅師は、お茶の種子を持ち帰り、茶の栽培や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用を説いた『喫茶養生記』を著して日本のお茶文化の礎を開いた。

     

     (写真64)

     

     (写真64)は「茶碑」の東側にある「平成の茶苑」で、平成三年(1991)、茶祖 栄西禅師が中国 宋よりお茶の種子を持ち帰ってから800年を記念して、植樹栽培された覆い下茶園である。毎年5月10日頃に初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を、6月5日の開山忌に供えている。

     

     (写真65)

     

     (写真65)は茶碑の南側にある洗鉢池で大きな鯉が泳いでいる。

     

     (写真66)

     

     (写真67)

     

     (写真66、67)は洗鉢池の南東にある開山堂の「楼門(宝陀門、宝陀閣)」で、明治時代の1884年(1885年とも)に鳴滝・妙光寺の門を移築したものである。江戸時代中期に建立された楼閣造の3間1戸二重門で、両側に山廊がある。

     

     (写真68)

     

     (写真69)

     

     (写真68、69)は楼門の北側にある通用門(旧塔頭の山門)とそこから入った右手にある玄関で、以前は護国院(古くは興禅護国院)という名前の塔頭であった。内部には「客殿」、「経蔵」、「開山堂」がある。「開山堂」は、明治時代の1884年に建立されており、入母屋造、本瓦葺の礼堂(7間5間)、相の間、祠堂からなる。堂内には四半敷きのせん瓦が敷かれている。相の間に栄西の入定塔(墓所)があり、奥の祠堂に江戸時代慶派・左京法橋康乗作といわれる祖師像(1664)、脇壇に江戸時代(1752)作の開基・源頼家木像の束帯坐像、祖師塔銘を刻む碑が安置されている。「客殿」は、妙心寺玉龍院客殿を移築したもので、江戸時代中期に建立されている。客殿本尊は赤旃檀釈迦如来像。庭園には、栄西が宗から持ち帰ったという菩提樹の木がある。前庭に明全塔が立ち、道元が宋より持ち帰った師・明全の遺骨が納められている。

     

     (写真70)

     

     開山堂は通常非公開であるが、(写真70)は50回記念「京の冬の旅」で公開された時の看板である。公開時でも内部は撮影禁止となっている。

     

     (写真71)

     

     (写真72)

     

     (写真73)

     

     (写真71〜73)は開山堂楼門の南側前方にある楽神廟(らくじんびょう)である。栄西の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社に参詣した後、夢に明星を見て栄西を懐妊したという因縁により建仁寺境内に祀られたという。また楽大明神の本地仏は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)で、智慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があるといわれ、受験合格の菩薩として近年信仰を集めている。丑年生まれ、寅年生まれの守り本尊でもあり、毎年11月13日に大祭がある。

     

     (写真74)

     

     (写真74)は楽神廟の南側にある道元禅師修行の遺跡である。曹洞宗の高祖 道元禅師(1200-1253)は、建保元年(1213)比叡山で出家し、栄西禅師の高弟・明全に師事した。貞応二年(1223)、明全とともに宋に渡り、慶元府の景徳寺、天童如浄に就く。安貞元年(1227)頃帰国、再び建仁寺に入り、報恩の至誠を捧げ、寛喜三年(1231)山城深草に移住した。

     

     (写真75)

     

     (写真75)は道元禅師修行の遺跡の南側に建つ浴室である。浴室は七堂伽藍の一つで、 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)により建立されている。内部は、待合、浴室、土間(火炊場)に三分されており、湯気で身体を温める蒸し風呂であるが、禅寺では、入浴も修行の一つとして厳しい作法が細かく定められている。

     

     (写真76)

     

     (写真77)

     

     (写真76)は浴室の南側の道を東に向かって撮ったもので、二本の石柱の右側に「本派専門道場」と書かれた木札が掛かっており、この道を真っ直ぐ東に行くと左(北)側に建仁僧堂(霊洞院)がある(写真77)。(2014.3.15.、2016.7.22.、29.訪問)  

     

    * http://www.kenninji.jp/grounds/index.html より引用

    **http://www.kenninji.jp/grounds/map.html  より引用

     

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